礼拝メッセージ

12月18日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「与え尽くす神」               ヨハネの福音書3章16節

幼児に圧倒的に支持され、今も愛され続けている絵本に、やなせたかし作・絵の「あんぱんまん」があります。あんぱんまんは、おなかが空いている人、困っている人に、自分の顔を食べさせることによって、その人達を助けます。その時あんぱんまんの顔は食べられて、全部なくなりますが、あんぱんまんのいのちは、食べさせることによって生きるのです。なぜこの絵本が幼児を惹き付けるのでしょうか。それなりの理由は考えられますが、私はこの絵本が、愛について単純明快に語っていることを、幼児たちは曇りのない純な心で感じ取っているのではないかと思います。ですから、ヨハネの福音書3章16節の聖書の言葉が私たちに教えているものが何かを知りたければ「あんぱんまん」の絵本を読まれることをお勧め致します。私たちは自分の愛するもの、自分の一番大切にしているものは、最後まで手放したくないのです。それは利己的だとは言い切れない、人間には本当に自分の大切なものを慈しむ、いとおしむという気持ちがあります。神さまとても同じであります。その愛してやまない独り子イエスを手放して、この世という罪に満ちた場所に旅立たせられたのです。その神の愛をまっすぐに私たちの心に届くように記されたのがヨハネ3章16節なのです。新約聖書はギリシャ語で書かれておりますが、文型はとてもはっきりしていて、一番強調するものは、文の最初に、二番目に強調するものは文章の最後に置きます。では3章16節の原文はどうなっているのでしょうか。日本訳、英語訳では最初に「神」が強調されておりますが、原文の順序は「実に」「かくまで」「愛された」が最初に強調され文頭に置かれております。二番目に強調されているのが「世」という言葉で、文章の最後に出てきます。この最初と最後の言葉に挟まれて、「神」という言葉が記されているのです。あたかも体を小さくして消え入っているようです。神が自分の体を小さくしてまで、愛し抜かれたのは「世」であったと、ヨハネは言いたかったのです。その愛し抜かれた「世」とは、どのような「世」であったのか。今年はまだ記憶に生々しい、東日本大震災が3月11日に起こりました。そして国内、国外さまざまな事件がありました。「世」(ギリシャ語でコスモス)は、コスモスの花のように調和のある、美しい世界ではありませんでした。それにもかかわらず「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、この世の悲惨を愛して下さった。この世の不調和を愛して下さった、この暗闇を愛して下さった。」のです。その悲惨さの中に生きる人間のために、キリストは来られたのです。ご自分のすべてを与えるために来られたのです。クリスマス物語では、登場人物はそれぞれの役割を終えると、自分の元の場所に帰りました。東方の博士たちは、「別の道から自分の国へ帰って行き」(マタイ2:12)御使いたちは「彼ら(羊飼い)を離れて天に帰り」(ルカ2:15)羊飼たちは「神をあがめ賛美しながら帰って行った」(ルカ2:20)のです。しかし、イエス・キリストは父なる神のもとに戻られなかったのです。十字架に向かって歩むためでした。ひとり子イエスは、神が最後まで手元に置いておきたいと願われた方です。そのひとり子をお与えになった日、それを賜った日、私たちがいただいた日、それがクリスマスなのです。神はみんな残らず与えられ、神のみもとにはもはや何物もない。それがクリスマスであります。

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