「神の国は」 ルカの福音書13章18-21節
イエス様は公生涯の間、神の国について色々なたとえ話をもって説明し教えてくださいました。本日の本文もイエス様のたとえ話であって、イエス様は二つのたとえ話を通して神の国の特徴について教えてくださいます。
先ず、イエス様はからし種のたとえ話を通して神の国の成長、又はその広がりについて教えてくださいます。マタイの福音書13章には、からし種について「どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり」と書いてあります。特に、そのからし種の成長というのは、空の鳥が枝に巣を作るほど、驚くものでした。また「空の鳥」とは、旧約聖書では異邦人を含めて多くの人々が神の国の民として加えられることを表わす表現として使われたことがあります。そのように、神の国は素晴らしい成長をしてユダヤ人は勿論、異邦人にも及ぼすように成長して行くということです。そしてその通り、イエス様から始まった神の国の教えは、12名の弟子たちに、また120名程の弟子たちに、さらにはエルサレム教会での爆発的な成長をします。
二つ目にイエス様はパン種のたとえ話を話してくださいます。からし種の例え話が神の国の外側の成長を表わすことであれば、パン種のたとえ話は内側の変化を表わすことです。3サトンの粉に比べるとパン種は非常に少ないものです。しかしその少ないパン種が入ることによってその粉全体がふくらみます。それはパン種の影響を受けて全体が変わる、変化するということです。そのように人間の心に神の支配が入りますと、その心全体に大きな影響が与えられ、全体が変わるのです。私たちの心に与えられた神の支配、それはかしら種のように小さなものであるとしても驚くほど大きくなるものです。そしてパン粉のように少ないものであるとしても、全体に影響を与えて変わるものです。私たちも、神さまの支配によって神の子らしく成長し、変えられるように祈って行きたいと思います。
「復活の信仰」 コリント人への手紙第一15章1-11節
本日の本文でパウロは福音について説明しています。それはコリント教会の中に、15章12節の後半に書いてあるように「死者の復活はない、と言っている人」がいたからです。そして本文の2節でパウロは「私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。」と言っています。それはコリント教会の聖徒たちの中には、パウロが彼らに伝えた福音をしっかりと保つ事が出来なかった人々がいたということです。それでパウロは彼らに福音の中心であるイエス・キリストの死と復活について説明しようとします。本文の中でイエス様の復活された証拠を提示します。その証拠を通して、イエス様の復活は歴史歴な事実であるということを改めて確認したいと思います。
その一つ目に、イエス・キリストの死と復活は聖書の示す通りに成し遂げられたことであるということです。旧約聖書では来られるキリストについて、新約聖書は旧約聖書通りに来られたキリストと再び来られるキリストについて説明されています。聖書の示す通りというのは、神様のみことばの預言通りに、神様の摂理とご計画の中でキリストの受難と復活がなされた事実であるということを表わすことです。二つ目に、パウロは復活の数多くの証人たちがいるということを説明します。イエス様は復活の後、弟子たちには勿論、500人以上の兄弟たちに、それも同時に現れました。三つ目に、パウロは復活されたイエス様に出会ってからの自分の人生が変わったという事を説明します。それは証言だけではなく、その証し人たちが自分の人生を通してイエス様の復活を証ししているということです。
罪人である私たちのためにこの地に来られた御子キリスト、そのお方が私たちの罪を代わりに背負って十字架につけられ、死んでくださいました。そして葬られ、三日目に復活されたことをしっかりと覚えて、私たちも復活の証し人となりたいと思います。
「解放された恵み」 ルカの福音書13章10-17節
本日の本文はイエス様が安息日に会堂で教えておられる時、ひとりの病者を癒して下さった内容です。その中で、イエス様が安息日の規定を守らなかったと非難する人々がいましたが、そういう人々に安息日の本当の意味を教えてくださっています。本文に出て来る女性は、18年間という長い間大変重い病気を持っていました。11節では「腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女」と説明されていますが、その人生がどれ程大変であったのか想像も出来ないものです。そのような辛い人生を生きて来た彼女でしたが、しかしその信仰は素晴らしいものであったと思われます。大変重い病気をしていながらも、この女性は安息日に会堂に来て神様に礼拝をささげていたのでした。彼女の病気が重いほど、その信仰も深いものであったと考えられます。
そのような女性をご覧になったイエス様は、彼女を呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました」と言って、彼女に手を置いて下さいました。すると、彼女の病気は癒され、固く曲がっていた腰が伸びました。そして彼女は、その場で神様をあがめたのです。18年間も、大変長い間、苦しんでいた病気が治り、その感激と喜びをもって神様に感謝をささげる感動の場面です。ところが、その姿を見ていた人々の中には、それを嬉しく思わない人々がいました。それは会堂管理者に代表される人々でしたが、彼らはイエス様が安息日の規定を破ったと非難する者たちでした。
そういう人々にイエス様は「あなたがたは、安息日に、牛やろばを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。」と質問されます。安息日に自分たちの家畜には解放と休みを与えるのに、この女性に与えられる本当の解放はいけないと言っているのか、と問われるイエス様です。私たちは自分の考え方から他の人を束縛していることはないでしょうか。神様が与えてくださった本当の解放、魂の安らぎを味わい、他の人々にもその喜びを分かち合う者になりたいと思います。
「満ち足りる恵み」 ピリピ人への手紙4章10-13節
ピリピ教会はエパフロデトを送り、投獄されているパウロに贈り物を届けました。獄中にいたパウロにとってエパフロデトの存在は大きな喜びとなりました。実はピリピ教会は以前からパウロを支援していました。その支援が献金なのか、生活用品なのか、それともその両方なのかは具体的には分かりません。しかし4章14節以降の内容を見ますと、ピリピ教会はパウロの宣教活動に支援をしていたことが分かります。それがしばらくの間止まっていましたが、本文の10節に「私のことを心配してくれるあなたがたの心が、このたびついによみがえって来た」とありまして、その支援が再び届き、それをエパフロデトが持って来たといことです。そのようなピリピ教会からの支援に対して「私は主にあって非常に喜びました。」と言ったパウロは、それを共にどんな境遇にあっても満ち足りることが出来る秘訣について説明しています。
何故なら、ピリピ教会からの支援はとても喜ぶことでありますが、パウロが持っていた喜びと感謝はそれだけによることではなかったからです。それをパウロは11節で「乏しいからこう言うのではありません。」と語っています。ピリピ教会が自分のことを覚えて支えてくれる、そしてエパフロデトをも自分のところに送ってもらって非常に喜ぶことですが、それに対する感謝と共にあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていたパウロには喜びと感謝が満ち溢れていたということを証ししている事です。
そしてその秘訣とは13節の「私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる」と言うことでした。ですから13節で「どんなことでもできる」と言うことは「どんな境遇にあっても満ち足りることを学んであらゆる境遇に対処することが出来る」という意味です。そしてそれは大変なパウロの人生の中で神様が守り導いてくださった経験を通して学んで心得たものです。私たちをも同じく主にあって満ち足りることが出来るように導いてくださる恵みを覚えて歩んで行きたいと思います。
「私たちを待ってくださる神」 ルカの福音書 13章6-9節
前の段落でイエス様は悔い改めなければ滅びる、ということについて厳しく教えてくださいました。そして続く本日の本文では、それでは何を悔い改めなければならないのかといことを短いたとえ話を通して教えてくださいます。あるぶどう園の主人がいちじくの木をぶどう園の中に植えました。それは、そのいちじくの木から美味しい実を取るためでした。ところが、何年が経ってもそのいちじくの木には実が結ばれなかったのです。ぶどう園の主人は、美味しい実がなることを期待し、3年もの間、実がなったのかといことを見に行きましたが、実は一つもなかったのです。それで等々、ぶどう園の主人は、番人にそのいちじくの木を「切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。」と言いました。それを聞いた番人は、主人に今年、もう一年を待って頂けないでしょうか、と願い出ます。その間、まこころを込めていちじくの木が実を結ぶように一所懸命に育てます、と。そしてそれでも実が取れないなら切り倒してください、と答えました。
このたとえ話に出て来るぶどう園の主人は父なる神様を、番人はイエス・キリストを、そしていちじくの木は当時のユダヤ人又は私たちクリスチャンの事を現わしています。そこでぶどう園の主人は実が取れる時まで長く待っていましたが、それでも実がなかったので、もう切り倒してしなさいと言われますが、その中で番人はもう一年を待って下さいと一所懸命に執り成しをしているのでした。そして主人が期待していた実と言うのは、前後の文脈のことを考えて見ますと悔い改めの実です。神の民となり、ぶどう園というとても良い環境の中で、まこころを込めて育ててくださる番人までもいるのに、悔い改めの実を結ぶことが出来ない、という私たちの現状を現わしているのです。そのような私たちの側に立ち、もう一年待ってくださいと取り成してくださるイエス様の愛、またそのよう待ってくださる神様の恵みを覚えまして、聖霊の実を結ぶ者となりたいと思います。
「神を心に据える」 申命記8章11-20節
本日の本文が記されている申命記は、40年間の荒野での生活が終わり、神様からの約束の地、祝福の地、乳と蜜が流れるカナンの地に入ることを間近にしている時です。このような時に、神様が約束してくださった約束の地に入るイスラエルの民に残した最後の説教が申命記であるのです。そしてモーセは、自分のこの最後の説教で「あなたがたが約束の地に入っても必ず覚えなければならないことがある。忘れてはいけないことがある。」と強調したものが申命記全体の内容であります。本日の本文においても「覚えなればならない」「忘れてはいけない」などということが非常に強調されていることを見ることが出来ます。このように40年間の荒野での生活を終えようとする時、神様がモーセを通してイスラエルの民に何を教えてくださろうとされるのでしょうか。そして今日を生きている、信仰の道を歩んでいる私たちに何を覚えなさい、何を忘れてはいけないと語ってくださっているのでしょうか。
それは荒野での生活の中で共にいてくださった神様を覚えなさい、その神様の恵みを忘れてはいけない、ということです。もうすぐ約束の地であるカナンに入るイスラエルの民に、神様は他ではなく荒野で共にいてくださった神様を覚えなさいと強調しておられます。何故なら、その荒野での生活を通して神様はイスラエルの民の信仰を訓練させてくださったからです。そしてもう一つは、荒野での生活を通して神様の民はパンだけで生きるのではなく、神様の口からでるすべてのもので生きるということを教えてくださったからです。40年間、荒野で訓練を受け、神様からの恵みと力によって生活して来たイスラエルの民も、その生活が豊かになれば自然の神様のことを忘れてしまい、高ぶってしまうのです。その弱さを良く知っておられた神様は、彼らに神様のことを心に据えて覚えなさいと語ってくださいます。私たちも今まで守り導いてくださった神様のことを覚えて、そのみこころ通りに歩んで行く者となりたいと思います。
「悔い改めないなら」 ルカの福音書13章1‐5節
私たちが生きているこの世界では誰も予想出来ない色々な自然災害が起こります。特に日本は地震、洪水、火山、津波等、こんなにも多い震災が一つの国の中で起こるのかと思われるほど、種類もその発生件数も多い国だと思います。日本においては東日本大震災も大変なことでした。海外においては2010年にあったハイチ地震は死者だけでも31万6千人程に及ぶものであって人間の想像を超えた地震災害でした。毎年、世界各地で、そして日本においても色々なところで災害が起きて、それによって多くの人々が命を失い、被害にあった人々は大変な生活をするようになります。私たちはそういうことを聞いてどのように受け入れればよいでしょうか。本日の本文は、災害そのものについて語られたことではありませんが、予想出来なかった事故や災害の話しが出て来ます。
最初の話しは、ガリラヤからエルサレムに来た人々が神殿でいけにえをささげている時、ピラトが送って兵士たちによって殺されたという事です。その残酷な光景をルカは1節で「ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜた」と伝えています。そしてもう一つの事故は、シロアムの塔が倒れて18人の人々が亡くなったという事です。二つのことは、亡くなった本人にとっては予想出来なかったことであり、突然起きたことであります。ところが、こういう事故について当時のユダヤ人たちは、その人に深い罪があって神さまが裁かれたと思っていました。そのように持っている人々にイエスさまは「そうではない。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」と、それも3節と5節で2回も繰り返して語っておられます。即ち、他人の罪よりも自分自身の罪を省みなさい、そして自分の罪を悔い改めなさい、といことです。こういうイエスさまの教えを通して自分にこそ罪あるものだ、といことを覚えて、悔い改めて私たちに教えて下さる信仰の道を歩んで行きたいと思います。
「キリストにあっての恵み」 コリント人への手紙第一 1章4-9節
このコリント人への手紙はパウロがコリントの教会に送って手紙であって、パウロのコリントでの宣教活動については使徒の働き18章以降に詳しく記されています。コリント地域は、パウロの第2次伝道旅行の中で、非常長い間滞在し、福音を伝えたところです。1か月半位、それもあの有名なアクラとプリスキラ、そしてシラスとテモテまでも、このコリントで一緒に福音を伝えました。異邦の地に、偶像の多いところで苦労し教会を建てたところであって、それほどコリントはパウロにとって特別な意味があります。ところが、このコリント人への手紙第一では、当時コリント教会が抱えていた多くの問題を取り扱います。本日の本文の次、直ぐに分派と分裂の問題について語ります。そして結婚の問題、偶像にささげた食べ物の問題、公の礼拝においての問題、霊的賜物の問題、復活の問題など、その種類や数は他の手紙では見ることが出来ないほど、多様で多いものです。
そのようなコリントの教会を思うパウロの思い、その心はどのようなものだったでしょうか。聞こえて来る色々な噂、問題など、それによってパウロは喜ぶことが出来ない状況であったかもしれません。到底、彼らのことを思って感謝をする、と言うことが出来なかったかもしれません。しかし、そのようなコリントの教会に送る手紙、その最初のことばは、彼らに対する失跡や咎めること、非難することばではありませんでした。本文の4節をご覧になりますと「私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。」とありまして、神さまから恵みを覚えて神さまに感謝をささげるパウロです。
私たちがどのような状況におかれているとしても、そしてどんな人に対しても、先ずは自分に与えられた恵みを覚えたいと思います。イエス・キリストにあって私たちに与えられた恵みを覚え、神さまに感謝をし、そこから希望を見出すことが出来るものになりたいと思います。
「時代を見分ける信仰」 ルカの福音書12章54-59節
昔も今も、天気予報は日常生活において非常に重要なことです。特に、今のように寒い季節には天気予報を見て準備しないと大変なことになります。最近はテレビやインターネット、又はスマートフォンなどで現在の地域の天気やその一週間のこともを詳しく分かります。そしてそれも非常に正確なものです。ところが、今日のように科学が発展していなかった時にも、経験を通してある現象がおこると、それを見てこれからの天気がどうなるのか、といことを予測して来ました。
本日の本文でも、イエスさまは当時ユダヤ人たちが良くしていた天気予報、ある自然現象について話されます。そしてその現象を通して天候のことを見分けることが出来るのに、如何して今の時代について見分けることは出来ないのかと問われます。この時、イエスさまが話される「今のこの時代」というのは、御子キリストがこの地上に来られて、神の国を伝え、力をもって奇跡を行なうイエスさまの時代です。即ち、自然のある現象を見てこれからの天候を見分けることが出来るのに、どうして旧約聖書から預言されたメシヤ、そのメシヤとして来た私のことを見ているあなた達は、それを見分けることが出来ないのか、ということです。そして何故、救い主としてこの地上に来た私のことを見ても、あなた達はそれを確かめようともしないのか、ということです。イエス様は色々なところでご自分がキリストであることの証しを示しておられ、ご自分のことを多くの人々に教えてくださいました。そのようなイエスさまを見ても分からない、見分けることが出来ない人々に例え話を通して神さまと和解しなさい、と教えてくださいます。
今、私たちのためにこの地上に来てくださったイエス・キリストを信じ救われなければ、その人を待っているのは最後の審判であり、その結果は牢に投げ込まれることです。まだ、その途中にある時に、私たちの救い主であるイエス・キリストを信じましょう。また、既に信じている方々はその恵みに感謝して生きて行きたいと思います。
「私たちと共にいる神」 出エジプト記3章1-12節
私たちがクリスチャンとしてこの世の中で生きて行く時に、神さまを知らない人々と異なることがありますが、その中でも大切なものは神さまが呼んでくださったという事を覚えて生きて行く事です。本日の本文は、神さまがモーセを呼んでくださる内容ですが、本文を通して私たちを呼んでくださる神さまについて考えて見たいと思います。
先ず、神さまは私たちを呼んで下さり、そのような私たちを通してご自分のご計画を成し遂げてくださいます。ある日、神さまはモーセに不思議な現象を見せてくださり、そんな中でモーセを呼んでくださいます。そして「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。」(出3:7)と、その目的を教えてくださいます。神さまのご計画の中で時が満ちて、エジプトで奴隷の生活をしていたイスラエルの民を、モーセを用いて連れ出そうとなさった事です。その苦しみから救い出そうとされた事です。そのためにモーセを呼んでくださいました。それと同じく、神さまは私たちを通して、私たちを家族や友人等、私たちの周りにいる人々に福音を伝えるために私たちを呼んでくださるのです。そしてそのような私たちを一人でほうっておくのではなく、いつも私たちと共にいてくださいます。本文で神さまはモーセに「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。」(出3:12)と仰ってくださいます。これ以上大きな力になることはありません。全治全能であられる神さまが共にいてくださる。それによってその人はどんなことも十分に成し遂げることが出来るのです。
私たちを召してくださり、その私たちを通して御救いのご計画を成し遂げてくださる神さまの事を覚えて、どんな状況の中でも神さまの愛を、そして福音をのべ伝えて生きて行きたいと思います。