礼拝メッセージ要旨

12月29日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「今のこの時代を見分ける」         ルカの福音書12章54~59節

恒例となりました日本漢字能力検定協会が、その年の世相を一字で表わす漢字が、2013年は「輪」に決まりました。17万票の応募の中から最高票を集めての選出でした。日本全体が輪となったチームワークで、東京五輪、富士山の世界文化遺産登録の決定、台風や豪雨などの災害で、支援の輪が広がったことなどが選ばれた理由でしょう。では私たちは、この時代をどのように見分けたのでしょうか。今主イエスは、私たちに「どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。」と問いかけられます。私たちは天気予報がなかった頃も、今予報が毎日的確に報道されている時も、天候の移り変わりにいつも注意を向けながら生きてきました。主イエスが言われるように、地や空の現象を見分ける判断力が身についています。それなのに「どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。」また「なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。」と主イエスは問いかけられるのです。「今のこの時代」とは、主イエスが今ここでこの話をしておられる「この時」です。私が今、ここにあなたの救い主として来ている。それが『今のこの時代』なのだと言われるのです。「この時代」に火を投じるために来ている。そして、このように神の御業、その支配について語っている。これがいかなる「今のこの時代」を意味するのか、あなたがたは、そのことを見分けることができますか。正しい判断をして、正しい自分の生き方をすることがきでますか。主イエスはそう言われるのです。それはまた私たちが、神の最後の審判への「途中」「途上」であるということです。そのような今、この時、私たちの救い主としてこの世に来てくださった主イエス・キリストによって、罪赦され、神と和解しないなら、あなたはどうなるのでしょうか。私たちは天候については予報士に委ねるとしても、このキリストの救いの恵みについての判断だけは、自分から進んで正しい決断をすることができるように、福音の真理にしっかりと立ち続けましょう。

12月22日(日) クリスマス礼拝メッセージ要旨

 

「いのちの設計図」              ルカの福音書2章22~38節

今年の1月、NHKテレビが「終の住処はどこに―老人漂流社会」という、特別番組を放送しました.もはや自分の老後を自らの手で選べなくなってしまった高齢者たちが、病院や施設を転々とする「老人漂流社会」。「死に場所」さえ持てずに、老後の居場所を転々とせざるを得ない「孤立する高齢者社会」。誰もが例外なく「漂流」する可能性がある現代社会の暗部を描いた、衝撃的な番組でした。この番組の中で「普通に生きてきて、最後何でこんな人生になったんだろうね。」と力なくつぶやいた、ある男性の寂しげな表情が心に残ります。放送後、「他人事ではない。」という感想が、多く寄せられたとのことでした。この番組が訴えていることは、元気なうちに自分の老後の「いのちの設計図」を描いて欲しいということです。                                 さて本日、ルカのクリスマス物語に登場する二人の老人、シメオンとアンナの存在に注目しましょう。死に直面した人の心を最も苦しめることの一つは、「果たして自分の人生に意味があったのか。」という問いであります。この問いに「はい」と答えることができた人、それがシメオンでありアンナでした。シメオンは、「主のキリストを見るまでは、決して死なない。」(ルカ2:26)という「いのちの設計図」を持っていました。彼はその希望と神の約束に信頼しながら生きてきました。そして主のキリストを見た時、「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。」(ルカ2:29)と、言い切ることができました。老婦人アンナも、神に仕え幼子イエスを救い主として信じることができ、神に感謝しつつ、主イエスのことを語り、老いの日々を生き切りました。今私たちはどのように生き、どのように最後を迎え、そして死を迎えるのか。その時私たちは、シメオンやアンナの「いのちの設計図」に学ぶものがあることを思い起こしたいのです。

12月15日(待降節第三週) 礼拝メッセージ要旨

 

「真の平和を与えるために」         ルカの福音書12章49~53節

ルカの福音書が描く、クリスマス物語に響く中心の音信は、主イエス・キリストが「地上に平和をもたらすために来られた。」ということです。「日の出がいと高き所からわれらを訪れ―つまりメシアがわれらを訪れ―」そして「われらの足(歩み)を平和の道に導く。」(ルカ1:78~79)さらには、天の軍勢が、クリスマスの夜に合唱した神への賛美「いと高きところには栄光、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2:14)と、ルカは「平和の君」主イエス・キリストの訪れを喜びつつ、一方では「あなたがたは、地に平和を与えるためにわたしが来たと思っているのですか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。」(ルカ12:51)と記すのです。しかもその分裂は「今から」(ルカ12:52)生じると言われるのです。この争いのあるところに平和を与えるために、主イエス・キリストは、受難と苦難というバプテスマを完全に成し遂げたと断言できる時まで、この問題に没頭すると言われます。(ルカ12:50)主イエス・キリストは、「わたしは、いとも簡単に地上に平和が与えられ、安易に訪れる平和を与えるために来たのではなく、むしろまず分裂を与えるために来た。」(ルカ12:51)と言われます。それは平和というものは「地に火を投げ込まれた」後に、その分裂をいやす本当の「平和」が訪れるということです。主イエス・キリストがもたらす真の「平和」とは、私どもの罪を主イエス・キリストが苦難、受難を通して処理してくださり、罪と死を完全に滅ぼされたことによってもたらされたものです。それはアウグスチヌスが「平和とは秩序の静けさである。」と定義し、聖フランシスコが「争いのあるところに平和を。」と祈った、真の安らぎの平和なのです。

12月8日 (待降節第二週) 礼拝メッセージ要旨

 

「主を迎える用意」              ルカの福音書12章35~48節

日野原重明先生の著書「死をどう生きたか」の中に、若くして癌に倒れた婦人のお話が記されております。彼女はキリスト者でしたが、苦しみ、悩み、泣き、日野原医師に「いったい私の体はいつまでもつのか。」と訴え問いかけるのです。その時、日野原先生がその婦人に読んで聞かせられた聖書の箇所が、本日、私どもに与えらております聖書の箇所でルカ12章33~40節の御言葉、特に40節「汝らも備えをれ、人の子は思わぬ時に来ればなり。」でした。医師として死期を明確に告げる事は出来ません。それを告げたとしても、患者にとって慰めになるわけではありません。それよりも同じキリスト者としての信仰をもつ日野原先生は、患者に「死を迎える用意」ではなくて、「主を迎える用意」をしようと告げるのです。「死」と「主」は、言葉の発音は紛らわしく、似通ったところがありますが、事柄は全く違います。「いつも主を迎える用意」をしていたら良い。これは深い慰めの言葉です。主イエスはこの箇所で三つのたとえ話を語っておられますが、これらのたとえ話に共通していることは、「主人を待つ」ということです。待つ人は受け身です。信仰もそうです。そこで肝心なもの、それは主人です。私どもの主人は、イエス・キリストです。その主人が来るのを待っています。いつでも主がこられたら、戸を開け、明りを揚げることが出来るように待っています。信仰生活の大部分は待望です。ブルームハルトは、いつも人のまだ乗ったことのない4頭立ての馬車を庭に用意していたそうです。誰かが不思議に思って、何のためかと聞くと、「自分はイエス・キリストが再臨なさる時、一番最初にお迎えに行けるように、こうしていつも用意しているのだ。」と答えたそうです。この待望、この信頼こそ真の信仰なのです。私どもも、この待降節を迎える中で、私どもの心の庭に4頭立ての馬車を用意して、主イエスを待ち望む喜びと希望にしっかりと立って進みましょう。

12月1日(待降節第一週) 礼拝メッセージ要旨

 

「献げられた者―エノク」              創世記5章21~24節

創世記5章のアダムの系図には、ラヴェルの「ボレロ」のように、同じ旋律が何度も繰り返し響いてきます。「~生きて~彼は死んだ。」というメロディーが8回も繰り返されるのです。(創世記5:5、8、11、14、17、20、27、31)しかし1ヵ所だけ、全く違った旋律が演奏される所があります。それがエノクに関する創世記5章21~24節です。その調べの終わりは、「彼はいなくなった。」です。アダムの7代目の子孫「エノク」は、死が生に勝てなかった唯一人の証人として、創世記5章のアダムの系図の中で、暗い夜空に輝く明星のように光を放っているのです。エノクがこの系図を通して、私たちに語りかける使信とは何でしょうか。それは、アダムが堕落しなかった時に持っていた、永遠の命を見せてくれたことです。エノクが死なないで昇天できた秘訣、すなわち「神と共に歩む」ということは、初めにアダムを造られた時、神が願い、望んでおられた生き方であったことを、エノクは私たちに示してくれました。またエノクの生涯は、イエス・キリストの生涯を私たちに指し示しています。神を喜ばせたエノクは、神と共に歩みながら、神を喜ばせたイエス・キリストの生涯を前もって、私たちに示したのです。エノクは「神と共に歩み」―その神の御心に従って、徹底的に一歩一歩従う―ことによって、イエス・キリストの生涯を語っていたのです。さらにエノクの昇天は、イエス・キリストが復活と昇天によって、死の力に勝利し、永遠の命に到る救いの保証となられたことを私たちに指し示しています。またエノクの昇天は、再臨の時、聖徒たちの栄光に輝く変化の姿を表しています。このようにエノクは、神の御言葉をその通り信じ、「神と共に歩んだ」結果として与えられた、特別な恵みを私たちに示し、私たちもエノクのように、「神と共に歩む」なら、同じ祝福、希望、喜びに生きることができることを私たちに語り告げているのです。



11月24日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「今、すべき大事なこと」          ルカの福音書12章16~21節

「あんぱんまん」の作者、やなせたかし氏が10月に死去されました。やけこげだらけのボロボロの、こげ茶色のマントを着て登場する「あんぱんまん」は自分を食べさせることで飢える人を救うヒーローです。この「あんぱんまん」の誕生には、やなせたかし氏の戦争体験があります。「戦争では、重労働や辛い訓練には耐えられる。耐えられないのは何かというと、食べるものがないということだったのです。それ以外の大抵のことは我慢できるのだけれど、一番辛いのは食べる事ができない、飢えるということだったんです。」と著書の中でこのように戦争体験を語っています。ルカ12章に登場する金持ちの農夫は、人間の生死を決定づける飢えに対して、万全の備えをし、「さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」と自らに語りかけます。しかしその彼を神は、「愚か者」呼びました。彼が自分の「いのち」について誤った考えを持っていたからです。彼の考えていた「いのち」は、この世の死で終わるという、時間に限定された「いのち」でした。しかし聖書は「いのち」について、もう一つの「いのち」の存在を語っています。それは「永遠のいのち」です。今神は彼に「おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」(ルカ12:20)と、問いかけられます。この二つのいのちの問題から、二種類の生きがいが生じます。期限付きの生きがいと無限の死をも超える生きがいです。私たちは年を取るにつれて、将来の可能性は少なくなり、夢は消えていくのです。そして期限付きの生きがいは、時間と共に弱まっていき、そしていつか死を迎える時にゼロになるのです。ですから神は言われます。「神の前に富まない者は、このとおりです。」と。自分の用意したものの中には「いのち」の解決はなく、神が与えて下さる「永遠のいのち」を持つとき、死というものは、完全に幸せになれるための唯一のドアとなり、死は生きることの「終点」ではなく、すでに与えられた「永遠のいのち」への最高にうれしい「乗り換え駅」であったのです。


11月17日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「恐れからの解放」               ルカの福音書12章32節

「恐れるな、小さき群れよ。」短い言葉です。主イエスが最もよく繰り返された言葉のひとつが、この「恐れるな」でした。嵐に悩む弟子たち、不信仰のために水中に溺れそうになるペテロ、群衆に取り囲まれて、たじろいでいる弟子たち、罪の力に打ち倒されて、どうしようもなくなっている者たちに、「恐れるな」「恐れることはない。」と、その恐れの中から立ち上がるようにと、何度でも声をかけて下さった主イエス。                                   「恐れる」ということは、人間の弱さが最も正直に現れる場面でもあります。その恐れから解き放たれる道を作ってくださるため、主イエスは、全存在を賭けられました。十字架と復活はその道の完成であります。「恐れるな、小さき群れよ」と主イエスは言われました。小さいから恐れるということがあるのです。この時の弟子たちの群れは小さかったのです。自分たちの小ささに恐れを抱いていたのです。これは弟子たちだけの問題ではありません。私どもの生活にいつも見えてくる小ささです。その小ささのゆえに恐れるのです。主イエスはそういう私どもの心に向かって言われます。「恐れるな、小さき群れよ。」と。「あなたがたを大きくするから、心配するな。」とは言われません。「「恐れるな、小さき群れよ。」であります。それはいったいどういうことなのでしょうか。その理由は「あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」「小さき群れ」つまり私たちを御国を与える対象として、父なる神が選んでくださるのです。よき父は、この小さき群れに天からの霊の分け前、すなわち神の国を下さるのです。ですから何はともあれ「神の国」を求め続けるのです。それは神への服従と神への礼拝を大切にすること、そして、それを、キリスト者としての自分のなすべき最高の職務とするということなのです。

11月10日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「空の鳥 野の花にまさりて」        ルカの福音書12章22~31節

「いかに鳥は、手許にゆるされてあるもので生きていることか。いかに鳥は、その貧しさに必要なだけのわずかのもので生きていることか。いかに必要な程度のもの以上をとろうとしないことか。これに反して人間は、食べることや飲むことに心配ばかりしている。厚かましくも、とてつもなく豊かな貯えを持ちたがる。そしてそれゆえにこそ、神の豊かな世界に飢える者がいる。人間は不安や心配が先立つあまり、コップ一杯の水で間に合うはずのところ、海をその手中にしないとおさまらない。空の鳥を見るがよい。神は鳥をわれらの教師としておたてになられた。」(キルケゴール)                           今主イエスは、空の鳥、野の花を教師として、私たちに何を語ろうとしておられるのでしょうか。主イエスは、「あなたは何かと言えば、自分のいのちのことで心配し、思いわずらっている。しかし考えてみなさい。あなたはどのようにしてそれを得たのか。いのちはどこから来たのか。」と、問われます。勿論答えは、「それは神の賜物なのです。」人間はいのちを創造できません。いのちそのものが神の賜物だからです。そうであるならば、今になって神が突然そのいのちの維持、継続にみこころを向けて下さらなくなるということは、どうしてあり得ましょうか。神はご自身の方法で、人のいのちを維持して下さいます。ですから私たちはそれについて、少しも思いわずらう必要はないと、主イエスは言われるのです。神学者カルヴァンは「キリストは彼の民たちに思い煩いをすべて神に委ねることを教える以外の何物をも求められなかった。」と言いました。もし、全てが神のものであるなら、思い煩いも神のものであるはずです。ですからペテロは「あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神はあなたがたのことを心配してくださるからです。」(ペテロ第一5章7節)と語りました。思い煩いは神の領分だというのです。したがって私たちが思い煩うならば、それは自分の領分を越えて、神の領分に入り込んで心配しているのです。「思い煩いを神にまかせなさい。」

11月3日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「祝福と罪の系図」                 創世記5章1~32節

人間の歴史はアダムとエバによって始まり、人間の性質はカインの流れと(創世記4:16~24)、セツの流れ(創世記4:25~5:32)の2つの流れによって展開していきます。創世記5章では、「神から離れ去った」カインの系図に終止符を打ち、セツによる新しい信仰の系図を紹介しています。カインが見せる不信と殺人という罪悪の中で、セツの系図の登場は人類に新たな希望を見せてくれます。では系図にある、その名を残すそれぞれの世代を代表する人々が、熱く語っている共通のメッセージとは何でしょうか。それは2つの文章で言い表すことができます。                                   その一、「それでもなお祝福の中に生かされる人間」 神にそむき、罪を犯したにもかかわらず、それでもなお神の祝福の中に生かされている人間。人はみな「神の像」を持っています。それゆえ人間は神の赦しの中で、祝福を与えられた命を受け継いでいくのです。それが人間の歴史なのだと、この系図は私たちに語りかけているのです。                                                                            その二「それでもなお罪の中に生きる人間」 5章の系図は神の祝福だけを受け継いでいるのではなく、罪を犯す「人間の像」も受け継いでいるのです。その結果、神の祝福の中に命が受け継がれた人々は世界中に増え広がってはきたけれども、アダム以来の罪の性質もまた受け継がれて世界中に増え広がっているのです。このように光と闇、祝福と呪い、命と死を告げる5章の系図は、ノアとノアの子孫たち、セムに続きアブラハムに至る系図に繫がります。そしてそれは新約聖書のマタイの福音書1章1節の「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」に繋がるのです。マタイはアブラハム以来の長い歴史を14代づつ3つの時代に区切って、ついにイエス・キリストに行き着く系図にしています。そしてこのイエス・キリストを信じることができた時、私たちはあのエノクのように、神と共に生きる者とされるのです。そして「神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5:24)とあるように、神と共に死にゆく者ともされるのです。

10月27日(日) 伝道礼拝メッセージ要旨   安村仁志先生

 

「いのちの拠りどころ―信・希・愛―」    マルコの福音書5章21~43節

「人間は考える葦である」――あまりにも有名なV.パスカルのことばです。が、どんな意味なのかとなると、あまりよく分かっているとは申せません。本来は「人間は一本の葦、自然の中でもっとも弱いものにすぎない。だが、それは考える葦である。」の短縮形です。そして、続きの文の中に「わたしたちの尊厳のすべては、考えることのうちにある。」という重要なことばがあります。“尊厳”にあたるフランス語のdignité(ディニテ)は、“値打ち”“あたい”あるいは“存立の拠りどころ”といった意味をもちます。人間が人間として“ある”、“立つ”という存在の拠りどころについて述べられている文です。                                                  私たちには、人間として生きるうえで“拠りどころ”が必要です。パスカルは“考える”ということと結びつけましたが、人とは何ものだろうか、人として何を拠りどころにすればいいのだろうか、真摯に考えるということなのでしょう。それは何でしょう。〈信じるものがある〉〈望みを持ち続ける〉〈愛され―愛す〉――信仰と希望と愛をよりどころに聖書を通して考えてみたいと思います。