礼拝メッセージ要旨

11月19日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神に頼る者」               サムエル記第一 5章1-5節
 ペリシテ人との戦いでイスラエルは大敗北し、主の契約の箱をも奪われてしまいました。戦争に負けてしまい、さらに主の契約の箱まで奪われたイスラエルはこのまま終わってしまうのかのようにも見えます。一方、イスラエルに大勝利を得て、神の箱まで手に入れることが出来たペリシテ人は、神の箱をアシュドデというところに運びました。そして本文の2節を見ますと、ペリシテ人は神の箱を彼らが拝んでいたダゴンの神殿に入れてそのダゴンの像の隣に置きました。
 ところが、その翌日、その神殿で不思議なことが起こりました。朝早く神殿に行って見ましたら、神の箱の前に自分たちの神であるダゴンが倒れていたのでした。そして、その次の日の朝、同じようなことがまた起こりました。朝早く行って見ましたら、また、ダゴンが神の箱の前に倒れていたのです。そして今回はもっとひどい状態でありましたが、頭と両腕が切り離されました。それでダゴンの胴体だけが残り、その胴体も神の箱の前にうつ伏せになっていたのです。これは神様が異邦の国、ペリシテにてご自分の力と栄光を現わした出来事でした。ペリシテ人は人の神、ダゴンがより強い神だと思いましたが、実は神様の力がより強いものであってペリシテ人の神はその御前にうつ伏せになっていたという事です。
 このように力強い神様の箱をもっていたイスラエルは何故ペリシテ人との戦いで負けたのでしょうか。それは自分の罪は悔い改めないで、ただ自分たちの目的、願いを成し遂げるために神様の力を使おうとしたからです。そのようなイスラエルには神の箱があったとしてもペリシテに負け、神様の栄光が去ってしまったのです。それを覚えて私たちは、私たちの神様に対する姿を振り返って見なければなりません。自分の罪を悔い改め、神様の憐れみを求め、神様に頼りつつ信仰の道を歩んで行かなければなりません。それで私たちの生き方を通して神様の栄光が現れる者になりたいと思います。

11月12日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神の国を求めよう」            ルカの福音書12章22-34節
 前回、イエス様は互いに足を踏み合うほどにたくさん集まった群衆に「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。」ということを教えてくださいました。神様を知らない人々は自分のために財産を蓄えて、それによって自分のたましいが安らぐと思います。それによってもっともっと自分のために物を集め、蓄えます。しかし、クリスチャンはそうであってはならない、とイエス様は仰います。本日の本文においては、神様の子どもであるあなた方は何を大切にし、何を求めなければならないのかといことについて教えて下さいます。
 本文の22節「心配したりするのは、やめなさい。」と言われたイエス様は28節の終わりのところでは「ああ、信仰の薄い人たち」と嘆息をなさいます。神様を知らない人々はこの世の物に頼り、それを如何すればもっとたくさん自分の物にすることが出来るだろうかと心配します。しかし、神様を知っていて信じている信仰者であるとしても神様への信仰が薄いものであれば、彼らのように何を食べるのか、何を着るのかで心配してしまいます。そこで神様がどのように養ってくださるのかを烏とゆりの花をもって説明して下さいます。烏は蒔きもしないで、刈り入れもしません。また、納屋も倉もありません。けれども、神様は烏をも養ってくださるお方です。また、ゆりの花もです。ゆりの花は紡ぎもしないで織りもしません。そうなのに、神様はそのゆりの花をソロモンよりも美しい衣服で着飾ってくださいます。
 そのように憐れみ深い神様は烏よりもゆりの花よりも大切なあなたたちを養ってくださらないわけがない、ということです。そのような神様のことを覚えて、神様の子とされたあなたたちは何よりも、まず神の国を求めなさいということです。烏もゆりの花もそうであったように、私たちの必要のすべてを知っておられる神様を覚えて、その神様が養ってくださることを信じて心配ややめ、神の国を求める者となりたいと思います。

11月05日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神に喜ばれる者」             ヘブル人への手紙11章1-6節
 本文の6節を見ますと神様に喜ばれる者は信仰がなくてはならない、と書かれています。その信仰は、同じく6節を見ますと「神がおられること」と「神を求める者には報いてくださる方であること」を信じることであると説明されています。そして神様に喜ばれていた者としてエノクについて説明しています。エノクは創世記5章に出て来ますが、彼に関する内容はただの3節だけです。本当に短い内容ですが、エノクは神様とともに歩んだ、と書かれています。即ち、罪が増大していた世の中で神様がおられること信じ、その神様を信頼し、神様を覚えて生きていたということです。そのようなエノクについて本日の本文では、神に喜ばれていることが証しされていた、と書かれています。
 それでは罪人である私たちは、何を通して神に喜ばれることが出来るのでしょうか。それは礼拝を通してです。本日の本文にもう一人の神に喜ばれた者が出て来ますが、彼は4節のアベルです。アベルについては、アベルがささげたいけにえによって、義人であることの証明を得ったと書かれています。そしてカインとアベルのいけにえを比べながら、アベルはカインより優れたいけにえをささげ、そのささげものは神様に良いささげものだと証しされたと書いてあります。同じささげものであってより優れたささげものがあり、神様によいささげものだと認めて頂けるささげものがあれば、そうでないささげものもある、ということです。そしてそんな中で神様が喜ばれるささげものがあるということです。
 本文の4節には、その違いを「信仰によって」ということばをもって説明しています。信仰によってアベルはカインよりもすぐれたいけにえを神様にささげたし、神様はそのいけにえを喜ばれたということです。私たちがささげる礼拝はどうでしょうか。悪に満ちているこの世の中で、私たちは神様がおられることと神様を求める者に報いてくださるお方であることを信じて、神様に礼拝をささげる者になりたいと思います。

10月29日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「本当に豊かな者」               ルカの福音書12章13-21節
 本日の本のたとえ話は「愚かな金持ち」と呼ばれるものです。このたとえ話は四つの福音書の中でもルカの福音書だけに書かれている者ですが、しかしイエス様のたとえ話の中では良く知られている内容です。そのたとえ話の始まりはひとりの人がイエス様に遺産の分配についてお願いをしたことからです。当時、遺産の分け方がありましたが、この人の兄弟はそれを守らなかったでしょう。それについて、イエス様に解決して頂こうと思った彼でしたが、しかしイエス様は彼の心の中にある貪欲の問題を指摘してくださり「愚かな金持ち」というたとえ話をしてくださったのです。
 たとえ話の内容は非常にわかりやすいです。ある金持ちがいましたが、彼の畑が豊作でした。元々金持ちであった彼の倉庫はすでにいっぱいになっていたので、彼は豊作の作物を如何したらいいか、悩み始めました。それで思いついたのが今の倉庫を取り壊してもっと大きな倉庫を作り、そこに豊作の作物を全部入れて置くと言うことでした。それに思いついた彼は、自分のたましいに「これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」と言ったのです。財産をたくさん蓄えることが出来た金持ちは、その財産によって自分のたましいがこれから安心して楽しむことが出来ると思ったことです。
 しかし、この時、神様からのことばは違うものでした。そのようにたくさんの財産によって安心している彼に対して神様は「おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。」と話されました。そうなりますと、彼の財産はもう彼のものでなくなります。それで神様は自分のいのちを保証できないものをもって自分のいのちを守ろうとする金持ちに対して愚かな者と話されたのです。私たちの願いは誰に向かっているでしょうか。それが自分であるなら、それは神様の前では富まないものです。自分のために蓄えるものではなく、自分に与えられたものを神様に使い、神様の前に蓄えるものになりたいと思います。

10月22日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「キリストを主とする生き方」          ルカの福音書12章8-12節
 前回、ルカの福音書12章1-7節のみことばを通して恐れるべきお方を恐れることについて学びました。イエス様は十字架の出来事に近付いて行くことによって、迫害に直面する弟子たちに色々な弟子としての道を教えてくださいます。そんな中でパリサイ人のパン種のような偽善、即ち内を外が異なる振る舞いについて注意をしました。そして人間を恐れることではなく恐れるべきお方である神様を恐れなさい、と教えてくださったのです。人間は目に見えるものや人間、或いはこの世を恐れます。しかし、神様の民であるあなたがたはそのような目に見えるものや人間ではなく、私たちの死の後に審判をされる神様のことを覚えてそのお方の前に立つ信仰者として、自分に与えられた信仰を堅く守りなさい、と言うことでした。
 そして神様のことを説明して8-10節においては人々の前で自分の信仰を言い表すことへの励ましを与えてくださいます。そんな中でイエス様が話してくださったのは最後の審判の場面でした。その最後の審判において、私たちの唯一の弁護者となってくださるのはキリストです。そしてそれは私たちが人々の前でキリストを主として認めるか、認めないかによって掛かっていると仰るのです。自分の信仰をちゃんと告白するかどうか、それを言い表すのかどうかが、最後の審判の時にまで繋がることでした。もう一度、私たちの信仰生活の姿を振り替え見させる教えであると思います。
 そのような重大なことにおいて、たとえ認めなかったとしても全ての罪を赦して下さることを覚えなさいを仰ってくださいます。それがイエス様をそしる、大変酷いことであって、その罪を悔い改めるものは必ず赦されると私たちを励ましてくださるイエス様です。そして自分の信仰を言い表さなければならないところに立たされても、聖霊が言うべきことを教えてくださるとも仰ってくださいます。そのように教えて下さるイエス様の教えを覚えて、どんなことがあってもただキリストを主として告白する生き方を生きる者になりたいと思います。

10月15日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「恐れるな」                 列王記第二 6章15-23節
 本日の本文は、イスラエルとアラムが戦っていた時の内容です。アラムの王はイスラエルを攻めて行きますが、度々にその計画が失敗しました。それで自分の家来の中にイスラエルの王と通じているものがいるのか疑い始めました。しかしそれは預言者エリシャによることであって、神様からの不思議な力でアラムの王が計画することを知り、それをイスラエルの王に報告したのでアラムの王の計画は何回も失敗していたのです。それでアラムの王はそのエリシャを捕えようとしてエリシャがいたドタンといる町に大軍を送り、その町を取り囲んでいたのです。
 そんな中でエリシャの召使いが朝早く起きてその状況を見ました。前日まで何もなかったのに、何時も間にかアラムの大軍が自分たちの町を包囲している姿を見て驚き、エリシャにその状況を伝えました。恐らく召使いは大変驚き、恐れてエリシャの方に行ったと思います。ところが、恐れている召使いに対してエリシャは「恐れるな」と言います。そして「私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者より多いのだから」と説明しました。召使いが見た時は、自分たちの町を取り囲んでいるアラムの大軍しかありませんでした。そうなのにエリシャが召使いに語ったのは如何ことでしょうか。
 そこでエリシャは神様に「どうぞ、彼の目を開いて、見えるようにしてください。」と祈りました。すると、その召使いの目が開かれ、なんと火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた姿を見ることが出来るようなったのです。本文に出て来るエリシャと召使いは同じ状況に置かれていました。しかし、同じ状況に置かれているとしても、何をどう見るのかによってその反応は全く違うものであったのです。同じ現実を見てもその背後で働いておられる神様、守り導いて下さる神様のことを見れるのかそうではないのかと言うのは、全く違うものなのです。私たちの目には、何が先に見えるのでしょうか。私たちの目も神様によって開かれ、神様の守りと導きを見ることが出来てどんな状況の中でも神様を見上げて歩んで行きたいと思います。

10月8日(日) 礼拝メッセージ要旨 

 

「御霊の教えに従う」             ルカの福音書12章1-12節
 イエス様は公生涯の後半、その中でも十字架の出来事が近付ければ近付くほど弟子たちにイエス様ご自身について、そして弟子として歩むべき道について教えて下さいました。彼らがこれから直面するようになるこの世からの脅かし、すなわちユダヤの指導者たちの迫害について弟子としてどうするべきなのかということを教えて下さるのです。
 時間が経つことに連れ、イエス様とユダヤの指導者たち、特にパリサイ人や律法学者、祭司長たちとの関係は悪くなり対立は激しくなります。そんな中で彼らはイエス様をどうにかしようと心を決めて、イエス様が何か間違ったことがないかひそかに計っていました。そういう流れの中で弟子たちへの迫害は十分予想できることです。そういう弟子たちにあるだろうと思われる苦難に備えてイエス様は弟子たちが歩むべき信仰の道について教えて下さったのです。特に本日の本文では、弟子たちがこれから神様は恐れないで人間を恐れることがないように教えています。そしてその人間を恐れることによって迫害の中で自分の内側の信仰を隠し、外側ではイエス様を知らないというようになります。そしてそれは偽善的な姿であって、イエス様が今まで大変厳しく注意をしたものなのです。弟子たちは目の前にいるユダヤの指導者たちの権威を恐れ、イエス様から逃げ、イエス様を知らないと言います。そうならないようにイエス様は弟子たちを教えておられるのです。
 それでは私たちが偽善的にならないためには如何すれば良いでしょうか。それは恐れるべきお方である神様を恐れ敬わなければならないのです。そしてその神様は私たちの頭の毛さえも数えられているお方であって、私たちを大切にして下さるお方なのだということを忘れてはいけません。またどのような状況の中でも私たちと聖霊がともにいて下さって私たちを導いて下さるのです。そんな中で私たちははっきりとキリストが主でさることを言い表し、実生活の中で証しして行きたいと思います。

10月1日(日) 礼拝メッセージ要旨 

 

「私を遣わした神様」                 創世記45章1-8節
 信仰者である私たちには、私たちの人生の中で起こるある出来事について人間の観点を持って見ることではなく神様の観点を持って受け入れる姿勢が必要です。私たちの目に見えるある出来事、私たちの苦しみや悩み、問題等を神様も私たちと同じ意味で語って下さるでしょうか。私たちの目に見えるその状況を神様はどのように思っておられるのでしょうか。果して、私たちと同じく思っておられるのでしょうか。多くの場合はそうではないと思います。
 そんな中で、私たちの観点から神様の観点への変化、このような観点の変化は私たちの人生を新しく見ることが出来るようにしてくれるものです。そして神様は、私たちの観点をそのように変えて行かれます。本日の本文に出て来るヨセフも、自分の人生を神様の観点から考え、神様の観点を持って理解し受けれた者であると言うことが出来ます。本文の4節の後半でヨセフは兄弟たちに「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。」と言います。これはヨセフと兄弟たちが知っている事実です。又は、私たちの目に見える現実とも言えると思います。しかし、5節以降のそれについてのヨセフの解釈は、徹底的に神様の観点からのものです。そのような辛い過去の事実についてヨセフは「神様は、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。」と3回も繰り返して説明しています。
 このようなヨセフの告白から、ヨセフは神様の観点を持って自分の人生を見ていると考えられます。人間の目には兄たちがヨセフをエジプトに売ってしまった事ですが、実は神様がご計画の中でヨセフを先に遣わしたことなのだということでした。時には、私たちの人生はパズルのように思われることがあって、何故それが必要なのか分からない時があります。そのような苦しみの現実、問題、苦難等を目に見えることだけではなく、神様がそれを通して成し遂げてくださることを見ることが出来るようになりたいと思います。

9月24日(日) 礼拝メッセージ要旨 

 

「よみがえりのイエス様」           ヨハネの福音書11章17-27節
本日の本文は、愛する兄弟を失った二人の姉妹と、その死の悲しみが家に満ちている場面で始まります。彼らはイエス様が愛するマルタとマリヤ、そしてラザロです。11章1節を見ますと、ラザロは病気にかかっていましたが、それは軽いものではありませんでした。お兄さんの病気を心配したマルタとマリヤはイエス様に人を送り、その病気の事を伝え、イエス様に助けを求めました。しかし本文の17節を見ますと、そのラザロは「墓に入れられて四日もたっていた」と書かれています。死による絶望と悲しみに満ちているところで、イエス様はラザロをよみがえらせるという奇跡を行ないます。そしてそのとてつもない悲しみと信じられない奇跡の中で、イエス様との会話を通してマルタの信仰が変わることを見ることが出来ます。
本文の20節、21節、そして24節でのマルタの話しを通してマルタが持っていたイエス様についての思いを知ることが出来ます。マルタはイエス様がラザロの病気を癒すことが出来ると、そして神様に求めば何でも頂くことが出来るお方と知っていました。そして復活のことについても知っていたのです。ところが、20節や21節、そして24節でのマルタの答えは、マルタの信仰を言い表す事より、イエス様に対するうらみを話しているように聞こえます。何故、そのようなみ力を持っておられるイエス様がラザロが死なないうちに、或いは手を使うことが出来る時に来られなかったのですか、と。終わりの時の復活は知っていますが、しかし今ラザロは死にました、とです。
そのように思っていたマルタに、イエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」と、ご自分について教えてくださいます。そしてその後のマルタの答えは「あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」ということになりました。死と言う悲しみの中でもよみがえりのイエス様を信じ、その信仰によって堅くたつ者になりたいと思います。

9月17日(日) 礼拝メッセージ要旨      大竹海二先生

 

「驚くべき招待」               第1ペテロ2章9―10節
教会ということばのギリシャ語はエクレシアということばですが、元の言葉はカレオーという言葉で、カレオーとは「呼ぶ」という意味です。ですから教会とは、神に呼ばれた者たちのことと言えるのです。この神様の招きは、どこからどこへの招きであるのかというと、「やみの中から光への招き」である、ということです。
9節に4つのことが書かれています。まず「選ばれた種族」―み言葉の中に、「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び」とあります。つまり、人間が誇る物は何一つないということです。また「王である祭司」―「祭司」ということばのラテン語の意味は、「橋をかける人」ということです。ですから、神様と人との間に橋をかける働きを、クリスチャンは祭司として、しているということです。
次の「聖なる国民」―「聖」ということばは、「他とは異なる」という意味のあることばです。光を浴びる前は、自分のために生きていました。けれども光を浴びた後は、神様のために生きる者へと変えられていくということです。最後は「神の所有とされた民」―神様の手に握られている存在である、ということです。クリスチャンは愚かで貧しい者でしかないのですが、その所有者が神様であるということで、クリスチャンは驚くべき価値をもつことになるのです。
9節の最後のところで、「それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」と教えています。ここで言われています「すばらしいみわざ」とは、一言で言えばキリストの十字架のみわざのことです。今朝のみことばは、自分のそばにいる人たちが、神様の愛の対象の人であり、自分を通してその愛をいただく人なのだ、ということを発見するためのみことばとして、聞きたいと思います。