礼拝メッセージ

10月2日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神にある喜びの人生」           ルカの福音書5章33~39節

「だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。」(ルカ5:39)誰でも熟成した古酒をさしおいて新酒を飲むものはありません。古酒は口当たりがよく、まろやかな味がします。それに反して新酒はなじまないのです。だから古いものに慣れている人間は、なかなか新しいものを受け入れることができません。主イエスのこの言葉を通して、バプテスマのヨハネの弟子たち、パリサイ人たちの信仰生活の在り方を見事に言い当てておられます。彼らは伝統、習慣、因習にしばられておりました。ヨハネの弟子たちは、師ヨハネに倣って、よく断食をしました。パリサイ人は伝統を重んじ、特に施し、祈り、断食、安息日、食事等の律法を厳しく守り行うことによって、最終的な救いに至ると信じておりました。彼らのこのような在り方を「律法的な信仰」と呼ぶことができます。この律法的な信仰が問題なのは、信仰の歩みがいつも「ある基準」に達しているかどうかに一番関心を持っているために、心の内面よりも表面的、外面的なことに気をとられてしまうことです。また他者に対しても批判的になります。「ある基準」に従って、それに達しているかどうかで善し悪しを判断するからです。さらに罪の赦しを信じていながら、心の深いところでは実感できていないことです。それゆえ、どんなに熱心に主に仕えても、信仰的に成長しません。その信仰生活には真の喜びが感じられないからです。「ある基準」が、彼ら自身をも裁くからです。そのような彼らに対して主イエスは、花婿なるキリストと結ばれる時、赦された喜び、交わりの喜び、奉仕の喜びを味わうことができるのだと宣言されるのです。彼らが強調している「悔い改め」とは、罪を悔いて悲しみ嘆く断食で終わるものではなく、「悔い改める」ということは、こんなにも解き放たれて大きな喜びのなかに生きることなのだと告げられるのです。主イエスと共に生きるということは、全く新しいことなのです。古いものと断絶した新しさを持つということです。古いものは捨て切れないけれど、あの新しいものもよさそうだということで成り立つような信仰生活が、ここで語られているのではないのです。主イエスは喜びを携えて、私どものもとに訪れて下さいます。花婿なる主イエスは、わたしがここにいるではないか。そしてわたしと一緒にいる人々にとっては、婚礼の幸いが、結婚の喜びが今ここに起こっているのだと言われるのです。ですから教会は、花婿イエスの花嫁として、主イエスを迎える喜びにあずかるのです。教会はいつもその喜びのなかに戻って行くのです。私どもは、その喜びの中に立ち続けること、その喜びに生き続けることを、共に願い求めてまいりましょう。

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