「心の貧しい者」 マタイの福音書5章1‐4節
本日の本文は、クリスチャンが神様の子どもとして幸せであるということを最も立派に教えているところです。この部分を含めてマタイの福音書5-7章を山上の説教と言いますが、イエス様が天の御国の民が持つべきこころについて詳しく説明して下さった内容です。この山上の説教は、イエス様がこの時、一気に教えて下さったものではなく、著者マタイがイエス様の教えを集めまとめて記録したものです。それは、イエス様の教えの本質がどういうものであるのかを、マタイの福音書の初めの部分にはっきりと示そうとしたものだと思われます。
その教えの一つ目は「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」ということです。この文書は、原文では「幸いだ」という言葉が冒頭に来ていて「何と幸いなのか」という感嘆文です。即ち「何と幸いなのか、心貧しい者よ。」となります。そして誰が幸いなのかと見ますと「心の貧しい者」だと言われています。心豊かなものではなく心の貧しい者が幸いだと、イエス様は言われました。この「心の貧しい者」とは、神様の御前で、或いは神様に対してその心、つまり魂が貧しい人ということです。神様に対して、その魂が貧しい人というのは、神様の教えと戒めを全く、何一つも守り従う事が出来ない人ということです。
そういう人に対して如何して幸いだと言えるでしょうか。人間の心は罪によって堕落し、神様に対して何も出来ないものです。イエス様はそのような状態にある罪人に来られて「幸いだ」と仰ってくださるのです。何故なら、何も出来ないほど貧しい心をもっている者に、天の御国をその人のものとして与えようとしておられるからです。私たちは本当に心の貧しい者です。神様の御前で、その教えを分かっても守り従う事が出来ない貧しい者です。そのような自分の心の貧しさを覚えて、私たちに幸いですよと仰って下さり御自ら犠牲を払って天の御国を与えて下さったイエス様の大きな愛を覚えたいと思います。
「光の子どもらしく歩む」 エペソ人への手紙5章7-10節
本日の本文でパウロは、エペソ教会の聖徒たちに彼らの変った状態、身分について語っています。それは、以前は暗やみであったが、今は主にあって光となった、ということです。このように暗やみと光を対比して、以前と今との変った状態を説明しているのです。クリスチャンである私たちは、以前は暗やみでありましたが、今は光となって、私たちは光の子どもであるということを覚えなければなりません。私たちが置かれている環境は、私たちが光となったという事実にはどんな影響も与えることが出来ません。私たちが神様の恵みによって、主にあって光となったという事実は変わらないことであります。
その後「光の子どもらしく歩みなさい」とパウロは勧めます。まず、光の子どもらしく歩むというのは、本文の9節に書かれていますように、「光の結ぶ実」が私たちの生き方に見えるのか、を持ってチェックする事が出来ます。「光の結ぶ実」、即ち、「あらゆる善意と正義と真実」が生き方を通して現わされているがどうか、通して聖徒自身の信仰の歩みを振り替えて見なければならないと言う事です。そして積極的な勧めとして「そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」と言います。これは8節からの内容を考えて見ますと「光の子どもらしく歩むためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」ということになります。神様が喜ばれることは何かを知り、そのために生きて行く事はクリスチャンのみに、与えられた大きな特徴の中で一つです。と言うのは、神様が喜ばれることが何であるかと見分けることは神様の子どもだけに許されることであるからです。
私たちは神様の恵みによって、暗やみから光となった者であることを覚えて、光の実を結び、神様が喜ばれることが何かを見分けて生きて行く者になりたいと思います。それで、光の子どもらしく歩んで行く者になりたいと思います。
「美しの門での出来事」 使徒の働き3章1節~8節
志賀キリスト教会牧師 青木稔
私たちの人生には「キッカケ」というものが必要な時があります。自分は不幸だ、みじめなだと思っている方が、辛いのは自分だけではないと知りますと、その人は、どうやって苦しみや悲しみを乗り越えることができたのだろうかと、ほんの少しだけ出口が見えてくるように考えるからです。たとえ見えてこなくても、出口があるかもしれないと、期待と希望を持つことができるなら、そこから、新しい人生が始まるのかも知れません。
本日の聖書箇所に登場します、生まれつき足のきかない男にとりまして、ペテロとヨハネとの出会いは、まさに人生を新たに歩み出す「キッカケ」となる出来事でした。
ペテロは大胆に「私たちを見なさい」と言いました。生まれつき足のきかない男性に「キッカケ」を与えようとしたのです。その言葉に男性は期待してペテロたちを見つめました。
「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」
ペテロは物乞いをしていた男を、上から見下げて「あなたにはイエス・キリストが必要だ」と命令のように語ったのではありません。ペテロ自身も貧しい者であることを認めて「金銀は私にはない」とへりくだり、同じ立場で物乞いをしている男に語りかけたのです。それは「金銀は私にもない」つまり「わたしもあなたと同じだ」という意味でした。
ペテロは祈り人であり、自らの弱さや貧しさを認め、と同時に、そんな自分を愛して生かして下さる、キリストの恵みを味わい知る人でもありました。ですから、自分と同じように弱さや乏しさに苦しむ人に、イエスの御名、その愛と力を知ってもらいたいと、福音を宣べ伝える者として、多くの人をキリストの救いに導くことが出来たのです。
新年を迎えて、私たちもペテロと同じように、弱さと貧しさを満たして下さる、イエスの御名によって祈り、キリストの愛に生かされて、福音を宣べ伝えてまいりましょう。
「水と御霊によって新しく生まれる」 ヨハネの福音書3章1-15節
本日の聖書は「ニコデモ」という人物がイエス様に訪ねてきた話しです。ニコデモは聖書についても良く知っているし、社会的にも多くの人々から尊敬される人物であったし、経済的にも豊かな生活をしていました。そのような彼が夜、イエス様のところに訪ねて来ましたが、イエス様とニコデモとの会話を通して新しく生まれることについて考えて見たいと思います。
先ず、新しく生まれるということは漸進的に変わる事ではあります。Ⅱコリント5章17節に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と書かれている通りです。漸進的に変わって行くことは改善ですが、クリスチャンは新しく造られて新しくなるのです。それでは誰が新しく生まれなければならないでしょうか。ニコデモは「パリサイ人」であり、「ユダヤ人の指導者」であると紹介されています。そこからニコデモはユダヤの宗教的政治的指導者であり、非常に高い地位の人であることが分かります。また、ヨハネの福音書19章から、彼はお金持ちであることも知ることができます。このようにニコデモは聖書についても良く知っているし、社会的にも多くの人々から尊敬される人物であったし、経済的にも豊かな生活をしていました。そのようなニコデモも新しく生まれなければならないのです。そして何故新しく生まれなければならないのでしょうか。それはすべての人々は罪人であり、その罪人が新しくされなければ神の国を見ることも入る事もできないからです。それではどのように新しく生まれることが出来るのでしょうか。それは「水と御霊によって新しく生まれる」ことができるのです。
聖書について良く知っていますが、教会に長年来ていますが、教会で色々な奉仕をしていますが、御霊によって新しく生まれてない人もいます。そのような方には、御霊によって新しくされる祝福が与えられますように心から祈ります。そしてすでに、その祝福を頂いた方は、神様の恵みと愛を覚えて感謝する者になりたいと思います。
「御国への希望」 エペソ人への手紙5章3‐6節
本日の本文でパウロが語っている内容は、早く読み終えて次に行きたくなるところです。しかしパウロは、あえてこのような勧めをしているということを覚えなければなりません。すでに3章の方で出て来た内容でもありますが、それでもこのように繰り返しているというのは、それほど大事な事であり実践するのに難しいことであるからです。目をそらしたくなる内容ですが、聖徒として私たちが徹底的に捨てなければならないことを確認し、本文を通して私たちに希望を与えて下さる神様を見上げることができるようにと思います。
先ず、パウロは「口にすることさえいけない」ことについて説明します。この3節、4節に並べられていることは、この世の姿であるとも言えるでしょう。時に、当時のエペソという異教の社会では日常生活の中で見ることができる姿です。しかしエペソ教会の聖徒たちは、そのような過去の姿から神様に選ばれて区別されました。それが聖徒という意味です。彼らは、もはや神の国のものであって、神様に愛される神様の子どもとなったのです。ですから聖徒にふさわしく、過去の罪の姿は捨てなければならないということです。それを行なわないだけではなく、それを口にすることさえいけないとパウロは教えているのです。何故なら、「アリの穴から堤も崩れる」ということわざのように、ほんの小さいものであって、それによって全体が崩れ得るものであるからです。
ではどうしたらいいでしょうか。先ず、私たちは聖徒として「私は聖徒だ。私が神様によって選ばれて区別された者だ。私はこの世から区別されて神の国に属している者だ。」ということを覚えなければなりません。そして、そのような恵みを与えて下さった神様に感謝するのです。感謝するということは、神様がなして下さることが素晴らしいと思う事です。そしてそのことに満足して、それに相応しく行なうことです。神様がなして下さったすべてをありがたいと思って、残り僅かの2015年を感謝したいと思います。そしてその感謝を持って新しい2016年を歩み始めたいと思います。
「真のクリスマス」 マタイの福音書 1章18-25節
本日の聖書は、イエス・キリストの誕生についての内容です。特に、マタイの福音書では「ヨセフ」という人物を中心にして起こった出来事を記録していますが、これは1章の前半でのイエス様の系図とともにマタイの福音書の特徴でもあります。マリヤと婚約をしていたヨセフでしたが、そのマリヤが身ごもったという話しを聞いてどうだったでしょうか。それも聖霊によってという、この信じられない不思議な出来事に対して、どのように反応したのでしょうか。
最初、ヨセフはこの出来事について聞いてマリヤを「内密に去らせようと決めて」いました。ヨセフは偽りがなくまっすぐな人であって、神様の前で律法を忠実に守る正しい人でした。それとともに、ヨセフはマリヤを非常に愛してもいました。その正義と愛の間の葛藤と悩みの中でヨセフが決心した事がマリヤを「内密に去らせようと」したことでした。このように深く悩んでいたヨセフの夢で主のみ使いが現われ、マリヤの胎に宿っている赤ちゃんは聖霊によるものであるということ、そしてマリヤが男の子を産むから、その名をイエスとつけなさいということを知らせました。そして夢の中で主のみ使いのことばを聞いたヨセフは、その命じられた通りに、マリヤを妻として迎え入れ、子どもが生まれると、その名をイエスと名づけました。
このような本文の内容を通して、まず、ヨセフの信仰について考えてみることが出来ます。それは、みことば通りに行ないそして積極的に応えることです。二つ目には「イエス様の名前の意味」と「インマヌエル」という神様の約束についてです。「イエス」とは、「主は救い」という意味で「ご自分の民を罪から救う」ために神様によって名付けられた名前です。
このクリスマスの時に、私たちはヨセフのような信仰、その従順な姿を持ちたいと思います。そしてインマヌエルの約束通りに、この世にこられた救い主のご降誕を喜び、お祝いしたいと思います。
「生ける神の御子キリスト」 マタイの福音書16章13‐19節
イエス様の当時、多くの人々はイエス様がなさった御働きの真の意味を悟ることが出来ませんでした。只、イエス様を自分たちの願い、即ちローマ帝国の植民地から解放して下さり、個人の生活においては苦しみや悩み等の問題を解決して下さる方だと思いました。そのような人々の認識の中で、イエス様は公生涯の後半において、ピリポ・カイザリヤで弟子たちにご自分のこの世に来られた真の目的、その理由を明らかに教えて下さいます。この時のペテロの告白を通して示されたことは、当時ペテロを初め、多くの弟子たちにイエス様に対する正しい認識を与えたものです。本日の本文を通して、待降節第三主日においてお生まれになったイエス様を覚えて自分たちの信仰を振り替えて見たいと思います。
先ず、多くの人々がもっていたイエス様に対する認識は、不明確なものでした。弟子たちの答えによりますと、当時の群衆はイエス様をバプテスマのヨハネやエリヤ、エレミヤ、或いは預言者のひとりだと思っていました。このような群衆の認識は、不思議なことを行ない大きな教えを語る一人の人間であるということに過ぎないものでした。その後、イエス様は弟子たちに「あなたがたはわたしをだれだと言いますか」と質問しました。この質問は、他の人々から聞いたことではなく、あなたがた自身はどのような信仰告白をもっているのかという事です。
このようなイエス様の質問に対してペテロがあの有名な信仰告白をしたのです。「あなたは、生ける神の御子キリストです」と。これを聞かれたイエス様は、その告白の真意に説明して下さいました。それは、この信仰告白は決して人間からのものではなく、天の神様が教えて下さったものだという事です。このようにイエス様を知り、救い主として告白できることは、神様の恵みによるものであることを覚えたいと思います。私たちがイエス様を「私の救い主」と告白出来たことを感謝し、イエス様のお誕生を待ち望む者となりたいと思います。
「愛のうちに歩む」 エペソ人への手紙5章1-2節
今日の本文でパウロは私たちに大きなチャレンジを与えています。それは「神にならう者になりなさい」と勧めているからです。
まず、「神にならう者」とは、どういうことでしょうか。1節に使われた「ならう」という動詞は、「模倣する」、「型を取る」、または「真似をする」等の意味を持っています。即ち、「ならう者」とは、師匠と見習いとの関係のように、その師匠の姿を型取ったように模倣して従う者という意味です。このように、私たちは神様に選ばれた民として、そして神様に愛されている子どもとして、神様にみならう者となりなさいとパウロは勧めているのです。
それでは、どうしたら「神にならう者」となることが出来るのでしょうか。それについてパウロは2節で「愛のうちに歩みなさい」と言います。そして続けて、神様の愛についてキリストのみ働きを通して説明しています。即ち、神様にならう事とは、愛のうちに歩むことであり、その愛とは神様がイエス・キリストを通して私たちに教えて下さった愛であるということです。キリストは私たちを愛されて、私たちのために、ご自身のすべてを捨てて、人となってこの地に来られたのです。そしてこの地に来られて、ご自身を神様への供え物として捧げられました。そしてイエス・キリストがご自身をささげ物として、供え物として神様に捧げられましたことが神様への香ばしいかおりとなりました。私たちの代わりに、ご自分をささげられたイエス・キリストの犠牲の愛が、香ばしいかおりとなって、神様にささげられたのです。即ち、イエス・キリストがご自分の犠牲を通して、私たちに施して下さった愛のように、その愛のうちで行ないなさいということです。
キリストがあなたがたを愛されたように、あなたたちも愛のうちに歩みなさい。神様がキリストを通して見せて下さった愛の中で行なう時、私たちの愛は神様にならうものとなり、神様に喜ばれるものとなると思います。神様が私たちに教えて下さった、見せて下さった、そして実現して下さった愛、その愛のうちに歩む者となりたいと思います。
「イエス様に選ばれた者」 マルコの福音書 3章13‐19節
本日の聖書は、イエス様が12名の弟子をお選びになった有名な内容です。以前、イエス様が安息日に片手のなえた人を癒して下さったことがありました。その時、パリサイ人たちはヘロデ党の者たちと手を組んでイエス様を殺そうとする相談を始めました。本日の聖書はその続きですが、それと共に、当時イエス様に関する話しはガリラヤを中心として東西南北広い範囲に広がり、各地から大勢の人々がイエス様のもとに集まって来ました。
このような状況の中でイエス様は12名の弟子をお選びになりましたが、本日の本文によりますと「ペテロ、ヤコブとヨハネ、アンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党員シモン、イスカリオテ・ユダ」です。ここに書かれている人々のことを見ますと、ある者たちは漁師、ある者は収税人というローマ帝国のために働いた人、ある者は激しい愛国主義者でした。その他の人々をも、いずれにしても彼らの中には専門的な宗教・政治的指導者は一人もいなかったのです。そしてこれからのイエス様の働きに役に立つような権力者も、お金持ちも、戦略的に優れた人もいないのです。こんな人々でありますが、イエス様はどのような基準をもって、何のために彼らをお選びになったのでしょうか。
先ず、イエス様は「ご自身でお望みになる者」を選ばれましたと書かれています。それは、徹底的にその選びの基準が人間にあるのではない、という事です。選ばれた基準を人間から捜す事ではなく、その基準が神様ご自身にあるという事です。そしてその選びの目的は、イエス様の身近に置いて彼らを教え、そして彼らを遣わして福音をのべさせるためでした。私たちは12弟子でも、12使徒でもありません。しかし神様同じくご自身のお望みのまま私たちをも選んで下さり、神のこどもとして下さり神の家族として下さいました。それは私たちに神様の愛を教えて下さり、その愛を周りの人々に伝えさせるためなのです。私たちに与えられた神様の恵みを愛を覚えて、選ばれた者としてその神様を伝える者として生きて行きたいと思います。
「互いに赦し合う」 エペソ人への手紙4章30-32節
本日の本文は、4章の後半から説明して来た古い人を脱ぎ捨てたことと新しい人を身に着たことについての結論の部分です。そのような結論の部分において、この30節は前から説明して来た内容についての要約であって、前のことろで説明した実践的な勧めを決して忘れてはならない、ということをもう一度強調して説明しています。
先ず、30節には「神の聖霊を悲しませてはいけません。」と書かれています。聖霊は信仰者の内にお住まいになるお方です。その聖霊を悲しませるというのは、どういうことでしょうか。または、人間のどういうことが聖霊を悲しませることになるのでしょうか。それは直接的には、25節以降で説明して来た古い人の姿を捨てることが出来ず、そのまま行なっている、それが聖霊を悲しませることになるのです。25節以降で勧めて来たことは、一般的な道徳・倫理からでも、してはならないことです。しかしそういう観点からではありません。クリスチャンである私たちがより大切に思い、覚えなければならないことは、そのような行ないが聖霊を悲しませることだということです。ですから、いつも聖霊のことを覚えて行ない、神様に喜ばれる者となりたいと思います。
そしてその古い人の行ないの根底にあるのが31節に書かれている「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなど」であって、それを「いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」と教えています。そして私たちは「お互いに親切にし、心の優しい人となり、互いに赦し合う」ことを通して、そのようないっさいの悪意を捨て去ることができるでしょう。それも、また神様がキリストにおいて私たちを赦して下さったゆえにできることなのです。
ですから、神様の赦しの恵みと愛を覚えて、私たちも互いに親切にし、互いに赦し合わなければなりません。これは片方だけがそうするのではなく、私たちすべてが、互いに赦し合わなければならないのです。神様がキリストを通して、私たちに見せて下さった恵みと愛を覚えて、親切で優しい心を持って、互いに赦し合うものになりたいと思います。