礼拝メッセージ

1月15日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「天の父のように」             ルカの福音書6章27~36節

「許しうるものを許す。それだけならどこに神の力が要るか。人間に許しがたきを許す。そこから先は神のためだと知らぬか。」八木重吉のこの短詩は、本日のみ言葉の使信を見事に言い尽くしております。主イエスは、敵に対して「愛しなさい」(ルカ6:27)「祈りなさい」(ルカ6:28)「拒んではいけない」(ルカ6:29)「与えなさい」(ルカ6:30)と語り、それらの教えをルターが「我らの救い主は、複雑な教訓を一つの小さい包みに仕立て、誰もがこれをふところにして、携帯しうるように計らいたもうた。」と語ったように、『自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。』(ルカ6:31)というみ言葉の小さい包みに仕立てて私たちに手渡されたのです。ですから私たちは自分にしてもらいたいと望むとおりのことを、敵に対しても、心をこめて接しなければならないのです。さらに、このような愛の行為を行うために、私たちに求められております積極的な行いは、この世の常識的な行いを越えたものでなければならないと主イエスは言葉を重ねて私たちに迫ります。「自分を愛してくれる者ではなく」(ルカ6:32)「自分に良いことをしてくれる者ではなく」(ルカ6:33)「自分に返してくれる者ではなく」(ルカ6:34)「自分に敵対する者」(ルカ6:35)に対して、『あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。』(ルカ6:36)というみ言葉の小さい包みに仕立てて、再度私たちに手渡して下さいました。人にはただひたすら与え、尽くして、恵みを施すだけで「報い」はただ「いと高き方」(ルカ6:35)だけに期待する心で生きるのです。ここではただ一つだけの原則が語られているのです。それは私たちの他者に対する態度は、彼らの状態、あるいは私たちに対して何をするか、何をしたかということに決して左右されてはならないということです。主イエスはここで、私たちの視線が他者に注がれるのではなく、いつも自分自身を見つめることを求めておられるのです。そこに私たちは他者を裁くことのできない自分を見るのです。そして主の十字架を仰ぐのです。キリスト者とはこのように、神とキリストに似るべき者とされている人のことであると強調されたのです。時として子供がそれほど両親に似ていなくても、人はそういう子供を見てさえも、やはりどこか父親似だとか、母親似だとか言います。私たちにはそれくらいでも、天の父なる神に似た点があるでしょうか。もし神があなたの父であるなら、あなたのどこかに、何らかの形で似た点があるはずです。願わくは、私たちが自分自身を吟味し、そこに私たちを他者と区別するだけでなく、私たちが天の父の子であることを宣言してくれる確かなしるしを発見することができますように!


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