「罪を見過ごしてくださる神」 Ⅱサムエル記12章7−13節
本日の本文はあの偉大なダビデが、あの信仰深いダビデが罪を犯してしまった、ということがナタンによって暴露される内容です。その罪というのは、本文のすぐ前の11章に書いてあるダビデの姦淫と殺人の罪です。ある日、王宮の屋上を歩いていたダビデは、一人の女性が体を洗っているのを見ました。彼女について調べたら、自分の部下ウリヤの妻であることが分かりましたが、ダビデは彼女を自分のとろこに呼び、姦淫の罪を犯します。その後、彼女がみごもったことを知り、それを隠すためにウリヤを家に帰らせますがダビデの思う通りに行かず失敗してしまいます。結局、ダビデはウリヤを最も激しい戦場に送り、ウリヤが死ぬようにしました。その後、ウリヤの妻、バテシェバを迎え入れ、ダビデの姦淫と殺人の罪はそのまま隠されるようです。
しかし、そのすべてを神様はご覧になっておられ、ダビデのところにナタンを遣わし、その罪を指摘します。ナタンは一つのたとえ話を通してダビデの罪が死刑になる程、深刻なことだということをダビデに告げます。そしてダビデの罪がどんことなのか、詳しく説明しますが、それは「あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。」ということでした。そこまでダビデは自己弁明をしていたかもしれません。自分の罪の責任を他の人のせいにして、自分は悪くないのだ、と思っていたかもしれません。しかし、そのダビデに神様がダビデの罪を指摘し、罪を教えてくださったのです。
その話を聞いたダビデはすぐに「私は主に対して罪を犯した。」と自分の罪を認め告白しました。そしてそのようなダビデに対して神様は「あなたの罪を見過ごしてくださった。」と赦しを与えてくださったのです。神様がダビデの罪を指摘し、罪を悟るようにしてくださった理由は他ではなく、その罪を赦してくださるためでした。私たちが何か罪を犯してしまった時、それを知りましたら、このような赦しの神様のことを覚えて悔い改めましょう。私たちの罪を赦してくださる神様、その神様が喜ばれる道を歩んでいく者になりたいと思います。
「辱められることの恵み」 使徒の働き5章33〜42節
本日の本文には、福音を伝えたことによって殺される危機に置かれた使徒たちの姿が出てきます。使徒たちは、ペンテコステの出来事の後、宮でイエス様がキリストであることを教え、病人を癒したり悪霊を追い払ったりしました。それに対するサンヘドリン議会の対応は、最初は軽い方でしたが、それも段々大変なものになりました。そんな中で、本日の本文は使徒たちが議会において尋問される場面ですが、使徒たちの答弁を聞いていた議会は、怒り狂って使徒たちを殺そうとまで思ったのです。
その時、議会の中にいたガマリエルという人物が立ち、使徒たちを外に出させて議会の方にゆっくり考えてみた方が良いのではないか、という提案をしました。ガマリエルは、すべての人に尊敬されている律法学者でパリサイ人でした(34節)。彼は昔のパウロの先生でもありまして、当時イスラエルの中で最も尊敬される人物でした。そのようなガマリエルはチェダとガリラヤ人のユダという過去の二人の実例を取り上げて使徒たちのことから手を引き、放っておきなさい、ということを提案します。彼の意見は、もし、今の騒ぎが人からのものだったら自滅してしまい、神様からのものだったら彼らを滅ぼすことはできない、と話します。
このようなガマリエル提案は正しいこととは思えないことですが、神様はそれを用いてくださり、議会から使徒たちが釈放されるようにしてくださいます。その釈放される際に、使徒たちはムチで打たれ、イエスの名によって語ってはならない、と言われます。しかし使徒たちはそんな大変なことをも喜びならが帰り、再び、毎日、イエス様がキリストであることを宣べ伝え続けました。福音を伝えること、聖書の教えや十字架の出来事を他の人々に伝えることは大変難しいことです。それを伝えた時、変えて来る反応が冷たいことでしたら、その後はもっと伝えづらくなります。しかし、福音を伝えることは私たちに与えられた恵みです。たとえ、辱められることがあるとしても助けてくださる神様のことを覚えて、福音を語り続ける者になりたいと思います。
「助けてくださる神様」 使徒の働き5章17-32節
イエス様が天に上られた後、一か所に集まっていた弟子たちは聖霊に満たされる不思議な経験をします。そしてその後、聖霊の力によって多くの弟子たちは人々に福音を伝え、色々な奇跡を行ないます。ペテロの説教によってある時は三千人の人々が、ある時は五千人の人々が悔い改め、洗礼を受け、教会に加わります。また、使徒たちはイエス・キリストの名によって病人を癒したりしますが、そのような彼らの噂は広く広がり始めました。当時、多くの人々は彼らを尊敬していました(使徒5:13)。そしてその時の姿をルカは「エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた」と説明しています(使徒5:16)。
そんな中で使徒たちの姿を喜ばない人々がいました。本文の17節に「そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり」とありますが、等々、使徒たちを捕らえ、留置場に入れてしまいました。今までエルサレムのクリスチャンは多くの人々からは尊敬され、色々な奇跡を行ない、益々増え続けて来ました。しかし、大祭司とその仲間たちによって使徒たちが牢屋に入れられたという大変な状況に置かれるようになったのです。
その時、神様は神の民を不思議な方法で助け守り、導いて下さいます。先ず、神様は不思議な方法で使徒たちを牢屋から連れ出してくださいました。留置場には門の前に番人がいましたが、彼らが知らない内に主の使いによって外に連れ出されました。また、神様は彼らに聖霊を与えてくださり、使徒たちを助け導いてくださいます。使徒たちは再び大祭司たちの前に連れて来られますが、その時、彼らに対して「人に従うより、神に従うべきです。」と答え、大胆に福音を伝えました。このような姿は聖霊が助けて下さっているからです。神様はご自分に従おうとする人々をある時は不思議な力で助けて下さり、聖霊を通して守り導いて下さいます。私たちもどんな状況の中でも、そのような神様を信じ、神様に従う道を選んで歩んで行く者になりたいと思います。
「キリストについて行く」 ルカの福音書14章28-35節
本日の本文は、前回のる会の福音書14章25節以降で教えられたイエス様の弟子になることへの教えの続きです。14章26節では自分の家族と自分のいのちまでも憎まない者は、イエス様の弟子になることが出来ないということが、そして27節では自分の十字架を負って付いて来ない者も、やはりイエス様の弟子になることが出来ない、と言うことが言われました。28節以降はその三つ目になりますが、そこにおいてイエス様は例え話しをしてくださってイエス様の弟子になることについて教えてくださいます。
先ず、イエス様は塔を築こうとする時の話してしてくださいます。その話しではある事を始める時は、始める前に費用などを十分に考えた上で始めるということです。そうしないで何も考えずに始めたら途中でやめざるを得なくなり、それでは周りから笑われる者になるしかない、ということです。そして二つ目の例え話しは、戦いを交えようとする時の話しです。その時に敵の力、兵士の数などを十分に考えて勝ち目があるかどうかを決めるべきだ、ということです。この二つの例え話しの中で共通に強調されていることは「まずすわって、十分に考える」ということです。ですから、イエス様の弟子になる者は、弟子になることを十分に考えなければならないということです。その道がどれほど大変なのか、どれほど大きな犠牲を払わなければならないのか、そして弟子になる者はいつも悪魔から攻められることになることをも十分に考えてイエス様について行かなければならないということです。そのことをよく考えて、そしてどんな場合においても、何よりも誰よりもイエス様を愛する者、イエス様を第一に大事に思う者になれば、その人は塩気を保ち、良い塩として用いられるようになります。
私たちはイエス様の弟子としてクリスチャンとして、イエス様について行かなければなりません。その時、先に歩まれたイエス様のお姿を覚えて、そのお方に学んで、その足跡をついて歩んで行く者になりたいと思います。
「神のみこころより離れないように」 士師記18章7-13節
本日の本文は、イスラエルの12部族の中でダン部族の内容です。7節の初めに「五人の者は進んで行って、ライシュに着き、そこの住民を見る」とありますが、これはダン部族から5名の斥候を送ったことです。18章1節に「ダン人の部族は、自分たちの住む相続地を求めていた。イスラエルの諸部族の中にあって、相続地はその時まで彼らに割り当てられていなかったからである。」という理由からのことでした。しかし、ヨシュア記19章41節以降によりますと、ダン部族にも同じく割り当てられます。ところが、ダン部族はその地を自分たちのものにすることが出来ず、神様によっての割り当て地ではなく、新しい土地を探そうとして5名の斥候を送ったことでありました。
そしてその5人の人々はエフライムの山地にあるミカの家で若いレビ人に出会うようになります。彼がミカによって雇われてミカの家で祭司になったことを知った彼らは、彼に「どうぞ、神に伺ってください。私たちのしているこの旅が、成功するかどうかを知りたいのです。」と頼みました。そしてその若いレビ人は「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、主が認めておられます。」と答えます。それを聞いた5名の斥候は、ガリラヤの北側にある「ライシュ」という町に付き、その町を探っていたことでした。その後、彼らは自分たちの家に帰り、ダン部族の人々に「ぐずぐずせずに進んで行って、あの地を占領しよう。」と、そして「神はそれをあなたがたの手に渡しておられる。」とも報告し、ライシュに攻め上ることを強く主張します。そのような彼らの心には、神様のみこころは何か、神様が良しとされることは何か、という思いはありませんでした。ただ、自分たちのしたいままに、自分たちが願うままに行なって行くだけなのです。しかし、私たちがすべきことは神様のみこころに従うことです。どんなに大変なことがあるとしても、神の子らしく、神様が教えて下さるままに、導いて下さるままに従って歩んで行く者になりたいと思います。
「愛に取り囲まれる」 Ⅰコリント人への手紙 5章13-15節
本日の本文はパウロがコリント教会に書いた手紙です。聖書の中でパウロの最初の姿はクリスチャンを迫害し、キリストを迫害することでした。そのようなパウロは、クリスチャンを捕まえるためにダマスコに行く途中でイエス様に出会い、今までの人生とは180度変わった人生を歩むようになりました。キリストを迫害する者から、キリストの使徒として世界中に福音をのべ伝える働きをするようになったのです。そのようなパウロの人生は、決して平坦の道のようなものではありませんでした。異邦人の使徒として福音を伝えることを一所懸命にやればやるほど、もっと大きな苦難があったのです。福音を伝えることによって同じユダヤ人から非難され、迫害を受け、時には命までも危険になることもありました。
本日の本文においても自分を非難する人々に対してパウロは「もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。」と答えています。周りから迫って来る非難や大きな迫害の中にあったパウロ、しかし彼の心はキリストへの情熱に満ち溢れていました。そのような情熱をもって、いつも神様の御前においては謙遜であって、その働きに良い手は神様からの力によって自分に与えられた働きをやり続けて来たのです。
それでは、苦難の中でもキリストへの情熱を持たせたのは何でしょうか。それは「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。」と、答えています。そしてそのキリストの愛について14節と15節で説明していますが、それはキリストの低くなった謙遜のお姿と自分の全てをささげた犠牲の愛でした。御子キリストであられるお方が、私たちへの愛のゆえに人となってこの地に来られました。そして苦しみを受けられ、十字架につけられて、罪人の救いのために死なれたのです。そういうキリストの愛を頂いている私たち、そのキリストの愛に取り囲まれている私たちは、その愛によってどんなことをも耐え忍び、乗り越えることが出来るのです。
「イエス様について行く」 ルカの福音書14章25-35節
この時もイエス様の周りにも大勢の人々が集まり、イエス様について行っていました。そういう大勢の人々のほうに向いて、イエス様はご自分の弟子になるためには、こうでなければならないことについて話してくださいます。本文の中には三つのことが教えられていますが、本日はその中で二つのことについて考えて見たいと思います。
一つ目にイエス様は、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません、と語れます。この時の「憎む」ということばは「より少なく愛する」という意味です。同じことを教えますマタイの福音書10章37節には「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」と書いてあります。即ち「自分の家族を憎まない者」とは「イエス様より家族を愛する者」となります。ここでイエス様は教えてくださることは、家族より、さらには自分の命よりもイエス様を愛する者でなければイエス様の弟子になることはできないということです。ですから、イエス様について行く者は、何よりも、誰よりもイエス様を愛する者でなければならないのです。
二つ目にイエス様は自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、イエス様の弟子になることはできないと仰います。そして自分の十字架を負う、ということはイエス様が苦しみの道を、辱しめの道を歩んで行かれましたように、その人もイエス様について行くゆえに苦しみを受けるということです。イエス様について行くゆえに辱しめを受けるということです。神様に招かれて信仰が与えられ、イエス様が歩んで行かれた道を歩む時、そこには家族から、友人から、周りの人々から反対されることも苦しみを受けることもあると思います。そういう時に、イエス様について行く者は、そのような自分の十字架を負いつつ、イエス様に行かなければなりません。
誰よりもイエス様を第一に愛し、どんな苦しみがあるとしても最後の最後までイエス様について行く者になりたいと思います。
「命と平安」 ローマ人への手紙8章5-8節
本日の本文には二つの種類の人々は出て来ます。一つは肉に従う人であり、もう一つは御霊に従う人です。すべての人々はこのどちらかに属していますが、パウロはその二つの種類の人々を対比しながらその違いを強調して説明しています。
先ず5節をご覧になりますと「肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。」とあります。ここで肉とは、罪によって堕落した人間の本性のことです。罪人の本来の状態とも言うことが出来ます。そのような人は、肉的なことをもっぱら考えます。それは、その人の心が肉的なことによっていっぱいになって、それが生き方の中で表われることです。使徒ヨハネはそのような人々は世を愛する、世のものを愛する人(Ⅰヨハネ2:15)だと言います。そして肉的なこととは、具体的にはガラテヤ人への手紙5章19節以降で説明されています。そういう肉の思いは死であり、それは「神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しない、服従できない」からです。
その反面、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。御霊は私たちにキリストについて教えて下さり、そのお方を証しして下さいます。ですから、御霊に従う者はイエス・キリストを知り、そのお方を遣わして下さった神様の恵みと愛をも知るようになるでしょう。また、御霊は父なる神様のみこころを知り、それを私たちの教えて下さいます。それによって私たちは神様のみこころを知りそれに従って行き、神様に喜ばれる人生を歩むのです。そういう私たちには命を平安が与えられるのです。
私たちは神様の恵みの愛によって救われ、神様は喜ばれるままに、御霊の導きに従って生きることが出来るようになりました。しかし、完全なものではないため、時には罪を犯し失敗をすることもあります。そんな中でも、御霊に従って歩むものであることを覚えたいと思います。
「招いてくださる神様」 ルカの福音書14章15‐24節
本日の本文でイエス様は「盛大な宴会」というたとえ話をしてくださいます。それはイエス様の話しを聞いていた一人の人がイエス様に「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう」と言ったことからのことでした。前の段落でイエス様は、パリサイ派の指導者の家に招かれて食卓についている人々に「義人の復活のときお返しを受ける」と言うことについて語られました。それを聞いたパリサイ人は、自分たちこそ神の国で食事を、神様よりお返しを受ける、何と幸いな人なのかと思い、それをイエス様に話したことだと考えられます。
そのように思っていたパリサイ人たちに「盛大な宴会」のたとえ話をしてくださいます。最初に「盛大な宴会を催し、大勢の人々を招いた主人」が出て来ます。この主人は宴会のすべての準備をしておいて、宴会に行きますと答えた人々に僕を送ってその知らせをします。ところが、その宴会の話しを聞いた人々は、みな同じように断わり始めます。ある人は畑を買ったのでどうしても畑を見に行かなければならないと、ある人は五くびきの牛を買ったのでその牛を試しに行かなければならないと、そしてある人は結婚したので行けないと、盛大な宴会への招きをそれぞれの言い訳をもって断ります。このような断り方は宴会を用意した主人にとっては非常に侮辱的なことです。そのような話を聞いた主人は、彼らに怒って当然の話しです。
しかし、この主人は怒りの代わりに憐れみを、そして恵みを示して下さいました。そして宴会を取りやめることではなく、急いで僕を送り、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者たちを宴会に招いて下さいます。そして自分の家がいっぱいになるように、無理にでも人を招いて来るように、と話します。この主人は父なる神様でした。私たちに「さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができました」とご自分の宴会に招いてくださるお方なのです。その神様の憐れみと恵みを覚えて喜びと感謝をもって生きて行きたいと思います。
「神の箱が奪われる」 サムエル記第一 4章12‐22節
本日の本文にはイスラエルの悲惨さがそのまま表われています。ペリシテ人との戦いで負けてしまったイスラエルは、約3万人程の人々が殺されます。そしてその戦場に担いで行った主の契約の箱までペリシテ人に奪われてしまいます。ペリシテ人との戦いで負けて多くの人々が命を失う、それだけでも大変なことなのに、神様の御臨在の象徴である神の箱まで奪われてしまうという絶望に陥ってしまいました。そしてそれで終わった事ではありませんでした。その知らせを聞いたイスラエルの人々は町中こぞって泣き叫びました。そしてその時の祭司であるエリは、その衝撃の大きさにより座っていた椅子からあおむけに落ち、首を折って即座に死にました。また、エリの嫁はその話しを聞いて陣痛が起こり、男の子を産みましたが、喜ぶところか「気にも留めなかった」と、その時の悲惨さを伝えています。さらに、その子の名前を「イ・カボテ」即ち「栄光がイスラエルから去った」とつけて、絶望に落ちているイスラエルの状態をそのまま現わします。ペリシテ人に負けてしまい多くの人々は命を失い、神の箱は奪われてもはや神様の栄光は去ってしまった。それがイスラエルの状態でした。
しかし、神様の導きはそのような絶望で終わってしまう事ではありませんでした。希望とは少しも見えない状態の中で、神様はイスラエルを見捨てません。諦めません。再び、神の民としての道に導いてくださり、祝福への導いてくださいます。神を捨てて偶像を拝んでいたイスラエル、その罪を悔い改めず、かえって神様をペリシテ人との戦いで勝利のために利用しようとしたイスラエルを、赦してくださり再び悔い改めの道へと導いてくださいます。私たちの目にはすべてが終わってしまったかのように見え、それ以上望みとは期待できない状況であるとしても、神様は変わることなく私たちを神の民としての道へ導いてくださるのです。