礼拝メッセージ要旨

5月22日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「イエスさまのみ力」            マタイの福音書8章23〜27節
今日の本文は「風や湖まで」という自然もイエスさまの言うことを行く、イエスさまの言葉に従うという、イエスさまのみ力が現れる内容です。そこで弟子たちは湖が急に大荒れになり、乗っていた船は大波をかぶるようになり大変戸惑います。そのような弟子たちにイエスさまは「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち」と仰います。
この時、弟子たちが船に乗ったのはイエスさまに従ってのことでした。18節には「弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。」とありまして、23節には「それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。」と書いてあります。ですから、イエスさまが命じられて船に乗られると、そのイエスさまに従って弟子たちも船に乗ったのです。そのようにイエスさまに従って乗った船なのに、湖は大荒れなり、大波をかぶるという大変の状況におかれるようになったのです。それも「私たちは死んでしまいます」というほどの大変な状況でした。
そのような状況で25節を見ますと弟子たちは直ぐにイエスさまに助けを求めました。弟子たちの中には漁師が多くいました。彼らにとってガリラヤ湖の姿や船のことはよく知っていることでありました。おそらく今までの人生の中で、このような湖の大荒れや嵐などは何回も経験したことだと思います。そのように湖については経験豊かな弟子たちでしたが、彼らは自分たちの経験に頼らずイエスさまに助けを求めたのです。
そういう弟子たちにイエスさまは「どうして怖がるのか」と仰ることでした。そして弟子たちが怖がるのは、彼らの信仰が薄いからということでした。薄い、ということですので信仰があるものの、今の状況を怖がらないほどではない、ということでしょう。それでは弟子たちが持つべき信仰はどのようなものだったでしょうか。それは、イエスさまは風や湖までが言うことを聞くお方である、ということです。今までは弟子たちはそれを知らなかったですが、本文の出来事を通して知るようになりました。そしてイエスさまは、信仰の薄い弟子たちの信仰を成長させて下さるために、この湖に、大変な状況に導いて下さったのです。
イエスさまに従って、イエスさまに導かれて行った湖で弟子たちは大変な状況おかれるようになりました。そのように、私たちも信仰者としてイエスさまの教え従って歩んでいく中で試練に出会うことがあります。その時、私たちと共にいて下さる神さま、私たちを守り導いて下さる神さまを覚えたいと思います。人生の嵐の中でも私たちを守り導いて下さる神さまに信頼し歩んで行く者になりたいと思います。

5月15日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「勝利をもたらして下さる主」        サムエル記第一 11章5〜15節
サムエルから油注がれ「主が、ご自分のゆずりの地と民を治める君主とする」と言われたサウル。そしてそれが神さまのみこころであることを表すために三つのしるしが言われます。イスラエルの王になるということについて考えて来なかったサウルですが、神さまはご自分のみこころをサウルに教えて下さいました。しかし、その後のサウルの姿は消極的でありました。サウルはくじで取り分けられますが、荷物の間に隠れていたため、その姿はみつからなかったのです。結局見つかり、民の前に立ちますが、サウルの姿を見た民は「王様万歳」と大声で叫びました。しかしある者たちはサウルを軽蔑しまして、全イスラエルがサウルを王として認めたことではありませんでした。そのようなサウルですが、本文の中で全イスラエルから支持を得て王になることが出来ます。
アンモン人ナハシュがヨルダン川の東にあるヤベシュ・ギルアデを攻撃して来ました。それでヤベシュ・ギルアデの人々は直ぐ降伏しましたが、アンモン人ナハシュは「おまえたち皆の者の右の目をえぐり取ることだ。」という大変な条件を付けました。それでヤベシュの長老たちはギブアに使者を送り今の状況を伝えましたが、それを聞いたギブアの人々も声をあげて泣いてばかりでした。ちょうどその時、サウルが畑から帰って来てその話しを聞きました。すると、神の霊がサウルの上に激しく下って、サウルの怒りは激しく燃え上がりました。そしてサウルは一くびきの牛を取り、それを切り分け、使者に託して イスラエルの国中に送り、「サウルとサムエルに従って出て来ない者の牛は、このようにされる」と言ったのです。すると、主の恐れが民に下って、彼らは一斉に出て来て、何と33万人も集まりました。そしてサウルは集まった人々を指揮し、アンモン人と戦い、生き残った者は 散り散りになり、二人の者がともにいることがないほど、圧倒的な勝利を得ます。その時、サウルはすべての栄光を神さまに帰しました。そのサウルの姿を見たイスラエルの民は、ギブアに集まってサウルを王として立て、大いに喜びました。神さまに信頼し、神さまのみに従う王、その王を通して神さまはイスラエルに勝利を与えて下さいました。そしてイスラエルの民は、そのように守り導いて下さる神さまを、そして神さまによって立てられた王を大いに喜ぶことでした。
アンモン人のナハシュからの攻撃、それは私たちの人生の中でも苦難や苦しみなどであるかも知れません。直ぐに降伏したくなるほど、大変な苦難があります。それを前いして泣き叫ぶことしか出来ない時もあります。そのような時に、神さまを恐れ、神さまに助けを求めるなら、神さまは私たちに勝利を与えて下さいます。どのような状況の中でも私たちを助けて下さる神さま、勝利を与えて下さる神さま、その神さまを見上げ信頼して歩んで行く者になりたいと思います。

5月8日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「イエスさまについて行く」         マタイの福音書 8章18〜22節
本日の本文には二人の弟子が出て来ましてイエスさまについて行きますと話します。イエスさまはその二人に「イエスさまについて行く」ということがどのようなことであるのかを教えます。その教えを通して私たちの信仰を振り替えて見たいと思います。
まず一人目の人ですが、彼は「律法学者」と書いてあります。福音書を見ますと多くの律法学者はイエスさまに対して敵対する姿を見せています。少し前にある「山上の説教」でイエスさまは律法学者たちの教えの誤りについてことごとく指摘なさったことがありました。その他、彼らの偽善について厳しく話されたこともありますが、そのようなイエスさまを律法学者たちは敵対するようになったことだと思います。そのような律法学者たちの中からイエスさまに「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」と話したことは非常に嬉しいことだと思います。
しかし、イエスさまの答えは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」と予想外のことでした。これはどういう意味でしょうか。それはこれからイエスさまが歩まれる道は非常に大変で不安定だということであり、そのような道でもわたしについてくる覚悟を持っているのか、と確認されることです。
二人目のイエスさまに「主よ。まず行って 父を葬ることを お許しください。」と話しました。彼にイエスさまは「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを 葬らせなさい。」と答えられます。このイエスさまの答えは非常に冷たく聞こえるかも知れませんが、しかしここでイエスさまが語られることは弟子としての優先順位のことです。二つのやるべきことの中で何を優先するのか。弟子であるものは、まず「わたしに従って来なさい。」という教えです。
イエスさまについて行く私たちはどのような覚悟とどのような優先順位を持っているでしょうか。私たちのためにすべてをささげてくださったイエスさまの恵みに感謝し、いつも私たちに励ましと力を与えてくださるイエスさまを見上げ頼って、どんな時でもイエスさまについて行く者になりたいと思います。

3月6日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「ここまで主が私たちを助けてくださった」  サムエル記第一 7章1〜12節
奪われた主の契約の箱は帰って来て、ベテ・シェメシュの人々は大変喜び、全焼のささげ物を捧げ、いけにえをも主に捧げました。しかし、その後、ベテ・シェメシュの人々は神の箱の中を見て、神さまはベテ・シェメシュの人々を激しく打たれました。そしてベテ・シェメシュの人々はキルヤテ・エアリムの住民にあなたのところに主の箱を運び上げてください、と頼みました。それでキルヤテ・エアリムの人々は主の箱を運び上げて、アビナダブの家に運び、主の箱はアビナダブの家で20年間も置いてあったのです。20年という長い年月が経ってからイスラエルの民は、主を慕い求めました。
その20年間、イスラエルの民は神の箱が返って来たにも関わらず、異国の神々を拝んでいました。そしてその間、神さまからの裁きは続いていましたし、その中でイスラエルの民は苦しんでいたことだと思います。そのような不信仰と苦しみの状況で、ついにイスラエルの民は主を慕い求めたのです。
この時、再びサムエルは民の前に現れて、本文の3節、4節で悔い改めを語りました。ペリシテ人との戦いで敗北し、20年間をも苦しみの中にあったこと、それはイスラエルの偶像礼拝のゆえでした。その罪のよって彼らは神さまから離れ、長い間苦しみの中でいるようになったのです。ですから、イスラエルの民に最も必要なことは、自分たちの罪を知り、それを告白し悔い改めることでした。そして神さまはイスラエルの民がそのようになるまで、20年間という長い年月を待っておられたことでした。
この後、ペリシテ人たちは再び攻撃して来ます。その時、まだイスラエルは戦いの準備も出来てない状況でしたが、神さまのみ力によってペリシテ人はイスラエルに打ち負かされました。そのような勝利を得た後、サムエルは「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言ったのです。「ここまで」ということ、それは今回の戦いだけではない、ということでしょう。今までのすべてのことを神さまが助けって下さった、ということです。即ち、20年間の苦しみの時も、ペリシテ人との戦いで負けた時も、神さまは助けて下さってこのように勝利を得るようにして下さった、ということだと思います。どのような時も、いつも私たちを助けてくださる神さま、ここまで助けて下さった神さまは、これからも助けてくださる、ということを信じ、神さまにのみ頼り歩む者になりたいと思います。

2月20日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「帰って来る神の箱」              Ⅰサムエル 6章1〜16節
イスラエルはペリシテ人との戦いで負けてしまい、神の箱をも奪われました。それはイスラエルに大きな衝撃でありまして、祭司エリの家で生まれた子の名を「イ・カボデ」即ち、栄光はイスラエルから去ったとつけました。
ペリシテ人は神の箱を奪い自分たちの町に帰って来まして、神の箱を戦利品のようにダゴンの神殿におきました。そのようにして自分たちの勝利を祝い喜ぶことでした。しかしダゴンの神殿の中では、ダゴンが倒れていたりダゴンの頭と胴体が離されていたりして神さまの力が現れていました。
そして神さまの力はペリシテの町々にも現れました。5章6節に「主の手はアシュドデの人たちの上に重くのしかかり、アシュドデとその地域の人たちを腫物で打って脅かした。」とありますが、ガテという町にも同じことが起こりました。そしてペリシテにおいては5章11節〜12節に「町中に 死の恐慌があったのである。神の手は、そこに 非常に重く のしかかっていた。死ななかった者は腫物で打たれ、助けを求める町の叫び声は 天にまで上った。」と書いてあります。
そのような中でペリシテ人たちは神の箱をイスラエルに送り返すことにしました。それで一台の新しい車を準備して雌牛2頭を繋ぎました。ところがこの雌牛はくびきをつけたことのない、さらには乳を飲ませていた雌牛でしたが、その子牛とは引き離しておくということでした。このように準備しておいて、2頭の雌牛がイスラエルに行くなら今までのことが神さまによることである、ということでした。そして2頭の雌牛が行くがままにして置きましたが、2頭の雌牛はイスラエルのベテ・シェメシュに進んで行きました。それも右にも左にもそれることなく真っ直ぐに進んで行きました。
これは間違いなく神さまの力、すべてを支配し導いておられることの現れです。ペリシテの地において起こった出来事、そして今日の本文の出来事を通してペリシテ人は神さまの力を知り、神さまは御自らご自分のご栄光を表されのです。そして神の箱が帰って来ることを見たイスラエルの民は大変喜ぶことでした(13〜15節)。ご自分の民として選んで下さったイスラエルをお捨てにならない神さま。いつも、いつまでも彼らと共におられ、守り導いて下さる神さまの恵みを覚えることができます。神の箱を奪われ希望を失い絶望に陥っていたイスラエルでしたが、この出来事の通して慰めを頂き、心から喜ぶことが出来ました。私たちもすべてを支配しておられる神さま、私たちを守り導いて下さる神さまを覚えまして、その神さまを恐れ、その神さまのみを礼拝する者になりたいと思います。

2月6日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「私の救いの神よ」                 詩篇51篇1〜13節
詩篇51篇はダビデの詩篇の中で、23篇と共に私たちによく知られている詩篇です。この詩篇はダビデの深い悔い改めの詩篇でありまして、ダビデの生涯の中で大きな罪を犯した後、その罪について神さまから教えられた後書いた詩です。
その罪とは、この詩篇の表題に「ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに」と書いてありますように、ダビデのバテ・シェバとの出来事です。Ⅱサムエル記11章、12章を見ますと、ダビデはウリヤの妻、バテ・シェバと姦淫の罪を犯します。そしてそれを隠すために夫のウリヤを激しい戦場に送り死なせます。即ち、姦淫と殺人の罪を犯してしまったのです。ダビデは自分が思う通りに、誰も知らないようにこの罪を隠蔽したと思ったでしょう。しかし、神さまはすべてを知っておられまして、ダビデのところに預言者ナタンを送り、ダビデの罪を指摘しました。その指摘を受けたダビデは、1節、2節を見ますと全く指定もせず自分の罪を認めて神さまの恵みと哀れみを求めます。王として大きな力を持っていたダビデでありますが、しかしダビデは神さまを覚えましてナタンからの神さまの教えを大切に受け入れました。そして4節を見ますと「私はあなたにただあなたの前に罪ある者です。」と神さまの前で罪を犯したことを告白します。
罪についての人間の基本的は性質、それは自分ではなく他人のせいにすることだと思います。アダムとエバもそうでありましたし、そのような姿は誰も持っていることです。しかし、この時のダビデは違いました。自分が持っている強い権力を用いて罪の指摘を否定もせず、素直に自分が罪を犯したことを認め、罪人であることを告白し、ただ神さまの恵みと憐れみを祈り求めました。そして5節を見ますと、神さまに喜ばれる者となるために、ただ神さまにすがりました。そして7節〜9節では、ただ神さまだけが罪を赦して下さることができると告白しています。
私たちはこのようなダビデの詩篇を通して、大きな罪を犯してしまったダビデを捨てないで悔い改めに導いて下さる神さまを覚えることが出来ます。そしてそのような神さまの恵みの中で、自分の罪を知り、素直に告白し赦しを求めるダビデの姿を見ることが出来ます。そして神さまは、そのようなダビデを赦して下さいました。私たちの隅のような罪をも雪のように白くし赦して下さる神さまを覚えまして、その神さまにすがり歩んで行く者になりたいと思います。

1月23日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「いつも共にいてくださるイエスさま」  マタイの福音書28章11〜20節
イエスさまの行跡に従って福音書を学んできましたが、本日の本文でその最後となります。そしてその最後にイエスさまが弟子たちに残して下さった言葉は「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」という素晴らしい約束です。そしてその約束と共にイエスさまは弟子たちに宣教を命じられます。
本文の18〜20節は、あの有名な大宣教命令です。そしてそれを語られる一番最初に弟子たちを励まされます。18節の最初に「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。」と語られます。即ち、全ての宇宙を支配しておられる神さまの権威の下で、この命令があなた達に与えられているということです。これから弟子たちはこの世に福音を伝えて行きます。その中でこの世の権威を持っている人々は、弟子たちを迫害し福音を伝えることができないようにすることになります。そのようなこの権威や力に対して弟子たちが恐れないように励まして下さることです。全宇宙を支配する権威を持っている神である私が、あなた方に命じることが、だからどんなことに対しても恐れることなく、これからのことを行ない福音を伝えなさい、と語られることです。
それではその内容は何でしょうか。それは「行って」、「弟子としなさい」ということです。そして「弟子としなさい」ということの具体的なことは「バプテスマを授けること」そしてイエスさまの教えを「守るようい教えること」です。そしてその対処は「あらゆる国の人々」ということですが、全ての聖徒が世界宣教に出て行くことは出来ないと思います。ですので私たちが福音を伝えるために送られたところは、私たちが置かれている場所と言えると思います。家族や知合いなど、その人にしか届けられない人々に対して、私たちは出て行き福音を伝えなければなりません。
そしてイエスさまはそのような私たちと「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」と約束して下さいました。信仰の弱い私たちは、時にはこの世の噂によって信仰が揺るがされ、疑いを持ち、恐れることがあります。そのような私たちにイエスさまは近づいてくださり、いつも共にいて下さるお方なのです。
私と共にいて下さる神さま、このインマヌエルの神さまを覚えまして、そのお方の恵みと愛に感謝を捧げたいと思います。そして私たちが頂いたその恵みと愛を、そして福音を愛する人々に、大切な人々に伝える者になりたいと思います。

9月5日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「主の山に備えあり」                創世記22章11〜14節
アブラハムは、神さまから愛する息子イサクを全焼のささげ物として捧げなさい、という大変な試練にあわせられました。その厳しい試練に対してアブラハムは神さまからの言葉をそのまま受け入れ従いました。神さまが告げられた山に登り、祭壇を築くアブラハムは、その準備が終わると息子イサクを縛り、祭壇の上に載せました。そして手を伸ばして刃物をとり、息子イサクを屠ろうとしました。
その時、天から主の使いの声があり「アブラハム、アブラハム」と呼び、それに答えるアブラハムに「その子に手を下してはならない。その子に何もしてはならない。」と言い、アブラハムを止めさせることでした。このように急いでアブラハムの手を止めさせる神様から、この試練の神さまのみこころは明かされます。神さまは最初からイサクを全焼のささげ物として受け取ろうとしたことではありません。この試練を通して、アブラハムが本当に神さまを恐れているかどうかを試みられたのです。
最初、アブラハムは神さまの御声に従い、故郷を離れて神さまが示すところへ行きました。その後、神さまの約束について疑問を持つアブラハムでしたが、神様の導きによってアブラハムの信仰は成長して行きました。そしてその信仰は、自分の一人子、愛する息子イサクをも、神さまに従って神さまに捧げることできるまで成長したのです。その信仰を確認しアブラハムに教えてくださるために、神さまはこのような大変な試練にあわせられたのです。
大変な試練の中でも神さまへの信頼を持って最後まで従った上に、神さまからの備えは見えてくることでした。13節に「アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が 角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。」とありまして、アブラハムはその場所を「アドナイ・イルエ」と呼びました。神さまは私たちのすべてをみておられ、試練の中で乗り越える道を備えてくださり、私たちをその道へ導いてくださいます。このように、試練にあわせられる神さまですが、しかし同時にその試練を乗り越えることができる道さえも備えてくださる神さまです。
試練や苦難の中にいる時、私たちは備えてくださる神さまを覚えたいと思います。その神さまを信じて最後まで従った時、私たちの信仰も成長できると思います。目の前にどんな試練や苦しみがあるとしても、道を備えてくださる神さまを覚えまして神さまに頼って生きて行く者になりたいと思います。

8月29日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「神様の選びの恵み」                創世記25章19〜34節
創世記のヤコブの物語を読んで見ますと、ヤコブは時には狡猾で時にはずる賢く思われることがあります。その姿は聖書に出てくる多くの人物の中で、他にはないくらいこととも思われますが、そのようなヤコブを選んでくださった神様の恵みについて考えてみたいと思います。
創世記24章をみますと、イサクとリベカの出会いは神様の不思議な導きによるものでした。アブラハムは信仰によってイサクに相応しい妻を探し求め、その答えとして出会うようになったのがリベカでありました。イサクは神様からの約束を受け継ぐ者であり、リベカは祈りの答えとして出会うようになった者である、そのような二人が結婚して家庭を作る、その家庭には神様からの豊かな祝福があるだろうと期待されることだと思います。
しかし、その道は順調ではなくて、リベカは「不妊の女」と書いてあります。イサクが結婚したのは40歳でしたが、彼らに双子が生まれたのは60歳のことでした。ですから20年間子どもは与えられなかったことであって、その間、イサクは神様に祈りを捧げました。そのようなイサクの祈りを聞いてくださる神様、その神様はご自分の御計画の中で、神様の時となった時、リベカが身ごもるようにしてくださり、双子が生まれるようにしてくださったのです。20年の間、一つの祈りの課題を覚えて祈り続けることは大変なことだと思います。しかしイサクは、父アブラハムから伝えて聞いた神様、自分がモリヤの山で経験した神様、そして妻リベカを出会うようにしてくださった神様を信じ、祈り続けたことだと思います。
時が満ちて双子が生まれますが、兄はエサウと弟はヤコブと名付けられます。二人は成長してエサウは狩人となり、ヤコブは穏やかな人となりました。そして29〜34節である出来事が起こりますが、そこに現れていることは、エサウは長子の権利を簡単に諦めること、そしてヤコブは異常に欲しがっていることです。結局、煮物一皿で、エサウは長子の権利を売ってしまい、ヤコブは自分のものにしてしまいました。本来、長子の権利というのは神様から与えられるもので神様からの恵みです。そのような神様の恵みをエサウは軽く思い、ヤコブはずる賢い方法で自分のものにしようとしたのです。
私たちは神様からの恵みをどのように思っていることでしょうか。私たちをご自分の民として選んでくださった恵み、神様からの愛、そして救いはただで頂いたものです。その恵みを覚えて感謝し、神様の教えにしたがって神の民に相応しく歩んで行く者になりたいと思います。

6月13日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「自分の目の梁に気づかない我」        マタイの福音書7章1〜6節
人は誰も自分に対しては寛大であり、他の人に対しては厳しい姿を持っています。このような姿を持っている私たちは、神様の民として他の人々にどのように接して行くべきでしょうか。山上の説教の中で、イエスさまは神様の民の姿について色々を教えてくださいました。最後の7章では、人と人との関係に置いて神さまの民はどのような態度を取るべきであるのか、について教えてくださいます。
1節に「さばいてはいけません。さばかれないためです。」とありますが、私たちは誰にさばかれるのでしょうか。それは神さまにです。そしてこのさばく、ということは神さまのご行為なのです。ところが、自分の思いで他の人をさばく、ということは自分を神さまの位置に置くことになります。まるで自分が神さまであるように、他の人をさばくことはしてはいけないということです。
もし、神さまの民が天の父の神さまのことを忘れてしまい、他の人をさばいてしまったら、どうなるでしょうか。2節では「あなたがたもさばかれ、あなたがたも量られる」と書いてあります。イエスさまを信じて救われた私たちは、最後の審判においてはさばかれません。しかし、聖書は最後の審判での裁きだけではなく他の裁きについても教えています。それは、神の子とされた者が神さまの教えに従わなかった時、または神の子として相応しくないことをやってしまった時の裁きです。ですから、神のことされた者は神さまの教えをよく覚えてそれに従って生きて行かなければなりません。そしてもう一つは、死後の神の子のためにある裁きです。これはクリスチャンになってからの行いに対することでありまして、その行いによって報われることになります。ですから、私たちは神さまの民として天の父の神さまを覚えて、その教えに従い守って歩んで行かなければなりません。
そして、そもそも私たちは、さばくことができる存在でしょうか。3〜5節を見ますと、私たちは自分の目には梁があるのに、他の人の目のちりを取ろうとするものです。梁のことでよく見えないのに、目のちりのように小さいものを取ることができますでしょうか。それは逆にその人を傷つけることになります。しかし、私たちは、自分の目に梁がありながら、他の人の目のちりを取ろうとするものです。自分の過ちには気づかず、他の人の過ちには直ぐ裁きたがる私たちの姿に気をつけなければなりません。天の父なる神さまを覚えて、そのお方の愛によって私たちの目の梁が取られ、神さまの教えに従って歩んで行くものになりたいと思います。