礼拝メッセージ要旨

9月1日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「神のくすしい御業に」               詩篇107篇1〜7節
本日の本文である詩篇107篇は4つの段落に分けることができます。各段落は色々な苦しみについて書かれていまして、各段落ことに「彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。」という同じ表現が書かれています。その中で語られている苦しみは、この世の中で経験することがあるようなことでありまして、その苦しみの中においても「主の恵みと、人の子らへの奇しいわざ」を覚えて神様に感謝せよ、と語りかけている詩篇です。特に色々な苦しみのことを話しながら主に感謝せよ、という言葉を繰り返しています。それはどんな状況においてもそして神様だけに感謝せよということを強調していることだと思います。
そんな中で4〜7節では荒野での苦しみについて話しています。出エジプトの後、イスラエレの民が荒野でさまよったことを描いています。苦しみの中で彷徨い、荒野の中でどこに行くべきなのか、その道さえも分からない状況。その中で飢えと渇きによってますます苦しくなる、肉体的な苦しみとその魂までも衰え果ててしまう状態でした。このような姿は、私たちの人生そのものではないかと思います。苦しみに溺れて、進むべき方向も見失い、生きる希望さえ持てなくなる。時に私たちはそのような苦しみの道を通ることがあります。
そのような苦しみの中で信仰者はどうしたら良いでしょうか。6節に「この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。」とありますように、神様に叫び祈らなければならないと思います。そのように祈る時に神様は、まっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせてくださるのです。その神様の恵みとくすしい御業を覚えて神様に感謝せよと詩人は語りかけているのです。苦しみの中においても私たちを助け出してくださる神様、その神様が私たちを真っ直ぐな道へと導いてくださることを覚えて生きる限り神様を賛美する者になりたいと思います。

8月11日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「目が見えるように」     ルカの福音書 18章35〜43節
イエス様と弟子たちのエルサレムへの旅も、その目的地が近づいてきました。イエス様は31節で「これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。」と弟子たちに話されました。そして本日の本文では「エリコに近づかれたころ」とエルサレムの前の町まで来られ、エルサレムまでが遠くないということが分かります。そこでイエス様は一人の目の見えない人に出会うようになりますが、彼は「道ばたにすわり、物ごいをして」いました。 毎日のように同じ場所にすわり、自分の前を通る人々に「助けてください」と物乞いをし、その時もらう物で生きていました。この日も同じところにすわり、通りかかる人々に助けを求めていたことでしょう。
この時は過越の祭りが近づいた頃でありましてエルサレムに向かう人々は普段より多かったと思われます。ところが、多くの人々が通る時期と思っていても普段とは違う雰囲気を感じたことでしょうか、彼は「これはいったい何事か」と尋ねました。すると「ナザレ人イエスがお通りになるのだ」という返事をキキマシタ。それを聞いた彼は、大声で「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と言いました。
そこにいた人々は彼を黙らせようとしましたが、彼はますます大きな声で叫びました。その叫びを聞かれたイエス様は立ち止まり、彼を連れて来るようにして「わたしに何をしてほしいのですか」と尋ねられました。すると、その盲人は「主よ、目が見えるよううにしてください。」と答えたのです。イエス様は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」と話されました。すると、彼は目が見えるようになり、神様を崇め、イエス様について行きました。盲人の叫びを聞いてくださり、彼の願いを成し遂げて下さったイエス様。私たちもそのイエス様を見上げて、素直に心の中にあるねがいを祈り求めることが出来る様になりたちと思います。私たちの霊的な目が見えるようになり、神様を賛美しながらイエス様についていく者になりたいと思います。

8月4日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「神とともにいる旅人」            詩篇39篇1〜6節
人生を真剣に考えるようになるきっかけはどのようなことがあるでしょうか。色々なことがあると思いますが、多くの場合は自分の死を直視した時に、または死を認識した時ではないか、と思います。しかし、人々は死ということについては関心もなければ、死について話すことも嫌がってその内容から避けます。死ということは誰にも必ず訪れることです。今も私たちに向かって近づいています。それ以上確実な現実はないのに、多くの人々は死について考えず準備もしません。しかし、死を認識する時、人々は自分の人生をより真剣に考え、より意味深く生きていくことができると思います。本日の本文である詩篇39篇の背景は、ダビデの晩年に死を前にして書いたものだと考えられます。自分の人生を振り替えて見ながら、神様のみ前で悔い改める詩だと思われます。
ダビデは幼い時からイスラエルの王になるまで紆余曲折がありました。色々な経験を経ってからイスラエルの王になったダビデでしたが、王様としての40年間も決して平坦な道ではありませんでした。そのような人生を生きてきたダビデは自分の死を前にした時に、その人生について真剣に考えるようになったことだと思います。そんな中でダビデは自分の人生について「あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。」と告白します。人生において時には花が咲くように栄える時もあれば「草はしおれ、花は散る」時もあります。そんな中で信仰者である私たちは、私たちの人生は旅人のようであることを覚えて、最善を尽くして生きていかなければならないと思います。
そして永遠を準備しなければなりません。私たちの人生は手幅ほどくらいの短いものですが、しかし神様とともにいる時、希望があり永遠の命が与えられます。人生のはかなさを知り、神様に望みをおいて生きていくこと、これは信仰者である私たちに与えれた祝福だと思います。旅人のような人生、しかし、神様がともにいてくださることを覚えまして感謝と喜びの中で歩んで行きたいと思います。

7月28日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「イエス様と共に行く」 ルカの福音書18章31〜34節
本日の本文は、イエス様の受難の予告の内容です。イエス様の受難の予告は3回出てきますが、その中で3回目になります。ところが、その話しを聞いていた弟子たちの反応は「何一つ分からなかった」ということでした。イエス様はご自分の受難について、弟子たちに3回も話しましたが、弟子たちはそれについて何一つ分からなかった、というのはどういうことでしょうか。本文に出てくる弟子たちの反応と、その弟子たちに対するイエス様のことの考えて見たいと思います。
先ず、イエス様は弟子たちに「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。」話されました。この時は、すでにエリコの町に近づいていまして、19章の後半では「宮に入られた」という表現がありまして、もうすぐエルサレムに入られるところでした。そしてそのエルサレムでイエス様を待っていたのは、十字架の苦しみであります。十字架の苦しみというのは、イエス様にとっても大変なことでありまして、ゲツセマネの園でのお祈りのお姿を考えて見ますと良く分かります。イエス様はそのことを覚えて弟子たちにこれからの事を真剣に話された思われます。そして以前の2回より、受難について詳しく話してくださることでした。
ところがそれを聞いていた弟子たちの反応は「何一つ分からなかった」ということでした。何故弟子たちは何一つ分からなかったのでしょうか。それは弟子たちが持っていたメイヤ像が正しくなかったからだと思います。それは、イエス様のことを政治的、軍事的メシヤだと思い、イエス様によりイスラエルが解放されると思っていました。ですから、幾らイエス様はご自分の受難について弟子たちに話されても、弟子たちはそのようなことは起こるはずがない、と思っていたことだと思います。しかし、このような弟子たちにイエス様は、エルサレムに共に行くことを話してくださいます。それは、将来、弟子たちが復活の証人として歩んで行くことを覚えてのことだと思います。そしてイエス様は、私たちにも共に行こうと話ししてくださいます。そのイエス様に励まされて証人としての道を歩んで行きたいと思います。

6月30日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「わたしの食物とは」             ヨハネの福音書4章27〜34節
本日の本文は「このとき」と始まっていますが、それはイエス様とサマリヤの女性が話しをしているとき、ということです。エルサレムからガリラヤに行かれるイエス様は、サマリヤのスカルという町に着いたとき、ヤコブの井戸というところで休まれました。そのとき弟子たちは食物を買いに町に入った間に、イエス様はサマリヤの女性と話しをしておられましたが、そのとき、弟子たちが町から帰って来たことでした。
町から帰って来た弟子たちは、イエス様がサマリヤの女性と話しをしておられる姿を見て「不思議に思った」と書いてあります。新改訳2017では「驚いた」と翻訳していますが、当時は男女が会話をすることはタブー視されることでありまして、それもユダヤ人であるイエス様とサマリヤの女性を会話をするということは普通ではありませんでした。それで弟子たちは27節に書いてありますように「何を求めておられるのですか」とか「なぜ彼女と話しておられるのですか」とは言わなかったことでしたが、弟子たちにとっては驚くほど不思議な姿であったのです。
そして弟子たちはイエス様に食事を進めましたが、イエス様は弟子たちに「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」と言われました。それが理解出来ず互いに話ししている弟子たちにイエス様は「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」と教えてくださいました。そしてヨハネ6:39によりますと、神様のみこころはイエス様に与えてくださったすべての者を、ひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。ですから、イエス様がサマリヤの女性に福音を伝えてくださったことも、また彼女の話しを聞いて町から出てきた多くのサマリヤ人たちに福音を伝えたことも、また十字架の出来事も神様のみこころなのです。私たちもイエス様に学び、主の食物を求め、福音を宣べ伝えるものになりたいと思います。

6月23日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「子どものように」              ルカの福音書18章15〜17節
ルカの福音書18章には色々はたとえ話とイエス様の教えが出てきます。1〜8節には不正な裁判官とやもめのたとえ話」、9〜14節には「パリサイ人と取税人のたとえ話」がありまして、本日の本文では神の国を受け入れる者についての教えが出てきます。そして本文以降ではある役人との会話とイエス様の3回目の受難予告が出てきます。非常に多様な内容と教えが与えられていますが、一つの共通点がありましたら、それは何でしょうか。それは当時のユダヤ人たちが持っていた常識をひっくり返すような教えであるということです。たとえ話や教えの結論は、その時、話しを聞いていた人々や弟子たちの考え方をひっくり反すものでありました。それから、神様との関係は当時のユダヤ人たちは弟子たちが持っていた考え方や基準とは違うということがわかります。
やもめの弱さや貧しさが、そして取税人の罪深さが神様との関係に悪い景況を与えることではありませんでした。かえって、私たちの目には道徳的に非常に正しく神様の律法を徹底的に守っていたパリサイ人の姿が神様との関係には全く役に立たないものでありました。それは本文においても同じことが言えるところです。人々は、イエスにさわっていただこうとして幼子たちをみもとに連れて来ました。その姿を見た弟子たちは「それをしかった。」と書いてあります。弟子たちが、何故しかったのかは書いてないもので正確にはわかりませんが、おそらく弟子たちはそれが相応しくないと思ったと思います。しかし、イエス様は弟子たちに「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」と、そして「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」と語られました。この「子どものように」ということは、自分の弱さを覚えて神様に憐れみを求め、神様に頼り、神様を信頼することです。私たちも子どものように神様に信頼し、神様の教えに従って歩むものになりたいと思います。

6月16日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「聖霊と信仰に満ちている者」        使徒の働き 11章19-26節
本日の本文は、アンテオケの教会の始まりと言われている箇所です。ペンテコステの後、エルサレム教会が始まりましたが、しかし使徒の働き10章までのエルサレム教会、又は福音伝道はユダヤ人を対象にしてエルサレムを中心として行なわれました。コルネリオに出会ったペテロは「ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりすることは、律法にかなわない」と話しましたが、ユダヤ人にとって神様のみことばを異邦人に伝える、そして異邦人が救われるということは考えられないことでした。しかし、ペテロはコルネリオとの出会いを通して「どの国の人であっても、神を恐れかしこみ、正義を行なう人なら、神に受け入れられる。」と異邦人の救いについて新しく分かるようになりました。
そのような福音の広がりの中で、ルカはアンテオケの教会の始まりを「ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は」と説明しています。使徒の働き7章でステパノが殉教し、エルサレムの教会に対する迫害は激しくなりました。それによって8章1節では、エルサレムの教会の信者たちがユダヤとサマリヤの諸地方に散らされたと書いてあります。そしてその時に散らされた信者たちは、もっと遠くへまで行きましたが、アンテオケまで至るようになったのです。そのアンテオケにキプロスとクレネ出身の信者たちも来るようになり、彼らはギリシャ語が話せることから、ギリシャ語を使う異邦人にも福音を伝えたのです。
その結果、大勢の人が信じて主に立ち返るようになりました。そしてこの知らせを聞いたエルサレムの教会は直ぐにバルナバをアンテオケに派遣しました。そのバルナバについてルカは「りっぱな人物で聖霊と信仰に満ちている人であった」と説明しています。彼は名前のように慰め深く良い人でした。そして聖霊に満ちていて伝道に熱心であり、信仰に満ちていて主の教えを守り実践する人でありました。私たちも聖霊と信仰に満ちていて証し出来る人生を生きて行きたいと思います。

6月9日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「へりくだる者」               ルカの福音書18章9-14節
本日の本文では、1-8節までの不正な裁判官のたとえ話に続けて、パリサイ人と収税人のたとえ話をお話しくださいます。不正な裁判官のたとえ話でもそうでありましたが、イエス様はたとえ話を始められる前にたとえ話の対象についてはっきり教えてくださいます。9節をご覧になります「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対して」たとえ話に出て来るパリサイ人のことをもって教えてくださることです。ですから、本日の本文はパリサイ人への教えというより、パリサイ人のように「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たち」への教えになります。
先ず、このたとえ話には二人が出て来ますが、パリサイ人と収税人です。そしてこの二人は祈るために宮に上りますが、最初にパリサイ人の祈りが、その後収税人の祈りが出て来ます。その中でパリサイ人はこう祈りました。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」神様に感謝しますと祈りますが、その祈りの内容からは感謝のところか、他人と自分の事を比べて自分のことを誇り話しているだけでした。そして「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」と自分の行いをも誇っています。
一方、収税人の祈りはどうでしょうか。収税人は「遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて」こう祈りました。「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と。この収税人の祈りには他の人のことは出て来ません。只、神様の御前での自分のことを覚えて、神様の憐れみがなければ救われない罪人であることを告白し、神様に憐れみを求めているのです。神様の御前に立つ者として、へりくだって神様の憐れみを求めなければならない罪人であること。そのような私たちの罪を赦してくださり、義と認めてくださる神様を覚えて信仰の道を歩んで行きたいと思います。

6月2日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「最も大切な選択」                  イザヤ書8章1〜8節
本日の本文の内容は、南ユダのアハズ王の時の出来事です。イザヤ書7章1節によりますと、アハズ王の時、アラムと北イスラエルの連合軍が南ユダを攻撃して来ました。その時、南ユダは「王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した」のです。その時に、神様はイザヤを通してアハズ王に励ましと力になるみことばを語って下さいましたが、しかしアハズ王は神様のみことばを拒みました。それでも神様はイザヤを通して「インマヌエル」と、神があなたがたとともにいてくださることをも語ってくださいました。しかしアハズ王は神様のみことばに従わず拒み、アッシリアに助けを求め頼りました。
そのような中で神様はもう一度イザヤを通して「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」ということを語ってくださいます。このことばは「分捕り品は速やかだ」、「戦利品は急速だ」なとの意味でありまして、アラムと北イスラエルがアッシリアによって滅ぼされることを教えてくださったことです。また、このことばをイザヤの息子の名前としてつけるようになされ、それは早くかつ確実に起こることをアハズ王や南ユダの人々に教えてくださったのです。これはこの世界の本当の支配者は神様であられることを教えてくださることです。強い国であったアッシリアさえも神様のみことば通りになる、それを通して南ユダがアッシリアにではなく、神様に戻ってくることを求めておられたことだと思います。
しかし、アハズ王は自分の愚かな選択を変えませんでした。6節以降をご覧になりますと「ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして」「あの強く水かさの多いユーフラの水」を選びました。「ゆるやかに流れるシロアハの水」とは神様の恵みや神様の助けを表し、「あの強く水かさの多いユーフラの水」とはアッシリアを表します。結局、アハズ王は神様のみことばをないがしろにしてアッシリアを選択し、アッシリアに頼るということです。私たちはどうでしょうか。いつも神様のみことばに従う道を選び、その道を喜び歩んでいることでしょうか。ゆるやかに流れるシロアハの水のような神様の恵みと覚え、神様の御心に従う道を選び歩み続ける者になりたいと思います。

5月19日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「みな神様の前に出ている」           使徒の働き10章24〜35節
本日の本文は、使徒ペテロと百人隊長であるコルネリオとの出会いについてです。著者ルカはこの二人の出会いについて、使徒の働き10章を通して非常に詳しく説明しています。それほどユダヤ人であるペテロと異邦人であるコルネリオとの出会いは使徒の働きにおいては非常に重要な出来事であるためです。この二人の出会いにおいてはいくつかも不思議な出来事がありました。先ずは、コルネリオが祈りの中で幻を見るようになします。その幻の中でペテロを招きなさいと告げられますが、コルネリオはそのまま従いました。また、ペテロも幻を見ますが、天から大きな敷布のような入れ物が下りてきまして、それをほふって食べなさいと聞いたペテロでした。しかしペテロにとっては食べてはならないものが入ってありましたので、ペテロはそれを拒み、目を覚めてから幻の意味について思い惑っていました。
丁度、その時にコルネリオが送って人々はペテロのところにつきまして事情を説明して、その翌日ペテロと共にコルネリオの家に行きました。ペテロたちがコルネリオの家に着いてから見ますとコルネリオは親族や友人たちを呼び集めてペテロを待っていました。このようにしてペテロとコルネリオは出会うようになりますが、そこで私たちはこのふたりの謙遜な姿と神様のみことばに従う姿を学ぶことが出来ます。ローマの百人隊長のコルネリオがユダヤ人を招くことも普通ではないし、ユダヤ人のペテロが異邦人の招きに応じてその家に訪ねることも普通ではありません。ところが、二人は神様のみことばに従ったのです。それも二人はその目的は分からないことでしたが、それでも神様のみことばに従いました。
このような二人の従順な姿を神様は用いてくださり、ペテロには異邦人の救いについて、そしてコルネリオには福音を語ってくださったのです。私たちも神様のみ前に出ている者として、そのみことばに従い歩むことができるようになりたいと思います。