礼拝メッセージ要旨

9月22日(日)礼拝メッセージ要旨        吉村直紀牧師

 

「問題を通して深められる絆」        使徒の働き16章11−40節
使徒の働きより、最初のヨーロッパ伝道であるピリピでのお話。私たちの人生に問題や困難は付き物だが、“問題の信仰的な捉え方”が重要。「神様はこの問題を通して、私に何を教えようとしておられるのか?」と御心を求め、御声を聞く時、私たちはキリストに似た者にされる聖化の歩みをしていく。
ピリピはギリシャ文化の色濃い異教の地だったが、紫布商人ルデヤ(リディア)が主を信じクリスチャンとなる。かくして、産声を上げたピリピ教会だが、早々にパウロらは、占いの霊に憑かれた女から悪霊を退散させたため、儲けを失った女の主人たちから逆恨みを受け、ついに投獄されてしまう。
鞭打たれ牢獄の中でもパウロ達は神を賛美した。神はパウロらの賛美に応えられ、大地震により全ての囚人は解放された。任務の不履行を悟り牢獄の看守は自害を試みるが、何と全ての囚人はそこに残っていた。主の真実の力に悔い改めた看守は、本人もその家族も皆救われた。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」。これは大きな励ましの言葉。無実の罪であったパウロらは翌日解放され、ピリピ教会の人たちを励まし町を後にする。
「共に問題を乗り越えることを通して深められる絆」がある。ピリピ教会はその後、神の家族としてパウロらの宣教を祈り・物質・金銭面で大きくサポートする。パウロは彼らの事を思い、獄中でも感謝と喜びで満たされた。共に主の奇跡を味わい、苦労を乗り越えた事は、順風満帆な時以上に彼らの絆を深めた。人生には、「どうして私にこの様な事が」という事が起こる。しかし、それは私たちがさらに主にあって練られ霊的成長するための好機。私たちはキリストのために、信仰だけでなく、苦しみをも賜っている。
「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」 ピリピ1:29。

9月15日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「マリヤの信仰」              マルコの福音書14章1~9節
イエス様のエルサレムへの旅も目的地のすぐ前まで至りました。平行箇所であるヨハネの福音書12章によりますと、この日は土曜日でありまして、このベタニヤで止まってからイエス様は日曜日にエルサレムに入られます。エルサレムに入る前日、イエス様はシモンというに人の家で食事をするとこになりました。食事のために集まり、食卓についていた時、「ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。」のです。
この時、ヨハネの福音書によりますと、マルタとマリヤ、ラザロも共にいましたが、イエス様の頭に香油を注いだ「ひとりの女」はマリヤでした。マリヤがイエス様に注いだ香油は「純粋で、非常に高価なナルド油」と書いてありますが、後からの弟子たちの話しを見ますと300デナリ以上で売ることが出来るものでした。300デナリとは、300日分の給料にあたりまして、当時の1年間の収入とも言える大きな金額でした。そのように高額な香油を一気に使ってしまったマリヤの姿を見た反応は二つがありました。マリヤの姿をみた弟子たちは、それをもったいないと思い、憤慨してマリヤを厳しく責めました。しかしイエス様は「わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」と話されます。
何故、マリヤはこのようなことをやったのでしょうか。どうしてこのようなことができたことでしょうか。それはイエス様を愛する心からのことだと思います。愛するイエス様のために、自分が持っているものの中で一番大切にしていた高価なナルドの香油を、イエス様のために使ったことです。そしてそれは十字架の出来事を前にしているイエス様においては「埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれた。」ことになったのです。私たちもマリヤのように、自分の最も大切なもの、人生そのものをイエス様のために使いたいとも思います。私たちのためにご自分のいのちを惜しまずに捧げてくださったイエス様の愛に応えて歩んで行く者になりたいと思います。

9月8日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「小さなことにも忠実に」           ルカの福音書19章11~27節
弟子たちやイエス様についていた多くの人々は、イエス様がエルサレムに近づくことによって、大きな期待を抱くようになります。それはイエス様によってユダヤ民族がローマ帝国から解放され、世界で最も優れた民族となることです。そう思っていた人々に、ザアカイの家でのイエス様の発言「きょう、救いがこの家に来ました。」ということは、自分たちが思うようなことが起こるだろうという期待感をもっと強くすることでした。それで多くの人々は「神の国がすぐにでも現われるように思っていた」のです。ここまでイエス様が行って来られた数多くの奇跡、教えて来られたこと、さらに過越の祭という時期のことまで。この時、弟子たちを含めて多くの人々はイエス様がエルサレムに入られると、すぐに神の国が現れると思っていたのです。
そのように思っていた人々にイエス様は十ミナをしもべたちに預けた主人のたとえ話を話してくださいます。ある身分の高い人が王位を受けるために遠い国に行きます。その時に、彼は10人のしもべたちを呼んで、一ミナずつを与え、「私が帰るまで、これで商売しなさい。」と話しました。そして主人が帰ってきまして「金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い」しもべたちを呼びました。3人のしもべたちが出てきますが、その中で二人は十ミナと5ミナを儲けたと主人に話し、それに対する報いをもらえました。しかし、一人のしもべは「私はふろしきに包んでしまっておきました。あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。」と報告し、このしもべは1ミナをも取られてしまいました。
主人が遠い国に行って帰ってきたように、イエス様の再臨も遠いことです。しかし、主人か帰ってきたように、その再臨は必ずあることで、その時まで信仰者である私たちにはあることが命じられているのです。それはイエス様の教えに忠実に従い、それを実践し証しする生き方なのです。やがて来られるイエス様のことを覚えまして私たちに与えられた救いの喜びを証しして歩んで行きたいと思います。

9月1日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「神のくすしい御業に」               詩篇107篇1〜7節
本日の本文である詩篇107篇は4つの段落に分けることができます。各段落は色々な苦しみについて書かれていまして、各段落ことに「彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。」という同じ表現が書かれています。その中で語られている苦しみは、この世の中で経験することがあるようなことでありまして、その苦しみの中においても「主の恵みと、人の子らへの奇しいわざ」を覚えて神様に感謝せよ、と語りかけている詩篇です。特に色々な苦しみのことを話しながら主に感謝せよ、という言葉を繰り返しています。それはどんな状況においてもそして神様だけに感謝せよということを強調していることだと思います。
そんな中で4〜7節では荒野での苦しみについて話しています。出エジプトの後、イスラエレの民が荒野でさまよったことを描いています。苦しみの中で彷徨い、荒野の中でどこに行くべきなのか、その道さえも分からない状況。その中で飢えと渇きによってますます苦しくなる、肉体的な苦しみとその魂までも衰え果ててしまう状態でした。このような姿は、私たちの人生そのものではないかと思います。苦しみに溺れて、進むべき方向も見失い、生きる希望さえ持てなくなる。時に私たちはそのような苦しみの道を通ることがあります。
そのような苦しみの中で信仰者はどうしたら良いでしょうか。6節に「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」とありますように、神様に叫び祈らなければならないと思います。そのように祈る時に神様は、まっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせてくださるのです。その神様の恵みとくすしい御業を覚えて神様に感謝せよと詩人は語りかけているのです。苦しみの中においても私たちを助け出してくださる神様、その神様が私たちを真っ直ぐな道へと導いてくださることを覚えて生きる限り神様を賛美する者になりたいと思います。

8月11日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「目が見えるように」     ルカの福音書 18章35〜43節
イエス様と弟子たちのエルサレムへの旅も、その目的地が近づいてきました。イエス様は31節で「これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。」と弟子たちに話されました。そして本日の本文では「エリコに近づかれたころ」とエルサレムの前の町まで来られ、エルサレムまでが遠くないということが分かります。そこでイエス様は一人の目の見えない人に出会うようになりますが、彼は「道ばたにすわり、物ごいをして」いました。 毎日のように同じ場所にすわり、自分の前を通る人々に「助けてください」と物乞いをし、その時もらう物で生きていました。この日も同じところにすわり、通りかかる人々に助けを求めていたことでしょう。
この時は過越の祭りが近づいた頃でありましてエルサレムに向かう人々は普段より多かったと思われます。ところが、多くの人々が通る時期と思っていても普段とは違う雰囲気を感じたことでしょうか、彼は「これはいったい何事か」と尋ねました。すると「ナザレ人イエスがお通りになるのだ」という返事をキキマシタ。それを聞いた彼は、大声で「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と言いました。
そこにいた人々は彼を黙らせようとしましたが、彼はますます大きな声で叫びました。その叫びを聞かれたイエス様は立ち止まり、彼を連れて来るようにして「わたしに何をしてほしいのですか」と尋ねられました。すると、その盲人は「主よ、目が見えるよううにしてください。」と答えたのです。イエス様は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」と話されました。すると、彼は目が見えるようになり、神様を崇め、イエス様について行きました。盲人の叫びを聞いてくださり、彼の願いを成し遂げて下さったイエス様。私たちもそのイエス様を見上げて、素直に心の中にあるねがいを祈り求めることが出来る様になりたちと思います。私たちの霊的な目が見えるようになり、神様を賛美しながらイエス様についていく者になりたいと思います。

8月4日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「神とともにいる旅人」            詩篇39篇1〜6節
人生を真剣に考えるようになるきっかけはどのようなことがあるでしょうか。色々なことがあると思いますが、多くの場合は自分の死を直視した時に、または死を認識した時ではないか、と思います。しかし、人々は死ということについては関心もなければ、死について話すことも嫌がってその内容から避けます。死ということは誰にも必ず訪れることです。今も私たちに向かって近づいています。それ以上確実な現実はないのに、多くの人々は死について考えず準備もしません。しかし、死を認識する時、人々は自分の人生をより真剣に考え、より意味深く生きていくことができると思います。本日の本文である詩篇39篇の背景は、ダビデの晩年に死を前にして書いたものだと考えられます。自分の人生を振り替えて見ながら、神様のみ前で悔い改める詩だと思われます。
ダビデは幼い時からイスラエルの王になるまで紆余曲折がありました。色々な経験を経ってからイスラエルの王になったダビデでしたが、王様としての40年間も決して平坦な道ではありませんでした。そのような人生を生きてきたダビデは自分の死を前にした時に、その人生について真剣に考えるようになったことだと思います。そんな中でダビデは自分の人生について「あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。」と告白します。人生において時には花が咲くように栄える時もあれば「草はしおれ、花は散る」時もあります。そんな中で信仰者である私たちは、私たちの人生は旅人のようであることを覚えて、最善を尽くして生きていかなければならないと思います。
そして永遠を準備しなければなりません。私たちの人生は手幅ほどくらいの短いものですが、しかし神様とともにいる時、希望があり永遠の命が与えられます。人生のはかなさを知り、神様に望みをおいて生きていくこと、これは信仰者である私たちに与えれた祝福だと思います。旅人のような人生、しかし、神様がともにいてくださることを覚えまして感謝と喜びの中で歩んで行きたいと思います。

7月28日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「イエス様と共に行く」 ルカの福音書18章31〜34節
本日の本文は、イエス様の受難の予告の内容です。イエス様の受難の予告は3回出てきますが、その中で3回目になります。ところが、その話しを聞いていた弟子たちの反応は「何一つ分からなかった」ということでした。イエス様はご自分の受難について、弟子たちに3回も話しましたが、弟子たちはそれについて何一つ分からなかった、というのはどういうことでしょうか。本文に出てくる弟子たちの反応と、その弟子たちに対するイエス様のことの考えて見たいと思います。
先ず、イエス様は弟子たちに「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。」話されました。この時は、すでにエリコの町に近づいていまして、19章の後半では「宮に入られた」という表現がありまして、もうすぐエルサレムに入られるところでした。そしてそのエルサレムでイエス様を待っていたのは、十字架の苦しみであります。十字架の苦しみというのは、イエス様にとっても大変なことでありまして、ゲツセマネの園でのお祈りのお姿を考えて見ますと良く分かります。イエス様はそのことを覚えて弟子たちにこれからの事を真剣に話された思われます。そして以前の2回より、受難について詳しく話してくださることでした。
ところがそれを聞いていた弟子たちの反応は「何一つ分からなかった」ということでした。何故弟子たちは何一つ分からなかったのでしょうか。それは弟子たちが持っていたメイヤ像が正しくなかったからだと思います。それは、イエス様のことを政治的、軍事的メシヤだと思い、イエス様によりイスラエルが解放されると思っていました。ですから、幾らイエス様はご自分の受難について弟子たちに話されても、弟子たちはそのようなことは起こるはずがない、と思っていたことだと思います。しかし、このような弟子たちにイエス様は、エルサレムに共に行くことを話してくださいます。それは、将来、弟子たちが復活の証人として歩んで行くことを覚えてのことだと思います。そしてイエス様は、私たちにも共に行こうと話ししてくださいます。そのイエス様に励まされて証人としての道を歩んで行きたいと思います。

6月30日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「わたしの食物とは」             ヨハネの福音書4章27〜34節
本日の本文は「このとき」と始まっていますが、それはイエス様とサマリヤの女性が話しをしているとき、ということです。エルサレムからガリラヤに行かれるイエス様は、サマリヤのスカルという町に着いたとき、ヤコブの井戸というところで休まれました。そのとき弟子たちは食物を買いに町に入った間に、イエス様はサマリヤの女性と話しをしておられましたが、そのとき、弟子たちが町から帰って来たことでした。
町から帰って来た弟子たちは、イエス様がサマリヤの女性と話しをしておられる姿を見て「不思議に思った」と書いてあります。新改訳2017では「驚いた」と翻訳していますが、当時は男女が会話をすることはタブー視されることでありまして、それもユダヤ人であるイエス様とサマリヤの女性を会話をするということは普通ではありませんでした。それで弟子たちは27節に書いてありますように「何を求めておられるのですか」とか「なぜ彼女と話しておられるのですか」とは言わなかったことでしたが、弟子たちにとっては驚くほど不思議な姿であったのです。
そして弟子たちはイエス様に食事を進めましたが、イエス様は弟子たちに「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」と言われました。それが理解出来ず互いに話ししている弟子たちにイエス様は「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」と教えてくださいました。そしてヨハネ6:39によりますと、神様のみこころはイエス様に与えてくださったすべての者を、ひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。ですから、イエス様がサマリヤの女性に福音を伝えてくださったことも、また彼女の話しを聞いて町から出てきた多くのサマリヤ人たちに福音を伝えたことも、また十字架の出来事も神様のみこころなのです。私たちもイエス様に学び、主の食物を求め、福音を宣べ伝えるものになりたいと思います。

6月23日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「子どものように」              ルカの福音書18章15〜17節
ルカの福音書18章には色々はたとえ話とイエス様の教えが出てきます。1〜8節には不正な裁判官とやもめのたとえ話」、9〜14節には「パリサイ人と取税人のたとえ話」がありまして、本日の本文では神の国を受け入れる者についての教えが出てきます。そして本文以降ではある役人との会話とイエス様の3回目の受難予告が出てきます。非常に多様な内容と教えが与えられていますが、一つの共通点がありましたら、それは何でしょうか。それは当時のユダヤ人たちが持っていた常識をひっくり返すような教えであるということです。たとえ話や教えの結論は、その時、話しを聞いていた人々や弟子たちの考え方をひっくり反すものでありました。それから、神様との関係は当時のユダヤ人たちは弟子たちが持っていた考え方や基準とは違うということがわかります。
やもめの弱さや貧しさが、そして取税人の罪深さが神様との関係に悪い景況を与えることではありませんでした。かえって、私たちの目には道徳的に非常に正しく神様の律法を徹底的に守っていたパリサイ人の姿が神様との関係には全く役に立たないものでありました。それは本文においても同じことが言えるところです。人々は、イエスにさわっていただこうとして幼子たちをみもとに連れて来ました。その姿を見た弟子たちは「それをしかった。」と書いてあります。弟子たちが、何故しかったのかは書いてないもので正確にはわかりませんが、おそらく弟子たちはそれが相応しくないと思ったと思います。しかし、イエス様は弟子たちに「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」と、そして「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」と語られました。この「子どものように」ということは、自分の弱さを覚えて神様に憐れみを求め、神様に頼り、神様を信頼することです。私たちも子どものように神様に信頼し、神様の教えに従って歩むものになりたいと思います。

6月16日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「聖霊と信仰に満ちている者」        使徒の働き 11章19-26節
本日の本文は、アンテオケの教会の始まりと言われている箇所です。ペンテコステの後、エルサレム教会が始まりましたが、しかし使徒の働き10章までのエルサレム教会、又は福音伝道はユダヤ人を対象にしてエルサレムを中心として行なわれました。コルネリオに出会ったペテロは「ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりすることは、律法にかなわない」と話しましたが、ユダヤ人にとって神様のみことばを異邦人に伝える、そして異邦人が救われるということは考えられないことでした。しかし、ペテロはコルネリオとの出会いを通して「どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられる。」と異邦人の救いについて新しく分かるようになりました。
そのような福音の広がりの中で、ルカはアンテオケの教会の始まりを「ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は」と説明しています。使徒の働き7章でステパノが殉教し、エルサレムの教会に対する迫害は激しくなりました。それによって8章1節では、エルサレムの教会の信者たちがユダヤとサマリヤの諸地方に散らされたと書いてあります。そしてその時に散らされた信者たちは、もっと遠くへまで行きましたが、アンテオケまで至るようになったのです。そのアンテオケにキプロスとクレネ出身の信者たちも来るようになり、彼らはギリシャ語が話せることから、ギリシャ語を使う異邦人にも福音を伝えたのです。
その結果、大勢の人が信じて主に立ち返るようになりました。そしてこの知らせを聞いたエルサレムの教会は直ぐにバルナバをアンテオケに派遣しました。そのバルナバについてルカは「りっぱな人物で聖霊と信仰に満ちている人であった」と説明しています。彼は名前のように慰め深く良い人でした。そして聖霊に満ちていて伝道に熱心であり、信仰に満ちていて主の教えを守り実践する人でありました。私たちも聖霊と信仰に満ちていて証し出来る人生を生きて行きたいと思います。