礼拝メッセージ要旨

7月3日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「神がともにいて下さる」            Ⅰサムエル記14章6〜15節
Ⅰサムエル記14章には、同じペリシテ人に対するサウルと彼の息子であるヨナタンの姿が記されています。前の13章で、サウル王はサムエルが来ることを待つことができず、自ら神さまに全焼のいけにえを捧げました。そしてそれによって神さまから「あなたの王国は立たない。」そして「主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。」と言われました。その後のサウル王の姿が、ヨナタンとの対比の中で現れます。
まずはヨナタンの姿ですが、1節以降を見ますとヨナタンはペリシテ人に対して非常に大胆に行動することでした。自分の道具持ちの若者と二人でペリシテ人の陣営に上って行くことでしたが、6節を見ますとそのようなヨナタンの姿は神さまへの信頼によるものでした。この時のペリシテ人は、戦車3万、騎兵6千、それに兵士は数え切れないほど多くありました。そのようなペリシテ人の陣営に上って行く中で「多くの人によっても、少しの人によっても、主がお救いになるのを妨げるものは何もない。」と告白し、「おそらく、主がわれわれに味方してくださるだろう。」と全てを神さまに委ねていました。ヨナタンと道具持ちの若者の二人は、20人のペリシテ人を打ち殺したことでしたが、これによってペリシテ人の陣営には大きな混乱が起こり、ペリシテ人は同士討ちをするようになり、イスラエルは勝利を得るようになります。
その一方、サウル王はどうだったでしょうか。ペリシテ人の陣営で騒ぎが起こったことを聞き、祭司アヒヤに「神の箱を持って来なさい」と言います。これは神さまの御心を伺うためでしょう。しかし、その後騒ぎが大きるなると「手を戻しなさい」と神さまの御心を伺おうとしたことを直ぐ止めてしまいました。このような姿からサウル王は、神さまの御心を伺い従おうとする思いは持っていなかったことだと思います。また、イスラエルの兵たちに断食を命令することでしたが、それの本当の理由は「私が敵に復讐するまで」ということでした。断食は神さまへの献身を現すことですが、しかしサウル王は自分のために断食を命令したのです。
このようなヨナタンとサウル王の姿を見たイスラエルの民は、神さまはヨナタンとともにおられた、と言います。即ち14章でのサウル王の姿は、神さまが離れてしまった、神さまがともにいてくださらなかった者の姿であったのです。
私たちにとって本当に大切なことは、神さまがともにいて下さるという神さまとの正しい関係にいることだと思います。そのために悔い改め、神さまのみことばに聞き従う道を歩んで行くように祈り求めたいと思います。

6月26日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「罪を赦して下さるイエスさま」        マタイの福音書9章1〜8節
私たちの人生には不安や苦しみ、悲しみなどがあります。このようなことは、私たちが生きて行く中で大変大きなことです。しかし、私たちの人生で最も大きな問題は何でしょうか。それは罪によって神さまから離れているということです。本来は、神さまに造られ、神さまに愛され、神さまと共に交わりを持つ存在であるのに、罪によって神さまから離れてしまい、そのようなことが出来なくなりました。本日の本文にはそのような人間に罪の赦しを与えて下さるイエスさまの姿が記されています。
前回、イエスさまはガダラ地域の人々に「立ち去ってほしい」言われました。それで1節を見ますとイエスさまはご自分の町に帰られました。その町はカペナウムだと思いますが、そのカペナウムのある人の家でのことです。そこにはイエスさまと大勢の人々が集まっていましたが、人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスさまの前に運んで来ました。同じ内容のルカの福音書を見ますと、その家は入り口まで人でいっぱいになっていましたので、中風の人を運んで来た人々は家の屋根の瓦をはがしてイエスさまの前につりおろしたことでした。中風の人も彼を運んで来た人々も、中風という重い病が癒されることを心から願いここまで来たことだと思います。
ところが、その時にイエスさまが言われたことは「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」ということでした。多くの人々は意外なイエスさまの言葉に不思議がっていたと思いますが、しかしこの言葉こそ最も大切なことであります。イエスさまは中風の人の根本的な問題をご覧になり、中風という病を癒して下さることは勿論、罪の赦しをも与えて下さったのです。この罪の赦しは神さまのみに出来ることでありまして、この出来事を通してご自分の神としての罪を赦す権威を表して下さったことです。
以上のようにイエスさまは、私たちの罪を赦して下さるお方であります。私たちは色々な問題や苦しみ、悩みなどを持っていますが、最も根本的なことである罪の問題を解決して下るお方であります。私たちに「あなたの罪を赦されました」と、この世からは得られない安らぎと平安と喜びを与えて下さるイエスさまを覚えまして、そのお方を証しし、そのお方にのみ頼りつつ歩んで行きたいと思います。

6月12日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「イエスさまに出会う祝福」          マタイの福音書8章28〜34節
本日の本文は、イエスさまが悪霊につかれた二人から悪霊を追い出してくださり、その苦しみから救ってくださる内容です。著者マタイは、8章で色々なイエスさまの行われた奇跡を記しています。ツャラアトにおかされた人、百人隊長のしもべ、そしてペテロのしゅうとめを癒して下さいました。そしてガリラヤ湖を渡る時は、自然をも治める御力を見せて下さいました。そして今日の本文においては霊的存在に対しても権威を持っておられるイエスさまのことが紹介されています。
悪霊につかれた二人は、墓場から出てきました。そしてその二人について「ひどく狂暴で、誰もその道を通れないほどであった」と書いてあります。同じ内容のマルコの福音書を見ますと、足かせや鎖で繋いでいてもそれを引きちぎり砕いてしまい、昼も夜も叫び続けていた、そして石で自分の体を傷つけていた、と書いてあります。二人の人は、悪霊によって普通の生活が出来なくなりました。住んでいるところも、彼らの姿も悪霊によって破壊され大変な日々と過ごしていたのです。
そして悪霊どもはイエスさまに「私たちを追い出そうとされるのでしたら、豚の群れの中に 送ってください」と懇願して言いました。それでイエスさまは「行け」と言われまして、悪霊どもは二人から出て行って豚に入りました。すると、その群れ全体が 崖を下って湖になだれ込み、水におぼれて死んだのです。この時、豚の数は、マルコの福音書によりますと二千匹ほどでしたが、その数が全部湖に落ちて溺れて死んでしまった、ということも悪霊の恐ろしい力を見せることだと思います。そのような悪霊が二人を支配していた、ということ。その二人にとってはどれほど大変なことだったでしょうか。この二人はイエスさまに出会い、その苦しみから救われたのです。その話しを聞いた町中の人々はイエスさまに出会うために出て来ました。しかし彼らはイエスさまに出会うと、立ち去ってほしいと懇願しました。いのちの主であり救い主であられるお方が自分たちの目の前におられるのに、そのお方を拒んだのです。
かつては、私たちも悪霊につかれた二人のように悪霊に従い、悪霊に支配されていました。しかし、イエスさまに出会い、その御力によって解放され神さまの子供とされたのです。この救いの喜びを覚えて感謝し私たちの愛する人々や大切な人々に救われた喜びを証しして行きたいと思います。

6月5日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「主の御声に聞き従う」             Ⅰサムエル 12章7〜17節
Ⅰサムエル11章でイスラエルはアンモン人と戦いますが、その戦いで大勝利をえました。12部族から集まった33万の人々が、サウルの指揮の下で一つとなって戦い、自分たちより強いと思っていた相手に対して思わぬ勝利を得たことです。それでイスラエルの民は直ぐ、サウルを前イスラエルの王として立てました。これによってサウルは前イスラエルから認められた最初の王となりました。
このようにサウルが正式に王になった、ということはイスラエルに新しい変化が始まった、ということです。それは士師の時代は終わり、王様が治める時代が始まった、ということです。サムエルは最後の裁きつかさとなり、サウルは最初の王となります。本日の本文でサムエルは裁きつかさとしての最後の説教をしますが、その説教を通して神様の恵みに対する私たちの信仰について考えてみたいと思います。
まず、サムエルは1節〜6節で、イスラエルの民に自分の潔白について語ります。特に3節で、今までの私に何か不正や過ちがあったら訴えなさい、と語ります。最後の説教で何故このようなことを語るでしょうか。自分の潔白を確認するということはどのような意味があるでしょうか。それはイスラエルの民が王を求めた本音を確認するため、と言えます。イスラエルの民が王を求めた理由、それはサムエルの高齢化とサムエルの息子たちの行いが正しくなかったからでした。それを理由として新しく王を求めたということですが、本当の理由はそうではなかった、ということです。次に、サムエルは7節〜11節でイスラエルの歴史について語ります。神さまはイスラエルの民をエジプトから救い出してくださり、カナンの地に住まわせて下さいました。そして今まで、イスラエルの民を守り導いてくださり、安らかに住めるようにして下さいました。即ち、他の国々のように王はなかったですが、神さまがいつも共におられましてイスラエルを治め守り導いて下さいましたし、それには何の不足のなかった、ということです。
それなのにどうして王を求めるのか、ということです。イスラエルが王を求める本当の理由、それは神さまではなく、人間の王に頼りたいということでした。目に見えない神さまではなく、他の国々にように目に見える力強い人間の王が自分たちを守ってほしいということだったのです。そのような思いで王を求めるイスラエル、それでも神さまは彼らの願いを聞いてくださり、サウルを王として選んでくださったのです。ですから、自分たちの罪を悔い改めてこれからはただ主を恐れ、心を尽くして、誠実に主にのみ仕えなさい、と進めるサムエルです。このように憐れみ深い、恵み豊かな神さまを覚えたいと思います。いつも忍耐を持って私たちを守り導いてくださる神さまに感謝し、その神さまの御声にのみ聞き従うものになりたいと思います。

5月29日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「私たちの不信仰と、真実な主の力」  マルコ9章14–29節  吉村直紀牧師
Ⅰ.解決はただイエスに(14‐19節)
変貌山での出来事をイエス様、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが経験している間、他9人の弟子たちは汚れた霊の追い出しを試みて失敗し、律法学者と議論します。そこへイエス様が現れ、彼らに「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのか?」と問います。イエス様は彼らが何を話しているかご存知でしたが、群集の注意をイエス様ご自身に向けさせます。これは大切な原則を示し、助けを必要としている者は、まず第一に、自分の問題を告白し必要を満たす主イエス様の力を良く知る必要があります。人間(弟子たち)の人格や行いに注目するのではなく、最終的な救い・解決を与える主イエス様の力により注目する事が大切です。
イエス様は弟子たちと世の不信仰を嘆かれ、さらに群衆の中に「口を聞けなくする霊につかれた息子」の父親がおり、父親とイエス様のやりとりが続きます。
Ⅱ.父親の不信仰と悔い改め(20-29節)
イエス様の前に連れて来られた少年は、ひきつけを起こします。父親はイエス様にすがり、「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください」と嘆願します。『おできになるなら』という父親の言葉を、イエス様は愛をもって、しかしはっきり叱られました。そこには遠慮もあったかも知れません。しかし、相手は神様です。この言葉の英訳は、“If You can do”。しかし、神様に不可能はありません。父親の言葉には大変重要な、神である主イエス様の絶対的なお力への信頼が欠けていました。「信じるか」「信じないか」という場面が信仰にはあります。
しかし、父親は「信じます。不信仰な私をお助けください」と大胆に悔い改めをします。父親は自身の主への信頼の弱さを認めつつも、救いを与えて下さるイエス様の絶対的なお力を信じました。私たちが自分の罪深さを悲しみ、それを捨て神様に帰るなら、神様の真実と善意によって神様はキリストにあり全ての罪を赦してくださいます。私たちの信仰とは決して完全なものではありえません。しかし、神様の真実なお力は確実に私たちを救う事が出来ます。そして、イエス様は彼の切なる願いを聞き、悪霊を子どもから追い出されたのでした。私たちもこのイエス様・神様の救いを与えてくださる大きなお力に信頼し、今週も主と共に歩んでまいりましょう。

5月22日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「イエスさまのみ力」            マタイの福音書8章23〜27節
今日の本文は「風や湖まで」という自然もイエスさまの言うことを行く、イエスさまの言葉に従うという、イエスさまのみ力が現れる内容です。そこで弟子たちは湖が急に大荒れになり、乗っていた船は大波をかぶるようになり大変戸惑います。そのような弟子たちにイエスさまは「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち」と仰います。
この時、弟子たちが船に乗ったのはイエスさまに従ってのことでした。18節には「弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。」とありまして、23節には「それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。」と書いてあります。ですから、イエスさまが命じられて船に乗られると、そのイエスさまに従って弟子たちも船に乗ったのです。そのようにイエスさまに従って乗った船なのに、湖は大荒れなり、大波をかぶるという大変の状況におかれるようになったのです。それも「私たちは死んでしまいます」というほどの大変な状況でした。
そのような状況で25節を見ますと弟子たちは直ぐにイエスさまに助けを求めました。弟子たちの中には漁師が多くいました。彼らにとってガリラヤ湖の姿や船のことはよく知っていることでありました。おそらく今までの人生の中で、このような湖の大荒れや嵐などは何回も経験したことだと思います。そのように湖については経験豊かな弟子たちでしたが、彼らは自分たちの経験に頼らずイエスさまに助けを求めたのです。
そういう弟子たちにイエスさまは「どうして怖がるのか」と仰ることでした。そして弟子たちが怖がるのは、彼らの信仰が薄いからということでした。薄い、ということですので信仰があるものの、今の状況を怖がらないほどではない、ということでしょう。それでは弟子たちが持つべき信仰はどのようなものだったでしょうか。それは、イエスさまは風や湖までが言うことを聞くお方である、ということです。今までは弟子たちはそれを知らなかったですが、本文の出来事を通して知るようになりました。そしてイエスさまは、信仰の薄い弟子たちの信仰を成長させて下さるために、この湖に、大変な状況に導いて下さったのです。
イエスさまに従って、イエスさまに導かれて行った湖で弟子たちは大変な状況おかれるようになりました。そのように、私たちも信仰者としてイエスさまの教え従って歩んでいく中で試練に出会うことがあります。その時、私たちと共にいて下さる神さま、私たちを守り導いて下さる神さまを覚えたいと思います。人生の嵐の中でも私たちを守り導いて下さる神さまに信頼し歩んで行く者になりたいと思います。

5月15日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「勝利をもたらして下さる主」        サムエル記第一 11章5〜15節
サムエルから油注がれ「主が、ご自分のゆずりの地と民を治める君主とする」と言われたサウル。そしてそれが神さまのみこころであることを表すために三つのしるしが言われます。イスラエルの王になるということについて考えて来なかったサウルですが、神さまはご自分のみこころをサウルに教えて下さいました。しかし、その後のサウルの姿は消極的でありました。サウルはくじで取り分けられますが、荷物の間に隠れていたため、その姿はみつからなかったのです。結局見つかり、民の前に立ちますが、サウルの姿を見た民は「王様万歳」と大声で叫びました。しかしある者たちはサウルを軽蔑しまして、全イスラエルがサウルを王として認めたことではありませんでした。そのようなサウルですが、本文の中で全イスラエルから支持を得て王になることが出来ます。
アンモン人ナハシュがヨルダン川の東にあるヤベシュ・ギルアデを攻撃して来ました。それでヤベシュ・ギルアデの人々は直ぐ降伏しましたが、アンモン人ナハシュは「おまえたち皆の者の右の目をえぐり取ることだ。」という大変な条件を付けました。それでヤベシュの長老たちはギブアに使者を送り今の状況を伝えましたが、それを聞いたギブアの人々も声をあげて泣いてばかりでした。ちょうどその時、サウルが畑から帰って来てその話しを聞きました。すると、神の霊がサウルの上に激しく下って、サウルの怒りは激しく燃え上がりました。そしてサウルは一くびきの牛を取り、それを切り分け、使者に託して イスラエルの国中に送り、「サウルとサムエルに従って出て来ない者の牛は、このようにされる」と言ったのです。すると、主の恐れが民に下って、彼らは一斉に出て来て、何と33万人も集まりました。そしてサウルは集まった人々を指揮し、アンモン人と戦い、生き残った者は 散り散りになり、二人の者がともにいることがないほど、圧倒的な勝利を得ます。その時、サウルはすべての栄光を神さまに帰しました。そのサウルの姿を見たイスラエルの民は、ギブアに集まってサウルを王として立て、大いに喜びました。神さまに信頼し、神さまのみに従う王、その王を通して神さまはイスラエルに勝利を与えて下さいました。そしてイスラエルの民は、そのように守り導いて下さる神さまを、そして神さまによって立てられた王を大いに喜ぶことでした。
アンモン人のナハシュからの攻撃、それは私たちの人生の中でも苦難や苦しみなどであるかも知れません。直ぐに降伏したくなるほど、大変な苦難があります。それを前いして泣き叫ぶことしか出来ない時もあります。そのような時に、神さまを恐れ、神さまに助けを求めるなら、神さまは私たちに勝利を与えて下さいます。どのような状況の中でも私たちを助けて下さる神さま、勝利を与えて下さる神さま、その神さまを見上げ信頼して歩んで行く者になりたいと思います。

5月8日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「イエスさまについて行く」         マタイの福音書 8章18〜22節
本日の本文には二人の弟子が出て来ましてイエスさまについて行きますと話します。イエスさまはその二人に「イエスさまについて行く」ということがどのようなことであるのかを教えます。その教えを通して私たちの信仰を振り替えて見たいと思います。
まず一人目の人ですが、彼は「律法学者」と書いてあります。福音書を見ますと多くの律法学者はイエスさまに対して敵対する姿を見せています。少し前にある「山上の説教」でイエスさまは律法学者たちの教えの誤りについてことごとく指摘なさったことがありました。その他、彼らの偽善について厳しく話されたこともありますが、そのようなイエスさまを律法学者たちは敵対するようになったことだと思います。そのような律法学者たちの中からイエスさまに「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」と話したことは非常に嬉しいことだと思います。
しかし、イエスさまの答えは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」と予想外のことでした。これはどういう意味でしょうか。それはこれからイエスさまが歩まれる道は非常に大変で不安定だということであり、そのような道でもわたしについてくる覚悟を持っているのか、と確認されることです。
二人目のイエスさまに「主よ。まず行って 父を葬ることを お許しください。」と話しました。彼にイエスさまは「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを 葬らせなさい。」と答えられます。このイエスさまの答えは非常に冷たく聞こえるかも知れませんが、しかしここでイエスさまが語られることは弟子としての優先順位のことです。二つのやるべきことの中で何を優先するのか。弟子であるものは、まず「わたしに従って来なさい。」という教えです。
イエスさまについて行く私たちはどのような覚悟とどのような優先順位を持っているでしょうか。私たちのためにすべてをささげてくださったイエスさまの恵みに感謝し、いつも私たちに励ましと力を与えてくださるイエスさまを見上げ頼って、どんな時でもイエスさまについて行く者になりたいと思います。

3月6日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「ここまで主が私たちを助けてくださった」  サムエル記第一 7章1〜12節
奪われた主の契約の箱は帰って来て、ベテ・シェメシュの人々は大変喜び、全焼のささげ物を捧げ、いけにえをも主に捧げました。しかし、その後、ベテ・シェメシュの人々は神の箱の中を見て、神さまはベテ・シェメシュの人々を激しく打たれました。そしてベテ・シェメシュの人々はキルヤテ・エアリムの住民にあなたのところに主の箱を運び上げてください、と頼みました。それでキルヤテ・エアリムの人々は主の箱を運び上げて、アビナダブの家に運び、主の箱はアビナダブの家で20年間も置いてあったのです。20年という長い年月が経ってからイスラエルの民は、主を慕い求めました。
その20年間、イスラエルの民は神の箱が返って来たにも関わらず、異国の神々を拝んでいました。そしてその間、神さまからの裁きは続いていましたし、その中でイスラエルの民は苦しんでいたことだと思います。そのような不信仰と苦しみの状況で、ついにイスラエルの民は主を慕い求めたのです。
この時、再びサムエルは民の前に現れて、本文の3節、4節で悔い改めを語りました。ペリシテ人との戦いで敗北し、20年間をも苦しみの中にあったこと、それはイスラエルの偶像礼拝のゆえでした。その罪のよって彼らは神さまから離れ、長い間苦しみの中でいるようになったのです。ですから、イスラエルの民に最も必要なことは、自分たちの罪を知り、それを告白し悔い改めることでした。そして神さまはイスラエルの民がそのようになるまで、20年間という長い年月を待っておられたことでした。
この後、ペリシテ人たちは再び攻撃して来ます。その時、まだイスラエルは戦いの準備も出来てない状況でしたが、神さまのみ力によってペリシテ人はイスラエルに打ち負かされました。そのような勝利を得た後、サムエルは「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言ったのです。「ここまで」ということ、それは今回の戦いだけではない、ということでしょう。今までのすべてのことを神さまが助けって下さった、ということです。即ち、20年間の苦しみの時も、ペリシテ人との戦いで負けた時も、神さまは助けて下さってこのように勝利を得るようにして下さった、ということだと思います。どのような時も、いつも私たちを助けてくださる神さま、ここまで助けて下さった神さまは、これからも助けてくださる、ということを信じ、神さまにのみ頼り歩む者になりたいと思います。

2月20日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「帰って来る神の箱」              Ⅰサムエル 6章1〜16節
イスラエルはペリシテ人との戦いで負けてしまい、神の箱をも奪われました。それはイスラエルに大きな衝撃でありまして、祭司エリの家で生まれた子の名を「イ・カボデ」即ち、栄光はイスラエルから去ったとつけました。
ペリシテ人は神の箱を奪い自分たちの町に帰って来まして、神の箱を戦利品のようにダゴンの神殿におきました。そのようにして自分たちの勝利を祝い喜ぶことでした。しかしダゴンの神殿の中では、ダゴンが倒れていたりダゴンの頭と胴体が離されていたりして神さまの力が現れていました。
そして神さまの力はペリシテの町々にも現れました。5章6節に「主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人たちを腫物で打って脅かした。」とありますが、ガテという町にも同じことが起こりました。そしてペリシテにおいては5章11節〜12節に「町中に 死の恐慌があったのである。神の手は、そこに 非常に重く のしかかっていた。死ななかった者は腫物で打たれ、助けを求める町の叫び声は 天にまで上った。」と書いてあります。
そのような中でペリシテ人たちは神の箱をイスラエルに送り返すことにしました。それで一台の新しい車を準備して雌牛2頭を繋ぎました。ところがこの雌牛はくびきをつけたことのない、さらには乳を飲ませていた雌牛でしたが、その子牛とは引き離しておくということでした。このように準備しておいて、2頭の雌牛がイスラエルに行くなら今までのことが神さまによることである、ということでした。そして2頭の雌牛が行くがままにして置きましたが、2頭の雌牛はイスラエルのベテ・シェメシュに進んで行きました。それも右にも左にもそれることなく真っ直ぐに進んで行きました。
これは間違いなく神さまの力、すべてを支配し導いておられることの現れです。ペリシテの地において起こった出来事、そして今日の本文の出来事を通してペリシテ人は神さまの力を知り、神さまは御自らご自分のご栄光を表されのです。そして神の箱が帰って来ることを見たイスラエルの民は大変喜ぶことでした(13〜15節)。ご自分の民として選んで下さったイスラエルをお捨てにならない神さま。いつも、いつまでも彼らと共におられ、守り導いて下さる神さまの恵みを覚えることができます。神の箱を奪われ希望を失い絶望に陥っていたイスラエルでしたが、この出来事の通して慰めを頂き、心から喜ぶことが出来ました。私たちもすべてを支配しておられる神さま、私たちを守り導いて下さる神さまを覚えまして、その神さまを恐れ、その神さまのみを礼拝する者になりたいと思います。