礼拝メッセージ要旨

11月20日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神への飢え渇き」               ルカの福音書6章21節

「飢え」という言葉は、動物や人間の本能に深くかかわる言葉です。しかもその「飢え」は絶えず生と死の境界線上において展開され、繰り返されていきます。NHKテレビの「地球いきもの紀行」の飢えたライオンが獲物を追う映像、ついに捉えられて食い殺されていく動物の映像が連想されます。このように「飢え」はもともと激しいものであり、キリストはそのような激しい内容と調子をもつ言葉をここで使っておられるのです。預言者イザヤがシオンの回復を預言して「彼らは飢えることなく、渇くこともない。」(イザヤ49:10)と預言した言葉が今キリストにあって実現したのです。問題は何に対してそのような激しい飢えを覚えているかを問われております。もしそれが腹を満たすものだけであるならば、動物と同じようにまた私たちは飢えるのです。キリストがここで語っておられるのは、たとえ満腹しても必ず空腹になるような朽ちる食物ではなく、「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物」(ヨハネ6:27)への飢え渇きであります。ですからそれは「神への飢え渇き」であり、その第一の求めが、罪から解放されたいという願いであります。何故なら罪は私たちを神から引き離すからです。神との正しい、平和な関係の回復こそ、私たちの切なる願いなのであります。第二の求めは、聖くなりたいという願いであります。私たちは究極においては主イエス・キリストご自身のようになりたいと願います。そのような人には「あなたがたは、やがて飽くことができます。」と約束されております。それは第一にキリストの義において与えられている完全な罪の赦しの喜びからくる深い満足であります。第二にそれは、終末におけるキリストに在る者が、このからだが造り変えられ、完全な新しい人となり、神の御前に立つ日の喜びからくる満足です。これが神への飢え渇く人々すべてに対する神からの栄光に満ちた恵み深い約束であります。この満ち足りた約束に預かるために私たちはホセアのように「私たちは主を知ろう、せつに主を知ることを求めよう。」(ホセア6:3)と求め、詩編42篇の詩人のように「わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。」(詩編42:1~2)とその必要を深く自覚することです。それゆえにキリスト者とは飢え渇いていると同時に満たされている人といえます。そして「主イエスこそ、わが望み、わがあこがれ、わが歌」と歌い、「主イエスこそわが喜び、わが主、わがすべて」と讃美の声を高く上げる者なのです。


11月13日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「幸いかな、泣いている者よ」          ルカの福音書6章21節

新美南吉の短い童話に「でんでんむしのかなしみ」があります。かって美智子皇后さまが「何度となく思いがけない時に、記憶によみがえってきた童話です。」とお話しされたことで、人々に広く知られるようになりました。―いっぴきのでんでんむしが、ある日自分のせなかのからの中に悲しみがいっぱいつまっていることに気づきます。この悲しみはどうしたらよいでしょう。『わたしはもう生きていられません。』と友達を順々に訪ねて聴いてまわるのです。どの友達の答えも同じでした。『あなたばかりではありません。わたしのせなかにもかなしみはいっぱいです。』そこで、でんでんむしは気づきました。『かなしみはだれでももっているものだ。わたしばかりではないのだ。わたしはわたしのかなしみをこらえていかなきゃならない。』そしてこのでんでんむしはもうなげくのをやめたのです。―しかし本日、キリストがここで語られるお言葉は、悲しみの中にじっと耐えるようにということではありません。「いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。」と語ります。この言葉は何という言葉でしょうか!これは人間には不可能な言葉です。キリストのみが口にすることの許された言葉です。キリストは泣きたければ泣けばよい。叫びたければ叫ぶがよい。その悲しみが祝福を受けるのだと言われるのです。それゆえ「いま泣いている者は幸いです。」とキリストが言われる時、私たちはキリストが「悲しみの人で病を知っていた」(イザヤ53:3)お方であるという事実に気づかされます。キリストこそ悲しみに生きた方で、その悲しみの中で死なれた方です。そのキリストをヘブル人への手紙5章7節では「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」と描くのです。人間のさまざまな悲しみのいずれもが、私たち人間の弱さ、みじめさ、そして罪から生まれる悲しみであり、涙を流すのはそれを生み出す罪があるからです。そのために涙をもって十字架に到るまで歩みぬかれたキリストこそ、聖書が語るキリストの姿なのです。ですから、私たちが「いま泣いている者は幸いです。」というキリストの言葉に慰めをうけるのです。

11月6日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「貧しい者のさいわい」             ルカの福音書6章20節

「貧しい者は幸いです。」今だかって耳にしたことのないキリストの言葉が、目の前にいる心を病み、あるいは体に障害や病気を抱えている人たちに、生活の貧しさとその重荷にあえぎ、悩み、飢えている人たちに届きます。みんなが抱え感じている、それぞれの貧しさに主は訴えられるのです。「幸いあれ!」と。貧しいことは、それ自体不幸なことであります。そのことを百も承知のうえで、「さいわい」とキリストは語りかけられるのです。国における貧困者救済は、もとより確立されていなかった古代東方世界においては、貧しい者はただ神を呼び求める他に道はありませんでした。そうした人たちが、今神の言葉に飢え、キリストの周りに集まり、語られる言葉を待っているのです。その彼らこそ神の国にふさわしいものだと主は語られます。なぜなら、彼らは神に望みをおいて生きていく他はなく、その意味では砕かれた魂をもって神により頼む真の貧しい人であります。またひたすら神の助けを待ち望む敬虔な人たちなのです。キリストは今、私たちに「あなたがたは、さいわいなのです!」と語られ、本人の私たちが気付いていない、さいわいの事実、すでにそこに在るさいわいに、私たちの思いを向けようとしておられるのです。それゆえ「幸いです」と訳されている言葉は「祝福されている」「神から恵まれている」ということを表しております。私たちがその事を知っているか、知らないかにかかわりなく、確かに神に祝福され、恵まれている。その事実こそが、ほんとうの幸福の裏付けなのです。この裏付けと約束があるからこそ、どんなに貧しく、逆境にあっても幸いなのです。大切なことは、私たちがどんな時でも、イエス・キリストのみもとに身を寄せる者には神は祝福と恵みをもって守り、支え、導いて下さる。そのことこそが幸いなのです。ですから貧しくても、苦しくても、そこで感謝をもって喜んで生きていくことができるのです。

10月30日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「幸福の使信」              ルカの福音書6章17~26節

村上春樹の代表作「ノルウェイの森」は、映画にもなり、日本だけではなく、外国でも多くの人々に愛読されております。その小説の最後は、主人公が次のように叫ぶ言葉で終わっております。「僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。」高度経済成長期の80年代の終わり「今どこにいるのだ?」と叫ぶ人は少数でした。しかし2011年に入り、今どこにも居場所のないという人がものすごく増えています。「いずこへともなく歩きすぎていく無数の人々」が小説の主人公と同じように「僕は今、どこにいるのだ?」と叫んでいるのです。政治、経済、金融、環境、生命が不安定、不確実な状況にあり、「無縁社会」「ワーキングプア」という造語が生み出される現代社会は、人間として当たり前のように生きることの、ほんとうに難しい時代です。その事を象徴的に描いている光景が本日のルカ6章17節から19節です。「イエスは、彼らとともに山を下り平らな所にお立ちになった。」イエスが今、平地に立たれたのは、悩み、疲れ、病み困り果てている人々の居る場所でした。そこにはそれぞれの問題を抱えた人々が大勢いて、イエスのもとに押し寄せているのです。それらの人々に向かってイエスが「わたしはここにいる。おまえはどこにいるのか」と呼びかけておられるのが、「幸福の使信」の説教なのです。イエスは人々が一番求めている「幸福」について語っておられます。直接的には弟子たちを見つめながら語られましたが、(ルカ6:20)その言葉はその背後にいる群衆にも届いております。イエスは、彼らに向かって決して「まじめに生きよ」「善い人であれ」「正直であれ」とはお語りになりませんでした。彼らが今一番求めているもの「幸い」という祝福をお与えになられたのです。イエスの語られる「幸福の使信」は私たちが普通に考えている幸福とは違います。自分中心の幸福ではありません。それはイエスが与えて下さる上からの祝福、幸いです。ですからイエスの語られる幸福論は、「一体どうして、この私が幸いなのか」「このように貧しく弱い者が幸いなのか」と自分の耳を疑うような、驚きと新しさを与えるものでした。幸せも安らぎもどこか遠くに求めるものではなく、貧しく飢え、泣いている時、憎しみ辱めにあっても、なお今を丁寧に生きることの中に真の幸いがあり、それを私は祝福すると言われるのです。「この今に満足できることこそ本当の幸いなのです」と語られるイエスの「幸福の使信」をじっくり味わってまいりましょう。




10月23日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

ニコデモー大胆な愛            ヨハネの福音書19章38~42節

それは大胆な行動でした。主イエスが処刑されてから何時間も経っていない、極めて危険な状況の中で「イエスの弟子であることを隠していた」アリマタヤのヨセフと「前に夜イエスのところに来た」ニコデモの二人が、公然と主のお体を引き取り埋葬したのです。彼らは有力な議員で、人格者として尊敬を受け、資産家でもありました。そのことが逆にキリストの弟子として生きることの足枷になっていました。二人とも確かに主イエスを尊敬し、信じていましたが、人を怖れ憚って中途半端な信仰に身を置く「ひそかな弟子たち」でした。その彼らが大胆に、恐れもせず、かくも勇敢な態度に出ることが出来たのはなぜでしょうか?宗教改革者カルヴァンは、この問いを深く考えましたが自分には分からない「だから、これが行われたのは、確実に天の霊感によってである」と言いました。神の霊が彼らに働いて導いておられたのだと理解致しました。夜ひそかに一度だけ主イエスにお会いしたという、ただそれだけの出会いでニコデモは主のお体の埋葬に参加したのです。いざという時に、ニコデモはどのように変えられたかを見ます時に、私たちはその人に真の信仰の始まりが、いかに小さく弱々しいものであっても、決して人間の視点でその人に見切りをつけるようなことがあってはなりません。何故なら主イエスは「わたしが地上から上げられるなら、わたしはずべての人を自分のところに引き寄せます」(ヨハネ12:32)と語られているからです。今その全ての人の先頭にヨセフとニコデモがいるのです。そして私たちがその後ろに続いています。   キリストの教会は「使徒信条」で「主は十字架につけられ死にて葬られ」とキリストの埋葬を大切な信仰告白として守ってきました。その葬りにおいて、主はペテロやヤコブ、ヨハネではなく「ひそかなる弟子」「隠れたる弟子」に過ぎなかった、本来なら弟子の名に価しないようなアリマタヤのヨセフとニコデモを招いてお用いになられたのです。それもペテロを含め、ほとんでの弟子たちが、主イエスを見捨てて「ひそかな弟子」になってしまったその時に、それまで「隠れた弟子」であり続けてきたこの二人が、主に用いられて「隠れなき弟子」として人々の面前に立ったのです。ニコデモは「没薬とアロエを混ぜ合わせたもの」を用いて、主のお体を埋葬しました。それはあのクリスマスの夜、黄金、乳香、没薬をもって幼子イエスにひれ伏した東方の博士たち、ナルドの香油をもって主の葬りの備えをしたマリヤと同じように、今ニコデモはこの礼拝者のつながりの中にに公然と加わり、主イエスを「わが主、わが神」として告白するのです。このようにして埋葬の時、ご自分の体を用いて「ひそかな弟子」を「隠れなき弟子」へと招かれた主は、私たちをあの聖晩餐において「取って食べなさい。これは私の体です。」と、ご自分の体を用いながら私たちを引き寄せて下さっているのです。そしてこの主の愛の体を受け取る時、私たちは「隠れなき弟子」となって、大胆に自分を捧げて主にお従いしていくことが出来るのです。


10月16日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「あなたの名が呼ばれたのです」       ルカの福音書6章12~19節

日本の代表的なキリスト者内村鑑三の初期の著作に「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」という英文の著作があります。この書は彼がキリスト信仰に導かれ、キリスト信徒になるまでの証しの書であります。ではこの同じ題名で皆さんがご自分のことをお書きになるとしたら、どのように記すのでしょうか。キリストを救い主と信じ、キリスト者になられたのには、それなりの理由、出来事、経過があり導かれたのだと記述は出来ますが、それはあくまでもキリストによる救いに到る過程の証しであって、なぜ私が救われ、キリスト者となったのかという問いの答えにはなっていないのです。本当のところ私たちは、「なぜ私がキリスト信徒になったのか」ということについて説明がつかないのです。私たちにはわからないことなのです。本日の聖書の箇所は主イエスの12弟子選出の記事ですが、おそらく12弟子たちもなぜ自分がキリストの弟子に選ばれ、使徒となったのか、私たちと同じように説明できなかったと思います。唯一答えることができるとしたら、「主イエスが徹夜で祈られ選んでくださったからです」(ルカ6:12~13)としか答えようがないのです。選ばれた12人の弟子たちの顔ぶれを見てみますと、多種多様な人たちです。何か選考基準があって、その試験を受けて合格したから選ばれたのではありません。確かなことは、主イエスが深く御心を求め、祈ってお決めになられたということです。この事実は私たちのキリスト信仰、キリスト者生活を支える基盤です。私たちはキリストの救いに預かるために求め祈りました。しかしそれに先んじて主イエスが祈ってあなたを選び呼び寄せてくださったのです。ですから私たちが信仰や救いの確信、召命について疑ったり、信仰を捨て、教会を離れようと思った時は、いつもこの主イエスの祈りを想起しましょう。どんな時でも、この主イエスの祈りが私たちの信仰を支え守っていてくださることを忘れないようにしましょう。そのために主は、主日毎の礼拝に私たちを呼び寄せてくださり、そこで新たな力、励まし、喜びをいただき、私たちは新たな1週間のこの世の歩みへと遣わされていくのです。またこの12弟子たちは小さな群れであっても、それは教会の芽生えの姿でもあります。今主イエスのもとに集められた12人の弟子の間には、それぞれ能力、経歴、思想の違いがあっても、それらの違いを越えて、福音宣教という一つの目的によって結ばれていたように、未来の教会においては、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、キリスト・イエスにあって全体が一つの体として組み合わされていくのです。そしてシモンはペテロにレビはマタイにと新しい名をいただき、新しい歩みを始めたように、私たちも主との新しい関係に生きる者として、主との絆を大切に最後まで保ち続けましょう。

10月9日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「安息日―この喜びの日よ」          ルカの福音書6章1~11節

日本が日曜日を公休日としたのは、1876年(明治9年)4月からです。それまでの公休日は、毎月6回、1と6に当たる日(1,6,11,16,21,26,31は除く)でした。それが月4回の日曜日へと変わったのです。そこには日曜日は神を礼拝する日として守るキリスト教徒を無視できず、日曜日と土曜日正午からを公休日とする告示をしなければならなかった明治政府の苦渋の選択を感じます。教会は週の初めを「日曜日(日曜礼拝)」「聖日(聖日礼拝)」と呼ぶかあるいは「主の日(主日礼拝)」と呼んできました。「主の日」という表現は初代教会が早くから用いたものです。その呼び方がどこから生まれたかということについて、聖書的な起源はこのルカの福音書6章5節の「人の子は安息日の主です。」という言葉に求めることができます。もとは一週の終りの日であった安息日が週の初めの日曜日になったのは、主イエスが復活された日だからです。その日がいのちの始まりの日であり、主イエスが「安息日の主」となられたからであります。この「休息」「安息」という言葉のもとの意味は、仕事を終える。労働と激務の手を休めるということです。この事は主なる神が6日間働いて世界を創造され全てにおいて満足され、これらを祝福して7日目に深い満足の安息をなさった。従って人間の安息日とは、そのような神の祝福の安息の中に身を置くことなのです。つまり神と共に休む、神と共に憩うことが礼拝の意味なのです。このようにして始まった安息日ですが、完全な聖なる休みとは何かと追及し、そのための基準が設けられ、細かいところまで言及する規定が生まれ、だんだん安息日は形式化してきました。本日の箇所は主イエスと弟子たちが安息日を守る基準を破ったことに対して、パリサイ人、律法学者の批判が主題となっております。本来安息日は何もしない日でした。けれども主イエスはここで善を行うこと―(人のいのちを救うこと)―と悪を行うこと―(人のいのちを殺すこと)―とどちらが大切であるかを問いかけ、安息日の掟を乗り越える者、安息日を支配する者としてのご自身を語っておられます。主イエスが「安息日の主」であられる時、安息日が本当の安息になるのです。なぜなら、そこに主イエスが苦しむ者、悲しむ者、飢え渇いている者と共におられるからです。そこでは何を「しない」かではなく、「する」ことが大切であります。主イエスはこの日曜日が主の日として祝われ、主によって支配されることを望まれます。神はすべての週日を美しく装い、安息日を歓喜の日と名付けられました。それゆえにこの礼拝は、その主の祝福の中に私たちすべてが置かれる喜びの時であり、私たちに、ほめ讃えるべき方はだれかを教えてくれる時なのです。

10月2日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神にある喜びの人生」           ルカの福音書5章33~39節

「だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。」(ルカ5:39)誰でも熟成した古酒をさしおいて新酒を飲むものはありません。古酒は口当たりがよく、まろやかな味がします。それに反して新酒はなじまないのです。だから古いものに慣れている人間は、なかなか新しいものを受け入れることができません。主イエスのこの言葉を通して、バプテスマのヨハネの弟子たち、パリサイ人たちの信仰生活の在り方を見事に言い当てておられます。彼らは伝統、習慣、因習にしばられておりました。ヨハネの弟子たちは、師ヨハネに倣って、よく断食をしました。パリサイ人は伝統を重んじ、特に施し、祈り、断食、安息日、食事等の律法を厳しく守り行うことによって、最終的な救いに至ると信じておりました。彼らのこのような在り方を「律法的な信仰」と呼ぶことができます。この律法的な信仰が問題なのは、信仰の歩みがいつも「ある基準」に達しているかどうかに一番関心を持っているために、心の内面よりも表面的、外面的なことに気をとられてしまうことです。また他者に対しても批判的になります。「ある基準」に従って、それに達しているかどうかで善し悪しを判断するからです。さらに罪の赦しを信じていながら、心の深いところでは実感できていないことです。それゆえ、どんなに熱心に主に仕えても、信仰的に成長しません。その信仰生活には真の喜びが感じられないからです。「ある基準」が、彼ら自身をも裁くからです。そのような彼らに対して主イエスは、花婿なるキリストと結ばれる時、赦された喜び、交わりの喜び、奉仕の喜びを味わうことができるのだと宣言されるのです。彼らが強調している「悔い改め」とは、罪を悔いて悲しみ嘆く断食で終わるものではなく、「悔い改める」ということは、こんなにも解き放たれて大きな喜びのなかに生きることなのだと告げられるのです。主イエスと共に生きるということは、全く新しいことなのです。古いものと断絶した新しさを持つということです。古いものは捨て切れないけれど、あの新しいものもよさそうだということで成り立つような信仰生活が、ここで語られているのではないのです。主イエスは喜びを携えて、私どものもとに訪れて下さいます。花婿なる主イエスは、わたしがここにいるではないか。そしてわたしと一緒にいる人々にとっては、婚礼の幸いが、結婚の喜びが今ここに起こっているのだと言われるのです。ですから教会は、花婿イエスの花嫁として、主イエスを迎える喜びにあずかるのです。教会はいつもその喜びのなかに戻って行くのです。私どもは、その喜びの中に立ち続けること、その喜びに生き続けることを、共に願い求めてまいりましょう。

9月25日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「いまわの愛 ー 十字架上の犯罪人」    ルカの福音書23章32~43節

東日本大震災から6ヵ月が過ぎました。あの震災で、2万人もの命が失われました。ということは、大勢の人がその死という現実に向き合ったことになります。「人はやがて死ぬものである」という認識は、当然のように受け入れ、人の死は日常的なこととして受け止めて私たちは生活していました。しかし、あの大震災は想定外の出来事であったように、その死も想定外のことでした。死ぬとは全く思っていなかった大勢の人たちの命が、瞬時に奪われてしまった。この死を目撃したり、自分が死の危険に直面して、「人は死ぬ者である」ということを、自分の問題として考えさせられたのです。「死」というものが人ごとではなくなった時に、「死」とは何かという問題と真正面から向き合い、自分はどういう死を迎えるのか、そのために今をどのように生きるべきか、人は死んだらどうなるのであろうかということを真剣に問い始めるのです。聖書はこのような「人の死」について考えさせてくれる事件や人物について多く書き記されておりますが、その人物の一人が十字架上の犯罪人です。二人の犯罪人(強盗)のうち、一人が自分の罪を悔い改め救われたのです。この犯罪人は十字架につけられ、あざけられ死に向かいつつあるキリストを信じ、この方の御国が必ず来ると信じ、「イエスさま」と呼び求めたのです。(ルカ23:42)それまでの彼の人生の背景もその犯罪の動機についても、聖書は何も記しておりません。あたかもそれらの事は不必要とばかり、十字架の彼の姿を描くことに集中しております。この犯罪人の死を通して見えてくるものがいくつかあります。その一つは、この犯罪人は、激しい痛みと苦しみで死に直面しつつ、また救い主イエスの悲惨なありさまを見ながら、それでもなお信じ永遠のいのちを受けたことです。彼は死の瞬間に、自己に目覚め、神に心を向けたのです。このことは、人はいのちのある限り、悔い改め、神のもとに立ち返ることは可能なのだということを示しております。次にこの犯罪人は「イエスさま」と呼びかけ、主イエスが神の国の王となられる時「私を思い出してください」(ルカ23:42)と、主イエスへの信頼を込め、それまで断絶していた神との関係の回復を求めたことです。人は神に似せて造られた存在ですから、心の内に神を呼び求めるものであります。こうしてこの犯罪人は地上の生涯における主の最後の伝道において救われた人となり、パラダイスにおける主の最初の友となったのです。私たちもいずれの日か、主イエスとともに永遠に住まうものとされます。その主の栄光と祝福と主の完全さのうちにあって、主とともに生きるようになるのです。この方のおられる所で、この方に似る者として生きるのです。この喜びこそ、呪わしい十字架に架けられた一人の犯罪人の死を通して、私たちに告げ知らされていることなのです。


9月18日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「有終の日々を生きる」 ―敬老の日に寄せて―  ヨシュア記14章6~14節

「有終の美」という言葉があります。「物事の最後を全うし、締めくくりを立派にする」という意味です。最近この言葉を思い起こさせる映画を観ました。新藤兼人監督「一枚のハガキ」という映画です。自らの戦争体験を基に、99年の人生をかけた最後の作品です。「戦争がすべてを奪った。戦争が人生を狂わせた。それでも命がある限り、人は強く生きていく。」という訴えが、一直線に心に届く映画でした。まさに「有終の美を飾る」にふさわしい作品です。しかし、有終の日々を生きた人物は新藤兼人監督だけではありません。聖書の中にも有終の美を生きた人物が何人も登場しております。ヨシュアとカレブもその人達です。「老友二人」と呼ぶべきか。今やカレブは85才、ヨシュアはカレブよりも年上と思われ、90才位かそれ以上という老境に入り、普通に考えますと引退をして、悠々自適、余生を静かにという生活が待っています。しかし、こと二人に関してはそのような生き方とは無縁でした。ヨシュアに主から「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」(ヨシュア13:1)という言葉がかけられます。彼は今迄も約束の地カナンを征服するために、困難な戦いを民とともにしてきましたが、最後に残された仕事は、後々まで結果が残る、それぞれの部族への土地の分割という、さらに困難で責任の重い仕事でした。だからこそ、この仕事は、老翁ヨシュアにしてこそ果たし得るのだと言わんばかりに、主はヨシュアの引退をお許しにならなかったのです。カレブも同じです。すでに85才になっていたカレブでありましたが「モーセが私たちを遣わした日々のように今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」(ヨシュア14:11)と語り、自分にはまだやり残した仕事がある。果たすべき使命がある。ここで引退するわけにはいかないと言うのです。こうしてヨシュアはその使命を果たし終え、110才で死を迎え、カレブもヘブロンの地を征服し、その働きを終えて世を去ります。ここに有終の日々に生きた美しい老友二人の姿が印象に残ります。主は必要とあれば年齢に関係なく、私どもをその働き、その使命に召しだされます。そうしますと、『有終の日々を生きる』 ということはどういうことなのでしょうか。その答えは、ヨシュア記14章8節9節14節の「私は、私の神、主に従い通しました。」と三度繰り返し強調されている言葉にあります。『有終の日々に生きる』とは、それは「私は私の神、主に従い通しました。」と言える日々であります。「有終の美」とは、「主に従い通した」という信仰者の姿のことです。とするなら、私ども誰もがなし得る事ではないでしょうか。特別に選ばれた人だけが有終の美を飾るのではない。主イエスの十字架の恵みにあずかり、永遠の御国に入る者とされたその恵みにひたすら感謝し、主のもとに召される時まで、「私の神、主に従い通す」あなたこそ、有終の日々に生きる人であり、有終の美を飾る者と主はして下さっているのです。