礼拝メッセージ要旨

10月21日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「神様に喜ばれる者」               ヨブ記Ⅰ章6‐22節
 本日の本文の最初には天上での会議が描かれています。神様がおられ、その御前に神の子ら、即ち天使たちが立っていました。そしてそこにはサタンも中に入っていましたが、そのサタンに神様がヨブのことを仰せられます。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」それを聞いたサタンは、神様に「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。」と話しました。ヨブ記1章2節、3節によりますと、ヨブには7名の息子と3名の娘が与えられ、「東の人々の中で一番の富豪であった」と説明されるほど、とても裕福で幸せな生活をし、神様を恐れる人でした。そのようなヨブが神様を恐れる理由を、サタンは神様が祝福してくださって、彼が富豪になるようにしてくださったからだと話します。そのようなものを全部取り去られたら、神様が「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者」だと仰せられるヨブも神様をのろうでしょう、ということでした。
 このような天上での出来事があって、13節以降からヨブの苦しみが始まります。一瞬のうちに、ヨブは全ての財産を失います。財産だけではなく、自分の命より大切な子どもたちも命を失います。先まで東の人々の中で一番富豪であったヨブは、世界中で最も悲しくて苦しむ人になりました。全ての財産が無くなり、愛する子どもたちも失う、という現実の中でヨブは大変悲しみました。
 しかし、その悲しみの中でも神様のことを覚えて地にひれ伏し礼拝しました。そして自分に起こったすべてのことは、神様の支配のもとで起こったことを認めて神様を賛美し、この苦しみによって罪を犯さなかったのです。訳の分からない、突然の苦しみの真中で、ヨブは神様を覚え、神様を礼拝し、神様を賛美したのです。そのようなヨブの姿を神様は喜ばれました。私たちも、その理由を分からない苦しみの中で、神様を覚えて、その御前にひれ伏し、神様を礼拝する者になりたいと思います。

10月14日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「神様と一緒にいる」            ルカの福音書15章25-32節
 ルカの福音書15章に出て来る「放蕩息子」のたとえ話は私たちが良く知っている内容です。お父さんの身代をもらって家を出た息子が、その財産を湯水のように使ってしまい、大変なことになります。豚の餌で腹を満たそうとしてもそれさえ与えようとする人もなく、飢え死にしそうな生活をするようになりました。そこで彼は悔い改めてお父さんのもとに帰って来ます。そのようの息子を赦してくださり、喜んでくださるお父さんは、彼に一番良い物を与え、彼のために盛大な宴会を開き、息子が生きて帰って来たことを祝い、喜びます。ここで私たちが良く知っている「放蕩息子」のたとえ話はハッピーエンディングで終わるようです。
 しかしこのたとえ話の結論は、その後に出て来るお兄さんの話しです。と言うのは、この15章でのたとえ話はパリサイ人と律法学者たちに話してくださったこと(2節)であるからです。弟が無事に帰って来た事を知ったお兄さんは喜ばなかったのです。喜ぶところか、怒りました。そして弟のために肥えた子牛を屠って喜びの宴会を開いて下さったお父さんに対しては文句を言いました。そのようなお兄さんの言葉の中には、お父さんをお父さんとして尊敬し愛する心は少しも見つけることが出来ない、大変酷いものでした。そして家で一生懸命に働き、お父さんの戒めを守り続けて来た自分には子山羊一匹もくださらない、なのに罪深い弟のためには子牛をほふらせて宴会まで開くと、恨み妬んでいるばかりでした。
 そのようなお兄さんに、父親は「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」と話してくださり、「いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」と宴会に入って共に喜ぶように招いてくださいます。私たちは、このように自分の事を「息子よ」と暖かく呼んで下さる神様を忘れてはいないでしょうか。そしていつも私たちと一緒にいてくださる神様を忘れてはいないでしょうか。父なる神様が私と一緒にいてくださる、と言う事を覚えて喜びの中で生きて行きたいと思います。

10月7日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「神様を見上げる人生」             出エジプト記17章1-7節
 エジプトから出て来たイスラエルの民は次から次へと、色々な出来事の中で神様の素晴らしい力を体験するようになります。分かれた葦の海を渡った事や苦くて飲むことが出来あった水が甘い水に変わったこと、また荒野でマナとうずらを食べたこと等。イスラエルの民はエジプトから出て来て、自分たちが出会う大変なことのたびにモーゼにつぶやき、神様の守りと導きの中での荒野での生活よりエジプトでの奴隷の生活が良かったと話しました。そのようなイスラエルの民に、神様はその問題を解決してくださり、神様ご自身のことを教えてくださってイスラエルが神様の民として歩むことが出来るように導いてくださいました。
 本日の本文でもイスラエルの民は、神様の命令に従ってシンの荒野から旅立って、荒野での旅を重ねてレフィディムというところに着きました。荒野での旅でしたのでイスラエルの民はとても喉が渇いていたと思います。その旅の中で、次のところに着けばそこには水がいっぱいあるだろうという期待を持っていたかもしれません。しかし、イスラエルの民が到着したところには水がありませんでした。そういう問題に直面したイスラエルの民は、モーセと争い、モーセにつぶやきました。それを聞いたモーセは民を争う事ではなく、神様に祈りました。そしてモーセの祈りに対して神様は「わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」と仰せられまして、モーセがその通りに行なうと岩から水が出て来てイスラエルの民はその水を飲むことが出来ました。
 そこで私たちが覚えたいことは、神様の命令に従って行ってついたところでも、飲む水がなくて渇きで死にそうなことがあるということです。そして、たとえそのような状況に置かれても、神の民である私たちは神様を見上げ、神様の導きを求めなければならないということです。私たちの人生は神様が導いてくださるのです。その人生の中で苦しみ、悩み、試練等がありましたら、それを乗り越えるようにして下さる神様を見上げる者になりたいと思います。

9月30日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「イエス様を考える人生」           ヘブル人への手紙3章1-6節
 本日の本文は私たちに「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」と勧めています。ここでこの手紙の著者は、イエス様を信じて従う人々について「聖なる兄弟たち」と呼んでいますが、それはこの世の中で生きていますがこの世とは区別された人々と言う意味です。世の人々と共に生きていますが、神様の民として区別された人々と言う意味です。そのような聖徒たちは、この世の中で神様を知らない人々と共に生きていますが、その心の中にはイエス様の教えを覚えて生きて行かなければならないということです。
 何故なら、イエス様は私たちの告白する信仰の使徒であるからです。父なる神様が遣わしてくださったお方、神様のみこころを教えてくださるために御父より遣わされたお方という意味です。即ち、御子キリストが父なる神様のみこころを人々に教えてくださり、御救いを完成してくださるために人としてこの世に遣わされた、ということです。ですから、聖徒である私たちはこの使徒であるイエス様のことを深く考えて、そのお方が教えてくださったことに従って生きて行かなければならない、ということです。また、イエス様は大祭司であると語ります。旧約時代の大祭司はイスラエルの民全体を代表して神様の御前に出て、いけにえを捧げて罪の赦しを頂くものでした。イスラエルの民にとって神様との関係において最も大切な存在です。神様の人の間に立つ者であって、神の民を代表し、神様から罪の赦しを頂き、その恵みを民に知らせる者でありました。私たちは、私たちの雄一な、そして真の大祭司であるイエス様を覚えて神様の民として生きて行かなければありません。時に考えなさい、という言葉は深く考える、悟る、そして焦点を合わせる、などの意味があります。聖徒である私たちは使徒であり大祭司であるイエス様を深く考え、その教えて従って生きて行く者になりたいと思います。

9月23日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「生き返った恵み」             ルカの福音書15章11〜24節
 本日の本分は教会は勿論、多くの人々に「放蕩息子」というタイトルでよく知られているたとえ話です。ルカの福音書には三つのたとえ話が書いてありますが、そのどれも同じ教えであって「失われたものを見つかった時の持ち主の喜びが強調されています。本文のたとえ話も同じように家を出た弟息子が帰ってきたことを大変喜ぶお父さんの姿をよく見ることができます。
 そのようなたとえ話の中で弟息子は何をどうしたでしょうか。彼はお父さんに、財産の分け前をください、と大変なことを求めました。人倫にはずれたことであるし、息子からそのような話を聞く親の心は氷のように凍ってしまう話しだと思います。ところが、その話しを聞いたお父さんは財産を分けて兄と弟に分けてやりました。そしてそれをもらった弟は、何日もたたないうちに、自分のものを何もかもまとめて家を出て行ったのです。そして遠い国、即ちお父さんに干渉されないところに行って、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまったのです。しかし、そのような生活は長続きできず、彼は何もかも使い果たしてしまいました。さらにその国に大きなききんが起こり、彼は食べるものさえない、大変な状況になりました。そんな彼を助けてくれる人は一人もなく、お腹が空いて豚の餌であるいなご豆でも食べたいと思いましたが、それさえ与えてくれる人がなかったのです。
 そういう悲惨な状況にあった時、彼は我に返ってお父さんのところの豊かさを思い出しました。そしてお父さんのところに帰って、神様に対してお父さんに対して罪を告白しようと思ったのです。その後、彼はお父さんのところに帰ってその通りにやりましたが、その帰ってきた息子を見つけたお父さんは彼を大変ん喜び、彼を迎え入れてくださったのです。私たちの父なる神様のそばにいることの喜びを覚えたいと思います。私たちがいるべきところは、自分勝手な道ではなく父なる神様のそばである、そこに真の豊かさと喜びがあると言うことを覚えたいと思います。

9月16日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「サウロの回心」                 使徒の働き9章1〜9節
 本日の本文は、使徒パウロの回心の出来事です。このパウロの回心はキリスト教においてとても大きな影響になった出来事です。パウロは新約聖書の27の書の中で13の書を書きまして、その中には神学的に、そして教理的に非常に重要な教えが多くあります。聖書だけではなく、世界宣教においてもパウロの役割と活動は非常に大きなものであります。そういうパウロですが、彼の回心前はどうたったでしょうか。本文の1節、2節によりますと、サウロは「なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて」いて、「この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった」とエルサレムから遠く腫れているダマスコまで行くほど情熱的でした。
 ところがそのようなサウロでしたが、神様はそのサウロをそのままに置かなかったのです。クリスチャン捕まえるために向かったダマスコの途上に、サウロは驚く経験をするようになります。それは、突然、天からの光に照らされ「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞くことでした。驚いたサウロはその場で倒れ、「主よ。あなたはどなたですか。」と聞きますと、その声は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と答えたことでした。このような経験をしたサウロは大きな衝撃を受けたと思います。目が見えなくなったサウロは人々の手に引かれてダマスコに入り、三日間、何も見えず、食べることも飲むこともしなかったのです。
 この三日間、サウロは何をしたでしょうか。何も見えなかったサウロは、飲み食いもしないで、自分に起こった出来事についてゆっくり考えてみたと思います。そしてその中で、自分の今まで考えていたことが間違ったことがわかり、イエスがキリストであることを信じるようになったのです。神様はこのようにして、大迫害者サウロを回心させてくださり、そしてあの偉大な伝道者にしてくださいました。この神様の不思議な力を覚えて、私たちに与えられた救いを感謝し、宣べ伝えるものになりたいと思います。

9月9日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「見つけられる恵み」             ルカの福音書15章1〜10節
 本日の本文にはなくしたものを見つけた時の持ち主の喜びについてのたとえ話が書いてあります。このルカの福音書15章には三つのたとえ話がありますが、4〜7節は「いなくなった一匹の羊」、8〜10節は「なくした銀貨一枚」そして11節以降には有名な「放蕩息子」のたとえ話があります。このような三つのたとえ話の共通点は、何かをなくしたということです。羊飼いは一匹の羊を、女性は銀貨一枚を、お父さんは愛する息子をなくします。しかし、そのなくしたことで終わってしまうことではなく、そのなくしたものを再び見つけてもとのところに帰ってきます。そのようなたとえ話の中で強調されていることは、なくしたものを必死に捜す持ち主の姿、そしてそれを見つけるためにどれほど努力するのか、また見つけた時の喜びがどれほど大きなものなのか、ということです。
 その一つ目は4〜7節では、ここにはいなくなった一匹の羊のたとえ話が書いてあります。非常に有名な内容ですが、ここで描かれていることは、いなくなった一匹の羊を捜すために歩き回る羊飼いと、その一匹の羊を見つけた時に大喜びで帰ってくる羊飼いです。少し離れたところやそこら辺を捜してみていなければ言えて帰ってしますことではなく、必死に見つけるまで捜し、見つけた時には大きく喜ぶ羊飼いです。そして8〜9節ではなくした銀貨一枚を捜す女性の話しです。ここにおいてもその女性は「あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜す」のでした。また、銀貨一枚なのですが、それが見つかった時、羊飼いを同じように大きく喜ぶ姿が書いてあります。
 このようなたとえ話を通して私たちはまず、私たちを見つけてくださる神さまを覚えることができます。羊のようであって、いつもさまよい、自分勝手に行ってします私たちを神様は見つけてくださるのです。そしてそんな私たちさえも喜んでくださる神さまです。私たちはこのような神様のことを覚えて力と励ましを頂きたいと思います。

9月2日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「罪を見過ごしてくださる神」         Ⅱサムエル記12章7−13節
 本日の本文はあの偉大なダビデが、あの信仰深いダビデが罪を犯してしまった、ということがナタンによって暴露される内容です。その罪というのは、本文のすぐ前の11章に書いてあるダビデの姦淫と殺人の罪です。ある日、王宮の屋上を歩いていたダビデは、一人の女性が体を洗っているのを見ました。彼女について調べたら、自分の部下ウリヤの妻であることが分かりましたが、ダビデは彼女を自分のとろこに呼び、姦淫の罪を犯します。その後、彼女がみごもったことを知り、それを隠すためにウリヤを家に帰らせますがダビデの思う通りに行かず失敗してしまいます。結局、ダビデはウリヤを最も激しい戦場に送り、ウリヤが死ぬようにしました。その後、ウリヤの妻、バテシェバを迎え入れ、ダビデの姦淫と殺人の罪はそのまま隠されるようです。
 しかし、そのすべてを神様はご覧になっておられ、ダビデのところにナタンを遣わし、その罪を指摘します。ナタンは一つのたとえ話を通してダビデの罪が死刑になる程、深刻なことだということをダビデに告げます。そしてダビデの罪がどんことなのか、詳しく説明しますが、それは「あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。」ということでした。そこまでダビデは自己弁明をしていたかもしれません。自分の罪の責任を他の人のせいにして、自分は悪くないのだ、と思っていたかもしれません。しかし、そのダビデに神様がダビデの罪を指摘し、罪を教えてくださったのです。
 その話を聞いたダビデはすぐに「私は主に対して罪を犯した。」と自分の罪を認め告白しました。そしてそのようなダビデに対して神様は「あなたの罪を見過ごしてくださった。」と赦しを与えてくださったのです。神様がダビデの罪を指摘し、罪を悟るようにしてくださった理由は他ではなく、その罪を赦してくださるためでした。私たちが何か罪を犯してしまった時、それを知りましたら、このような赦しの神様のことを覚えて悔い改めましょう。私たちの罪を赦してくださる神様、その神様が喜ばれる道を歩んでいく者になりたいと思います。

8月26日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「辱められることの恵み」            使徒の働き5章33〜42節
 本日の本文には、福音を伝えたことによって殺される危機に置かれた使徒たちの姿が出てきます。使徒たちは、ペンテコステの出来事の後、宮でイエス様がキリストであることを教え、病人を癒したり悪霊を追い払ったりしました。それに対するサンヘドリン議会の対応は、最初は軽い方でしたが、それも段々大変なものになりました。そんな中で、本日の本文は使徒たちが議会において尋問される場面ですが、使徒たちの答弁を聞いていた議会は、怒り狂って使徒たちを殺そうとまで思ったのです。
 その時、議会の中にいたガマリエルという人物が立ち、使徒たちを外に出させて議会の方にゆっくり考えてみた方が良いのではないか、という提案をしました。ガマリエルは、すべての人に尊敬されている律法学者でパリサイ人でした(34節)。彼は昔のパウロの先生でもありまして、当時イスラエルの中で最も尊敬される人物でした。そのようなガマリエルはチェダとガリラヤ人のユダという過去の二人の実例を取り上げて使徒たちのことから手を引き、放っておきなさい、ということを提案します。彼の意見は、もし、今の騒ぎが人からのものだったら自滅してしまい、神様からのものだったら彼らを滅ぼすことはできない、と話します。
 このようなガマリエル提案は正しいこととは思えないことですが、神様はそれを用いてくださり、議会から使徒たちが釈放されるようにしてくださいます。その釈放される際に、使徒たちはムチで打たれ、イエスの名によって語ってはならない、と言われます。しかし使徒たちはそんな大変なことをも喜びならが帰り、再び、毎日、イエス様がキリストであることを宣べ伝え続けました。福音を伝えること、聖書の教えや十字架の出来事を他の人々に伝えることは大変難しいことです。それを伝えた時、変えて来る反応が冷たいことでしたら、その後はもっと伝えづらくなります。しかし、福音を伝えることは私たちに与えられた恵みです。たとえ、辱められることがあるとしても助けてくださる神様のことを覚えて、福音を語り続ける者になりたいと思います。

8月19日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「助けてくださる神様」             使徒の働き5章17-32節
 イエス様が天に上られた後、一か所に集まっていた弟子たちは聖霊に満たされる不思議な経験をします。そしてその後、聖霊の力によって多くの弟子たちは人々に福音を伝え、色々な奇跡を行ないます。ペテロの説教によってある時は三千人の人々が、ある時は五千人の人々が悔い改め、洗礼を受け、教会に加わります。また、使徒たちはイエス・キリストの名によって病人を癒したりしますが、そのような彼らの噂は広く広がり始めました。当時、多くの人々は彼らを尊敬していました(使徒5:13)。そしてその時の姿をルカは「エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた」と説明しています(使徒5:16)。
 そんな中で使徒たちの姿を喜ばない人々がいました。本文の17節に「そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり」とありますが、等々、使徒たちを捕らえ、留置場に入れてしまいました。今までエルサレムのクリスチャンは多くの人々からは尊敬され、色々な奇跡を行ない、益々増え続けて来ました。しかし、大祭司とその仲間たちによって使徒たちが牢屋に入れられたという大変な状況に置かれるようになったのです。
 その時、神様は神の民を不思議な方法で助け守り、導いて下さいます。先ず、神様は不思議な方法で使徒たちを牢屋から連れ出してくださいました。留置場には門の前に番人がいましたが、彼らが知らない内に主の使いによって外に連れ出されました。また、神様は彼らに聖霊を与えてくださり、使徒たちを助け導いてくださいます。使徒たちは再び大祭司たちの前に連れて来られますが、その時、彼らに対して「人に従うより、神に従うべきです。」と答え、大胆に福音を伝えました。このような姿は聖霊が助けて下さっているからです。神様はご自分に従おうとする人々をある時は不思議な力で助けて下さり、聖霊を通して守り導いて下さいます。私たちもどんな状況の中でも、そのような神様を信じ、神様に従う道を選んで歩んで行く者になりたいと思います。