礼拝メッセージ

8月7日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「主よ。お心一つで」             ルカの福音書5章12~14節

人は人生のある時点での出会いによって、その人の人生が大きく変えられる時があります。主イエスとらい病人との出会いはまさに、そのような決定的な出会いの瞬間でありました。らい病人は主イエスとの出会いによって、どんな時も人生には意味がある、なすべきこと、充たすべき意味が与えられたのです。しかしそこにはらい病人の主イエスに全身でぶつかる真剣さがあったからこそ、彼は主イエスによって人生に生きる意味を与えられたのです。その彼の真剣さは、彼の行動と言葉に明白にあらわれております。その行動とは、「イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。」(ルカ5:12)ことにあります。彼はらい病の故に、差別と偏見の中で社会から退くことを強いられた人生を、これまで歩んできました。しかし今彼は、主イエスを見ると、「汚れていますから近づかないで下さい。」と言って退いたのではありません。主イエスに向かって前進し、ひれ伏したのです。今彼の人生は、前に向かって一歩踏み出されたのです。どこに向かってでしょうか。「主イエスに向かって」であります。                                                      そして彼の言葉「主よ。お心一つで」(ルカ5:12)と彼は主イエスに願い出ます。この言葉は「主よ、あなたがそうしようと欲して下さるかどうかに一切がかかっているのです。」という意味の言葉です。それは自分の疑いも迷いも全て主に委ねて、主のみ心のもとに立つということでもあるのです。徹底的な信頼にうら打ちされた言葉です。主イエスは驚きの目を見張って「ここに信仰がみつかった。」と言われます。また「私はきよくしていただけます。」という言葉にも注目しなければなりません。彼は「いやす」とか「治す」という言葉は使いませんでした。彼は単なる肉体上の問題の解決を求めているのではありません。むしろ宗教的なこと、人間として生きるための必要を求めているのです。当時らい病は、神から呪われているとされ、宗教的に汚れている者とされていました。そのらい病人に主イエスは手を伸ばして、誰もが忌み嫌うからだにさわられたのです。そして何のためらいもなく「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われたのです。こうして彼の人生は生きるに値する人生へと変えられていったのです。「それでも人生にイエスと言う。」(ヴィクトール・E・フランクル)と、彼は自らの人生を積極的に受け止めて一歩を踏み出したのです。今この時代、この地球のこの国のこの場所に置かれているということは、私たちに「なすべきこと」「充たすべき意味」が与えられているということなのです。この事をらい病人と主イエスの出会いは、決定的な意味をもって私たちに語りかけているのです。

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