礼拝メッセージ

9月30日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「あなたには、居場所がありますか」             詩編16篇

今、学校に居場所を持てない子どもたちが問題になっております。ある子どもは勉強についていけないという理由から、教室での居場所を失っています。ある子どもは友達がいないから、またある子どもは障害があったり、歩き方や話し方が変だという理由から、嘲笑やいじめの対象になり、学校での居場所を失ってしまうのです。今教育現場に求められているのは「子どもの居場所をどう作り出すか。」ということなのです。人は居場所を持てないと不安になり、安定した生活ができません。この居場所の問題は、私たちの信仰生活においても重要な意味をもっております。私たちは魂の安らぐ居場所を持っているでしょうか。ダビデは、私の居場所はここにあると、詩編16篇で次のように歌いました。「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう」(詩編16:8~9)このように歌ったダビデの生涯は、日々戦いの連続でした。イスラエルの王として国を治め、他民族、部族との戦いがありました。サウル王に追われ、また我が子アブシャロムに反逆される。夫として父親としての、さまざまな問題と向き合わなければなりませんでした。さらに自らの罪との戦いがありました。一日として心休まる時はありませんでした。しかしダビデは歌うのです。「私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。」(詩編16:9)と。なぜこのように歌うことができたのでしょう。それは、「私は、あなたに身を避けます。」(詩編16:1)「私はいつも、私の前に主を置いた。」(詩編16:8)からでした。ですから、「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ。あなただけが、私を安らかに住まわせてくださいます。」(詩編4:8)と、どのような状況に置かれようと、ダビデは主の御手の中に、自分の居場所をしっかり持っていたのです。幼子が母親に一切を委ねきっているように、神を信頼したのです。居場所を持つということは、主イエスの救いの恵みにいつも感謝し、どんな時でもその恵みの中に立ち続けることです。「あなたこそ私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」(詩編16:2)と告白し続けることなのです。                                                         今日、孤独死、そして一向に減らない自殺者が、社会問題となっております。孤立した心が、安心してほっとできるような、「心の縁側」が求められております。主イエスはこの世では無視され、拒絶された方であります。ですから居場所のない人の不安、恐れ、苦しみ、悲しみがよくわかっておられます。その主イエスが「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と招いておられます。さあ、私たちの「心の縁側」であられる主イエスのもとで、ほっと一息入れ、一服しましょう。


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