「主の言葉を聞いて行う人」 ルカの福音書6章43~49節
ブランド品や宝石、真珠を本物に似せて造られたものを、「模造品」と言います。外見だけでは、本物と偽物を見分けるのはむずかしいですから、自分は本物と信じて購入したが、全くの偽物と判明し、自分で自分を欺くという結果に終わってしまうことがあるものです。信仰においても同じことが言えます。主は「良い木と悪い木」のたとえで(ルカ6:43~45)、外見にだまされる危険性、「主よ、主よ」と表向きは、熱心に呼び求め(ルカ6:46)、自分は信じていると思い込んで、自分を欺くという危険性、救いを求め、恵みや祝福だけを求め、主の言葉を実行しない危険性(ルカ6:47~49)をそれぞれ取り上げて、私どもに警告を与えておられるのです。「真のキリスト者」と「偽のキリスト者」とは、どこが違うのでしょうか。主はその問題を家を建てた二人の人物のたとえを通して語っておられるのです。ここでは二人の間に見られる類似点ではなく、その違いについてが強調されているのです。一方の家が「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えた」(ルカ6:48)のに対し、他方の家は「土台なしで地面に家を建てた」(ルカ6:49)ことに、決定的な違いがありました。造りが良いとか、良い材料を使用したからではないのです。岩を土台とした良さにあったのです。彼らは同じ場所に同じような家を建てたのです。その相違は、一見明白ではありませんが、その違いは死活にかかわるものです。後日洪水が来て、その違いは明らかになります。「真のキリスト者」とは、キリストの土台の上に家を建てた人ですから、私の思い、私の感情、私の眼差しによるのではなく、常に主にその身を預けることができる人のことです。反対に「偽のキリスト者」は、深く考えないで、警告に耳を貸さず、主よ主よと呼びながら、聖書の教えに無関心で、それを行うことが出来ない。表面的な祝福、喜び、平安を得ることに満足しているのです。果たして私どもは、もっと深みのある、もっと奥深い、キリストの土台にまで達するという掘り下げを切望しているでしょうか。主は私たちの日毎の生活、問題をとおして、キリストに達することを求めておられるのです。「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人たちがどんな人に似ているか」(ルカ6:47)という、主イエスのお言葉の意味をしっかりとかみしめ、味わいたいと思います。
「他者を生かす眼差し」 ルカの福音書6章39~42節
「考えてみると、既に自分たちは日々、人々を裁き、また裁き合っている。朝起きた時から夜に至るまで、いや夢の中でさえ、自分は人を裁き、人を責め人を怒っている。」三浦綾子の小説「裁きの家」で、主人公が語っている言葉の一節です。人は自分の罪を計る物差しと人の罪を計る物差しと二つの計りを持っています。そしてこの二つの計りを自分の都合に合わせて使い分け、人を責め、人を裁いているのです。この問題は主イエスも大切なこととして、『目にある梁』と『目のちり』にたとえて取り上げておられます。(ルカ6:41~42)私たちはこの主イエスの言葉を表面上のことだけを考えて、次のように理解します。―これは私たちが他人のことを、とやかく言う資格のある人間ではないということを言っておられるのだ。人間というものは、皆完全無欠ではなく、どこかに欠点がある。その欠点に気付いたら、人の欠点ばかりあげつらっているわけにはいかない。だから他人の目にある『ちり』について、お節介をやくな。自分の目にも『ちり』があるではないか。お互い五十歩百歩ではないか。他人も自分も同じ間違いをしているだけではないか。―と私たちの知恵が語ろうとしているのは、こんなことではないでしょうか。しかし主イエスが、ここで用いられているたとえは違うのです。『ちり』と『梁』で、しかも他人の目には『ちり』であり、あなたの目には、それよりもさらに大きい『梁』がある。それで人を裁く資格があるかと、問われるのです。私たちは実は自分の物差しだけでは、自分の目の中である『梁』を見つけることは出来ないのです。神の目で見つめられ、その光に照らされた時だけ、自分の目にある大きな『梁』に気付かされるのです。従ってこの『梁』を、私たちの神のみ前における『罪』と言いかえることができます。その罪の重さは、主イエスが十字架につけられる程のものであります。したがって、この『梁』の大きさが、あの主イエスの十字架の苦しみの大きさであったのだとはじめてわかるのです。あの主イエスの苦しみ、死の痛み、死の深さは、それだけ私たちの大きな『梁』(罪)を負われていたからです。この大きな罪に気付かないままに、人の目にある『ちり』を気にして、裁くことは間違っているのです。このように他人の目にある『ちり』(罪)を本当に正しく見てとり、見極めるために、愛の視力が必要なのです。そのために自分の目の『梁』(罪)が取り除けられなければならないのです。私たちの眼は他者を生かす眼差しであり、共に生きる人々の罪を正しく見定め、その罪のゆるしの実現のために祈り、神のゆるしの眼差しの中に立つように招くものでなければならないのです。ようするに、主イエスがここで最も大切な教えとして語っておられることは、神のみ前にあって、私たちが、他人をどのように見つめ、どのように振舞っているかということなのです。
「赦され難い私が赦されて」 ルカの福音書6章37~38節
「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません」(ルカ6:37) このイエスの言葉と向き合う時、いつも思い起こす、八木重吉の詩の一節があります。「赦され難い私が赦されている。私はだれをも無条件でゆるさねばならぬ。」ゆるされるはずもない私が、神にゆるされている。その私がどうして人を裁くことができようかと、八木重吉の詩は強く迫ってきます。神が特に厳しく取り扱われる罪に、人を裁く罪が含まれております。「神は高ぶる者に敵対し」(ペテロ第一5:5)とありますように、人を裁き続けるなら、神はその人の味方となることは出来ません。それどころか、その人に敵対されるのです。神を敵に回して、その怒りの下に身をさらすということは、なんと恐るべきことでしょうか。ですから、主イエスは鋭い警告を与えておられるのです。「さばいてはいけません。」と。その神は、私たちに対して、決して裁き主としてではなく、あわれみ深い神として、救いに導き、接して下さいました。(ルカ6:36)主イエスのあのご生涯、あの十字架と復活において、徹頭徹尾あわれみ深い神として、私たちの罪をゆるし、愛の神として現れて下さいました。「あわれみ深い」と訳されております言葉は「他者の苦しみを共にする」という意味の言葉です。人の痛みを、己の痛みとするように、神もそのような方であるというのです。あなたがたの父なる神はあなたがたの痛みを知っておられる。あなたがたがゆるし得ない、愛することが出来ない、その痛みを主ご自身受け止めて下さり、その痛みのゆえに、あなたにあわれみ深くあられるのです。その主のあわれみの真ん中に立って、私どもは、「あなたがたは、さばいてはいけません。」という、主イエスの戒めの言葉を聴くのです。自分が神のあわれみの中に置かれているならば、神が裁かれないのに、どうして私どもに人を裁く権利があるのでしょうか。少なくとも、自分が神のあわれみによって生かされ、ゆるされている者であれば、どうして人のわずかな罪を裁くことが出来るのでしょうか。神はキリストにあって、いつでも裁く側ではなく、裁かれる側に立って下さいます。ですから、この戒めはすべてキリストとのかかわりの中で、守ることが出来る行いなのです。自分の力では実行出来ないことです。人に対して、非難する心がある時、そこには喜びも平安もありません。キリストはそこにはいないからです。あらためて、使徒パウロの次の言葉が迫ってきます。「なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。わたしたちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。」ローマ人への手紙14章10節
「心の目で見る、神の望み・栄光・力」 エペソ人への手紙1章15節~23節
2012年がスタートして、一か月近くが過ぎようとしていますが、毎日、寒い日が続いています。くれぐれもお身体に気を付けてお過ごし下さい。先週は、年賀状の当選番号が新聞に発表されましたが、皆さんはいかがだったでしょうか。その年賀状のやりとりの中で、神学校時代の友人たちから、それぞれが教会で奉仕したり、キリスト教関係の出版社やキングス・ガーデンで働いている様子を知り、喜びばかりではなく試練の中を通らされている友人たちのために祈らされることもありました。昨年は東日本大震災が起こり、子どもの将来を考えて引越しをしたという報告もありました。また、結婚したり、子どもが生まれたりと、うれしい報告も写真と一緒に送られてきた年賀状もありました。また、日本だけでなく海外からも、信仰の友人たちから、私たち家族のことや教会のために祈っていて下さっていることを知り、本当に嬉しく思いました。祈られている幸いと、祈れる幸いを主に感謝しました。 今日の聖書箇所を見ますと、パウロも同じようなことを感謝しています。彼は、エペソにある教会の人たちの信仰と愛の姿を聞いて感謝と祈りを捧げています。彼らのキリストに対する信頼と、クリスチャン同士の愛の交わりを耳にしたからです。このようなうわさを聞くことができる教会やクリスチャンは幸いだと思います。さて、私たちの教会は、どんなうわさがささやかれているのでしょうか。 パウロは、そのエペソにある教会のために「さらに深く神様を知ることができるように」と祈っています。更には、心の目がはっきりと見えるようにと続いています。さて、心の目が開かれて、何を見るようにとパウロは祈っているのでしょうか。それは、「神の望み・栄光・力」です。私たちが、この神の素晴らしさを見て、味わいながら、信仰生活を歩んでいくことこそ、祝福された信仰生活なのです。 パウロは「信じる者に働く神の偉大な力を知ることができるように」と祈っていますが、教会こそ、まさしく「神の望み、栄光・力」を見て味わうことができる場所です。教会とは、一切の権威を持っておられるキリストが、かしらとしておられる場所だからです。 私たちは、教会のかしらである、キリストにあって期待して信仰生活を歩んでいくことが出来るのです。ご一緒に心の目で「神の望み、栄光・力」を見ていきましょう。
「祝された信仰の絆」 テモテへの手紙第二 1章1節~5節
聖書は主への敬虔と訓戒をもって、子供を訓練することは、両親の責任だと教えています。その責任を非常によく果たした家庭が、若きテモテが育った家庭でした。「祖母ロイスとあなたの母ユニケ」(5節)と、パウロがテモテに書き送った手紙に記されておりますように、ユニケとその母親ロイスは若いテモテを、注意深く賢く育てるという大切な役割を果たしました。祖母ロイスと母親のユニケは「純粋な信仰」を持った女性でした。今パウロはこの彼女達の信仰に、テモテの信仰が断ちがたい霊の絆によって結ばれているのだという事実に注意を向けさせているのです。そしてこのようなテモテの信仰は、パウロにとってうらやましいものでした。パウロはダマスコ途上で、復活のキリストによって劇的な回心に導かれた自分の信仰にくらべて、テモテのように家庭の絆の中で信仰が与えられるということに心ひかれるものがあり、三世代が揃って神の国に入ることを思った時、パウロの心は感謝に満たされたのです。しかし、テモテに救いを与えたのは、彼女たちの信仰ではありませんでした。テモテが罪から救われるためには、個人的にイエス・キリストを信じなければなりません。両親は子供たちが、自分自身に救いが必要であることを理解するように導く必要があります。けれども、親は子供の手を引いて天国に連れて行ってあげることはできません。天国に行きたいのなら自分で主を信じることです。親は天国への行き方を教えることまでしか責任を取れないのです。しかし、子供たちが主を信じた後に、両親は彼らの信仰と主イエスを知ることにおいて、成長するように助けなければなりません。神への信仰とは、この世の富以上に子供たちの将来を確かにし、祝福の中を歩ませる財産なのです。そして信仰の継承は、神の家族全体の問題なのです。そこには、子供たちの人生だけでなく、教会全体の将来がかかっていることを覚えましょう。
「天の父のように」 ルカの福音書6章27~36節
「許しうるものを許す。それだけならどこに神の力が要るか。人間に許しがたきを許す。そこから先は神のためだと知らぬか。」八木重吉のこの短詩は、本日のみ言葉の使信を見事に言い尽くしております。主イエスは、敵に対して「愛しなさい」(ルカ6:27)「祈りなさい」(ルカ6:28)「拒んではいけない」(ルカ6:29)「与えなさい」(ルカ6:30)と語り、それらの教えをルターが「我らの救い主は、複雑な教訓を一つの小さい包みに仕立て、誰もがこれをふところにして、携帯しうるように計らいたもうた。」と語ったように、『自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。』(ルカ6:31)というみ言葉の小さい包みに仕立てて私たちに手渡されたのです。ですから私たちは自分にしてもらいたいと望むとおりのことを、敵に対しても、心をこめて接しなければならないのです。さらに、このような愛の行為を行うために、私たちに求められております積極的な行いは、この世の常識的な行いを越えたものでなければならないと主イエスは言葉を重ねて私たちに迫ります。「自分を愛してくれる者ではなく」(ルカ6:32)「自分に良いことをしてくれる者ではなく」(ルカ6:33)「自分に返してくれる者ではなく」(ルカ6:34)「自分に敵対する者」(ルカ6:35)に対して、『あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。』(ルカ6:36)というみ言葉の小さい包みに仕立てて、再度私たちに手渡して下さいました。人にはただひたすら与え、尽くして、恵みを施すだけで「報い」はただ「いと高き方」(ルカ6:35)だけに期待する心で生きるのです。ここではただ一つだけの原則が語られているのです。それは私たちの他者に対する態度は、彼らの状態、あるいは私たちに対して何をするか、何をしたかということに決して左右されてはならないということです。主イエスはここで、私たちの視線が他者に注がれるのではなく、いつも自分自身を見つめることを求めておられるのです。そこに私たちは他者を裁くことのできない自分を見るのです。そして主の十字架を仰ぐのです。キリスト者とはこのように、神とキリストに似るべき者とされている人のことであると強調されたのです。時として子供がそれほど両親に似ていなくても、人はそういう子供を見てさえも、やはりどこか父親似だとか、母親似だとか言います。私たちにはそれくらいでも、天の父なる神に似た点があるでしょうか。もし神があなたの父であるなら、あなたのどこかに、何らかの形で似た点があるはずです。願わくは、私たちが自分自身を吟味し、そこに私たちを他者と区別するだけでなく、私たちが天の父の子であることを宣言してくれる確かなしるしを発見することができますように!
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「キリストは私たちの内に」 マタイの福音書2章9~12節
教会暦によりますと1月6日は「公現日」「顕現日」と呼ばれる祝日です。待降節、降誕と続くクリスマスの最後にくる祝日です。ギリシャ語で「エピファニー」と呼ばれ、「突然見えてくる」「姿を現す」「出現する」という意味です。初代教会にとっては、キリストの死と復活がキリストの誕生よりもはるかに大きな関心事でしたが、4世紀初頭東方教会において、キリストの到来(公現)を記念する祝日を1月6日と定め、キリストの降誕も1月5日から6日にかけての夜に祝うようになりました。それは、聖書のクリスマス物語の中で、異教徒であった東方の博士達が、世界の救い主の誕生を尋ねてベツレヘムに到着し、そしてついに幼子イエスに会うという、マタイの福音書2章1節から12節が主題となって祝日を守ることになりました。東方の博士達は星を占う学者達でしたが、「天文学者」「占い師」のような存在でもありました。彼らが幼子キリストに贈り物として捧げた「黄金、乳香、没薬」というのは、彼らがそうした仕事をする上で用いた道具だったというのです。そうだとすれば、これまでの人生に於いて、自分たちの生活の支えになっていた大切なものを、キリストのもとに献げたということであり、それは彼らの旅が単なる救い主の見物のためではなく、これまでの彼らの生き方を終える旅だったのです。その意味で東方の博士達は、私たちの代表として幼子キリストに送られた特使だったのです。「公現(エピファニー)」は、神の栄光が人となってこの世に現されたことに、私たちの目を向けさせるだけでなく、私たちがどのような者であるかを知ることに導いていきます。キリストは今、幼子キリストとして私たちの内に生れて下さった。イエスは「ガリラヤ地方に立ちのいた。そして、ナザレという町に行って住んだ。」(マタイ2:22~23)「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」(ルカ2:52)と聖書は記します。そのイエスにとって、私たちがキリストの住まいナザレなのです。今私たちがイエスの故郷なのです。そして私たちの内で、この幼子イエスは強く、ますます成長していくのです。その力、その喜びを受け取る日が「公現日」なのです。この祝日を星を見つめながら導かれて、夜の旅路を進んでいく東方の博士達の姿を思い浮かべつつ、「公現日」を守るということは、私たちがこれまでの自分自身の生き方を見直し、新たな生き方へ踏み出すことにあることを思い起こしましょう。
「高い山に登れ―2012年を迎えて」 イザヤ書40章1~11節
2012年は、日本にとってまさに21世紀のバビロン捕囚の時代を生きようとしているのだと思わされております。昨年3月11日の東日本大震災は、多くの人の命を奪い、自然も生活と仕事の場も破壊され、原発事故により汚染され、避難先や、仮設住宅での生活を強いられているのです。この冬空の下で、自分のふるさと、思い出のいっぱい詰まっている元の場所に戻りたいという、望郷の念を抱きながら日々生き抜いている人々が150万人いるのです。それはイザヤが預言した南ユダ王国が、バビロンとの戦争に敗れ、神殿や城壁は崩壊し、エルサレムは廃墟の街となり、多数の民が捕囚としてバビロンに連行されるという「荒野の時代」と重なります。イスラエルの民も異国の地で望郷の思いを熱くしながら生きていたのです。その荒野に生きる人々に、慰めと希望の使信が届きます。それは「荒野の時代」の終わりを告げる声です。さばきの時は終わり、苦しみの時は過ぎ去る。解放と回復の時が訪れようとしている。(イザヤ40:2)だから主の道を整えよ。もうすぐ王である主が勝利して戻ってこられる。その主の栄光の姿を見る。それは新しいことがこれから始まることの知らせなのだとイザヤは語るのです。(イザヤ40:3~4)その良い知らせを伝えるために、高い山に登れと主は命じられるのです。バビロンの高い山から故国エルサレムに向かって、力の限り声をあげている捕囚の人々の姿を想像してください。ユダの町々に残っている貧しい人たちが、荒廃した地で耐えつつ生きているのです。その残れる者と一つになり、同じ大地で生活できることを知らせる声が、地平線の彼方にあるシオンの丘に向かって響くのです。それは復興に向かって新しい年を歩み始めた東日本大震災にあわれた人々に私たちが伝える、希望の使信でもあるのです。古きは去り、これから新しい何かが始まる。そのことを告げる声なのです。混沌として深い霧に包まれているような新年を迎えました。今年の歩みがたとい、いかに行き詰まる時であったり、いろいろな問題や戦いがあったとしても、「見よ、あなたの神を」(イザヤ40:9)という力強い呼びかけの声に、信仰の姿勢を正して、神への復元力を失うことなく、その力ある御腕で私たちを支えてくださり(イザヤ40:10)やさしい御腕をもって、引き寄せ抱きかかえ守られる主に、目を注いで歩んでまいりましょう。
「その名はイエス」 マタイの福音書1章18節~25節
今日でも赤ん坊の誕生と命名は、人生における重大な出来事の一つです。親は子に対する期待、夢、希望を持って名前を決めます。では我々の救い主には、どのような名前がつけられたのでしょうか。ヨセフは赤ん坊に「イエス」と名づけました。その名前は、ヨセフが主の使いから与えられた特別な命令によってつけた名前でした。しかしこの名前には、非常に興味深いものがあります。 (一)「イエス」という名前は、これは非常にありふれた名前であったということです。この名前はユダヤ人の家庭では、ざらにみられた名前でした。というのも「イエス」という名は、へブル名の「ヨシュア」を、ギリシャ語のかたちで言い表す名前でした。当時のユダヤ教会では、「ヨシュア」「イエス」と名づけられた男の子が大勢いたのです。このように神はごくごく平凡な名前を選ばれたのです。しかし一体なぜ、この名前はそれほど広まっていたのでしょうか。それは旧約時代の歴史と最初にこの名前を授けられた指導者ヨシュアと深く結びついていたからです。彼の名はもともと「ホセア」または「ホシェア」でした。それをモーセが「ヨシュア」と名づけたのです。(民数記13章16節)「エホバ」と「ホシェア」という二つの名前を織り合せて、彼を「ヨシュア」と名づけたのです。「エホバは救う」を意味する名前です。この「ヨシュア」がイスラエルの民を、約束の地に導きいれました。神はこの過去の偉大な指導者の名前をとって、今生まれた幼子にお与えになられたのです。 (二)次にこの名前が与えられた理由についてです。「その名をイエスとつけなさい。この方こそご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(21節)この言葉は、偉大な名前を最初につけられた「ヨシュア」との対比で語られているのです。ヨシュアはイスラエルの民を約束の地に導き入れることはできたが、彼らに安息、救いを与えることはできませんでした。だから、ヨシュアと同じ名前を与えられた、真の救い主が私達に与えられる必要があったのです。この新たに誕生しイエスと名づけられたこの方こそ、罪から、またその結果の滅びから救って下さる方なのです。彼は招かれます「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11章28節)これは彼が全ての人に向かって発した招きの言葉です。そしてこの招きに応え、彼のもとに来た人々を休ませ、永遠の安息に導き入れられるのです。イエスはその使命を果たすために歴史の中心に立たれた。それがクリスマスなのです。イエスと名づけられた赤ん坊の誕生という出来事は時の中心となり、世界の歴史はこの出来事によって、二つに分けられたのです。願わくは、神が私たちにこの御名の福音を聞かせてくださいますように。
「与え尽くす神」 ヨハネの福音書3章16節
幼児に圧倒的に支持され、今も愛され続けている絵本に、やなせたかし作・絵の「あんぱんまん」があります。あんぱんまんは、おなかが空いている人、困っている人に、自分の顔を食べさせることによって、その人達を助けます。その時あんぱんまんの顔は食べられて、全部なくなりますが、あんぱんまんのいのちは、食べさせることによって生きるのです。なぜこの絵本が幼児を惹き付けるのでしょうか。それなりの理由は考えられますが、私はこの絵本が、愛について単純明快に語っていることを、幼児たちは曇りのない純な心で感じ取っているのではないかと思います。ですから、ヨハネの福音書3章16節の聖書の言葉が私たちに教えているものが何かを知りたければ「あんぱんまん」の絵本を読まれることをお勧め致します。私たちは自分の愛するもの、自分の一番大切にしているものは、最後まで手放したくないのです。それは利己的だとは言い切れない、人間には本当に自分の大切なものを慈しむ、いとおしむという気持ちがあります。神さまとても同じであります。その愛してやまない独り子イエスを手放して、この世という罪に満ちた場所に旅立たせられたのです。その神の愛をまっすぐに私たちの心に届くように記されたのがヨハネ3章16節なのです。新約聖書はギリシャ語で書かれておりますが、文型はとてもはっきりしていて、一番強調するものは、文の最初に、二番目に強調するものは文章の最後に置きます。では3章16節の原文はどうなっているのでしょうか。日本訳、英語訳では最初に「神」が強調されておりますが、原文の順序は「実に」「かくまで」「愛された」が最初に強調され文頭に置かれております。二番目に強調されているのが「世」という言葉で、文章の最後に出てきます。この最初と最後の言葉に挟まれて、「神」という言葉が記されているのです。あたかも体を小さくして消え入っているようです。神が自分の体を小さくしてまで、愛し抜かれたのは「世」であったと、ヨハネは言いたかったのです。その愛し抜かれた「世」とは、どのような「世」であったのか。今年はまだ記憶に生々しい、東日本大震災が3月11日に起こりました。そして国内、国外さまざまな事件がありました。「世」(ギリシャ語でコスモス)は、コスモスの花のように調和のある、美しい世界ではありませんでした。それにもかかわらず「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、この世の悲惨を愛して下さった。この世の不調和を愛して下さった、この暗闇を愛して下さった。」のです。その悲惨さの中に生きる人間のために、キリストは来られたのです。ご自分のすべてを与えるために来られたのです。クリスマス物語では、登場人物はそれぞれの役割を終えると、自分の元の場所に帰りました。東方の博士たちは、「別の道から自分の国へ帰って行き」(マタイ2:12)御使いたちは「彼ら(羊飼い)を離れて天に帰り」(ルカ2:15)羊飼たちは「神をあがめ賛美しながら帰って行った」(ルカ2:20)のです。しかし、イエス・キリストは父なる神のもとに戻られなかったのです。十字架に向かって歩むためでした。ひとり子イエスは、神が最後まで手元に置いておきたいと願われた方です。そのひとり子をお与えになった日、それを賜った日、私たちがいただいた日、それがクリスマスなのです。神はみんな残らず与えられ、神のみもとにはもはや何物もない。それがクリスマスであります。