礼拝メッセージ要旨

9月20日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「癒して下さるイエス様」           ヨハネの福音書5章1-9節

本日の聖書箇所は、イエス様が38年間も病気にかかっていた人を癒して下さった出来事で有名なみことばです。この出来事を通してその背後にあるイエス様の愛について、その愛がどういうものであるのか、考えて見ることが出来ます。

先ず、イエス様の愛は罪人を訪れる愛です。イエス様はユダヤ人の祭りの時、エルサレムに上られました。この祭りは一つに特定は出来ませんが、ユダヤ人にとっては大切なことであって各地から大勢の人々がエルサレムに来ていました。勿論イエス様も祭りを守りますが、本当の目的は失われた人々を救うために行かれたのです。エルサレムの羊の門の近くにベテスダ(哀れみの家、恵みの家)という池がありますが、その池の周辺には大勢に病人たちが集まっていました。そこにいる病人に癒しと救いを与えるために訪れたのです。二つ目に、イエス様の愛は励ましを与える愛です。大勢の病人の中に38年間も病に苦しんでいる人がいましたが、イエス様はその人をご覧になって「良くなりたいか」と言われました。病人にこのような質問をすることは当り前のことだと思うかもしれませ。しかしイエス様はこのような質問を通して、長い間患っていた病のために失ってしまった癒しの望みを再び思い起こすためにされたのです。即ち、その病人の中にある信仰を固くし、癒してもらえるという強い確信をもつことが出来るように励ましを与えておられるのです。三つ目に、イエス様の愛は癒して下さる愛です。イエス様は病人を憐れんで下さり、彼を癒して下さいましたが、そこにイエス様の愛が現わされているのです。そしてそれは肉体の病は勿論、罪からの解放をも与えて下さる愛なのです。ヨハネの福音書3章16節は、このイエス様の愛によって成就されたのです。

今、どのような問題を抱えているのでしょうか。私たちの全てをご存じで、その願いを聞いて下さることが出来るイエス様を覚え、今一度その恵みにすがる者になりたいと思います。

9月13日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神は一つである」             エペソ人への手紙4章3-6節

本日のみことばには、同じ言葉が繰り返されて使われています。特に「一つ」という言葉が7回も繰り返されていますが、パウロはこのような表現を通して教会の本質的な一致、一つとなることを強調しているのです。そして「一つ」という言葉とともに三つずつ分けて語っています。4節では「からだ、御霊、望み」であり、5節では「主、信仰、バプテスマ」、6節では神について「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる」と、それぞれ三つの言葉を持って説明しています。そして4節は御霊に関すること、5節ではみ子イエス・キリストに関すること、6節では父なる神に関することで三位一体の神について説明しています。

以上の説明の順序を考えて見ると、最初に御霊について語り、次にみ子イエス・キリストについて、そして最後に父なる神様について語っています。私たちがクリスチャンになることが出来たのは聖霊の働きによってです。しかし、イエス・キリストがおられなかったなら、聖霊は来られなかったと思います。そして神様がこの世を愛されなかったなら、ひとり子を遣わして下さらなかったなら、キリストもこの世に来られなかったと思います。すべてはお一人の神が計画され、成し遂げられるのです。聖霊が私たちの中におられ、その聖霊が私たちをイエス・キリストに導いてくださいます。そして私たちの仲保者であり大祭司であるイエス・キリストは、私たちを父なる神様に導いてくださいます。

このように「御霊の一致」とは、私たちを通して成し遂げられる事ではなく、一つとしてくださった神様によって私たちに与えられるものなのです。私たちを一つとしてくださるのは、お一人の神様です。お一人の神様のみ前に進み、そのお方を見上げてひれ伏し、その神様に頼ることによって私たちに与えられた一致を保つことができると思います。お一人の神様だけを見上げて、御霊の一致を熱心に保つ者になりたいと思います。

9月6日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「召しに相応しい人生」           エペソ人への手紙4章1-3節

エペソ人への手紙の全体の構造を見ますと、今日の本文を基準として二つの部分に分ける事が出来ます。それは1-3章の前半、そして4-6章の後半です。前半では、今まで説明して来た通りに神様がどのような方であるのか、その神様が私たちのためにどんな事をなさって下さったのか等、主に教理について説明しました。そして今日の本文から始まる後半の4-6章では、前の部分での教理を基にしてどのように適用して行くのかについて説明します。即ち、使徒パウロは前半で説明したものが聖徒の実生活でどのように適用する事ができるのかを4章以降で説明しているのです。

その実践に置いて一つ目に出て来るのは謙遜です。謙遜とは、相手を自分より偉いと思うことであります。自分はへりくだり、相手は自分より優れた人と思うことです。二つ目は柔和です。柔和とは、優しくて穏やかな姿というイメージがありますが、自分自身の重要性や権威を強く主張しないことを意味します。そして次には寛容と忍ぶ事であります。寛容とは相手のことを深く思って寛大に受け入れられる広い心とい意味です。そして忍ぶこととは、言葉通りに忍耐深い事です。以上の四つ、謙遜と柔和、寛容と忍ぶことを考えて見ると、謙遜と柔和は聖徒自身に向かう内容であり、寛容と忍ぶ事は他の人との関係においての内容であることが分かります。

特に、「愛を持って互いに忍び合い」と語っています。その表現から神様に召された者たちは完全な存在ではないという事が分かります。互いに寛容を示し、互いに忍び合わなければならない存在ということです。結局、自分を含めてすべての人々が完全な存在ではないため、足りないところがあるという事を認識し、寛容を示して互いに忍び合わなければならないのです。弱い私たちですが、毎日、御霊の助けによって導かれて、神様に召された者として相応しく行なう者になりたいと思います。

8月30日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「キリストの愛」           エペソ人への手紙3章17-21節

本日は前回に続いて、パウロのエペソ教会の聖徒たちのための祈りを通して「キリストの愛」について、そしてその愛を知るようになるクリスチャンが目指すべき姿は何かについて考えて見たいと思います。

先ず、パウロはエペソ教会の聖徒たちのために「キリストが、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように」と祈ります。ここで「心」というのは、その人の人格の真中です。そして「住んでいる」というは、一時的に滞在するのではなく永遠に住むという事です。ですから、パウロの祈りは「キリストがクリスチャンの心のうちにずっと住み続けますように」という事です。それは、キリストが心のうちに住んでおられて、その一生涯の生き方が、キリストが生きることのようになる、と祈る事です。そのように生きるために、私たちはキリストの愛に根ざし、キリストの愛に基礎を置かなければなりません。

それではキリストの愛、その広さ、長さ、高さ、深さはどれほどのものでしょうか。パウロは、キリストの愛について「人知をはるかに超えた」ものであると言いながら、それを知ることが出来るようにと祈っています。即ち、人間の理性では知ることが出来ないほどの大きな愛であることを知ることが出来るようにと祈っているのです。キリストの愛というのは、その広さ、長さ、高さ、深さが計り知れないものであって、それほど大きなキリストの愛に根ざして基礎を置いて、目指すところは、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、満たされることであります。これがクリスチャンの究極の目標です。

「信じる」というのは、この満たされるところまでの始まりであります。キリストを信じることによって、キリストが私たちの心のうちに住んでいてくださいます。そして私たちの信仰がキリストの愛に根をおろして成長して行く事によって、神様の満ち満ちたさまにまで満たされるのであります。私たちにどんな試練や問題があっても、私たちを満たして下さることを信じて祈るものとなりましょう。

 

8月23日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「罪人を招く」                     マルコの福音書2章13-17節

本日の本文には、イエス様の「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」という有名みことばがあります。本文に出て来る収税人のレビに「わたしについて来なさい」と仰るイエス様と、レビの答えを通してクリスチャンの生き方について考えて見たいと思います。

先ず、「アルパヨの子レビ」とは、新約聖書の最初にある「マタイの福音書」と書いたあのマタイのことです。イエス様に召される前の彼の仕事は、税金を取り立ててローマ政府に納める収税人でした。この収税人というのは、ユダヤを支配していたローマ側に立っていることと、同族の税金を着服して自分のものにすることでユダヤ人からがとても嫌われた人々でした。レビは同族からも嫌われて人間以下の扱いを受けながらも、人生の中心にお金というものを置いて、そこから満足を得ようとしたのです。

そういうレビに、ある日、イエス様が目を留めて下さり「わたしについて来なさい」と仰って下さいました。たったの一言の非常に短いみことばでしたが、このイエス様のみことばはレビにとっては、今までの人生を揺り動かすように聞こえたでしょう。そのようなイエス様のみことばを聞いたレビは、すぐに立ち上がってイエス様について行ったのです。その心の変化は、今までの価値観の変化をもたらし、イエス様によって与えられた喜びを分かち合うために大勢の人々を呼んでイエス様と食事会を開きました。

このような光景を見ていたパリサイ派の律法学者たちの質問に答えて下さったのが「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」というみことばです。ローマ書に書いてある通りに、この世に義人は一人もいません。すべての人が魂を病んでいて、死に向かっているのです。その病から癒されるためには、イエス様に出会い、イエス様に従って生きて行くしかありません。私たちが病人であり罪人であることを覚えて、私たちを招くために来られたイエス様について行きましょう。

8月16日(日) 礼拝メッセージ要旨        尾子富夫

 

「永遠を与えたもう神」          伝道者の書 3章1節~15節
        
「伝道者の書」は、聖書の中でも視点がユニークで、難解な書と言われています。天にいます神様を抜きに、神への信仰抜きの人生の不毛さ、無意味さ、空しさを探求した書だからです。その象徴的なことばが、「日の下」「天の下」
「地の上」でありますが、これが37回も使われています。この世にあって、人間の一生は、どんなに労苦しても何の益があるか、「空の空」である。というテーマであります。天上の神の視点を取り入れないと、まるで、ネガフイルムをみるように、何とも味気ないモノクロの世界です。
 しかし、2章から3章へと進むにつけて、神の視点が入り込んできます。悲観主義から、神の御手を思わせる人生観を提示し始めると、モノクロから、色鮮やかなカラーの世界を思い起こさせます。
3章から、14対の人生の模様が表現されます。神を信じない方は、どこまでもこの箇所から、運命論的なことを読み取るでしょう。しかし、その逆に、クリスチャンの人生経験の豊富なかたは、一切のことの背後におられる神のわざ、摂理を深く思わざるをえないでしょう。時にかなって美しく、最善をなして下さる神のご計画。マタイ24章で「人の子が来るのは、 ちょうど、 ノアの日のようだからです。」「洪水前の日々は、 ノアが箱舟に入るその日まで、 人々は、 飲んだり、 食べたり、 めとったり、 とついだりしていました。」
何事にも定まった時期があります。人の子のしるしが天に現れるのもこのようにでありましょう。
「永遠への思い」「時と永遠」を人の心に与えられました。永遠なる神を思う心を与えられました。この神様に出会わない限り虚無感を覚えるのです。
「というのは、 すべてのことが、 神から発し、 神によって成り、 神に至るからです。 」
(ローマ11:36)
 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。その神を誉め讃えましょう。

8月9日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「ひざをかがめる」         エペソ人への手紙3章14-19節

 本日の本文は、エペソ教会の聖徒たちのための祈りです。この祈りには、エペソ教会の聖徒たちに向かうパウロの熱い願いが込められています。パウロは前回まで詳しく説明した神様の素晴らしいご計画がエペソ教会の聖徒たちの経験の中ですべて成し遂げられるようにと祈ります。
 
 まず、パウロの祈る姿から、私たちは祈る姿勢を学ぶことができます。それは神様のみこころを知って、それを基にして祈りに進むということです。Ⅰヨハネ5:14にも「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」とあります。同じく、私たちも祈るためには、先ず神様のみこころを知らなければなりません。聖書を通して神様のみこころを知り、祈りを通してそれが実現しますようにと求めることが出来るのです。このように神様のみこころを知ることと祈りは一つのセットにならなければなりません。そしてパウロは「ひざをかがめて、祈ります」と言います。聖書の中で、ひざをかがめて祈る姿を探してみると、代表的にイエス様のゲツセマネの園での祈りとステパノが殉教する直前の祈り等があります。このようにひざをかがめて祈るというのは、祈る人の真実さと切なさを表す姿勢である事が分かります。このような心をもって「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に」祈るパウロです。これは、神様こそ、全宇宙を創造された創造主であられ、すべてのものの命の源であられるということです。

 そのような神様のみ前で、恐れと謙遜な姿をもって第一に祈った事は「内なる人を強くして下さいますように」ということです。それは、私たちに与えられた信仰というのは、内なる人が強くならなければならないからです。即ち、信仰生活の一番も基本であるからです。私たちは、今何を心配し、何を祈っているのでしょうか。先ず、神様が私たちに実現して下さった救いの恵みを覚えて、父なる神様の御前に、内なる人の強さの為に祈る者になりたいと思います。

8月2日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神の永遠のご計画」           エペソ人への手紙3章10-13節

本日の聖書を見ますと、パウロの観点は広くなり天使たちに対しても神様の豊かな知恵が示されるためにと説明します。天使たちは、神様の御側にて神様に仕える存在です。そのような天使たちに、教会を通して神様の豊かな知恵が示されるようになるとパウロは語るのです。以前は一つの光のような神様の知恵が、光がプリズムを通過することによって7つの色々な色になる事と同じように、今は教会を通して神様の豊かな知恵が天使たちに示されるという事です。

この場面で、一つの大きな劇場を想像する事が出来ます。この劇場は人類の歴史のすべてを見せてくれる劇場であって、この世がその舞台である劇場です。そしてその舞台には一つの壮大なドラマが公演されますが、そのドラマは全てのクリスチャンが俳優であって、神様が直接指導し制作されるドラマであります。そのようなドラマが公演される劇場での観客として見ているのが、何と天にある支配と権威である天使たちということです。パウロを含めて、選ばれた私たち一人、一人は神様のこのドラマに出演し、演じているのです。このような神様の素晴らしいご計画を知っていたパウロは、今、ローマの牢屋に投獄されているという事さえも喜ぶことが出来たのです。

私たちが神様の恵みによって救われたというのは、神様のドラマに俳優として選ばれて出演するということです。私たちはそのドラマの中で、神様のみことばに従って、私たちの人生を通して演じる存在となるのです。神様は、このような私たちの姿を通して神様を知らない人々に福音を宣べ伝えさせます。暗闇の中にいる人々に神様のみこころを明らかにするようにして下さいます。そして教会を通して、神様ご自身の豊かな知恵をお示しになります。私たちは福音に仕える者として福音を伝えさせるために、その永遠のご計画の中で選ばれた恵みに感謝するものになりたいと思います。そしてその神様信じて、従う者になりたいと思います。

7月26日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「与えられた恵みの目的」         エペソ人への手紙3章7−9節

私たちの人生の目標を知り、その目標に焦点を合わせて生きていくならば、一つの目標に向かって力強く進んで行くことが出来ます。それはまるで虫眼鏡のようだと思います。真昼の暑い日差しは、そのままなら熱いだけです。しかしその光を虫眼鏡で一箇所に集めると、即ち一つに焦点を合わせると、紙をも燃やすことができるようになります。私たちに対する神様がもっておられる目標を知り、その目標に私たちの人生の焦点を合わせて生きていくならば、私たちは神様が喜ばれる人生を生きていくことができると思います。

先ず、私たちは福音に仕える者として神様に選ばれたということを覚えたいと思います。パウロ自身は「神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって」と言います。その言葉には、パウロ自身からのものは一つもありません。自分の使徒としてのすべての活動は、ただ神様の力によることであり、異邦人に福音を伝えることが出来たこともただ神様の恵みの賜物によるのだ、ということです。このように、神様の力の働きと神様の恵みの賜物によってのみ、私たちは神様に仕えるものとされるのです。

ではなぜ、神様は私たちを仕えるものとしてくださったのか、その理由の一つ目は、キリストの測りがたい富を異邦人に、即ち神様を知らない人々に伝えるためです。そして二つ目は、神様が天地を創られる前からもっておられた救いのご計画が、どのように実現されたのかを明らかにするため、ということです。

私たち一人、一人はパウロのように福音に仕える者とされました。それは神様の力により、神様の恵みによるものです。そして私たちが救われたこと、そのもの自体がキリストの測りがたい富と神様のご計画が実現されたことを現すものであります。そのようなものとされた私たちを通して、神様は今も 神様を知らない人々に福音を伝えるようにしておられるのです。

7月19日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「罪赦された喜び」           ルカの福音書5章17-26節

「もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。」これは瞬きの詩人と呼ばれる水野源三さんが作詞した新聖歌292番1節です。水野さんは脳性麻痺で見ることと聞くこと以外は何も出来なくなりました。そのような彼がキリストに出会い罪を赦されて、やがて素晴らしい詩人になります。彼の詩は、神様への喜びが良く表われた純粋な詩であると評価されます。肉体的には誰よりも不自由な人生を送った彼ですが、彼は罪を赦された喜びで満ち溢れた人生を生きた事に違いないと思います。

本日の聖書を見ますと、ある時、イエス様のところに、男たちが中風の人を、床のまま運んで来ました。ところが多くの人が集まっていたため、入口からは入る事もイエス様に近付く事も出来ませんでした。それで男たちは、屋根に上って瓦をはがして、人々の真ん中にいるイエス様の前につり下ろしたのです。このような彼らの姿から、イエス様は「彼らの信仰」をみたと書かれています。彼らはイエス様を信じました。誰も治すことが出来なかったことを、イエス様は治すことが出来ると信じていたのです。イエス様のもとに出て行けば必ずイエス様は治してくださるということを信じて、何があってもイエス様のもとに出て来たのです。

そのような彼らの信仰を見たイエス様は「友よ。あなたの罪は赦されました。」と中風の人に仰いました。この時、多くの人々は「病の癒しではなく、何故罪の赦しなのか」という疑問をもったかも知れません。しかし、イエス様は、彼の根本的な問題を病と見ないで、罪の問題として見てそのように話されたのです。私たちは人それぞれの願いをもってキリストのもとに来ます。そうであっても、イエス様は人間の根本的な問題である罪の問題を触れて下さるのです。この問題が解決されなければ、幾ら健康であっても真の平安を得ることは出来ないのです。私たちの罪が赦された時、たとえ体は不自由であっても喜びをもって生きて行くことが出来るのです。イエス様のもとに出ていって「友よ。あなたの罪は赦されました。」という言葉を頂き、罪赦された喜びに満ち溢れる人生を生きて行きたいと思います。