礼拝メッセージ要旨

10月16日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「あなたの名が呼ばれたのです」       ルカの福音書6章12~19節

日本の代表的なキリスト者内村鑑三の初期の著作に「余はいかにしてキリスト信徒となりしか」という英文の著作があります。この書は彼がキリスト信仰に導かれ、キリスト信徒になるまでの証しの書であります。ではこの同じ題名で皆さんがご自分のことをお書きになるとしたら、どのように記すのでしょうか。キリストを救い主と信じ、キリスト者になられたのには、それなりの理由、出来事、経過があり導かれたのだと記述は出来ますが、それはあくまでもキリストによる救いに到る過程の証しであって、なぜ私が救われ、キリスト者となったのかという問いの答えにはなっていないのです。本当のところ私たちは、「なぜ私がキリスト信徒になったのか」ということについて説明がつかないのです。私たちにはわからないことなのです。本日の聖書の箇所は主イエスの12弟子選出の記事ですが、おそらく12弟子たちもなぜ自分がキリストの弟子に選ばれ、使徒となったのか、私たちと同じように説明できなかったと思います。唯一答えることができるとしたら、「主イエスが徹夜で祈られ選んでくださったからです」(ルカ6:12~13)としか答えようがないのです。選ばれた12人の弟子たちの顔ぶれを見てみますと、多種多様な人たちです。何か選考基準があって、その試験を受けて合格したから選ばれたのではありません。確かなことは、主イエスが深く御心を求め、祈ってお決めになられたということです。この事実は私たちのキリスト信仰、キリスト者生活を支える基盤です。私たちはキリストの救いに預かるために求め祈りました。しかしそれに先んじて主イエスが祈ってあなたを選び呼び寄せてくださったのです。ですから私たちが信仰や救いの確信、召命について疑ったり、信仰を捨て、教会を離れようと思った時は、いつもこの主イエスの祈りを想起しましょう。どんな時でも、この主イエスの祈りが私たちの信仰を支え守っていてくださることを忘れないようにしましょう。そのために主は、主日毎の礼拝に私たちを呼び寄せてくださり、そこで新たな力、励まし、喜びをいただき、私たちは新たな1週間のこの世の歩みへと遣わされていくのです。またこの12弟子たちは小さな群れであっても、それは教会の芽生えの姿でもあります。今主イエスのもとに集められた12人の弟子の間には、それぞれ能力、経歴、思想の違いがあっても、それらの違いを越えて、福音宣教という一つの目的によって結ばれていたように、未来の教会においては、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、キリスト・イエスにあって全体が一つの体として組み合わされていくのです。そしてシモンはペテロにレビはマタイにと新しい名をいただき、新しい歩みを始めたように、私たちも主との新しい関係に生きる者として、主との絆を大切に最後まで保ち続けましょう。

10月9日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「安息日―この喜びの日よ」          ルカの福音書6章1~11節

日本が日曜日を公休日としたのは、1876年(明治9年)4月からです。それまでの公休日は、毎月6回、1と6に当たる日(1,6,11,16,21,26,31は除く)でした。それが月4回の日曜日へと変わったのです。そこには日曜日は神を礼拝する日として守るキリスト教徒を無視できず、日曜日と土曜日正午からを公休日とする告示をしなければならなかった明治政府の苦渋の選択を感じます。教会は週の初めを「日曜日(日曜礼拝)」「聖日(聖日礼拝)」と呼ぶかあるいは「主の日(主日礼拝)」と呼んできました。「主の日」という表現は初代教会が早くから用いたものです。その呼び方がどこから生まれたかということについて、聖書的な起源はこのルカの福音書6章5節の「人の子は安息日の主です。」という言葉に求めることができます。もとは一週の終りの日であった安息日が週の初めの日曜日になったのは、主イエスが復活された日だからです。その日がいのちの始まりの日であり、主イエスが「安息日の主」となられたからであります。この「休息」「安息」という言葉のもとの意味は、仕事を終える。労働と激務の手を休めるということです。この事は主なる神が6日間働いて世界を創造され全てにおいて満足され、これらを祝福して7日目に深い満足の安息をなさった。従って人間の安息日とは、そのような神の祝福の安息の中に身を置くことなのです。つまり神と共に休む、神と共に憩うことが礼拝の意味なのです。このようにして始まった安息日ですが、完全な聖なる休みとは何かと追及し、そのための基準が設けられ、細かいところまで言及する規定が生まれ、だんだん安息日は形式化してきました。本日の箇所は主イエスと弟子たちが安息日を守る基準を破ったことに対して、パリサイ人、律法学者の批判が主題となっております。本来安息日は何もしない日でした。けれども主イエスはここで善を行うこと―(人のいのちを救うこと)―と悪を行うこと―(人のいのちを殺すこと)―とどちらが大切であるかを問いかけ、安息日の掟を乗り越える者、安息日を支配する者としてのご自身を語っておられます。主イエスが「安息日の主」であられる時、安息日が本当の安息になるのです。なぜなら、そこに主イエスが苦しむ者、悲しむ者、飢え渇いている者と共におられるからです。そこでは何を「しない」かではなく、「する」ことが大切であります。主イエスはこの日曜日が主の日として祝われ、主によって支配されることを望まれます。神はすべての週日を美しく装い、安息日を歓喜の日と名付けられました。それゆえにこの礼拝は、その主の祝福の中に私たちすべてが置かれる喜びの時であり、私たちに、ほめ讃えるべき方はだれかを教えてくれる時なのです。

10月2日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神にある喜びの人生」           ルカの福音書5章33~39節

「だれでも古いぶどう酒を飲んでから、新しい物を望みはしません。『古い物は良い。』と言うのです。」(ルカ5:39)誰でも熟成した古酒をさしおいて新酒を飲むものはありません。古酒は口当たりがよく、まろやかな味がします。それに反して新酒はなじまないのです。だから古いものに慣れている人間は、なかなか新しいものを受け入れることができません。主イエスのこの言葉を通して、バプテスマのヨハネの弟子たち、パリサイ人たちの信仰生活の在り方を見事に言い当てておられます。彼らは伝統、習慣、因習にしばられておりました。ヨハネの弟子たちは、師ヨハネに倣って、よく断食をしました。パリサイ人は伝統を重んじ、特に施し、祈り、断食、安息日、食事等の律法を厳しく守り行うことによって、最終的な救いに至ると信じておりました。彼らのこのような在り方を「律法的な信仰」と呼ぶことができます。この律法的な信仰が問題なのは、信仰の歩みがいつも「ある基準」に達しているかどうかに一番関心を持っているために、心の内面よりも表面的、外面的なことに気をとられてしまうことです。また他者に対しても批判的になります。「ある基準」に従って、それに達しているかどうかで善し悪しを判断するからです。さらに罪の赦しを信じていながら、心の深いところでは実感できていないことです。それゆえ、どんなに熱心に主に仕えても、信仰的に成長しません。その信仰生活には真の喜びが感じられないからです。「ある基準」が、彼ら自身をも裁くからです。そのような彼らに対して主イエスは、花婿なるキリストと結ばれる時、赦された喜び、交わりの喜び、奉仕の喜びを味わうことができるのだと宣言されるのです。彼らが強調している「悔い改め」とは、罪を悔いて悲しみ嘆く断食で終わるものではなく、「悔い改める」ということは、こんなにも解き放たれて大きな喜びのなかに生きることなのだと告げられるのです。主イエスと共に生きるということは、全く新しいことなのです。古いものと断絶した新しさを持つということです。古いものは捨て切れないけれど、あの新しいものもよさそうだということで成り立つような信仰生活が、ここで語られているのではないのです。主イエスは喜びを携えて、私どものもとに訪れて下さいます。花婿なる主イエスは、わたしがここにいるではないか。そしてわたしと一緒にいる人々にとっては、婚礼の幸いが、結婚の喜びが今ここに起こっているのだと言われるのです。ですから教会は、花婿イエスの花嫁として、主イエスを迎える喜びにあずかるのです。教会はいつもその喜びのなかに戻って行くのです。私どもは、その喜びの中に立ち続けること、その喜びに生き続けることを、共に願い求めてまいりましょう。

9月25日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「いまわの愛 ー 十字架上の犯罪人」    ルカの福音書23章32~43節

東日本大震災から6ヵ月が過ぎました。あの震災で、2万人もの命が失われました。ということは、大勢の人がその死という現実に向き合ったことになります。「人はやがて死ぬものである」という認識は、当然のように受け入れ、人の死は日常的なこととして受け止めて私たちは生活していました。しかし、あの大震災は想定外の出来事であったように、その死も想定外のことでした。死ぬとは全く思っていなかった大勢の人たちの命が、瞬時に奪われてしまった。この死を目撃したり、自分が死の危険に直面して、「人は死ぬ者である」ということを、自分の問題として考えさせられたのです。「死」というものが人ごとではなくなった時に、「死」とは何かという問題と真正面から向き合い、自分はどういう死を迎えるのか、そのために今をどのように生きるべきか、人は死んだらどうなるのであろうかということを真剣に問い始めるのです。聖書はこのような「人の死」について考えさせてくれる事件や人物について多く書き記されておりますが、その人物の一人が十字架上の犯罪人です。二人の犯罪人(強盗)のうち、一人が自分の罪を悔い改め救われたのです。この犯罪人は十字架につけられ、あざけられ死に向かいつつあるキリストを信じ、この方の御国が必ず来ると信じ、「イエスさま」と呼び求めたのです。(ルカ23:42)それまでの彼の人生の背景もその犯罪の動機についても、聖書は何も記しておりません。あたかもそれらの事は不必要とばかり、十字架の彼の姿を描くことに集中しております。この犯罪人の死を通して見えてくるものがいくつかあります。その一つは、この犯罪人は、激しい痛みと苦しみで死に直面しつつ、また救い主イエスの悲惨なありさまを見ながら、それでもなお信じ永遠のいのちを受けたことです。彼は死の瞬間に、自己に目覚め、神に心を向けたのです。このことは、人はいのちのある限り、悔い改め、神のもとに立ち返ることは可能なのだということを示しております。次にこの犯罪人は「イエスさま」と呼びかけ、主イエスが神の国の王となられる時「私を思い出してください」(ルカ23:42)と、主イエスへの信頼を込め、それまで断絶していた神との関係の回復を求めたことです。人は神に似せて造られた存在ですから、心の内に神を呼び求めるものであります。こうしてこの犯罪人は地上の生涯における主の最後の伝道において救われた人となり、パラダイスにおける主の最初の友となったのです。私たちもいずれの日か、主イエスとともに永遠に住まうものとされます。その主の栄光と祝福と主の完全さのうちにあって、主とともに生きるようになるのです。この方のおられる所で、この方に似る者として生きるのです。この喜びこそ、呪わしい十字架に架けられた一人の犯罪人の死を通して、私たちに告げ知らされていることなのです。


9月18日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「有終の日々を生きる」 ―敬老の日に寄せて―  ヨシュア記14章6~14節

「有終の美」という言葉があります。「物事の最後を全うし、締めくくりを立派にする」という意味です。最近この言葉を思い起こさせる映画を観ました。新藤兼人監督「一枚のハガキ」という映画です。自らの戦争体験を基に、99年の人生をかけた最後の作品です。「戦争がすべてを奪った。戦争が人生を狂わせた。それでも命がある限り、人は強く生きていく。」という訴えが、一直線に心に届く映画でした。まさに「有終の美を飾る」にふさわしい作品です。しかし、有終の日々を生きた人物は新藤兼人監督だけではありません。聖書の中にも有終の美を生きた人物が何人も登場しております。ヨシュアとカレブもその人達です。「老友二人」と呼ぶべきか。今やカレブは85才、ヨシュアはカレブよりも年上と思われ、90才位かそれ以上という老境に入り、普通に考えますと引退をして、悠々自適、余生を静かにという生活が待っています。しかし、こと二人に関してはそのような生き方とは無縁でした。ヨシュアに主から「あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている。」(ヨシュア13:1)という言葉がかけられます。彼は今迄も約束の地カナンを征服するために、困難な戦いを民とともにしてきましたが、最後に残された仕事は、後々まで結果が残る、それぞれの部族への土地の分割という、さらに困難で責任の重い仕事でした。だからこそ、この仕事は、老翁ヨシュアにしてこそ果たし得るのだと言わんばかりに、主はヨシュアの引退をお許しにならなかったのです。カレブも同じです。すでに85才になっていたカレブでありましたが「モーセが私たちを遣わした日々のように今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。」(ヨシュア14:11)と語り、自分にはまだやり残した仕事がある。果たすべき使命がある。ここで引退するわけにはいかないと言うのです。こうしてヨシュアはその使命を果たし終え、110才で死を迎え、カレブもヘブロンの地を征服し、その働きを終えて世を去ります。ここに有終の日々に生きた美しい老友二人の姿が印象に残ります。主は必要とあれば年齢に関係なく、私どもをその働き、その使命に召しだされます。そうしますと、『有終の日々を生きる』 ということはどういうことなのでしょうか。その答えは、ヨシュア記14章8節9節14節の「私は、私の神、主に従い通しました。」と三度繰り返し強調されている言葉にあります。『有終の日々に生きる』とは、それは「私は私の神、主に従い通しました。」と言える日々であります。「有終の美」とは、「主に従い通した」という信仰者の姿のことです。とするなら、私ども誰もがなし得る事ではないでしょうか。特別に選ばれた人だけが有終の美を飾るのではない。主イエスの十字架の恵みにあずかり、永遠の御国に入る者とされたその恵みにひたすら感謝し、主のもとに召される時まで、「私の神、主に従い通す」あなたこそ、有終の日々に生きる人であり、有終の美を飾る者と主はして下さっているのです。             

9月11日(日) 礼拝メッセージ要旨     黒川雄三牧師

 

「初めの愛に返れ」                    黙示録2章1~7節

黙示録2~3章には『アジアにある七つの教会への手紙』があります。今のトルコの西部にあたる小アジア地方には七つ以上の数の教会がありましたが、天からの声は使徒ヨハネに「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スルミナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」(黙示録1:11)と命じました。「七つの教会」は、全教会の典型を含むものと考えられます。21世紀に生きる私たちの教会もその中に含まれるのです。                                                                             エペソの教会は、使徒パウロの第2回伝道旅行の中で、紀元55年頃に3年間の伝道の結果、誕生しました。(使徒の働き19章)パウロのエペソ人への手紙の2章によれば、彼らは「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」、「イスラエルの国から除外され」「この世にあって望みもなく、神もない人たち」であったのが、「あわれみ豊かな神」が「その大きな愛ゆえに」「恵みのゆえに、信仰によって救われ」ました。彼らは真の神を知ったことの喜びの中で偶像や迷信を捨て去りました。「七つの金の燭台(教会)の間を歩く方(=キリスト)は、エペソのクリスチャンたちの「行いと…労苦と忍耐を知って」いて、彼らが「よく忍耐して、(キリストの名のために)耐え忍び疲れることがなかった」と称賛・感謝しています。しかし、教会誕生から40年を経過したエペソの教会にもほころびが見えてきました。「右手に七つの星(=七つの教会のリーダーたち?)を持つ方、七つの金の燭台(=教会)の間を歩く方」(黙示録2:1)は、「あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」と言われます。それは単なる悪口ではありません。非難のための非難ではありません。愛する教会を立ち直らせ、初めの愛初めの行いを行わせようとする、教会の大牧者・贖い主の愛の言葉です。なすべきことは何か?(2:5)             ①どこから落ちたかを思い出し、悔い改める。                                                                  ②初めの行いをする。クリスチャンンになった初期の愛と熱心と行いを思い出そう。                                            キリストの鋭い指摘は、彼らが信仰生活の途中で落後することなく、勝利者として天の御国に凱旋し、「神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせ」ていただけるようになることです。この愛の言葉に聞く耳を持ちたいものです。                                                                                                                        


9月4日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「真の家族への招待」              ルカの福音書5章27~32節

それはあり得ない光景でした。普段は人の気配もなく、ひっそりと静まりかえり、冷たく暗く、まさに死の家のようなレビの家から、はじけるような笑い声が聞こえてくるのです。家の中では、にぎやかな祝いの席が設けられ、底抜けの明るさが満ちていました。大勢の人々が楽しく和やかに語らい心を通い合わせているのです。「アルパヨの息子レビが取税人の地位を捨てて、ナザレのイエスに従い、マタイという新しい名前もつけてもらい、キリストの弟子として再出発したそうだ。その門出をお祝いして今大宴会が開かれている。レビの家に何が起こったのであろうか。」カペナウムの町の人々にとって、それは大きな驚きでありました。このようにキリストとの出会いは、そこにある種の驚き、衝撃を与えます。先の礼拝で取り上げました中風の人がいやされ立ち上がり、自分の家に帰った出来事が、人々をひどく驚かせ神をあがめ、恐れに満たされて、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た。」(ルカ5:26)とルカが記しましたように、レビの身の上に起こったことも、人々に驚きを与えたのです。この衝撃的な出来事は、主イエスが「収税所にすわっているレビという取税人に目を留められた。」(ルカ5:27)ことから全てが始まりました。レビはこれまで誰からも見られたことのないまなざしで、自分が見つめられていることを感じました。さげすみ、軽蔑、裁きの目ではなく、自分を真実にいつくしみ、自分を生かす、今まで出会ったことのないまなざしで見つめられる体験をしたのです。しかも、彼の心が神の方に少しでも向いている所ではなく、収税所にすわって、お金を数えている最中に、これで今日はいくら儲かったかと欲のとりこになっている時、いわば罪を犯しているそのど真ん中にいるレビを見られ、「わたしについて来なさい。」とお呼びになられたのです。「するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った。」(ルカ5:28)のです。それは単に地位、名誉、財産を捨てたといった以上に、これまでの彼の考え方、生き方、価値観の全てを断ち切り、新しい人生の一歩を踏み出したことを意味します。この変化はレビにとって大きな喜びをもたらしました。彼はすぐに大勢の人たちを招き、祝宴を開いたのです。レビはここに至って始めて主イエスのお言葉「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:31~32)の意味をかみしめながら、「そうだ。自分は病んでいたのだ。罪に病んでいた。それを主イエスが治して下さった。私にとって必要なのはこの方であって、この私を招くために主イエスは医者となって、私のところに来て下さったのだ。」その恵みを覚えた時、レビは全く新しい目で自分を見つめ、仲間を見直したのです。そして自分がそうであったように、彼らも主イエスのもとに招かなければならない。その使命のために、レビはマタイという新しい名前をいただき、キリストの弟子として歩み始めるのです。それは、彼が真の神の家族という絆に生きる喜びを味わった時でもありました。







8月28日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「慟哭の愛 ー ペテロ」          ルカの福音書22章47~62節

ペテロという人物を思い描く時、決まってある光景が浮かんできます。その光景とは、母親の後を泣きながら、必死に追いすがる子供の姿です。自分の思うように事は進まなかった。そこで駄々をこねて座り込み、母親を困らせようとするが、母親は無視して先を歩いていく。子供は泣き声を上げて母親の後を追う。そんな子供を母親は振り返り叱りつつ歩いていく。子供は遅れまいと母親の後を追う。そこには『それでも信じて疑わない母親の愛情に生きる子供の姿』があります。その子供の姿にペテロが重なって映ります。福音書に登場するペテロは激しく泣きながらも、主イエスに従い通した人物でした。ガリラヤで漁師として生きていた無学なペテロがキリストの弟子として全くの別世界に生きることになります。しかし生来の気質は変わるはずもなく、躓き、不信仰、思い込み等、軽薄な言動によって、度々主イエスに叱責を受けます。そして決定的な場面を迎えます。あの十字架の出来事を前にして、三度主イエスを否定するという裏切り行為でした。ルカ22章でイスカリオテのユダの裏切りとペテロの裏切りを同時に並べながら、その結末において、全く違った二人の姿を描きました。ルカは「主が振り向いてペテロを見つめられた」時、「彼は、外に出て、激しく泣いた。」(ルカ22:61~62)と悔悛の涙にくれるペテロを印象深く書き残しました。そのペテロが再び登場するのは「使徒の働き」です。その前半の主人公として初代教会の形成に重要な足跡を残した姿が紹介されております。それからその信仰の円熟、成熟をつぶさに知ることができる「ペテロの手紙第一・第二」を通して晩年のペテロの姿を見ることができます。その信仰は揺らぐことなく、深みを増し、苦難の中にある兄弟姉妹たちへ、慰め励ましを与える豊かな信仰へと高められています。こうして信仰者としての生涯を全うしたペテロの航跡を見ます時に、そこにいくつかの主イエスのお取り扱いがあったことがわかります。『見つめられること』『祈られていたこと』『説得されたこと』です。ペテロはガリラヤ湖で主に見つめられ弟子となりました。その時から主イエスは片時もペテロから目を離されることはなかった。ペテロが自分を裏切ると分かっていた時も「わたしはあなたのために信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」(ルカ22:32)とペテロに語りかけられました。そして復活された主イエスは、ペテロとの再会で、三度も「あなたはわたしを愛しますか。」(ヨハネ21:15~17)と呼びかけられ、この一人のガリラヤの漁師を説得されるのです。「ペテロよ、私はお前を必要としている。かねて約束した通り、わたしはお前を人間を取る漁師にする。」この時からペテロは主イエスの確かな恵みの手ごたえの中に立ち続け、その生涯を終えたのです。



8月21日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「主の前に置かれた信仰」          ルカの福音書5章17~26節

この度の東日本大震災で、人々が忘れかけていたある言葉が見直され、掛替えのない言葉になりました。「絆」という言葉です。人々はこの大震災を通して、私たちが「ひとりであって、ひとりでない」ことを、愛する人達を失ったことによって知らされ、また日本全国、世界各国からの援助、支援の手が差し伸べられたことを通して、自分たちは深い絆によって結ばれて生かされていることを肌身に感じ、「絆」の大切さに気付かされたのです。今朝の箇所も、四人の友人たちとの絆によって、新しく生きる喜びを与えられた中風の人の話です。彼らは「イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。」(ルカ5:17)ううわさを耳にし、中風の人の病気を直して欲しい一心から、主イエスのもとに運び込み障害を乗り越え、結果的にはその目的を果たすことができ、「彼は…寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。」(ルカ5:25)のです。この絆によって結び合わされた四人の友人たちの一連の行動について、主イエスはそれを「彼らの信仰を見て」(ルカ5:20)と言われました。「かれらの絆を見て」ではなく「信仰」と言われたのです。その理由の第一は主イエスに期待して、前に進ませる力こそが信仰そのものだからです。第二に困難な状況を打開し、今までの経験と知識を越えて、新しい道を示されるところに信仰の姿があるからです。第三にそれは愛の業を生み出すものだからです。彼らが労力を惜しまず障害を乗り越えて、病人を主イエスのもとに置こうとしたのは、何とかして直してあげたいという愛から生み出された愛の業であったからです。そして主イエスが中風の人に言われた言葉に注目しましょう。主イエスは「友よ、あなたの罪は赦されました。」(ルカ5:20)と言われました。中風の人が求めたのは病気のいやしでした。ところが主イエスは罪の赦しを与えられました。「赦されている」という確信は、私たちを自由にし、前向きにします。中風の人はこの赦しの言葉に続いて、「起きなさい。家に帰りなさい。」(ルカ5:24)という言葉によって、「神をあがめながら自分の家に帰った」(ルカ5:25)のです。からだのいやしが神への賛美に結びつくこと、ここにキリスト信仰の特質があります。彼は主イエスとの出会いを通して、神の大いなる恵みの世界が彼の前に開かれました。それは「私たちは、きょう、驚くべきことを見た。」(ルカ5:26)という出来事でもあったのです。まさにこの出来事は「今日」という時間の中での事でした。主イエスとの出会いは、きびしい時間的制約のもとで起こります。それだからこそ、この一回限りの時間の中での決断が大切なのです。そのために教会の働き、私たちの奉仕のすべてが、(Ⅰ)「人々の真中におられるイエスの前に(ルカ5:19)新しい方々をお連れするという使命と、(Ⅱ)主イエスと出会った方々が「神をあがめる」生活へと方向転換するように祈り、支え、導く私たちの責任を覚えましょう。



8月14日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「真の平和の証人―8月15日を迎えて―」       イザヤ書9章1~7節

敗戦後66年目の8月15日を迎えました。戦後の日本は平和主義を機軸として、国民が心を一つにして国の復興に励んできました。しかし、日本人の平和主義は、戦争はもうたくさんだという平和主義であって、本当の平和を作り上げる視点をなおざりにしてきました。それは戦争を直視し、その歴史にしっかりと向き合ってこなかったことでした。歴史の問題から逃げたのです。そしてバブルがはじけ飛んで、平和主義という意識がどんどん薄れてくる流れの中で、憲法改正の胎動が聞かれるようになり、「憲法九条を守る会」の組織が、またたく間に日本全土に広がりました。ここで私たちは「平和を守る」「憲法九条を守る」ということの意味を考えてみる必要があります。井上ひさしさんは『「平和を守る」「憲法九条を守る」というのは、私たちのいま続けている日常を守ることだ』と言っております。普通に生活し、普通に生きていく幸せを守ることが「平和を守る」「憲法九条を守る」ことなのです。日本は再び「普通に生きていくことの幸せ」が戦争によって奪われないために、新しい「日本国憲法」のもと、平和主義の道を歩んだのです。当時の文部省は「あたらしい憲法のはなし」という冊子を作って子どもたちに配りました。その中に、こんな一節があります。「いまやっと戦争はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戦争をして日本の国はどんな利益があったでしょうか。何もありません。ただおそろしい、かなしいことがたくさんおこっただけではありませんか。戦争は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戦争をしかけた国には、大きな責任があるといわなければなりません。」私たちは、憲法九条の精神を世界に知らせる役割が日本に課せられていることを重く受け止めなければなりません。特にキリスト者は、その責任は重いのです。なぜなら真の平和とは何か、平和の意味を誰よりも知らされ、知っているのがキリスト者だからです。「平和の君」なる神の御子がこの世にお生まれになった時、「地には平和があるように」(ルカ2:14)と天の御使いたちは歌いました。キリストは分裂した世界の中で、新しい平和な関係をつくり出し、ユダヤ人と異邦人、奴隷と主人の間の敵意の壁が崩れ去り、キリストは私たちを「平和の道に導く」(ルカ1:77)ことを得させ、「平和をつくる者」(マタイ5:9)としてこの世に置かれました。そのために何よりも、私たちが神との平和な関係に生きる者でなければなりません。そして「平和の君」なるイエス・キリストに従い、平和をつくり出す人、真の平和の証人として生きる者でなければと心より願う者でありたいのです。