礼拝メッセージ要旨

6月2日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「喜びの庭―父となり母となりて―」         創世記4章1~2節

「家庭」という字は「家の庭」と書きます。なぜ「家」と「庭」が結びつくのでしょうか。この事を理解するためには、エデンの園の物語に目を向けなければなりません。人間は罪を犯し、神と共に歩むことをやめ、エデンの園を追われ荒野に放り出されました。そこは園の外であります。雨風に吹きさらされ、容赦なく嵐に見舞われるところであり、もはや楽園ではありません。ここで生きて行くためには厳しい自然との闘いから身を守らなければなりません。そのため人間は住まいを持つようになりました。そしてこの家の中に家族と呼ばれる最も親密な交わりが生まれるのです。そこから、それぞれの家の物語が紡ぎ出されていくのですが、その人類最初の家庭の物語が創世記4章から始まるのです。それは喜びの出来事から始まります。アダムとエバに最初の子カインが与えられたのです。エバは初子を抱き喜びの声をあげて語ります。「私は主によってひとりの男子を得た。」と。ここに人類最初の母エバが誕生し、彼女は「すべて生きているものの母」(創世記3:20)となったのです。今や彼らは人の親になることが許されたのです。そしてエバは二人目の子供も与えられます。こうして罪を犯し、エデンの園を追われてから園の外では、人間は神と共に憩う園を失ってしまったのですが、しかし人間が園の外にあってなお、エデンの園を思い起こさせる、庭を家の中に持つということ、それが「家庭」を与えられた創造主なる神の恵みなのです。命の恵みを共に受け継ぐ者として、家庭を築く喜びをお与え下さったのです。それは罪人にもかかわらず、なお人間へと向けられた神の祝福なのです。                                「あなたの妻は、あなたの家の奥にいて、豊かに実を結ぶぶどうの木のようだ。あなたの子らは、あなたの食卓を囲んでオリーブの木を囲む若木のようだ。」(詩編128篇3節)


5月26日(日) 礼拝メッセージ要旨    大竹 護牧師

 

「仕える者として」            マタイの福音書20章25~28節

イエス様が人間として生まれた。何のためでしょうか。イエス様がご自身がこのように言われていました。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、」マタイ20章28節a                                                                 神が人となる。それは罪人に仕えるため。仕えられるためではなく、かえって仕えるために人となられた神。私たちの神様は、私たちに仕えるために、人となられた神様だということです。私たちに仕えるために、神が人となられたことの重さ。ここでイエス様が語られた言葉が、いかに凄いことを語っているのか。私たちは味わっているでしょうか。                                                                         神様から離れた人間。罪人の思いの一つは、自分を高くしたい。人を従え、仕えられる立場に着きたいというもの。仕えるよりも、仕えられたい。どうしても、自分を低くするということが分からない。罪の思いというのは、自分を高く高く、上へ上へと向かわせるのです。そのような私たちに語られたのが、今日のイエス様の言葉です。「いいですか。人を思い通りに動かすこと。人に仕えられること。それが、地位が高いこと。偉いことだと思っているのでしょう。しかし、それは神を知らない異邦人の考え方です。この世界の作り主を知らず、どのように生きたら良いのか知らない異邦人は、支配し、権力をふるうことこそ、地位があり偉いことだと考えています。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。むしろ地位があり、偉いというのは、皆に仕える者であり、しもべとなること。神無しの考え方、異邦人の考え方に染まるのではなく、神の国の考え方を忘れないように。」と教えられるのです。この世界の考え方とは正反対。逆説的。しかし、これが真の宗教でありキリスト教です。                                                           このように教えて下さったイエス様は、ただ教えて終わるのではなく、私たちにご自身のいのちを下さいました。                          神から離れたいのち。罪人のいのちは、自分を偉く見せたい。自分を偉いと思いたい。人を支配し、自分の思い通りに動かしたい。そのように思うしか出来なかった命です。その自己中心的な命を持つ私たちに、キリストはご自分のいのちを与えて下さった。それはつまり、仕えることが出来るいのち。仕えることが喜びとなるいのちを下さったということです。私たち皆で、キリストのいのちに生きる歩みをしていきたいと思います。

5月19日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「来たらせたまえ 主よみ国を」        ルカの福音書11章1~2節

「主よ 私をあなたの平和の器とし、憎しみしかないところに愛の種子をまかせて下さい。痛みしかないところに 赦しを 疑いしかないところに 信仰を 絶望しかないところに 希望を 暗闇しかないところに 光を 悲しみしかないところに、喜びを どうか、みなぎらせて下さい。」「御国が来ますように」の祈りを別な言葉で表現するとしたら、フランチェスコの詩「平和の器」の冒頭部分の祈りが想い起こされます。真の平和が訪れた時に、愛、赦し、信仰、希望、光、喜びがこの地上に満ちる。神の国が実現した時の私たちが、目にすることのできる光景です。ですから「御国が来ますように」は、主イエスの使信の中心でした。主イエスが福音を宣べ伝えられた時の最初の使信が「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)でした。主イエスの教えとみ業は、常にこの神の国という中心をめぐるものでありました。「神の国」の真の意味は、神の統治、神の支配という意味です。従って私たちが「御国が来ますように。」と祈る時、それは主イエスが王としていつの日か、ご自分の栄光を現されるのは、私たちが住んでいるこの地上の、この場所においてなのだということを、告白しているのです。主イエスが生まれ、苦しみを受け、十字架につかれたこの地上を、主イエスは支配されるのです。その時、「栄光の御国」が輝かしい姿を現すのです。そしてこの日こそ、私たちのキリスト者生活におけるすべての重荷、すべての苦しみ、すべての悲しみに対する解決の時なのです。王なるキリストが来られるまでは、そのような問題に対しての、完全な解決はないのです。しかし私たちが祈るのは「栄光の御国」のためばかりでなく、個人的な「恵みの御国」についての祈りでもあるのです。すなわち神の国(キリスト)が私たち自身の心に広がり確立することが、私たちの願いなのです。私たちが神を礼拝し、生涯を神に明け渡し、神に導かれるようになるにつれ、神の国は私たちの心の中に入ってくるのです。「神の国は飲食ではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ローマ14:17)従ってこの祈りは、サタンの支配がまだ終わっていないという、今日の情況の中でキリスト者は、真の神のみを神とする生き方、御国の到来とその支配を求めて「主イエスよ、もう一度来て下さい。」と祈るのです。ですから新約聖書の最後の言葉は「『しかりわたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」(黙示録22:20)という祈りなのです。これは「御国が来ますように。」の祈りを言い換えただけです。私たちはみな、主の再び来りたもう日を切望しつつ、この祈りを口にするのです。

5月12日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「御名の栄光を現してください」        ルカの福音書11章1~2節

福音書が描くキリスト像は、主イエスは祈りの人であったということを、私たちに明らかにしています。ひとり祈るために「山に登られた」り、「寂しい所に退かれた」りされました。またどのように祈るべきかについて、山上の説教の教え(マタイの6章5節~7節)。また何を祈るべきかを、具体的に示された「主の祈り」(マタイ6:9~13)。そして祈りの姿勢について語られた譬え話(ルカ11:5~13)。さらに主イエスご自身の祈りの言葉として、ヨハネの福音書17章が伝えるあの「大祭司の祈り」など、福音書は祈りの人主イエスを、余すところなく紹介しております。その中でも特に「主の祈り」は、祈りの原型として、全てを包む祈りであり、完全な祈りです。その主の祈りにおいて、私たちが願う最初の祈りは、「御名があがめられますように。」です。この祈りは私たちの祈りの方向を決定し、その祈りの最終目的を指し示しております。ですから最初のこの祈りは、主イエスが最も大切にされ、熱心に願われたことでもありました。ヨハネの福音書17章の「大祭司の祈り」の中で、「わたしは…地上であなたの栄光を現しました。」(ヨハネ17:4)「わたしは…あなたの御名をあらわしました。」(ヨハネ17:6)と祈られました。またヨハネの福音書12章では、ご自身の十字架の死の時が迫っていることを自覚され、ご自分を一粒の麦に譬えられ、自分の死こそ、まことに豊かな実を結ぶ死であると語られた後、「今わたしは心が騒いでいる。不安に満ちている。この苦しい状況から救い出されたい。この不安に耐えられない。」(ヨハネ12:27)と言われ、それに続いてすぐに「しかし、わたしはこのためにこそ、この時に至ったのです。」(ヨハネ12:27)と語られました。そこには、「わたしは、あなたのみ心によって地上に生まれ、そのみ心に従ってここに生きる者です。今あなたのみ心が決定的に明らかになる、この時のためにわたしは生き続けてきました。」という主の思いが伝わってきます。そしてさらに、こう祈られたのです。「父よ。御名の栄光を現してください。」(ヨハネ12:28)このことを私たちは忘れてはなりません。「御名があがめられますように」という祈りの背後には、主イエスご自身の祈りの生活があります。そして、主イエスご自身が、その苦しみの最も深いところにおいて、ご自身の意志に逆らうようにして祈らなければならなかった祈りであったことを、私たちは想起し、その祈りの持っている意味の重さを、しっかりと受け止めましょう。

5月5日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神の再創造のみわざ」              創世記3章20~24節

「楽園追放」を題材として描かれた絵画の中で、最も有名なのがルネッサンス美術の幕開けを告げるマサッチオ(1426~27)の「楽園追放」です。この絵画ではアダムとエバの姿が暗く悲劇的に描かれております。アダムは自らの罪を悔いて恥じ入るかのように、両手でその顔を覆い隠し、エバは悲痛な面持ちで天を仰ぎながら、胸と下半身に両手を当てています。二人はかくも打ちひしがれたまま、永遠に楽園を後にするのです。失ったものの大きさと、彼らを待ち受けている過酷な運命に立ち向かわなければならない、不安と恐れを感じさせる姿であります。一方時代が20世紀まで下り、シャガールが描いた「楽園追放」(1961年)は、アダムとエバが楽園を守る天使によって追い立てられていることに変わりはないのですが、軽やかに天を飛翔しながら、視線を前方に向けている姿を描いております。その先に神の刑罰として生きる苦しみが待っているようには、とうてい見えません。それどころか二人は、何が起ころうとも未知の未来に進んで飛び込んでいくかのようです。それを物語るかのように、この絵は、赤、黄緑、青、紫、白等色彩豊かに描かれております。説明がなければ「楽園追放」とは思えないほど、画面は明るく華やかなのです。マサッチオの絵が文字通り「追放」を感じさせる暗い色調なら、シャガールは「解放」を思わせる色調です。アダムとエバは喜んでエデンの園を出て行く姿を印象づける絵です。アダムとエバが生きるのは、神の戒めから解放され、好きなように生きることが出来る、自由な世界です。しかし、その自由な世界で人間は何をし、どのように生きたのでしょうか。それが4章から始まるのです。一方エデンの園は、神ご自身がアダムとエバの後を追うように、園の外に出て来られ、園は空になり、神の園でなくなり、この地上からエデンの園はなくなりました。創造主と造られたままの人とが交流する姿は、もはや永久に地上から消え去りました。しかしこの時から、罪人である私たちの救い主なる神として、どこまでも私たちを追い求め、探し求める神との交わりが、新しくこの地上に始まったのです。確かに神と人が共に住んだあの堕落前のエデンの園は美しく平和でした。しかし、それ以上に栄光の輝きに満ちた神の救いの業が、神が罪から新しく造り直される再創造の業が、4章から始まるのです。罪人の後を追い、園を捨ててまで、この世に来て下さった、神の贖いの御業がすでに始まっているのです。


4月28日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「約束を受け継ぐ子」                創世記15章1~6節

一人の人間が、神の祝福を実現する担い手として神に選ばれ、この祝福を担うために、家族を引き連れて約束の地を目指す旅に出ました。その名を「アブラハム」と呼ばれ、全地の祝福の源となる人間の代表でありました。しかし彼には子どもがいませんでした。「あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。」(創世記12:7)という、主の約束の言葉はまだ実現していませんでした。それでも旅を続けるアブラハム。その間、何度も浮かんでくる疑いと不信。その都度、彼は人間的にあれこれと策をめぐらすのですが、すべてがうまく進みません。そんなある日、主はアブラハムを天幕の外に連れ出されたのです。夜空を見上げると、満天の星が燦然ときらめいています。主はアブラハムに、「あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:4)と言われます。天の星の数に圧倒されるようにして、アブラハムはただその言葉受け入れるのです。彼はこの時、家を継ぐことよりも遥かに大きな地を受け継ぐ約束を与えられたのです。このことは、私どもの家族、家庭が単に血族以上に、神の祝福、神の約束を受け継ぐ家族、家庭であることを意味します。やがてアブラハムにイサクが誕生いたします。イサクはアブラハムとサライにとって、神の大いなる約束を実現するために、神から授けられ、委ねられた若い命なのです。子どもは神の未来の受け取り手なのです。私どもは、その子どもを神からお預かりして、喜び悲しみを共にしつつ、親は親、子は子として、いろいろな事を経験しつつ、家族の物語を紡ぎながら、互いに成長し、やがて時が訪れた時、親は子を神に捧げ返すのです。それは子ども自身が自立して、神と深く結びつき、神の救いの大いなる物語の中に、自分の人生、自分の生の実現を見出し、生き始めた時でもあるのです。

4月21日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「教会という神の家族」          エペソ人への手紙2章17~19節

2014年9月守山教会は、設立50周年を迎えます。今年度は教会の歴史の転換、展開に向けての備えの年であります。その大事な年に、私たちは教会がキリストの体なる教会として建て上げられていくための、聖書の原則を共に確認する必要を求められております。この主題についてパウロは、エペソ2章19節で教会を「神の家族」と呼び、私たちはただイエス・キリストを信じるというだけでなく、教会に所属し、「神の家族」として生きるようにと召されているのですと語ります。なぜ私たちは教会という「神の家族」が必要なのでしょうか。                                                 それは第一に教会という「神の家族」は、あなたが真のキリスト者であることを証明するからです。主イエスは「あなたがたが互いに愛し合うなら、この世はあなたがたがわたしの弟子であることを認めるのです。」(ヨハネ13:35)と言われました。                                       第二に教会という「神の家族」は、あなたが孤立したキリスト者に陥るのを防ぎます。私たちは教会の交わりにおいて、兄弟姉妹を愛し、支え、赦し赦されていく中で、自己中心的な信仰の在り方が正されていくのです。                                                       第三に教会という「神の家族」は、あなたの霊性の向上を促します。私たちは教会につらなり、健全な教会生活を営んでいくことによって、初めて霊性は整えられていくのです。                                                                                 第四に教会という「神の家族」は、あなたが信仰から脱落しないように支えます。聖書は「日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。」(ヘブル3:13)と教え、私たちが信仰の道を踏み外すことのないよう、お互いに支え合うようにされたのです。                第五に教会という「神の家族」であることは、あなたの人生における最高の特権であります。聖書は「イエスと彼によって聖められた人々は、皆同じ家族に属します。それゆえ、主イエスは彼らをご自分の兄弟、姉妹と呼ぶことを恥とはなさいません。」(ヘブル2:11)と語り、「神の家族」であることは、あなたが手にすることのできる最高の特権であると教えます。最期にあなたがたをして教会に建て上げ、教会を完成させ、教会の栄光を現すのは「キリスト・イエスご自身」であられることを覚えたいと思います。(エペソ2:20)                                                  

4月14日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「私たちの父よ」               ルカの福音書11章1~2節

4世紀後半西ヨーロッパで民族大移動という歴史的出来事により、大ローマ帝国の領土に北方からゲルマン民族が入ってきました。このゲルマン民族にゴート族という集団がありました。このゴート族の中に司教に叙階されたウルフィラという人物がおりました。彼は旧新約聖書を全部たった一人で、ゴート語に翻訳した人でした。彼は翻訳にあたって「主の祈り」の一番始めの「父」を「アッタ」と訳しました。ゴート語には今の英語の「ファーザー(父)」のもとになる「ファーダー」という言語がちゃんとありました。しかしウルフィラは正調の「ファーダー」を使わず、幼児が父親に向かって呼びかける語、あのおしんが涙ながらに父を呼んだ「お父(と)う」と、ほとんど同じ響き、同じ使い方の「アッタ」という言葉を使ったのです。「ファーダー」よりずっと日常的、家庭的、俗語的な言葉を用いたのです。それには深い理由がありました。それは主イエスが十字架刑の直前、ゲッセマネの園で祈られた言葉が「アバ、父よ。」(マルコ14:36)だからです。これは主イエスが日常使っておられたアラム語の「アバ父よ。」だったのです。この「アバ」こそウルフィラが使った「アッタ」と同じ意味、同じ感覚だったのです。彼はあらたまった礼儀正しい「ファーダー(お父様)」ではなくて、神をもっと直接的に、全身で幼児のようにぶつかって祈りなさいと、主イエスが教えておられるのだと受け止め「アッタ」という訳語にしたのです。だから私たちは「主の祈り」において、最初に主なる神を「父よ」と、一言で呼ぶその声にすべての思いを込めて発するのです。子どもが父を「お父さん」と呼ぶ時には、この父をどう呼んだらよいかなどどは考えません。父は父です。「パパ」と呼び、「お父さん」「お父(と)う」と呼びます。それで通じるのです。それで足りるのです。そのような幼子の思いをもって、主なる神を「父よ」と呼ぶことができるかと、主イエスがここで改めて問うておられるのです。「アバ、父よ。」と呼び求めるこの声を求めておられるのです。「あなたがたは子であるゆえ、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:6)

4月7日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「男の苦しみ」                   創世記3章17~19節

2011年3月11日。私たちは、目を覆うばかりの信じられない光景を目の当たりにしました。圧倒的な地震と津波による自然災害と原発事故という人災によって壊滅的な惨状となった、あの東日本の大地を前にして、私たちは人間の無力さを否応なく思い知らされました。これだけは確かなものとして、生きる拠り所としていたもの―家、土地、家族や人との絆、仕事、会社ーなど全てが奪われ、人の存在そのものを揺るがすこの出来事に向き合った時、私たちは創世記3章17節の「土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。」という人に語りかけられた神の言葉が、何を意味するのかを知ったのです。そして「いばらとあざみを生えさせる土地で、顔に汗を流して、一生苦しんで糧を得る。」と続く神の言葉どおりに、労苦の日々を過ごす人の姿は、私たちの日常、特に復興に向けて苦闘している東日本の人々の姿と重なります。あの「エデンの園」において、土から形造られた人は、土を頼りに生きていました。人はその土を耕し守り、土は人にとって生きるための母なる大地でした。人がそうであるように、土もまた掛け替えのないものでした。ですから人は堕落後も、肥えた土を作り、豊かな実りを得るために汗を流してきたのです。それがいかに大変なことであるかは、土を耕したことがある人ならすぐわかります。柔らかくホカホカした土はこうして、何世代もの人が慈しむように、土と向き合い出来あがったもので、その土が生みだす美しい田園風景は、そこで暮らす人々が土地に愛情を注ぎ続けた結果もたらされたものでした。しかしそれが地震や津波などの自然災害や戦争や環境汚染などの人災で破壊され、聖書が語る「いばらやあざみが生えるのろわれた大地」となり、そこで生きるために「顔に汗を流して糧を得る」ことを思い知らされるです。そして「ついに、あなたは土に帰る。」(創世記3:19)というむなしさを迎えるのです。「エデンの園」とは「歓喜の園」という意味です。今日私たちが生きている場が「喜びの園」として取り戻される道は、果たしてあるのでしょうか。改めて創世記3章17~19節が告げるメッセージは、あらゆる時空を越えて、いつの時代にも、生きる人々に問いかける言葉であることを思わされるのです。

3月31日(日) イースター礼拝メッセージ要旨

 

「復活―裸の命に目覚めよ。」        ヨハネの福音書11章1~27節

1941年8月14日午後12時50分、一人の神父がナチスの手によって、アウシュヴィッツ強制収容所で、餓死処刑者として47才の生涯を静かに終えました。その名はコルベ神父と言います。妻子ある男性の身代わりを申し出て、他の9名の囚人と共にコンクリート独牢にぶち込まれ、人間としての尊厳を完全に奪われた形で、餓死させられたのです。処刑を免れた男はポーランド軍の軍曹で、彼は生き残りワルシャワに帰ることが出来ました。しかし愛する16才と14才の二人の息子たちは、ソ連兵に殺され妻だけが残されました。彼は生きる力を失い、生きていることに何の意味も見出すことが出来ませんでした。コルベ神父の身代わりもその時の彼にとって、ひどく重荷となりました。その彼を立ち直らせたのは、黙って側に居てくれた妻のある言葉でした。「与えられた生命は、すばらしいではありませんか。」妻はそう言ったのです。そのことばが彼をようやくにして立ち直らせたのです。「人の生命は自分が手に入れたものではなく、贈られ与えられるものなのだ。」そう気付いた時、彼の人生は輝き始めたのです。                                        主イエスが「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11:25~26)と言われた「いのち」とは、この世でいつまでも長生きするいのちではなく、神から与えられて在る「いのち」として、本来の命の輝きを取り戻す「いのち」のことです。ラザロの甦りは、まさにそのことを証しするために、主イエスがなされた奇跡であったのです。それゆえに主イエスが甦ったラザロを「ほどいてやって帰らせなさい。」(ヨハネ11:44)と、裸のままで帰らせたのは、与えられ、贈られて在る「いのち」に私たちが、仕事、地位、財産、才能、学歴、業績、思想や主義、好みや生き方などで自分を装って生きて来たそれら全てを取り払って、裸のいのちに目覚めること、すなわち神から与えられて在る「永遠のいのち」に気付くこと、それが取りも直さず「命の甦り」なのです。復活とは「与えられた生命は、すばらしいではありませんか。」と与えられて在る今の「いのち」の輝きに目覚め、私たちが立ち上がって希望に生きる時なのです。