「抱いてくださるイエス様」 ルカの福音書14章1-6節
福音書の中にはイエス様が安息日に病院を癒してくださった内容が何回も出て来ます。右手のなえた人も、ベテスダの池で38年間も病気にかかっていた人も、またシロアムの池での目の見えない人も、安息日にイエス様に癒された人々でした。その度にそこにいたパリサイ人や律法学者たちは、自分たちが守っていた安息日の規則をもってイエス様を非難しようとしましたが、しかしイエス様はそのような彼らに安息日の本当の意味を教えてくださいました。本日の本文も「ある安息日」にイエス様がパリサイ派の指導者の家で水種を患っている人を癒してくださいました。
当時、安息日に神様を礼拝し、食事会をすることは普通の光景でした。その町の指導者や偉い人は、みことばを話してくださった先生を自分の家に招いて共に食事をしながら教えを頂くということでした。本日の本文の家もそのような光景であったと思われます。1節に出て来るパリサイ派の指導者の家に、イエス様が招かれたことなのか、イエス様がその家に行かれたことなのかは分かりません。しかし、その家の中にいた人々はイエス様をじっと見つめていて、これからイエス様は何をどうするのかと言う事を非常に注意深く見ていました。何故なら、その家の中には一人の水種を患っている人がいまして、その人を見たイエス様が安息日に彼を癒してくださるだろうか、ということを見るためでした。それは、律法の専門家やパリサイ人たちが安息日の規則をもってイエス様を罠にかけようとしたことだと考えられます。
ところが、イエス様は見つめていた人々に「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか」と質問されます。その質問に対して何も答えることが出来ず黙っている間、イエス様はその病人を抱いてくださり、彼の病気を癒してくださって帰らせました。イエス様は何よりもその病人のことを大切にしてくださったのです。そういうイエス様の愛を思えて、そのイエス様に抱かれて神様のみこころに従って歩む者となりたいと思います。
「カレブのように」 ヨシュア記14章6-15節
本日の本文を含めてヨシュア記14章以降では、イスラエルが征服したカナンの地を各部族に割り当てる内容です。ヨシュア記12章までカナン征服のための戦いが終わり、各部族にその地を割り当てますが、13章にはヨルダン川の東側でのことが書かれています。そして14章以降からヨルダン川の西側で残りの部族への割り当てが続きます。ですからヨルダン川の西側での割り当ての内容の中で、最初に出て来ることが本日の本文であってカレブの話しなのです。
イスラエルはヨルダン川を渡って、最初はカナンの中央を、その後南の方を、最後には北の方を征服しました。ところがその戦いの中で全ての地を征服し、全ての部族を追い払った事ではありませんでした。あるところは、まだ征服出来ず残っている部族もありましたが、ヘブロンの山地のその中で一か所だったのです。そこには丈夫で大きな城壁をもつ町が多くあり、そしてアナク人という強い人々が住んでいましたので、イスラエルはその地を占領する事ができなかったのです。ところが、ユダ部族に属していたカレブは最初に出て来て「主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。」とヨシュアに求めました。このようなカレブの姿を通して、私たちは彼の変わらない信仰とその信仰から出て来る勇気を学ぶことが出来ます。
先ず、カレブはヨシュアに45年前の出来事をその時の約束を思い起こさせます。そしてその時も、今までも「私は私の神、主に従い通しました。」と語ります。カレブは彼の人生を通して、神様に従い通して来たのです。いかなる状況の中でも神様だけを見上げ、その時頂いた約束が成就されるという信仰を持ち続けてきた、と言う事です。そのようなカレブは神様がともにいてくだされば、あのアナク人とも戦って勝つことが出来るという勇気をも持っていたのです。私たちの人生の中にどんなに大変な苦しみがあるとしても、カレブのように神様に従いつつ、信仰の道を大胆に歩んで行く者になりたいと思います。
「進むべき道を歩む者」 ルカの福音書13章31-35節
本日の本文の中で、イエス様は命の脅かしの中でも御自身の道を真っ直ぐに歩んで行かれる姿を見ることができます。そしてその道の最後には十字架というイエス様ご自身の死というものが待っていることです。そのような道を、イエス様は最初から最後まで黙々と歩んで行かれます。その道の中にあらゆる苦しみや迫害、妨げがあっても、全く動揺しないで歩んで行かれます。いかなる苦しみの中でも、どんな試練の中でも十字架に向かう道を止めることはありませんでした。その道を進み歩んで行くイエス様のお姿でした。
本文で出て来るパリサイ人たちによりますと、ヘロデがイエス様を殺そうとしていました。しかし、それに対してイエス様は「わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。」(32節)と、そして続けて「わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。」(33節)と繰り返して語られます。即ち、どんな脅かしがあっても、これからもご自分の道を歩んで行かれるということです。それには、たとえ命への脅かしがあるとしても、この世には従わない、ただ神様のみこころだけに従うということがあるのです。歩むべき道にどんな苦しみがあるとしても、それがご自分の命を脅かすことであるとしても神様のみこころに従って進み歩むということです。
このようなイエス様の姿から、私たちは神様の恵みと愛を覚えることが出来ます。神様はその愛のゆえに御子キリストを遣わしてくださいました。そしてキリストもそのみこころに従ってこの世に来られ、この世でのどんな苦しみの中でもひたすら十字架への道を歩んで行かれたのです。私たちもそのようなイエス様の姿を学び、私たちに与えられているこの信仰の道を、神様への確信をもって、そのみこころに従って歩んで行きたいと思います。神様の守りと導きの中で愛の道を歩んで行くものとなりたいと思います。
「神さまのみこころをより深く知ることができますように」ヨナ書4章1−11節
あなたを腹立たせているのは、いったい、何でしょうか?死んだ方がましだと思わせるほどに、あなたを腹立たせることがあるとすれば、それは何でしょうか?そして、『死んだ方がましだ』とあなたが思うほどに、その問題は大切なことなのでしょうか?私たちの怒りは、多くの場合、私たちの心の中にある優先順位と関心事を映し出す外見上の写真です。ヨナ書4章は、私たち の心の優先順位と愛をどこにおくべきかということを教える非常に大切な個所です。ヨナは、ここで、何が本当に大切で、重要であるのかということについて神さまから教えられます。今日の聖書のみことばを通して、神さまはヨナに3つの問いかけをしています。まず、「あなたは、わたしに腹を立てる権利を持っていますか?」(4:1~4)と尋ねています。そして、「あなたは、わ たしの『とうごま』のために腹を立てる権利があるというのですか?」(4:5~9)と続きます。そして最後に、「ヨナよ、あなたは、このわたしがあわ れみ深い神ではないとでも思っているのか?」(4:10~11)という問いかけを投げかけているのです。もちろん、神さまは、これらの問いかけの答えをご存知の上で、ヨナに尋ねておられます。神さまはヨナの心を調べたかったのです。神さまからの問いかけに対するヨナからの答えによって、ヨナの心が神さまのみこころに正しくつながっているかどうかということを見分けることができます。ヨナには、神さまのみこころを知ろうとすることが必要であったことを教えるため、神さまは根気強く、そして、愛情深く実際の歩みの中で語りかけられたのです。 同じく私たちが神さまのみこころをより深く知ることができますように祈りましょう。
「ヨルダン川を渡る」 ヨシュア記3章7-17節
本文でのイスラエルの民は40年間の荒野での生活を終えて、乳と蜜の流れるカナンの直ぐ前まで来ていました。ところが、彼らの目の前にあったのはヨルダン川でした。このヨルダン川を渡れば、イスラエルの民は願っていたカナンの地に入ることが出来ます。しかし、彼らの前に置かれていたヨルダン川を渡ることが簡単なことではありませんでした。この時期は刈り入れの間中であってヨルダン川は岸いっぱいにあふれる状況でした(3章15節)。このようなヨルダン川を渡らないと、カナンの地に入ることはできません。神様が約束してくださった地に入るためにはこのヨルダン川を渡らなければならない、しかし渡ることは非常に怖い状況でした。
その時に神様は、イスラエルの民に「主の契約の箱を見、そのうしろを進まなければならない。」(3章3節)と語ってくださいます。この契約の箱にはモーセが神様から頂いた十戒の板が入ってありました。そしてそれは神様の御臨在を現わすものでありました。荒野でもこの契約の箱に従って移動したイスラエルでした。今、この時も他ではなく契約の箱を良く見てその後ろについて進みなさいと語ってくださるのです。そして二つ目に「あなたがたの身をきよめなさい」と命じられます(3章5節)。川を渡るためには色々な準備をし、最適な場所をも見つけなければなりません。しかし、神様はそのようなことより、先ずご自分との関係を覚えてきよくしなさい、と命じられます。それはヨルダン川を渡ることが出来ると言うことが、神様の力と恵みよることであるということを教えてくださることです。最後の見つめに神様は契約を箱をかついでヨルダン川の中に入りなさい、と命じられます(13節)。そうする時、ヨルダン川は止まり、イスラエルの民はヨルダン川を渡ることができると語られます。
私たちの信仰の道にもヨルダン川があり、私たちはそれを渡らなければなりません。その時に、私たちに語ってくださったみ言葉を覚えて、その教えに従って行く者になりたいと思います。信仰の一歩を踏み出すことが出来るようになりたいと思います。
「あなたがたの命は、どのようなものですか」 ヤコブの手紙4章13-16節
今日の個所でヤコブは将来においての計画を立てる人に話しかけています。私たちは皆、自分の人生のために計画を作ります。計画を立てることそれ自体は、間違いではありません。しかし、神様の御心を無視して、自分の知恵や自分の力や自分の忍耐などで計画を作ることは間違うとヤコブが教えています。ヤコブは私たちの知恵、強さ、または才能だけで計画を立てることはプライドだ言っています。計画を作る時、神様の御心を考えることが必要です。神様の御心を考えることはなぜそんなに大事なのでしょうか。
理由は三つあります。最初の理由は私たちの人生は短いということです。ヤコブは私たちの人生が短いことを指摘することによって、この世にいる間、毎日神様に集中するのが必要だということを私たちに教えようとしています。私たちが人生は短いことを認識すると、それは私たちが生きている間、本当に重要なことに集中できる助けとなります。第二番目の理由は私たちの人生は私たちによって支配されていないことです。箴言16:9が言っているように、「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」神様が常に支配していることを知ることは、困難なときに忍耐できる力を私たちに与えます。なぜなら、非常に困難な時であっても、私たちは、私たちのために神様がすべてのことを働かせて益としてくださると言う約束があるからです。第三番目の理由は私たちの人生のゴールは自分の意志を達成することではないということです。
私たちは神様の意志を果たすために生きています。私たちの人生は短くて、私たちは自分の人生を支配していないこと、また私たちが自分自身のために生きていないことを考えたくないかもしれません。しかし、そのことを理解すると、この世の必要ではないことに背を向けて、神様の本当に重要なことに焦点を当てることができることの助けとなります。
「狭い門から入る」 ルカの福音書13章22‐30節
本日の本文で、著者ルカはイエス様について「町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられた」と説明します。罪人の救いのためにひたすら、十字架への歩んでおられるイエス様の姿を先ず覚えること出来ます。そんな中である人がイエス様に「主よ。救われる者は少ないのですか。」という質問しました。それに対してイエス様は、周りに集まっていた多くの人々に向けて「努力して狭い門から入りなさい。」と答えてくださったのです。
この「努力して狭い門から入りなさい。」と言うことはどういう意味でしょうか。それはユダヤ人であろうが、異邦人であろうが、誰でも神様のみことばを聞き、それを受け入れ、信じなければならない、ということです。そしてその教え通りに生きて行くように努力しなければならないということです。先ずはイエス・キリストを救い主として信じることが、そして聖書をとして私たちに教えてくださる神様の子どもとして生きて行くことができるように努力しなさい、ということです。私たちが神様のみことばを学び、それを実践して生きるというのは非常に難しいことです。この世はその道を歩むことが出来ないようにします。ですからイエス様が仰ったように私たちは努力しなければなりません。まるで、運動選手が試合で優勝するために一所懸命に努力するように、私たちもみことばに従って生きて行くために、それを実践出来るように努力しなければならないのです。
毎週捧げる礼拝も、毎週集まる祈祷会も私たちが神様のみことばを覚えて、そのみことば通りに生きて行こうと努力することでしょう。その中で、私たち一人一人が神様に喜ばれる道を歩んで行きたいと思います。その道が大変で狭い道であるとしても私たちに力と励ましを与えてくださる神様に頼りつつ、努力して狭い門から入る者になりたいと思います。その歩みの中で、神を愛し隣人愛する者として私たちの周りにいる人々にキリストの香りを放つ者になりたいと思います。
「勝利と失敗」 ヨシュア記7章6-15節
同じ出来事であるとしてもどのような観点をもっているのかによって、受け止め方は異なります。同じことでも肯定的に見ることが出来れば、否定的に見ることも出来ます。失敗を失敗としてのみみるのか、それとも失敗も成功の一つの過程としてみるのか、これは人生を生きて行く中で非常に重要なことだと思います。確かに失敗はとても辛いことですし、二度とやりたくないものです。しかし、そのような失敗でも成功への出発点になるということを覚える時、その失敗は肯定的に受け止めることが出来ます。そしてクリスチャンは、信仰の歩みを信仰の目で神様からの観点で見なければなりません。そうする時、失敗ではなく勝利を見上げて歩んで行くことが出来るのです。
本日の本文はイスラエルがアイという小さい町との戦いで負けてしまった内容です。本文の直ぐ前にあるヨシュア記6章でイスラエルはエリコとの戦いで大勝利をしました。エリコはとても丈夫な城壁によって囲まれていて、外から攻めていくことは大変難しいことでした。しかし、そのようなエリコさまも神様の命令に従った時、声をあげて叫び、角笛を鳴らすだけで丈夫な障壁が崩れ、イスラエルは勝利を得ることが出来ました。そのエリコに比べるとアイという町は小さな町であって、ヨシュアもイスラエルの民の簡単に勝つと思いました。しかし、イスラエルはアイとの戦いで負けてしまい、大失敗をしたのです。
その知らせを聞いたヨシュアは服を裂き、そしてイスラエルの長老たちと主の箱の前に出て地にひれ伏し、頭にちりをかぶって大変悲しんでいました。そのようなヨシュアに神様は、イスラエルが神様に罪を犯したことを教えて下さり、立ちなさいを語ってくださいました。罪を犯し失敗してしまったイスラエルに対して、神様は新しく歩んで行く事が出来るようにしてくださったのです。悔い改める者の罪を赦してくださり、その失敗のところから立ち上がらせてくださる神様。その神様に励まされ、喜びの中で歩んで行きたいと思います。
「神の国は」 ルカの福音書13章18-21節
イエス様は公生涯の間、神の国について色々なたとえ話をもって説明し教えてくださいました。本日の本文もイエス様のたとえ話であって、イエス様は二つのたとえ話を通して神の国の特徴について教えてくださいます。
先ず、イエス様はからし種のたとえ話を通して神の国の成長、又はその広がりについて教えてくださいます。マタイの福音書13章には、からし種について「どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり」と書いてあります。特に、そのからし種の成長というのは、空の鳥が枝に巣を作るほど、驚くものでした。また「空の鳥」とは、旧約聖書では異邦人を含めて多くの人々が神の国の民として加えられることを表わす表現として使われたことがあります。そのように、神の国は素晴らしい成長をしてユダヤ人は勿論、異邦人にも及ぼすように成長して行くということです。そしてその通り、イエス様から始まった神の国の教えは、12名の弟子たちに、また120名程の弟子たちに、さらにはエルサレム教会での爆発的な成長をします。
二つ目にイエス様はパン種のたとえ話を話してくださいます。からし種の例え話が神の国の外側の成長を表わすことであれば、パン種のたとえ話は内側の変化を表わすことです。3サトンの粉に比べるとパン種は非常に少ないものです。しかしその少ないパン種が入ることによってその粉全体がふくらみます。それはパン種の影響を受けて全体が変わる、変化するということです。そのように人間の心に神の支配が入りますと、その心全体に大きな影響が与えられ、全体が変わるのです。私たちの心に与えられた神の支配、それはかしら種のように小さなものであるとしても驚くほど大きくなるものです。そしてパン粉のように少ないものであるとしても、全体に影響を与えて変わるものです。私たちも、神さまの支配によって神の子らしく成長し、変えられるように祈って行きたいと思います。
「復活の信仰」 コリント人への手紙第一15章1-11節
本日の本文でパウロは福音について説明しています。それはコリント教会の中に、15章12節の後半に書いてあるように「死者の復活はない、と言っている人」がいたからです。そして本文の2節でパウロは「私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」と言っています。それはコリント教会の聖徒たちの中には、パウロが彼らに伝えた福音をしっかりと保つ事が出来なかった人々がいたということです。それでパウロは彼らに福音の中心であるイエス・キリストの死と復活について説明しようとします。本文の中でイエス様の復活された証拠を提示します。その証拠を通して、イエス様の復活は歴史歴な事実であるということを改めて確認したいと思います。
その一つ目に、イエス・キリストの死と復活は聖書の示す通りに成し遂げられたことであるということです。旧約聖書では来られるキリストについて、新約聖書は旧約聖書通りに来られたキリストと再び来られるキリストについて説明されています。聖書の示す通りというのは、神様のみことばの預言通りに、神様の摂理とご計画の中でキリストの受難と復活がなされた事実であるということを表わすことです。二つ目に、パウロは復活の数多くの証人たちがいるということを説明します。イエス様は復活の後、弟子たちには勿論、500人以上の兄弟たちに、それも同時に現れました。三つ目に、パウロは復活されたイエス様に出会ってからの自分の人生が変わったという事を説明します。それは証言だけではなく、その証し人たちが自分の人生を通してイエス様の復活を証ししているということです。
罪人である私たちのためにこの地に来られた御子キリスト、そのお方が私たちの罪を代わりに背負って十字架につけられ、死んでくださいました。そして葬られ、三日目に復活されたことをしっかりと覚えて、私たちも復活の証し人となりたいと思います。