礼拝メッセージ要旨

7月17日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「泣かなくても良い」            ルカの福音書7章11-17節

 本日の本文は、イエス様がナインという町に行かれた時の話しです。ナインという町の名前は「喜び」とか「楽しみ」という意味で、カペナウムから南西へ約40キロメートル程離れた町です。11節に「それからまもなく」とありますが、イエス様はカペナウムから、弟子たちとナインという町に向かいました。その時もイエス様の周りには大勢の人々がいて、カペナウムからナインというところまでついて来た人々も多くいたと思われます。そうやって、イエス様は弟子たち、そしてその後をついて来る多くの群衆と共にナインという町の門に近付いて行きました。

 その町に近付くと、その町からも大勢の人々が行列になって出て来ていました。そしてその行列とは、ひとり息子を亡くしたやもめと、そのひつぎを負って行く人々でした。その葬式の行列の先頭にいたのは、やもめとなり、さらにひとり息子を亡くした母親でした。夫を亡くすということも大変耐えがたい事なのに、本文の母親は夫を亡くしてから、またたったひとりの息子をも亡くしてしまったのです。その母親にとってひとり息子とは、人生の希望であり、生きる意味であり、生きる目的でもあったと思います。しかし、今はもうその唯一の望み、たった一つの希望までなくなってしまったのです。

 そのような絶望的な状況の中で、泣くことしか出来ない母親にイエス様は近付いて来られ、彼女をかわいそうに思って「泣かなくても良いよ」と声をかけて下さいました。そして「青年よ、あなたに言う、起きなさい」ということばをもって、青年を生き返らせて、彼を母親に返して下さったのです。イエス様は、死という永遠の裁きを受けなければならない私たちをもご覧になって下さいました。そしてかわいそうに思って下さり、「もう、泣かなくても良いよ」と語り掛けて下さるのです。そしてもはや涙などのようなものはない、喜びに満ち溢れている天国を約束して下さいました。このイエス様の御声に励まされて、天を見上げ喜びと感謝の中で歩む者となりたいと思います。

7月10日(日) 礼拝メッセージ要旨 

 

「主に仕えるように」            エペソ人への手紙6章5-9節
 本日の聖書は奴隷と主人に対する教えです。今日奴隷と主人と言いますと、現代の社会や個人にとって直接的な関係があるとは思えないかも知れません。しかし、本文では奴隷と主人と説明されていますが、その中で教えられていることは人間関係です。その人間関係をもう少し広く考えて見ますと、クリスチャンとしての人間関係をどのように取るべきなのかという事が教えられています。
 先ず、奴隷についてですが、当時、奴隷とは主人の財産の一部として物の扱いを受けました。その生死さえも主人次第でした。そういう奴隷にとって主人という存在は恐ろしい者だったでしょう。普通の奴隷は主人に対して恐れや憎みなどの心で満ちていたと思いまれます。そんな奴隷たちに、あなたたちはクリスチャンとして「真心から地上の主人に従いなさい。」と言います。それも「キリストに従うように」とです。それは主人との関係においても、その関係が神様の御手の中にあるものだということを覚えて、その心の目を神様に向かいなさいという事です。クリスチャンとして自分と神様との関係や神様の存在を忘れてしまうと、相手に対して心から仕える事とは離れるようになるでしょう。そのような人間関係にならないように、いつもキリストに従うように、ということを覚えていなければなりません。そして真心から従うためには、上辺だけの仕え方をしてはいけません。それは相手の目に対してのみ良いように見せることであって、真心から従い仕えることではないからです。クリスチャンである者は「キリストのしもべとして」ということをいつも覚えて心から神様のみこころを行ない、それが他人に仕える姿として表わさなければなりません。
 私たちは人間関係を思う時、先ず神様を覚えなければなりません。そして主に仕えるように、その人に仕えなければなりません。それは神様のみこころに従う事であり、神様に喜ばれる事です。それを覚えて私たちに与えられた人間関係、その相手に、主に仕えるように仕える者となりたいと思います。

7月3日(日) 礼拝メッセージ要旨 

 

「百人隊長の信仰」              ルカの福音書7章1-10節
 本日の本文はイエス様を驚かせたひとりの話しです。その人は名前も分かりませんが、本文でその人を百人隊長と呼んでいます。この職業からかわることは、彼がローマ帝国の市民で異邦人であるということです。このような異邦人の百人隊長がイエス様を驚かせたということでしょう。
 先ず、イエス様が驚かれた理由は百人隊長の愛のゆえです。百人隊長が持っていた愛、他の人々を憐れむ心がイエス様を驚かせたのです。当時、この百人隊長はカペナムという地域を守っていたローマ帝国の隊長でありました。多くの兵士たちを引いていて、ある程度の力を持っていた人でありました。そして彼はユダヤ人のために会堂を建ててあげることが出来る程、富をも持っていたことが分かります。そんな地位にあった彼が、平行箇所であるマタイの福音書5章を見ますと、しもべのためにイエス様のみもとに来て懇願したと書かれています。百人隊長は自分のしもべの中風という重い病気を治していただくためにイエス様に出て来ました。これは百人隊長がそのしもべを憐れむ心を持っていたからです。
 また、イエス様が驚かれたのは百人隊長の謙遜と信仰のゆえです。彼は自分の家に向かうイエス様に「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。」と友人たちを送って伝えました。このような言葉を通して彼は、イエス様をキリストとして認識し信じていたこと、そして自分がそのようなお方に伺うに価しない者であることを現わしたのです。そして、その後、彼は「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」と言って、イエス様の神としての権威を言い表します。
 イエス様はこのような百人隊長の信仰の告白を聞いて驚かれたのでしょう。このように信仰は神様を驚かせ、神様に喜ばれるものです。私たち一人一人が白人隊長のように愛と謙遜とみことばへの確信を持つ信仰の人となりたいと思います。信仰によって神様に喜ばれる、神様を驚かせる人となりたいと思います。

6月26日(日) 礼拝メッセージ要旨 

 

「主の教育と訓戒」           エペソ人への手紙6章1-4節

 本日は前回に続いて親たちへの教えについてです。その4節を見ますと「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」と書かれています。
 先ず、親は「子どもをおこらせてはいけません」とありますが、ここで「おこらせる」というのは、相手を人格的に無視し非難して、失望させるという意味です。即ち、親として子どもの心に傷を与えたり人格的に無視したりしてはいけないということです。子どもにとって無理な事を押し付けるのではなく、親は子どもたちの話しに耳を傾けて、その子どもの行動の背後にある思いや考え方を理解出来るように努力しなければなりません。愛情深くて理解心豊かな親の励ましは、子育てにおいて非常に重要な事だと思います。
 そして4節の後半を見ますと「かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」とあります。この世の価値観や一般的な常識によることではなく、主の教育と訓戒によって育てなければなりません。ここで「主の教育と訓戒によって」というのは、言い換えれば「聖書によって」という事です。即ち、親は子供たちに聖書を教えなさいということです。子どもたちは親に与えられた神様からの賜物です。親は神様から子どもたちに聖書を教えなければならない責任を頂いたものであるということを忘れてはいけません。
 また、「主の教育と訓戒によって」という言葉には、主ご自身がして下さるという意味もあります。子どもたちの教育を主に任せて、主ご自身が子どもたちを教えて下さり、導いて下さることを祈り求めなければなりません。神様に頼り助けを求めて、親として深い理解心と愛をもって子どもたちを育てて行く事、これがクリスチャンの親に与えられた責任であるのです。
 私たちは誰かの子どもであり、親、あるいはそのような立場にいます。私たちに与えられて親への教え、子どもへの教えを覚えて神様のみことばを証しして行きたいと思います。

6月19日(日) 礼拝メッセージ要旨 

 

「世の光と塩」            マタイの福音書5章13-16節
今まで5章3-12節の教えを通して、クリスチャンはどのような者なのか、どういう特徴を持っているのかという事について学んで来ました。それに続く本日の本文では、そのような特徴持っているクリスチャンがどのように生きて行くべきなのかということについて教えています。その中で「あなたがたは」ということが強調されています。その「あなたがた」とは、5章3-12節で教えられているイエス・キリストに似た者の事です。即ち、イエス様の教えに従ってクリスチャンとしての特徴を持って生きて行く時、その人の生き方がこの世で塩と光として現れるという事です。
先ずは、塩としての役割についてです。塩は基本的に腐ることを防ぐ働きをします。肉や魚に塩をかけて置けば、その塩が染み込んで肉や魚が腐敗する事を防ぐことが出来ます。罪によって腐敗したこの世の中で、私たちクリスチャンのその塩としての役割を果たさなければなりません。イエス様が教えて下さった事に従って生きて行く姿、この世の中で生きていますが、いつもイエス様に繋がって、その教えに従っている姿がこの世での塩気をきかせる生き方なのです。次に光についてですが、光は暗やみの中で周りを照らして明るくする役割があります。特にイエス様は、あなたがたこそがこの世の光ですと仰います。イエス様の教えに従って生きて行く者、そのような人がこの暗やみの世界の光であるという事です。クリスチャンとして、その教えて徹底的に従って生きて行く時、その光がこの世で明らかに輝くようになるのです。
私たちは誰かの塩としての役割によって、誰かの光に照らされてキリストに導かれ、やがてクリスチャンになりました。そして今度は、そのようにあなたがたが誰かのために光を放つ者となりなさいと教えられています。山上の説教でのイエス様の教えを良く覚えてその教えに従って、世の塩と光として生きて行きたいと思います。そのようにして、この世の塩と光としての役割を十分に果たし神様に栄光をささげる者となりたいと思います。

6月12日(日) 礼拝メッセージ要旨 

 

「従順と尊敬」             エペソ人への手紙6章1-4節
 6章に入って、新しく親と子どもとの関係について説明しますが、その中で忘れてはならないものがあります。それは5章18節の後半で語った「御霊に満たされなさい。」という、そして22節の「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」ということです。その流れの中で親と子どもの関係についても説明しているのです。ですから、この親と子どもの関係においても、まず、御霊に満たされた者、キリストを恐れ尊ぶことが前提としてあって、親と子どもの関係が説明されるわけです。
 先ず、子どもたちに親に従い、敬いなさいと教えます。ここで「従う」という言葉は、相手の話しを良く聞く、または、傾聴する姿を表わします。そして2節の「敬う」とは、戦いでの功績を褒めたたえるという意味の言葉です。そのような意味から「親の価値を認めなさい」という意味で使われたと思います。ですから、1節の「従いなさい」というのは、外側に表われる外面的な態度、即ち、親の話しなどに耳を傾けて傾聴する姿を表わすことです。そして「敬いなさい」というのは、内面的に心や思い等を説明したことです。ですから親の話しに傾聴し、その話しに価値を置いて、心からその話に従わなければならないということです。
 何故なら「これは正しいことだからです。」即ち、神様が与えて下さった秩序であり神様が喜ばれることであるから、子どもは親に従わなければならない、という事です。また、それは神様の約束を伴った戒めであるからです。特に「父と母を敬え」というのは、人間関係に関する戒めの中で非常に重要なものであり、神様が約束を与えて下さる程守ることを求めておられる戒めなのです。
 かつては不従順な子らであった私たちですが、今は神様の恵みによって神様を敬い従う者へと変えられました。そしてその変化は、一番近い人間関係である親子の関係の中で親を敬い従う姿を通して現れるのです。神様の子どもとしてその教えに従う喜びを持って、親を、そして他の人々をも敬い、従い合うものとなりたいと思います。

6月5日(日) 礼拝メッセージ要旨  

 

「喜び踊りなさい」            マタイの福音書5章10-12節
 本日は八つの祝福の中で八つ目、その2回目になりますが、今日もイエス様は、私たちに「何て幸いなんだ、義のために迫害さえている者よ。」と語りかけて下さいます。ところがこの「義のために迫害されている」という言葉には、すでに私たちが義と認められたという事が含まれているのです。本来、私たちは心の貧しい者でした。自分の心に義ということは何一つも持ってない者であって、その貧しさを悟り、それによって悲しむ者でありました。それで義に飢え渇いた者として神様にその義を切に求める者でありました。そんな私たちが、今やその義のために迫害されている者にまでなったのです。何と驚く変化でしょうか。
 このように変えられた私たちですが、義のために迫害されるという事はどういうことでしょうか。そこでイエス様は「わたしのために迫害される」ことだと説明して下さいます。それは、イエス・キリストに似たためにと言い換えることが出来ます。即ち、イエス様を信じてイエス様の義を求めて、その義に従って生きるために迫害されることです。それは人間の力ではできないことであって、神様の力によって生まれ変わった神様の子どもである記しであるため、義のために迫害されているあなたがたは幸いですよ、ということです。
 そしてその迫害は、私たちが至るようになるところ、将来私たちに与えられるものを教えてくれるので「喜びなさい。喜びおどりなさい。」と言われているのです。私たちが受けている迫害、置かれている苦しみや悲しみ等は全て一時的な事です。全ては過ぎ去って終わりがあります。そして私たちには天の報いが約束されていますし、それも私たちの想像をはるかに超える報いが与えられると約束されているのです。私たちは今何を、何処を見て生きているでしょうか。神様の約束を覚えて、私たちの前に置かれている信仰の道を喜びながら、喜びおどりながら歩んで行く者となりたいと思います。

5月29日(日) 礼拝メッセージ要旨   

 

「夜明けの岸辺に立つ主イエス」     ヨハネの福音書21章1節~14節
                     志賀キリスト教会牧師 青木稔
私たちの人生において、誰もが避けることのできないもの。それは「死」ということです。私たちは、死に対する不安や恐れ、何か不気味なものとさえ感じてしまうことがあります。なぜでしょうか。その一つは、自分は正しいこと、良いことばかりをしてきたわけではない、あんなこと、こんなこともしてしまった、だから、そのことで神の前に出るとしたら困るという気持ちを、心のどこかに持っているからではないでしょうか。
その不安や恐れ、更には、悲しみを慰め癒すものがあるとすれば「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と約束して下さった、イエス・キリストのことばを信じることです。キリストの救いとは、天の御国に続く、永遠のいのちと、そこでの再会という希望が与えられるからです。
イエス様と弟子たちの関係も、十字架に死によって一度断ち切られてしまいました。弟子たちは途方に暮れ、孤独を感じ、恐れと不安の中にありました。その弟子たちが、復活の主イエスと出会って慰められ、なげきが喜びに変わり、不安と失望の中に、主にある平安と希望の光が与えられたのです。
私たちの人生にも、この復活の主イエスとの出会いが必要です。イエス・キリストと自分の関係が、死を乗り越えたリアルなものとなる時、そこに生きる希望と、死をも恐れず生きることが出来るからです。
岸辺に立たれた主イエスは、今日も私たちに「子どもたちよ」と優しく声をかけ「舟の右側に網をおろしなさい。」わたしの言葉を信じて従ってみなさいと語っておられます。ご一緒に、主のお言葉に聞き従って歩んでいきましょう。主は、あなたを愛していますから。

5月22日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「愛と敬い」              エペソ人への手紙5章31-33節

 今まで夫と婦の関係を説明して来たパウロですが、そこにはいつもキリストと教会の関係がともに出て来ました。それはこの二つの関係が非常に密接であるからです。そのことについて今度は創世記2:24のみことばを引用して、この二つの関係の深さについて説明して行きます。そしてその夫婦の関係について「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」と語っています。即ち、創世記2:24の神様のみことばは、夫婦関係についてのみことばでありますが、それにはより大きな奥義が隠されているということです。そして、その奥義とは、男と女が出会って結婚する夫婦関係が、キリストと教会との関係と同じであるということです。そしてそれは究極的にはキリストと教会との関係をあらかじめ表して下さったみことばであるという事です。
 とすれば、創世記でのアダムの喜びの告白は、キリストの喜びを表わすこととして理解する事ができて、イエス・キリストが教会に対して「私の骨からの骨、私の肉からの肉」と話して下さる事として理解することが出来ます。キリストは、このような喜びをもって聖徒たちを愛して下さり、教会を養い育てて下さるのです。
 このようなキリストと教会との関係を通して、私たちの夫婦関係を振りかえて見ることが出来ます。そして夫が妻を思う時、妻が夫を思う時、その愛の基準と従順の基準は何かというところで、パウロはそのすべての基準をキリストと教会の関係に置いて説明しています。愛するということは、キリストが教会のためにご自分のすべてをささげて下さったのと同じように、そして敬うということも教会がキリストを恐れ尊んで従うようにということです。私たちは、良く、相手が変わると私も代わり、より良い夫婦関係になれると思います。しかし、考えて見ると、相手もそのように思っていて、そのような夫婦関係は変わりにくいと思います。いつも、愛と従順のことを覚えて、自分自身にみことばを適用して、愛し、尊敬する者になるようにと願います。

5月15日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「迫害されている者」          マタイの福音書5章10-12節
 本日は、10節を中心として考えて見たちと思いますが、八つの祝福の最後の八つ目です。特に、この八つ目の祝福の約束は一つ目の「心の貧しい者」に約束されている祝福と同じです。このように八つの祝福は、天の御国から始まって天の御国で終わりますが、それはイエス様が八つの祝福を通して教えてくださることは、天の御国の民として生き方であるという事であるからです。
 先ず、本文の内容に入る前に確認すべき事がありますが、それはクリスチャンにおいて迫害という事は不可欠な部分であるという事です。それは旧新約聖書の中でも非常に重要な教えであって、実際に信者の迫害、苦しみに関する内容も多いです。そして福音書に記されているイエス様の生涯、そのものも迫害でありました。そして新約聖書の多くの手紙も迫害の中にあるクリスチャンに送られたものです。ですから迫害ということについて、神様の教えに従って生きて行こうとする者であれば、あって当然であるという認識を持つべきだと思います。
 それでは「義のために迫害されている者」とは、どういう者でしょうか。ここでイエス様は迫害の理由を「義のために」と明確に教えて下さいます。それは神様の義であって、この世の正しさや道徳や倫理という事ではありません。また、信者そのものから出て来る姿や行ないという事でもありません。ただ、キリストの故に受ける迫害であり、キリストに似た生き方をしていることの故に受ける迫害です。ですから、私たちは、私たちが本当に義のために迫害を受ける程に、クリスチャンとしての生き方をしっかり生きているかどうか、良く考えて見なければなりません。何故なら、義のために迫害を受けることは、何よりもその人が神様の教えに従って生きているものであり、天の御国の民であることの証しになるからです。今日も信仰の弱い私たちに、義のために迫害されている者は幸いですと仰って下さるイエス様の教えを心に覚えて、天の御国の民に相応しく生きて行きたいと思います。