「イエス様に選ばれた者」 マルコの福音書 3章13‐19節
本日の聖書は、イエス様が12名の弟子をお選びになった有名な内容です。以前、イエス様が安息日に片手のなえた人を癒して下さったことがありました。その時、パリサイ人たちはヘロデ党の者たちと手を組んでイエス様を殺そうとする相談を始めました。本日の聖書はその続きですが、それと共に、当時イエス様に関する話しはガリラヤを中心として東西南北広い範囲に広がり、各地から大勢の人々がイエス様のもとに集まって来ました。
このような状況の中でイエス様は12名の弟子をお選びになりましたが、本日の本文によりますと「ペテロ、ヤコブとヨハネ、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、イスカリオテ・ユダ」です。ここに書かれている人々のことを見ますと、ある者たちは漁師、ある者は収税人というローマ帝国のために働いた人、ある者は激しい愛国主義者でした。その他の人々をも、いずれにしても彼らの中には専門的な宗教・政治的指導者は一人もいなかったのです。そしてこれからのイエス様の働きに役に立つような権力者も、お金持ちも、戦略的に優れた人もいないのです。こんな人々でありますが、イエス様はどのような基準をもって、何のために彼らをお選びになったのでしょうか。
先ず、イエス様は「ご自身でお望みになる者」を選ばれましたと書かれています。それは、徹底的にその選びの基準が人間にあるのではない、という事です。選ばれた基準を人間から捜す事ではなく、その基準が神様ご自身にあるという事です。そしてその選びの目的は、イエス様の身近に置いて彼らを教え、そして彼らを遣わして福音をのべさせるためでした。私たちは12弟子でも、12使徒でもありません。しかし神様同じくご自身のお望みのまま私たちをも選んで下さり、神のこどもとして下さり神の家族として下さいました。それは私たちに神様の愛を教えて下さり、その愛を周りの人々に伝えさせるためなのです。私たちに与えられた神様の恵みを愛を覚えて、選ばれた者としてその神様を伝える者として生きて行きたいと思います。
「互いに赦し合う」 エペソ人への手紙4章30-32節
本日の本文は、4章の後半から説明して来た古い人を脱ぎ捨てたことと新しい人を身に着たことについての結論の部分です。そのような結論の部分において、この30節は前から説明して来た内容についての要約であって、前のことろで説明した実践的な勧めを決して忘れてはならない、ということをもう一度強調して説明しています。
先ず、30節には「神の聖霊を悲しませてはいけません。」と書かれています。聖霊は信仰者の内にお住まいになるお方です。その聖霊を悲しませるというのは、どういうことでしょうか。または、人間のどういうことが聖霊を悲しませることになるのでしょうか。それは直接的には、25節以降で説明して来た古い人の姿を捨てることが出来ず、そのまま行なっている、それが聖霊を悲しませることになるのです。25節以降で勧めて来たことは、一般的な道徳・倫理からでも、してはならないことです。しかしそういう観点からではありません。クリスチャンである私たちがより大切に思い、覚えなければならないことは、そのような行ないが聖霊を悲しませることだということです。ですから、いつも聖霊のことを覚えて行ない、神様に喜ばれる者となりたいと思います。
そしてその古い人の行ないの根底にあるのが31節に書かれている「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなど」であって、それを「いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」と教えています。そして私たちは「お互いに親切にし、心の優しい人となり、互いに赦し合う」ことを通して、そのようないっさいの悪意を捨て去ることができるでしょう。それも、また神様がキリストにおいて私たちを赦して下さったゆえにできることなのです。
ですから、神様の赦しの恵みと愛を覚えて、私たちも互いに親切にし、互いに赦し合わなければなりません。これは片方だけがそうするのではなく、私たちすべてが、互いに赦し合わなければならないのです。神様がキリストを通して、私たちに見せて下さった恵みと愛を覚えて、親切で優しい心を持って、互いに赦し合うものになりたいと思います。
「手を伸ばしなさい」 マルコの福音書3章1-6節
韓国のことわざの中で「甘ければ飲み込み、苦ければ吐き出す」ということばがあります。自分の利害のみを考えて、それによって受け入れたりする態度を表す言葉ですが、私たちの信仰もそのような部分がないのか良く考えて見なければなりません。聖書の教えに対して、自分の利益になる事は受け入れてそうでないことは捨ててはいないのか、ということです。本日の聖書には、そのように生きていて、自分たちの規則を固い信念としてもっていた人々が出て来ます。
ある日、イエス様が会堂に行かれました。その時は、安息日であって、イエス様の教えを聞くために多くの人々がその会堂に集まっていたのです。そこには、片手のなえた人もいました。ところが、このような会堂に、イエス様の教えにも片手のなえた人にも、どんな関心ももっていなかったのに、イエス様とその人をじっと見つめていた人々がいました。この人たちは、パリサイ人でした。その時、彼らはイエス様が片手のなえた人をいやすかどうか、それを確認するためにそこに座っていてじっと二人を見つめていたのです。何故なら、それを通してイエス様を訴える口実を得るためでした。
そのことをすべて分かっておられたイエス様は、あえて片手のなえた人を会堂の真中に呼び出して彼の手をいやして下さいました。しかしそのようなイエス様の姿を見ても、そしてイエス様の教えを聞いても、かたくなな心の故に、なえてしまった心の故にイエス様の教えを受け入れることが出来なかった彼らでした。そのようなパリサイ人のかたくなな心を通して、私たちの心は固くないのか良く吟味して見なければなりません。そしてイエス様は固くて渇いてしまった心をもっている私たちに、手を伸ばしなさい、と仰って下さいます。それは私たちに新しい心を与えて下さるためなのです。新しくされた心によって、神様のみこことに従い、その教えを守り行なう者になりたいと思います。
「誠実と良い行い」 エペソ人への手紙4章28-30節
前回から古い人を脱ぎ捨てて新しい人を身に着た聖徒の生き方について学んでいます。その実践的な勧めをするのにあたって、一定の順序に従って語って行きます。先ずは、してはならないという否定的な命令があって、その次にはしなければならないという肯定的な命令があって、最後には何故しなければならないのかという理由、または条件について説明します。それは古い人を脱ぎ捨てて新しい人を身に着たという順序と同じものです。
本日の本文でも、先ず「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。」と言います。この「盗み」というのは、自分に与えられていないものに手をつけることを意味します。或いは、自分のものではないものなのに、自分の目的と満足のために使うことであるとも言えるでしょう。非常に自己中心的な考え方を持って他の人のお金や時間、アイデア等を自分のもののように使ってしまうことです。それに対する積極的な勧めは「かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」という事です。盗みをやめることで終わりではなく、「自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」という積極的な事が勧められているのです。そしてその目的は、「困っている人に施しをするため」であると説明します。続く四つ目の勧めは、言葉づかいに関することです。先ず、「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。」という事です。ここで「悪い言葉」とは、相手を躓かせたりして、その共同体に大きな悪い影響を与えるものであります。そのような言葉づかいをやめて「ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」と勧めます。即ち、相手の霊的成長に役に立ち、相手の徳を高める言葉を話さなければならないという事です。
神様が私たちに与えて下さったもので満足して感謝し、良い行ないと誠実をもって毎日を過ごしたいと思います。私たちの心に良いものをもって、互いに助け合い、徳を養い合う者になりたいと思います。
「偽りを捨てなさい」 エペソ人への手紙4章25‐27節
クリスチャンは、古い人を脱ぎ捨てて新しい人を身に着たものです。しかし、このような事を学んで知っていると言っても、すべてのクリスチャンが新しい人を身に着た生き方をしている事ではありません。そこでパウロは、新しい人を身に着たものはどのように生きて行くべきなのかについて、具体的に説明して行きます。
先ず、パウロは新しい人を身に着たものの生き方として、偽りを捨てて、隣人に対して真実をかたることを教えます。そして、その理由として、私たち、即ちクリスチャンはからだの一部分だと説明しています。それは、教会がキリストのからだであり、クリスチャン一人一人がそのからだの各器官であるということです。からだの各器官は互いが互いのために存在し、互いのために働き、そしてそれはからだ全体のためのことになります。からだの一部分である私たちは、自分は自分だけのために存在するのではなく、他の人のために存在するということです。そういうからだの一部分が偽りをもっているというは、自分のことを、そのからだの一部分として考えていないということだと思います。しかし、クリスチャンはキリストのからだの一部分として、互いのために存在する新しい関係をもつようになりましたので、そのからだに助けとなるように語らなければならないのですが、それが真理を語る事です。二つ目に、怒りについて説明しまが、怒りについて三つのことを教えています。それは、怒っても罪を犯してはならないこと、憤ったままにいてはならないこと、そしてその怒りによって悪魔に機会を与えてはならないということです。ですから、クリスチャンは怒る事があっても、その怒りというのが罪深いものにならないように気を付けなければなりません。
本日の本文で、パウロは偽りを捨てて真理を語り、怒っても罪を犯さないようにと勧めています。私たちがこの教えを心に覚えて新しい人を身に着た者として生きて生きて行きたいと思います。
「新しい人を身に着る」 エペソ人への手紙4章20-24節
この手紙を読んでいるエペソ教会の聖徒たちは異邦人でありました。しかし、今は変わりまして前で説明した神を知らない人々の人生とは違うと言うことが強く強調されているのです。先ずクリスチャンは、この「しかし」を覚えたいと思います。私たちの以前の姿は、まさに17-19節で説明している姿のままでありました。しかし、そのような者に神様のみ恵みと大きな愛によって、罪が許され滅びの道から救われて永遠のいのちが与えられたのです。
そのような「あなたがたはキリストを、このようには学びませんでした。」と語ります。聖徒たちの人生とは、前で説明したようなむなしい人生、目標もなくて暗闇を歩んでいるような人生ではないということです。そうではなく、キリストという確実な人生の目標が与えられたということです。そして、このキリストを学んだ学び方についての説明が続きます。その学び方は「ほんとうにあなたがたがキリストに聞き、キリストにあって教えられているのならばです。まさしく真理はイエスにあるのですから。」と書かれています。即ち、その学んだことも、学んだ範囲も、学んだ目的も、ただキリストのみであるということです。その学んだことの中で一つ目は、「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと」です。私たちも着替えをするためには、まず古い服を脱がなければなりません。脱いでから、新しい服を着るのです。そのように、先ずは古い人を脱ぎ捨てて、その次は、「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきこと」です。
このように古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を身に着た者として生きて行くために、私たちに必ず必要な事がありますが、それは「心の霊において新しく」される事です。私たちが心の霊において新しくされているならば、新しい人を身に着た者としてそれに相応しい人生を生きる事が出来ると思います。毎日、心の霊において新しくして下さる神様の恵みに感謝し、それに相応しく歩む者となりたいと思います。
「憐れみを好まれる神」 マタイの福音書12章1-8節
人々はしばしば、自分なりの基準を決めてその基準をもって他の人を判断し裁くことがあります。イエス様の当時、パリサイ人たちもそのような人々でした。彼らは、神様が与えて下さった律法の本来の意味とは関係なく、自分たちで決めた規定をもって色々なことを判断し、その規定を守らなかった人々は神様に罪を犯したと見なして裁いたのです。律法本来の意味はなくなり、外側だけの行為だけをもって物事を判断し、その規定を良く守る自分たちを自ら正しいと思っていました。
イエス様は、そのようなパリサイ人たちの間違ったところを教えるために、ホセヤ6章6節の御言葉を引用して「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」と言われました。ここに現れていることは、中身は失ってしまって外側の形式だけが残っている律法、そのようないけにえは神様は喜ばれないということです。形式だけのいけにえというのは、いけにえを捧げる人の心に神様へのどんな感謝も喜びもなく、ただ儀式を通して自分を正しくするために行った行為を表します。しかし神様が私たちに求めておられるのは、神を愛し隣人を愛する事です。そしてその愛をもって他の人々に憐れみを施し、その上で行われる行為なのです。しかしパリサイ人たちの律法は、その愛と憐れみはなくなって外側の行為だけが残り、そのような律法をもって他人を裁いていたのです。
そこで私たちの信仰の姿はどうなのか考えて見なければなりません。パリサイ人のように、その基準だけをもって他の人を非難し裁いている姿をもってはいないか、良く考えて見なければなりません。代表的な例になりますが、礼拝に来るということを思う時、その行為をもった自分は正しいと思い、礼拝に来ない或いは来れない人々を心の中で裁いてしまうなら、それは形式だけのいけにえを捧げるような事です。最も大事なことは、神様から恵みと愛を覚えて感謝する心です。その神様を見上げ、神様からの愛と祝福に満たされて生きて行く者になりたいと思います。
「歩んではならない道」 エペソ人への手紙4章17-19節
エペソ人への手紙4章の前半では教会の一致について説明したパウロは、17節以降では聖徒の個人的な生き方について勧めて行きます。神様の召しに相応しい歩みについての説明ですが、本日の聖書ではしてはならない事について強調しています。特に17節の前半を見ますと「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。」と、今までの述べて来た雰囲気を変えて、これから伝えようとする内容の重要性を強調しています。
そのような口ぶりで語り始めたのは「もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。」という事でした。むなしいとは、「生きる目的がない」とか、「目当てのない」という意味で、異邦人は生きる目的がないまま歩んでいるということになります。しかしクリスチャンには、神様がどのように選んで下さったのか、その選ばれた者をもってどのようにして教会を造り上げ、生きて行くべきなのかが教えられて来たのです。クリスチャンは、そのような生き方が出来る者として変えられたのでその道を歩みなさい、と勧めているのです。
それでは、何故異邦人はむなしい心で歩んでいるのでしょうか。それは18節に書かれているように「神のいのちから遠く離れて」いるからです。それは、神様に関する知性が暗くなり、神様に関する無知とかたくなな心のゆえです。そして「神のいのちから遠く離れて」いる結果、神様を知らない人々はよりすさまじい状態になっているのです。そのような人生を「好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっている」と説明しています。何と恐ろしいものでしょうか。
ところが、この手紙は異邦人にではなく、クリスチャンに送られたものです。というのは、クリスチャンになっても信じる前の異邦人のような生き方をして、そのような道を歩んでいるということになります。私たちはもう一度、神様が召して下さった目標を確認し、それに相応しい生き方へ変えられたいと思います。
「キリストに達する」 エペソ人への手紙 4章13-16節
本日の本文の13節によりますと、私たちに与えられている目標は、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達することです。そして完全におとなになるために、私たちに必要なものは、信仰の一致と神の御子に感ずる知識の一致だと言われています。私たち皆が神の御子イエス・キリストを信じ、知って、完全におとなになって、その方にまで至ることによってともに成長して行くのです。
このような素晴らしい目標が私たちに与えられていますが、現在の私たちの姿はそうではありません。しかし、そのままに留まっていてはいけません。信仰が成長して行かなければならないのです。私たちはいつも13節の最終の目標を覚えていなければなりません。
そうしますと、その目標に至るためには如何すれば良いでしょうか。先ずは、子どもではないようにと教えています。子どもは「人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略」によって、教えの風に吹き回される弱い姿を持っています。子どもはまるで風向計のようであって、風によって方向が変わる様に、色々な偽りの教えによって、色々な方向に吹き回されますが、そうであってはならないということです。
そうではなく「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」と勧められています。真理と愛の調和を成長において重要な条件として強調しています。真理だけを強調し過ぎたあまり愛が欠けていたり、愛だけを強調し過ぎたあまり真理が欠けていたりしてはならないのです。真理と愛のバランスを良く取って、愛を持って真理を語り、すべての部分において成長し、キリストにまで至らなければならないのです。
私たち皆は、霊的な子どもから成長して、あらゆる点において教会のかしらであるキリストにまで成長しなければなりません。私たちに与えられたこの目標、今は成し遂げられてないとしても、ついに成し遂げられることを覚え、与えられた信仰生活において毎日成長する者になりたいと思います。
「キリストのからだを建て上げる」 エペソ人への手紙4章7-13節
教会の一致「一つ」いうことばをもって説明したパウロは、本日の本文では教会の一致について違う一面を説明します。それは一つである教会がもっている多様性です。例えばステインドグラスのようであって、教会は一つでありますが、その中には多様で多彩な恵みが与えられた信者たちが集められているという事です。
その恵みは、私たち一人一人に「キリストの賜物の量りに従って」与えられたものです。つまり、それはキリストの賜物の量りに従って其々に多様に与えられたという意味です。そしてこの恵みを与えて下さる方がキリストです。ですから、聖徒一人一人には多様な恵みが与えられましたが、その恵みはお一人であるキリストによって与えられたので、一致を保つことができるのです。このような一致と多様性について、Ⅰコリント12章4~5節では、次のように説明されています。「さて、賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。」
そしてどのような賜物が与えられたのか、そして何故、その賜物を与えて下さったのかについて説明します。多様な賜物の中で、本日の本文では5つの賜物だけをもって説明していますが、それは「使徒、預言者、伝道者、牧師また教師」です。この5つの共通点は、教えること、そして他の人に仕えることだと言えるでしょう。そしてその目的は「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり」、「信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するため」と説明しています。
私たちは主キリストによって、多様な恵みを頂いて違う姿で奉仕しますが、そのすべてが集まってキリストのからだを建て上げるのです。私に与えられた恵み、そして隣人に与えられた恵みに感謝し、共にキリストのからだを建て上げるものとして、愛し合いものになりたいと思います。