5月19日(日) 礼拝メッセージ要旨
「来たらせたまえ 主よみ国を」 ルカの福音書11章1~2節
「主よ 私をあなたの平和の器とし、憎しみしかないところに愛の種子をまかせて下さい。痛みしかないところに 赦しを 疑いしかないところに 信仰を 絶望しかないところに 希望を 暗闇しかないところに 光を 悲しみしかないところに、喜びを どうか、みなぎらせて下さい。」「御国が来ますように」の祈りを別な言葉で表現するとしたら、フランチェスコの詩「平和の器」の冒頭部分の祈りが想い起こされます。真の平和が訪れた時に、愛、赦し、信仰、希望、光、喜びがこの地上に満ちる。神の国が実現した時の私たちが、目にすることのできる光景です。ですから「御国が来ますように」は、主イエスの使信の中心でした。主イエスが福音を宣べ伝えられた時の最初の使信が「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)でした。主イエスの教えとみ業は、常にこの神の国という中心をめぐるものでありました。「神の国」の真の意味は、神の統治、神の支配という意味です。従って私たちが「御国が来ますように。」と祈る時、それは主イエスが王としていつの日か、ご自分の栄光を現されるのは、私たちが住んでいるこの地上の、この場所においてなのだということを、告白しているのです。主イエスが生まれ、苦しみを受け、十字架につかれたこの地上を、主イエスは支配されるのです。その時、「栄光の御国」が輝かしい姿を現すのです。そしてこの日こそ、私たちのキリスト者生活におけるすべての重荷、すべての苦しみ、すべての悲しみに対する解決の時なのです。王なるキリストが来られるまでは、そのような問題に対しての、完全な解決はないのです。しかし私たちが祈るのは「栄光の御国」のためばかりでなく、個人的な「恵みの御国」についての祈りでもあるのです。すなわち神の国(キリスト)が私たち自身の心に広がり確立することが、私たちの願いなのです。私たちが神を礼拝し、生涯を神に明け渡し、神に導かれるようになるにつれ、神の国は私たちの心の中に入ってくるのです。「神の国は飲食ではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」(ローマ14:17)従ってこの祈りは、サタンの支配がまだ終わっていないという、今日の情況の中でキリスト者は、真の神のみを神とする生き方、御国の到来とその支配を求めて「主イエスよ、もう一度来て下さい。」と祈るのです。ですから新約聖書の最後の言葉は「『しかりわたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」(黙示録22:20)という祈りなのです。これは「御国が来ますように。」の祈りを言い換えただけです。私たちはみな、主の再び来りたもう日を切望しつつ、この祈りを口にするのです。