礼拝メッセージ要旨

2月21日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「生ける神の教会」           テモテへの手紙第一 3章14〜15節
このテモテへの手紙は、パウロがマケドニアにいる時、エペソにいるテモテに送った手紙です。14節に「近いうちにあなたのところに行きたいと思いながらも、この手紙を書いています。」と書いてあります。エペソの教会は内外の色々な問題がありまして、その中でテモテは孤軍奮闘していました。パウロはそのようなエペソに帰る予定をしていましたが、その予定より早く伝えたいことがありまして、このように先に手紙を送ったことでした。
そしてその内容はこの手紙全体のことですが、手紙を送って理由を説明して直ぐ話ししていることは、教会についてのことです。パウロは15節の後半で「神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」と語っています。
先ず、教会のことを神の家と言います。家という言葉には建物の意味もありますが、家族の意味もあります。3章でのその言葉の用例をみますと家庭や家族の意味で使われました。ですので、神の家とは神様を父として集められた家族という意味になります。私たちは、本来は死ぬべき者でしたが、神さまの恵みによって神の子とされ、神の家族に受け入れられたのです。
二つ目に、神の家とは生ける神の教会であると言います。エペソには色々な神々がありました。しかしそれは人間の手で作った偽りの神々であり、それは自分の願いことのためにでした。しかし生ける神は、罪によって死ぬべき人間に新しい命を与えてくださり、神さまの栄光のために生きていくことができるように導いて下さいます。神の家とは、そのような生ける神が父となられる家族であり、それが教会であるということです。
三つ目に、その教会は、真理の柱たま土台です。当時の柱は、建物の外側から見えるものでありまして、建物の立派さを見せるものでした。また、建物を支えるものでありますので、教会は真理を支え、高く立てて広く広げるという意味です。土台のように真理を守り、支え、神さまの身ことばである真理を伝えなければならない、ということです。
私たち一人ひとりは、神さまの恵みによって救われ、神の子とされ、神の家族となりました。神の家である教会で神の家族として、神さまが教えてくださる愛を持って互いに愛し合う者になりたいと思います。そしてその愛を多くの人々に証しして行きたいと思います。

2月14日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「黙っておられるイエスさま」        マタイの福音書26章57〜68節
ゲッセマネの園でお祈りを終えられたイエスさまは、大祭司や民の長老たちに送られた兵士たちにより捕まえられます。この時は既に深い夜中であって木曜日から金曜日に変わる時頃でした。このように真夜中に捕まえられたイエスさまが連れて行かれた所は、大祭司カヤパのところ(57節)でした。ここから直ぐイエスさまに対する審問が始まることですが、しかしこれは当時の規定が何一つ守られてないことです。本来であれば日中に行われなければならなかったのです。その時、大祭司や祭市長たち、それに律法学者たちまでも集まっていましたが、そのような規定などは守らなかったのです。そのような姿について著者マタイは59節で「祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える偽証を求めていた。」と説明しています。
イエスさまに対する審問や裁判、そこには当時の最高議会であるサンヘドリンの人々も集まって行われることでしたが、しかし彼らの目的はただ「イエスを死刑にするために」ということでありまして、イエスさまへの審問は「訴える偽証を求めていた」ことであったのです。ですから最初から審問や裁判に関する規定などはどうでもいいことでした。そのような中で、イエスさまに対する偽証が出されまして、二人の偽証人は「この人は、『わたしは神の神殿を壊して、それを三日で建て直すことができる』と言いました。」と偽りの証言をします。
それを聞いた大祭司はイエスさまに「何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているのは、どういうことか。」と質問をします。その質問に対するイエスさまの反応は「黙っておられた。」(63節)ということでした。イエスさまは偽りの証言に対して解明することは十分出来たことだと思います。しかし「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書が成就するため」であることを知っておられたイエスさまは、神さまの御心に全てのことを委ね、ひたすら十字架への道を御自ら歩んで行かれたことだと思います。そしてその十字架への道は、他ではなく私たちの罪を赦し、救いのためにでした。ですからイエスさまが不法の裁判においても黙っておられたこと、それは私たちを救ってくださるためだったのです。愛するひとり子を不法の裁判に渡して下さった神さまの愛、その神さまの御心に全てを委ねて私たちを救ってくださる御子キリストの愛を覚えて喜びと感謝を持って歩んで行く者になりたいと思います。

2月7日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「信仰による生き方」               創世記 12章1〜4節
創世記11章までの内容を見て来ましたが、その中で繰り返されること、それは罪を犯す人々、それに対する神さまから裁き、そして神さまから離れた人々の姿であるということが出来ます。カインとアベル、ノアの洪水、バベルの塔など、罪を犯した人間に神さまの裁きが下され、人々は新しい出発をします。しかしこの世の姿は再び罪に溢れるようになり、人間は以前の姿に戻ってしまいます。神さまから離れ神さまを捨てて罪に向かう人生を生きています。
それで神さまは、今までは違う新しい御業を始めてくださいます。そしてその始まりとなるのがアブラハムです。その新しい始まりというのは、この世で神さまの民を作られることです。神ご自身のための民、神さまに属する民を作ろうとし、そのために神さまご自身がアブラハムという人を召してくださったのです。神さまはアブラハムを通して、この世で新しい国、神の国を、そして神さまの御計画を成し遂げていく区別された民を作ろうとされたのです。ですから創世記12章はアブラハムの物語りの始まりである同時に神さまの民の始まりであり、それを成し遂げてくださる神さまの話しの始まりであるともいうことが出来ます。
本日の本文は、ハラン(あるいはカラン)でアブラハムに神さまのみ言葉が与えられたことから始まっています。アブラハムの生まれ故郷はメソポタミア地域のウルというところですが、12章ではハランというとことで住んでいます。それは父のテラが家族を連れてカナンに向かう途中でハランに止まり、そこで住み始めったことからでした。ところが父テラはハランでなくなり、その時までもアブラハムには子どもが産まれていなかったのです。これはアブラハムにとっては大きな悲しみであり、大きな心配でありました。そのようなアブラハムに神さまの御声が聞こえて来まして12章1〜3節のみことばが語られたのです。
この時、アブラハムにとって神さまの約束のみ言葉は将来への確信として聞こえたことだと思います。そして神さまが語って下さった通りに家を離れ、示してくださるところに向かった出発したのです。神さまは私たちにも聖書を通して語ってくださり、神の民、神のこととされたものとしての歩むべき道を教えて下さいます。アブラハムのように、神さまは教えて下さった通りに従って歩んで行くことが出来る者になりたいと思います。

1月31日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「変えられた者」              ルカの福音書19章1〜10節
人は誰も自分の人生や、その姿がより良いものに変えられることを願います。しかし変えられることを願いますが、同時にそれが難しいと痛感する時があります。中々変わらない自分の姿などによって失望する時もあります。私たちは本日の本文でザアカイの変えられた姿を見ることができます。そしてそれはイエスさまとの出会いによって、ということでした。
ザアカイという名前は「正しい」「きよい」という意味を持っています。ザアカイは名前の意味のような人生を生きてきたことでしょうか。2節の「収税人のかしらで、金持ちであった」という紹介から、そうでなかったことが分かります。当時の収税人はローマ政府により税金を取ることができる力が与えられていました。そしてローマ政府には決まった税金を送れば良かったので、人々には決まった税金より多く取ることが出来ました。多くとって残りを自分のものにしましたので、税金をたくさんとれば取るほど金持ちになることが出来ました。しかし、そうすることによって同族のユダヤ人からの非難なますます大きくなったことだと思います。金持ちであった、ということからザアカイは富と力に執着して行ったことだと思います。何故なら、その富と力さえあれば幸せになり、自分の全てが満たされると思っていたからだと思います。
しかし、そうではありません。ザアカイも富と力で満たされないものがある、ということを知り、イエスさまについて聞いてこのお方ならその答えがある、と思ったことだと思います。その思いからザアカイはイエスさまを見ようとしましたし、大勢の人々がいたにも関わらずいちじく桑の木の上まで登ったことではないでしょうか。そしてイエスさまにであった時に、彼の心はイエスさまによって満たされたことでした。それによって人生の中で最も大切にして来たものを、他の人々のために施し返すようになりました。何故なら、もうイエスさまによって自分の心が満たされたからです。そのようにイエスさまによって満たされ、その人生が変えられた者、その人をイエスさまは「アブラハムの子」、即ち信仰の人と話してくださいます。私たちの人生もイエスさまに聞き、このお方によって満たされ変えられて行きたいと思います。

1月24日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「捕まえられたイエスさま」        マタイの福音書26章47〜56節

本日の本文はイエスさまが捕えられる内容です。木曜日の真夜中、ゲツセマネの園で祈りを終えたイエスさま、そして11人の弟子たちがいるところに大勢の人々が押し寄せて来ました。その大勢の人々は「祭司長たちや民の長老たちから」送られた人々でありまして、彼らは手に剣や棒を持ってイエスさまを捕まえるために来たのです。そしてその大勢の人々の中には、イエスさまと弟子たちと共にいるはずの一人の人がいましたが、彼はイスカリオテ・ユダです。ヨハネの福音書18章3節に「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。」と書いてありますように、その人々を連れて来たのはユダでした。
そしてユダはイエスさまに口付けの挨拶をします。口付けの挨拶、それは相手に対する尊敬と愛を、そして親しい関係であることを表すものです。しかし、この時、ユダはそのような尊敬の愛の心からではなく、イエスさまを兵士たちに渡す合図として、口付けの挨拶をしたのです。
そのようなユダと武器を持って自分を掴まえるためにきた大勢の人々の前でのイエスさま、そのイエスさまのお姿はその人々を待っていたようです。最後の晩餐の後、エルサレムから出て、そのまま誰も知らない場所に行くことも出来ました。しかし、イエスさまはユダも知っている場所に行かれました。まるでユダを待っておられたようにです。そしてその後、イエスさまは聖書が成就するために、ということを語られます。この場所から避けることも出来ましたし、この状況を逆転されることも出来ますが、そうしなかった、なぜなら聖書が成就するためにです。父なる神さまのみこころに従う、神様に信頼するイエスさまです。
そしてこれは神さまのみこころが成し遂げられる場面です。弟子たちには失敗にしか見えないことですが、ここに神さまの愛が現れているのです。私たちの目には、失敗のように見えることでも、それを通して私たちに愛を示してくださる神さまを覚えて、そのお方に頼りつつ歩むものになりたいと思います。

1月17日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「天の父のように」             マタイの福音書5書43〜48節
本日の本文はイエスさまの律法についての教え、その六つ目です。5章21節から、イエスさまは律法の正しい意味について教えて下さいました。今日の本文はその最後の教えでもあり、そして5章の結論でもありますが、ここでイエスさまは「隣人を愛しなさい」そして「天の父ように完全でありなさい」と仰ってくださいます。
まずは、律法学者やパリサイ人たちが教えていたことは「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」(43節)ということでした。最初の「自分の隣人を愛しなさい」ということは旧約(レビ記19章16節など)からの教えでもあり、私たちもよく知っています。しかし、その後に続いて書いてある「自分の敵を憎め」ということは、旧約には書いてないものです。律法学者やパリサイ人たちは、旧約の色々な出来事から「自分の敵を憎め」ということを「自分の隣人を愛しなさい」という教えを付け加えたことです。それによって「自分の隣人を愛しない」という教えの範囲が本来の意味より狭くなってしまします。何故なら、相手の自分の隣人と敵に分けて、自分の隣人と思う人だけを愛するようになるからです。
しかし、イエスさまは自分の隣人を愛することは勿論、それに「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と教えてくださいます。隣人に敵や迫害者まで含めておられます。即ち、隣人と敵、迫害者などを分けて、その中で隣人だけを愛するということではなく、相手がどんな人であっても、その人を愛しその人のために祈らなければならない、ということです。
そしてそれは、私たちの父なる神さまはそのようなお方であるからでした。神さまは「ご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」お方です。ですから、神さまの子となった私たちは、父なる神さまに似て行くべきでありますし、神さまのようになって行くべきです。そして「天の父が完全であるように、完全でありなさい。」ということが、信仰者である私たちが歩むべき道であります。そのために、神さまは私たちに励ましと力を与えてくださいます。聖霊は私たちを助け守り導いて下さいます。そしてイエスさまはその模範を私たちに見せて下さいました。隣人を愛しなさい、完全でありなさい、ど、この教えはとても難しいですが、私たちを助け守り導いてくださる神さまを見上げて神さまに喜ばれる道を歩んで行く者になりたいと思います。

1月10日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「名をあげようとする人間」             創世記 11章1〜9節
「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」ということわざがあります。人は昔から自分の名をあげようとし、この世に名前を残したいと思うとことがあります。本日の本文は「バベルの塔」で有名な内容ですが、ここでも人々は「名をあげよう」としていたことが分かります。神さまから離れ、神さまのいない世界を作り上げようとする人間、そのような人間に対する神さまのお姿について本文を通して考えてみたいと思います。
ノアの洪水の後、地にはノアの家族の8人だけが残るようになりました。そのノアの家族に神さまは「あなたがたは生めよ。ふえよ。地に群がり、地にふえよ。」と語られ、人々は地に広がり始まりました。人間の平均寿命は洪水の前よりは短くなりましたが、それでも300年以上でありましたので人々は早く地に広がり、人々が段々多くなっている中で本文の「バベルの塔」の出来事が起こったのです。
まだ一つの言葉を使っていた人々は、一つの思いを持っていました。そして人々は、「シヌアルの地」ところを見つけ、そこに定着するようになったのです。その姿について聖書は「人々は東へ移動した(新改訳2017)」と書いてあります。それは地理的な意味もありますが、神さまから離れ、自分たちの力だけで町を作ろうとする意味もあります。そのような思いで「シヌアルの地」を見つけた人々は、そこで煉瓦と瀝青を使い始め、より良い暮らしをするようになったのです。そこで人々は「頂が天に届く塔を建て、名をあげよう」としたのです。そしてその心の中で思っていたことは「我々が全地に散らされるといけない」ということでした。それは神さまからの命令に真っ向から否定するものでありまして、それをご覧になった神さまは、人々の言葉を混乱させ、互いにことばが通じないようにされました。その後、人々は地の全面に散らされるようになりましたが、しかしそれによって人々は「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」という神さまの成し遂げられるようになります。
神さまから離れ、神さまを捨てようとする人間。そのような人間ですが、神さまはその人々を変えてくださり、ご自分のみこころを成し遂げて下さいます。私たちも神さまによって変えられ、今は神の民となり、神さまのみこころに従って歩めるようになりました。そのようにしてくださった恵みを覚えて、今週も神さまのみこころにしたがって歩む者になりたいと思います。

12月27日(日)礼拝メッセージ要旨

 

ヨハネの手紙 第一 2章15〜17節        「神のみこころを行う者」
本日は2020年最後の主日礼拝となります。新しい期待と希望をもって始まった2020年も数日を残しています。特に2020年は他の年より早く過ぎ去ったような感じですが、皆さんはどのように過ごされたでしょうか。2020年が終わって行くこの時に、皆さんの記憶に残っていることはどのようなものでしょうか。私たちは2020年を終え、新しい年を迎えます。この時に、本日の本文を通して私たちの人生の中で残すべき姿についてともに考えてみたいと思います。
まず、使徒ヨハネは跡形も残らずなくなる人生についてこの世を愛する人生であると語らいます。本文の15節。「世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」ここでの「世」とは、神さまによって造られたものですが神さまに逆らうものです。空中の権威を持つ者が支配する世であり、暗闇の中で神さまに逆らい、神さまを拒むものたちを表します。そのような「世」は神さまを知らず、神さまを憎み、神さまの民をも憎みます。そのような世を愛する者には15節に書いてありますように、神さまを愛する愛はないのです。この世を愛し、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などに落いているならばこの世の栄や楽しみはいつまでも続くものだろうと思うようになります。しかし、そうではありません。17節をご覧になりますと、この世とは滅び去るものです。跡形も残らずなくなるものです。暫くたちますと過ぎ去ってしまう空しいものなのです。
この世は霧のように滅び去るものです。そしてその世を愛することは空しいことです。勿論、神さまが私たちに与えてくださった人生を楽しみ喜びの中で生きて行くことはとても大切です。しかし、この世と世のものに執着し、それについての欲に落いるようになりますとその人の人生は空しさで終わってしまうかもしれません。ですから神の民である私たちは、神さまのみを愛し、神さまのみこころを行う者にならなければなりません。その人はいつまでもながらえる、即ち永遠に生き続けるからです。イエスさまが教えて下さったように、神を愛し隣人を自分自身のように愛する、その愛を実践するものになり、その愛を残す者になりたいと思います。

12月20日(日)礼拝メッセージ要旨

 

マタイの福音書2章1〜12節            「神の不思議な導き」
メリー・クリスマス〜!毎年、皆さんとこのようにクリスマスの挨拶を交わしましたが、今年はコロナ禍にありましてこれまでとは違うクリスマス記念礼拝を迎えるようになりました。コロナ禍という言葉は、今年の新しい言葉ですが、今の私たちが置かれている状況をよく表していることだと思います。この「禍」と言う漢字ですが、「わざわい」とも読んで「禍を転じて福となす」と言う諺があります。今のコロナの状況は教会にも、私たちの信仰にも大きな苦難であるとも言えます。しかし、この苦難の中においても私たちを守ってくださり、導いてくださる神さまによって私たちは希望を持つことが出来ます。苦難や試練が変わって希望と喜びになるようにしてくださる神さま、このコロナ禍においてもそのように守り導いてくださる神さまを覚えたいと思います。
本日はクリスマス記念礼拝ですが、このクリスマスは神さまが禍を転じて福としてくださったことではか、と思います。罪の中で滅びに向かっている私たちを、神さまが救い主イエス・キリストを送ってくださって、その滅びから救ってくださったからです。 滅びに向かう私たちの歩みをいのちの道へ変えてくださった神さま、本日の本文を通して神さまの不思議な導きについて考えてみたいと思います。
東方から来た博士たちは、当時ユダヤを治めていたヘロデ王に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。」と聞きました。彼らは異邦の人々でしたが、昔から伝わって来たメシヤの予言を信じ、不思議な星を見つけた時、その予言を思い出しました。そして大変な危険の中でも全てを忍耐し、また命を掛けて遠いユダヤまで来たのです。そして幼子イエス・キリストがおられる所まで導かれ、そこで主を拝んだのです。私たちの毎週の礼拝もそのような神さまの不思議な導きによるものです。また、博士たちを導いてくださったように、神さまはこれからも私たちを守り導いてくださいます。人生の苦しみの中でも光を持って私たちを導いてくださる神さまに頼り、クリスマスを祝い喜ぶ者になりたいと思います。

8月2日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「みことばを聞き入れる」            ゼカリヤ書 7章8〜12節
本日の本文では、神様のみことばに対するイスラエルの民の聞き方が戒められています。子供たちに何かを話しをするとき、子供たちがその話しを聞いているようでありながら、聞いてない時があります。それは大人も同じだと思いますが、何かに夢中になっていたり、考えことをしていたりしますと、他の人の話しは聞こえてきてもそれにちゃんとして答えを返すことができない時があります。私たちの神様のみことばに対する姿はどうでしょうか。
本文の11節に「それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。」とありますが、これは「断食」に関する質問からのことでした。7章2節、3節を見ますとベテルから人々が来て「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」という質問をします。この第5の月の断食というのは、南ユダが滅びる時、神殿が破壊された悲しみを覚えるためのものでした。それを70年間、イスラエルの民は守り続けて来たのです。とことが、この時は、バビロン捕囚から解放されてエルサレムに戻ってきていますし、神殿の再建工事も半分以上進んでいる状況でした。そういうことから、「第5の月の断食」をこれからもすべきなのか、という質問だったのです。
そういう質問に対して神様は、7章の5節と6節でその断食は「このわたしのために断食したのか。」と語られ、それは「自分たちのためではなかったか。」と語られました。即ち、その断食はイスラエルの民のためのものであって神様のまめのものではなかったということです。何故なら、イスラエルの民は神様からの教えとみことばを「聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。」からです(11節)。そして神様は預言者たちを遣わしてくださり、語ったくださいましたが、イスラエルの民は自分たちの心を金剛石のように固くしてそれを聞き入れなかったのです(12節)。本来彼らが嘆くべきことは、神様のみことばに従わなかった罪、神様のみことばを聞き入れなかった罪なのに、そうしかなったということです。
神様は聖書を通して「神を愛し、隣人を自分自身のように愛しなさい。」と教えて下さいます。そのような神様からの教えに対して私たちはそのように答えているでしょうか。その教えを心から聞き入れて神を愛し、隣人を愛するものとなりたいと思います。