「主イエスの覚悟」 ルカの福音書9章51~55節
人はある覚悟をした時、顔をまっすぐに上げ、正面を厳しく見据える。目的とめざすべき方向が定まったのです。そのためにどんなに危険や困難があったとしても、見苦しい行動はすまいと決めた、ゆるぎない心がそこにあります。今主イエスのエルサレムをめざす旅が始まろうとしております。旅の目的は、「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺される」ためです。(22節)その主イエスの確固たるお姿に、その後についていく弟子たちは「恐れを覚えた」(マルコ10章32節)とマルコは記しております。自分たちの先頭に立って歩む主イエスの前途には、決定的な敗北のしるしとしか思えない、十字架の死が待っている。こんな状況で弟子たちは逃げ出すこともできました。それなのに弟子達はついて行くのです。主イエスの十字架の磁力は彼らを離さなかったのです。その十字架の出来事を「人の子は、いまに人々の手に渡されます。」(44節)と表現なさいました。「渡される」ことは「うら切る」ことです。この事はユダの裏切りにおいて明らかにされました。ユダにとっては主イエスは売り物でした。銀貨30枚、これが主イエスにつけられた値段でした。では私たちにとって、主イエスの値段はいくらなのでしょうか?その前に主イエスにとって私たちはいかほどの価値かをまず聞きましょう。その答えはヨハネの福音書3章16節の有名な言葉です。「そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」ほどの価値なのです。こうして主イエスは十字架に向かって、ためらわずに進みました。しかし今主の前に恐るべき死の壁が立ちふさがります。「わが父よ、ほかに道はないのですか?」御父は言います「ほかに道はない!」そこで主イエスは覚悟を固められ、私たちの先頭に立って進み行くのです。その主イエスの背をしっかりと私たちは見つめましょう。
「不信仰な、曲がった時代」 ルカの福音書9章37~43節
人間が生きるということは、いつも問題にぶつかりながら生きている、様々な問題を抱えて生きていると言えます。問題がない人などは一人としていないのです。ですから主イエスが「山上の変貌」で本来の栄光の姿になられたのに、その栄光の衣を脱ぎ捨てて、私たちのところに降りてきて下さったのは、私たちの問題に寄り添って下さり、重荷を負って下さるためでした。その主イエスの前に、今、一人の父親が、息子の「てんかん」という病気を治して下さるようにと願い出たのです。しかしこの父親の胸中には、主イエスに対する不安がありました。「果たしてこのお方は本当に信頼できる方であろうか。お弟子たちは病気を治すことが出来なかった。このお方も失敗するかもしれない。」等々。マルコの福音書によりますとこの父親は「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」(マルコ9:22)と語り、主イエスは「できるものなら、と言うのか。信じるものには、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)とお答えになっております。そこに主イエスは「ああ、不信仰な、曲がった今の世」(ルカ9:41)の姿を見られたのでした。主イエスが思わず口にされた嘆きの言葉でした。今主イエスは、目の前にいる弟子たち、律法学者と群衆たち(マルコ9:14)すべての人に対して、「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ」とお嘆きになられたのです。12弟子たちは、悪霊を追い出し、病気を直す力と権威を授けられ、巡回伝道に送り出されました。そして成果を上げて帰って来ました。しかし、今、てんかんのむすこを前にして、いやすことが出来ないのです。何故でしょうか。それは主イエスへの「祈り」と「信仰」をもって、与えられた「力」と「権威」を、あたかも自分の実力のように誤解し、自分の力で何でも出来ると思い込んでいたことにあります。これが主イエスが言われた「不信仰な曲がった時代」の意味なのです。そのような私たちに対して、主イエスは「いつまで、がまんしていなければならないのか。」と言われます。「がまんして」という言葉は、「背負って」とも訳すことができます。主イエスは「いつまでがまんして、あなたがたを背負わなければならないのか。」と嘆かれます。私たちは、ここに到ってはじめて気付かされるのです。主イエスが十字架に向かって背負わなければならない苦しみは、「信仰」のない「祈り」のない私たちを背負っている苦しみでもあるということです。主イエスは父親に近づいて来て「あなたの子をここに連れて来なさい。」(ルカ9:41)と言われました。これは主イエスの恵みへの招きの言葉です。この恵みの主イエスは、今も悩み多い不信仰な私たちに近づき、私たちの重荷だけではなく、私たちを丸ごと背負い続けてくださるのです。
「いのちの身支度」 ルカの福音書9章23~27節
今、日本は高齢化社会を迎え、定年退職して仕事から離れ、あるいは子育てが終わり、子供から手が離れてみると、自分の老後・余生をどのように生きるかということが問題となり、趣味を持つ、文化センターに行く、クラブやサークルに参加するなどして、社会参加を考えます。けれどもそれは、私たちが誰のために、何のために生きてきたかということを考えた時、ただ自分自身の幸せのために生きるという生き方に、どこか充実感、満足感がありません。なかなか自分のためにという自己目的になった人生、自分のための命というものを支えるのは、本当に難しいのです。本来人間は誰かのため、何のために生きるかという感覚を持って、創造されているのです。その意味でキリスト者は、誰のために、何のために生きるのかという目的を、はっきり持ちつつ生きることが出来る者にされております。このことは、どれほどの大きな意味を持っているのかが、本日の聖書の箇所には語られております。ここには、誰のために、何のために生きるべきかという、はっきりした答えが示されております。聖書は語ります。誰のために―「それは主イエスのために。」何のために―「それは自分自身を失わないために。」と。そのために「わたしについて来なさい。」(ルカ9:23)と主イエスは招かれます。自分自身の幸せ、自己目的になった「いのち」は、自分のいのちを失ってしまうことだと、主イエスは語ります。たとえ全世界を手に入れても、その幸せを受け取る本人が、神の前に失われた者だとしたら、何の得がありますかと、主イエスは問いかけられるのです。ここに私たちの「いのちの身支度」をどのようにしたらよいかということが語られているのです。私たちの人生における「得になる」こととは、神さまが私たちを贖い、神さまが私たちを受け入れてくださるということが、本当に私たちにとって「得になる」ことなのです。主イエスに従う、主イエスのために生き死にする。このことを第一に生きることこそ、自分にとって最大の「得になる」ことだと考え、いのちの身支度をする。このことが、本日の聖書の箇所で教えられていることなのです。やがて主イエスが栄光の輝きのうちに来られる時、わたしは「そのような者を恥じる。」と言われないように、主イエスと主イエスの言葉、つまり福音の教えこそ、自分のいのちを一番美しく、生き生きと力強く生かすものであることを、日々確認しながら、主イエスにしっかり従って参りましょう。
「共に一つの体として」 創世記2章24~25節
夕日が沈む野原を散策していたイサクは、ふと目を上げて遠くを見ると、らくだに乗って近づいてくる女性の姿が目に入ります。一方見知らぬ地で自分を待っている人がいるというその期待と不安を抱きながら、長い旅を続けて来たリベカも、目を上げると一人の男の姿がそこにあり、その男は野原を歩いて自分の方に近づいて来ました。創世記24章が描くイサクとリベカの出会いの光景です。それは青年期を迎えた人間が、父母のもとを離れ、結婚し家庭を持つという仕方で、どのように自立の道を歩み始めたかという愛の物語でもあるのです。その男女の結婚について最初に記されている箇所が、本日の創世記2章24節なのです。ここでは結婚に関して重要な原則が述べられております。第一に結婚は神が定めた制度であります。第二に男と女とは、お互いのために造られました。第三に結婚とは「父母を離れる」ということであります。男と女は父母の許を離れ、独立自由に生きる者になります。真の独立した人間になるのです。では、結婚の意味とは何でしょうか。それは、「ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)ということです。この箇所を直訳しますと、「一つの肉になる。」となります。ふたりの個人はお互いの分身なのです。夫が妻を愛する場合、夫は決して自分以外の人を愛しているのではなく、彼は自分の一部を愛しているのです。妻も同じです。しかしこの一つになるということは、結婚さえすればひとりでに出来上がっていくというものではありません。「一体になる」とは、この時、アダムとエバにおいて実現し、完成したのではなく、今後実現していかねばならない私たちの課題なのです。そして真に「一体となる」という関係は、イエス・キリストによって完成されると聖書は教えております。新約聖書の中で「一つの体」という言葉は、全てキリストとの結びつきの中に出てくるのです。「私たちもキリストにあって一つのからだであり、ひとりひとりは互いに器官なのです。」(ローマ12:5)とありますように、私たちひとりひとりが、キリストに結ばれることによって、「一つの体」なる教会を形成しているのです。また、「私たちはみな、一つからだになるように、一つの御霊によってバプテスマを受け」(第一コリント12:13)「一つの体」とされて、共に聖餐式においてキリストの杯とパンにあずかることによって「一つの体」であることを確認するのです。ですから私たちは一人一人ばらばらに悔い改めて、罪の赦しに与って家に帰るのではありません。また、これからの一週間をそれぞれがお互いのことを思いやり、心配し、祈りつつ「一つの体」として生きるのです。そしてまた、この礼拝に集められ、「一つの体」として共に生きることの喜びを分かち合うのです。
「みことばに生きた人・ルター」 ローマ人への手紙8章35~39節
「宗教改革」それは、ひとつの時代が、一人の人物と密接に結びつけられた出来事でした。1517年10月31日、ドイツのヴィッテンベルク城教会の扉に張り出された「95箇条の提題」をもって宗教改革に立ち上がった人こそ、マルティン・ルターその人でした。ルターは神のことばに生きた人でありました。修道士となってからは、聖書の言葉と深く取り組み、その教えに忠実に従おうと努力しました。しかし、いくら努力をしても、これでよしという自覚は得られず、むしろ努力をすればするほど、絶望し行き詰まります。その絶望の中でルターは、神が二通りのことばをもって、人間に語りかけられていることを理解します。「律法」と「福音」です。「律法」は、人間として生きるに当たって「これを行え」「あれをするな」と命じる神のことばです。「律法」のことばを見つめ「完全」であろうと努力すればするほど絶望へと追い込まれるのです。律法によっては自分の破れ、罪の姿しか見えてこないのです。自分の弱さと徹底的に向き合う中で、あのローマ人への手紙1章17節の「義人は信仰によって生きる。」という神のことばに出会うのです。「信仰のみ」それだけが人間のなすべきことで、後はすべて恩恵と共に与えられる。ルターは聖書のもう一つのことば「福音」に捉えられ、確かな救いの根拠を得たのです。このようにしてルターは、ますます聖書の中心に目が開かれ、神との平和な関係が破れている人間は、キリストを信じる信仰によって、神との交わりに入れられるという福音の真理を人々に語り続けたのです。神のことばは前進し、またそれぞれの国の言語に訳されて、広がっていったのです。ルターは生涯をかけて、神のことばが生けることばであることを味わい、語り、体験した人でした。彼はある説教の中で「私はただ神のことばを教え、説教し、書いただけだ。そのほかに何もしなかった。みことばが何もかもしたのである。私は何もしなかった。みことばに働いてもらったのだ。」と語り、神のことばがどれほど、強力に働くかを知らしめたのです。 1546年2月18日早朝ルターは狭心症と思われる病状で世を去ります。その死の床のかたわらには、一片の紙が残されており、それがルターの絶筆となりましたが、そこには「100年間預言者と共に教会を教会を導いたのでなければ、聖書を十分に味わったとは思えまい。」と書かれてありました。聖書のことばが示す真理を追い求め、伝え続けたルターの生涯の最後の言葉でした。
「天にまします我らの父よ」 マタイの福音書6章9節 創世記3章8~21節
毎週の礼拝で告白する「主の祈り」は、神が天におられる存在であると高らかに宣言します。「天にまします…」そして同時に、その偉大で、栄光に満ち、絶対的な主権者である神に「父よ」と呼びかけるようにとも教えます。「天にまします我らの父よ」しかし実際には、なかなか「父よ」と呼びかけることはできません。「私のような罪深い人間が、神様に気安く『父よ』と近づくなんて…」と後ずさりしてしまいます。しかし聖書は「それは違うんだよ」と諭してくれます。創世記より最初の人・アダムに注目してみましょう。 神が造った最初の人・アダムはエデンの園で幸せに暮らしていました。ところが、アダムは神の戒めを破り罪人となります。そんなアダムに神はどう対処したでしょう。 1.先ず身を隠すアダムを神は探し求めます。(9節) 2.続いて神は、神の御顔を避けるアダムに、悔い改めの機会を与えます。(11節) 3.悔い改めを促す言葉にも応えず「女が悪い」と責任転嫁するアダムを前に、将来罪をあがなう救い主がエバの子孫から生まれると救いの約束を与えます。(15節) 4.そして救いの約束の印として、神ご自身が皮の衣を作り、アダムとエバを覆ったのです。(21節) 神の戒めを破ったアダムに相応しい報酬は死でした。自らの罪を悔い改めず責任転嫁するアダムに相応しいのは永遠の滅びでした。しかし、神はアダムを探し、アダムに呼びかけ、アダムに救いの希望を与え、アダムにその約束の印までもお与えになるのです。全知全能にして、全ての造り主、もろもろの天を統べ治めておられる神は、慈しみに満ちた父なのです。その父なる神が、今日もわたしたちをご自身のみもとに招き、『父よ』と呼び掛けるように促しているのです。「そんな畏れ多い」そう思いますか?「こんな罪深い私にはとてもできない」そう思いますか?でも皆さん、そよ風の吹くころ、あのエデンの園で神が捜し求めたのは、一体誰でしたか?神が声を掛けたのは、一体誰でしたか?救い主誕生の約束を告げ、希望を与えたのは、一体誰の為でしたか?それは、罪を犯す前のアダムではなく罪を犯した後のアダムです。その同じ神が、同じ慈しみをもって、今日も私たちをご自身のみもとへと招いて下さっています。
「主イエスの死の恵み」 ルカの福音書9章18~22節
「表見せ裏を見せ逝く落ち葉かな」 本日の聖書の箇所は、この一句を連想させます。今主イエスはここで初めて、ご自身の苦しみ、十字架の死、そして甦りについて予告されます。それは奇跡やいやし、また力ある業を示し続けてきた、今までの主イエスの強さとは余りにも違うものでした。これまでの弟子たちは強い主イエスだけを見てきました。そしてあのペテロの力強い「神のキリストです。」(ルカ9:20)という信仰告白がなされました。そのような期待をもって主イエスを見ていた弟子たちは、主イエスの言われる苦難と十字架の死の意味が理解できなかったのです。ではなぜここで主イエスは、ご自身の苦しみと死を予告なさったのでしょうか。それは、ご自身の死について弟子たちが、より深く考えるようにとの思いからでした。死は死に逝く人と自分の関係によって、意味のあるものとなります。「関係における死」という捉え方です。だから主イエスは、ここで弟子たちに対して、強い主イエスだけを見ていては、本当の救い主イエス・キリストの姿は見えてこない。主イエスの弱さの部分を見て始めて、救い主イエス・キリストの全体像がわかるのだと教えておられるのです。ウエストミンスター小教理問答は、この弱さを「キリストの低い状態」と呼びました。しかし、ここに現れる主イエスの弱さは、実に弟子たちの弱さであり、私たちの弱さなのです。「あなたは神のキリストです。」と告白したペテロは、その後主イエスを裏切るのです。これはまた、私たちの姿でもあるのです。主イエスは、私たちの弱さゆえに、その弱さ、苦しみを共にされるために、私どもにとっては、弱さ以外の何ものでもない、十字架の死の姿を示されたのです。後にペテロは主イエスの死について「キリストは自分から十字架の上で私たちの罪をその身に負われました。…キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたはいやされたのです。」(第一ペテロ2:24)と語り、主イエスの十字架の死の意味を理解できたのです。そして、主イエスの死の恵みに生きることで、「キリストの苦難の証人」(第一ペテロ5:1)として生き続けたのです。
「彼にふさわしい助け手」―男としてのアダム― 創世記2章18~23節
人間は、その関係と役割によって、人としてのあるべき姿を現します。聖書が描く人間像がそれです。創世記はその事をアダムという、神によって創造された人を通して、その全体像を示します。全人類の代表としてのアダムから、男性としてのアダム、さらに夫としてのアダム、そして父親としてのアダムの姿を描くことによって、人間をいろいろな角度から見つめ、人間の持っている特質を明らかにします。 本日の聖書のテキストは、「人がひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2:18)という言葉に焦点が合わされているように「女」という他者との関係の中で、「男」としてのアダムの役割、立場が明らかになるのです。「人がひとりでいるのは良くない。」と、神である主が言われる時、「良い」とは「完成した」「良い出来だ」という意味ですから、「良くない」とは、「まだ完成していない」「不完全だ」という意味になります。人がひとりでいることはまだ完全な状態ではないということなのです。そのため神はアダムに「ふさわしい助け手」を与えられたのです。「助け手」は、直訳で言いますと、「人に対して真向かいの者、真正面から向き合う者」です。対等に向き合う存在としての「女」。そういう存在がいないと、人は人として生きることが出来ないのです。神の創造は未完成、不完全なもので終わってしまいます。そのために神は「女」という存在を造ろうと言われるのです。そして神は「その女を人のところに連れて来られた。」(創世記2:22)のです。人は「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。」(創世記2:23)と叫び、自分と対等に向き合い、対等の関係の中で愛し合い、互いに人として生かし合う存在として、「女」を受け止めたのです。その瞬間に、それまでのアダムとは違う人間、「男」としてのアダムになったのです。一方「女」は命を産み出す存在として、この後アダムは妻である女をエバ(命)と呼ぶようになります。 聖書は語り告げます。私たちの命は神の御手のうちにあること。「いのちは授かりもの」であること。したがって私の物ではありません。神から授かった尊い賜物です。その命は愛し合う中で生きるのです。 今日、自殺、虐待、殺人等、真に痛ましい事件が連日起こっております。聖書は「命の大切さ」について教えてくれます。私たちの命は神のものであり、神が造って下さったのです。ですから子どもの命の根拠も、神の愛にあります。子どもは親のものではありません。従って男と女は互いに協力して、神から預けられた子どもを愛し、育てる務めがあるのです。
「あなたには、居場所がありますか」 詩編16篇
今、学校に居場所を持てない子どもたちが問題になっております。ある子どもは勉強についていけないという理由から、教室での居場所を失っています。ある子どもは友達がいないから、またある子どもは障害があったり、歩き方や話し方が変だという理由から、嘲笑やいじめの対象になり、学校での居場所を失ってしまうのです。今教育現場に求められているのは「子どもの居場所をどう作り出すか。」ということなのです。人は居場所を持てないと不安になり、安定した生活ができません。この居場所の問題は、私たちの信仰生活においても重要な意味をもっております。私たちは魂の安らぐ居場所を持っているでしょうか。ダビデは、私の居場所はここにあると、詩編16篇で次のように歌いました。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう」(詩編16:8~9)このように歌ったダビデの生涯は、日々戦いの連続でした。イスラエルの王として国を治め、他民族、部族との戦いがありました。サウル王に追われ、また我が子アブシャロムに反逆される。夫として父親としての、さまざまな問題と向き合わなければなりませんでした。さらに自らの罪との戦いがありました。一日として心休まる時はありませんでした。しかしダビデは歌うのです。「私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」(詩編16:9)と。なぜこのように歌うことができたのでしょう。それは、「私は、あなたに身を避けます。」(詩編16:1)「私はいつも、私の前に主を置いた。」(詩編16:8)からでした。ですから、「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩編4:8)と、どのような状況に置かれようと、ダビデは主の御手の中に、自分の居場所をしっかり持っていたのです。幼子が母親に一切を委ねきっているように、神を信頼したのです。居場所を持つということは、主イエスの救いの恵みにいつも感謝し、どんな時でもその恵みの中に立ち続けることです。「あなたこそ私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」(詩編16:2)と告白し続けることなのです。 今日、孤独死、そして一向に減らない自殺者が、社会問題となっております。孤立した心が、安心してほっとできるような、「心の縁側」が求められております。主イエスはこの世では無視され、拒絶された方であります。ですから居場所のない人の不安、恐れ、苦しみ、悲しみがよくわかっておられます。その主イエスが「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と招いておられます。さあ、私たちの「心の縁側」であられる主イエスのもとで、ほっと一息入れ、一服しましょう。
「恵みの主の糧」 ルカの福音書9章12~17節
四つの福音書に記されている唯一の奇跡、「五つのパンと二匹の魚」で五千人もの人を満腹させた出来事は、飼い主のいない羊のような群衆(マルコ6:34)に深い憐れみのまなざしを向けておられる主イエスを描いております。主イエスはパンと魚を手に取り、祝福して群衆に分け与えられます。人が日毎の食物をいただくという行為は、人が生きるということと深く結びついています。ですから主イエスは食べるということを通して、ご自身のことを人々に知らせようとしておられるのです。その点に私たちの注意を向ける時に、ここで語られている「パンと魚」とは、主イエスご自身をあらわしていることに気付かされます。主イエスはヨハネの福音書6章で「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は、決して飢えることがなく」(ヨハネ6:35)と言われ、また「わたしは天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。」(ヨハネ6:51)とご自身のことを語られました。さらに教会において「イエス・キリスト・神の子・救い主」のギリシャ語頭文字をつなげると「魚(イクトウス)」という文字になることから、魚はイエス・キリストをあらわす象徴として広く使われてきました。今私たちは豊かさの中に生きており、パンは有り余るほどですが、人の心や魂の飢えはかえってひどくなってきています。しかし主イエスのいますところには、必ずいのちのパンがあります。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(詩編23:1)私たちの全てにおいて、主が共に居て下さるならば乏しいことはありません。あふれる恵みの中に置かれているからです。主イエスは、「わたしのことばを食べて飽き足りよ。わたしの与える恵みで満ち足りよ。」と言ってくださるのです。