「空の鳥 野の花にまさりて」 ルカの福音書12章22~31節
「いかに鳥は、手許にゆるされてあるもので生きていることか。いかに鳥は、その貧しさに必要なだけのわずかのもので生きていることか。いかに必要な程度のもの以上をとろうとしないことか。これに反して人間は、食べることや飲むことに心配ばかりしている。厚かましくも、とてつもなく豊かな貯えを持ちたがる。そしてそれゆえにこそ、神の豊かな世界に飢える者がいる。人間は不安や心配が先立つあまり、コップ一杯の水で間に合うはずのところ、海をその手中にしないとおさまらない。空の鳥を見るがよい。神は鳥をわれらの教師としておたてになられた。」(キルケゴール) 今主イエスは、空の鳥、野の花を教師として、私たちに何を語ろうとしておられるのでしょうか。主イエスは、「あなたは何かと言えば、自分のいのちのことで心配し、思いわずらっている。しかし考えてみなさい。あなたはどのようにしてそれを得たのか。いのちはどこから来たのか。」と、問われます。勿論答えは、「それは神の賜物なのです。」人間はいのちを創造できません。いのちそのものが神の賜物だからです。そうであるならば、今になって神が突然そのいのちの維持、継続にみこころを向けて下さらなくなるということは、どうしてあり得ましょうか。神はご自身の方法で、人のいのちを維持して下さいます。ですから私たちはそれについて、少しも思いわずらう必要はないと、主イエスは言われるのです。神学者カルヴァンは「キリストは彼の民たちに思い煩いをすべて神に委ねることを教える以外の何物をも求められなかった。」と言いました。もし、全てが神のものであるなら、思い煩いも神のものであるはずです。ですからペテロは「あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神はあなたがたのことを心配してくださるからです。」(ペテロ第一5章7節)と語りました。思い煩いは神の領分だというのです。したがって私たちが思い煩うならば、それは自分の領分を越えて、神の領分に入り込んで心配しているのです。「思い煩いを神にまかせなさい。」
「祝福と罪の系図」 創世記5章1~32節
人間の歴史はアダムとエバによって始まり、人間の性質はカインの流れと(創世記4:16~24)、セツの流れ(創世記4:25~5:32)の2つの流れによって展開していきます。創世記5章では、「神から離れ去った」カインの系図に終止符を打ち、セツによる新しい信仰の系図を紹介しています。カインが見せる不信と殺人という罪悪の中で、セツの系図の登場は人類に新たな希望を見せてくれます。では系図にある、その名を残すそれぞれの世代を代表する人々が、熱く語っている共通のメッセージとは何でしょうか。それは2つの文章で言い表すことができます。 その一、「それでもなお祝福の中に生かされる人間」 神にそむき、罪を犯したにもかかわらず、それでもなお神の祝福の中に生かされている人間。人はみな「神の像」を持っています。それゆえ人間は神の赦しの中で、祝福を与えられた命を受け継いでいくのです。それが人間の歴史なのだと、この系図は私たちに語りかけているのです。 その二「それでもなお罪の中に生きる人間」 5章の系図は神の祝福だけを受け継いでいるのではなく、罪を犯す「人間の像」も受け継いでいるのです。その結果、神の祝福の中に命が受け継がれた人々は世界中に増え広がってはきたけれども、アダム以来の罪の性質もまた受け継がれて世界中に増え広がっているのです。このように光と闇、祝福と呪い、命と死を告げる5章の系図は、ノアとノアの子孫たち、セムに続きアブラハムに至る系図に繫がります。そしてそれは新約聖書のマタイの福音書1章1節の「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」に繋がるのです。マタイはアブラハム以来の長い歴史を14代づつ3つの時代に区切って、ついにイエス・キリストに行き着く系図にしています。そしてこのイエス・キリストを信じることができた時、私たちはあのエノクのように、神と共に生きる者とされるのです。そして「神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」(創世記5:24)とあるように、神と共に死にゆく者ともされるのです。
「いのちの拠りどころ―信・希・愛―」 マルコの福音書5章21~43節
「人間は考える葦である」――あまりにも有名なV.パスカルのことばです。が、どんな意味なのかとなると、あまりよく分かっているとは申せません。本来は「人間は一本の葦、自然の中でもっとも弱いものにすぎない。だが、それは考える葦である。」の短縮形です。そして、続きの文の中に「わたしたちの尊厳のすべては、考えることのうちにある。」という重要なことばがあります。“尊厳”にあたるフランス語のdignité(ディニテ)は、“値打ち”“あたい”あるいは“存立の拠りどころ”といった意味をもちます。人間が人間として“ある”、“立つ”という存在の拠りどころについて述べられている文です。 私たちには、人間として生きるうえで“拠りどころ”が必要です。パスカルは“考える”ということと結びつけましたが、人とは何ものだろうか、人として何を拠りどころにすればいいのだろうか、真摯に考えるということなのでしょう。それは何でしょう。〈信じるものがある〉〈望みを持ち続ける〉〈愛され―愛す〉――信仰と希望と愛をよりどころに聖書を通して考えてみたいと思います。
「愚か者の説教」 ルカの福音書12章13~21節
人はみな貪欲のとりことされる危険を持っています。「貪欲」という言葉の原語の意味は、「もっと欲しいと思う心」です。あり余るものを持ちながら、なお欲しいと思う心です。しかしながら「もうこれ以上たくさん」と思えるほど、満足し切って、あり余るものを手に入れたということで、いのちを生きることができるでしょうか。命というのは、「「私たちの持ち物」が「有り余る」ほど豊かになることの中にはないと、主イエスの言葉が、ここで一挙に現代的な響きを持って、私たちに迫ってまいります。(ルカ12:15)そして、このことを分かり易くさせるために、あの有名な「愚かな金持ちのたとえ」を、主イエスは語られたのです。 さてこのたとえ話の金持ちは、「さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」(ルカ12:19)と自分の魂に語りかけています。この「楽しめ」という言葉は「大いに喜べ」とも訳すことができます。「大いに喜べ」。そうです!彼は今、自分の魂に説教しているのです。救いのメッセージを語っているのです。福音とは喜びの知らせです。「大いに喜べ、わが魂いよ!安心するがよい。」彼は自分の魂にこのように福音を語ったのです。「これで私は救われた。これで不安、悩み、恐れから解放され、安心して私は生きていける。」彼はそう救いの確信を得たのです。しかし主イエスは彼に「愚か者」と厳しい言葉を投げかけられました。問題はこの男が自分に語りかけた説教に、本当に救いがあるかということです。今夜その男が死ぬ。その死ぬ男が一生懸命財産を蓄えてどうなるのか。その視点がこの説教からは、抜け落ちている。だからこの金持ちは「愚か者」なのだと主イエスは言われるのです。ですから私たちは、本日の最後の聖書箇所になる主イエスの言葉「神の前に富む」に注目しなければなりません。それは主イエス・キリストが貧しくなられて、私たちをあがないとって下さった救いの宝。そのことを信じることこそ、真の富であります。ですから私たちはその事のゆえに神を喜ぶことができるのです。まさに神の前に立ち得る豊かさであります。
「この方を恐れなさい」 ルカの福音書12章1~12節
「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。」(ルカ12:4)これは有名なみ言葉です。どんなに迫害者が死をもって脅かしてきても、彼らは肉体の命を殺すだけで、魂の自由を左右することはできません。確かにここには、殉教の死を迫られた者に対する最後の慰めと励ましとがあります。またこのみ言葉から「信仰の自由」という、近代政治の知恵も生み出されてきました。今イエスは、「この方を恐れなさい。」(ルカ12:5)というみ言葉を中心にして、前後に「恐れてはいけません。」(ルカ12:4)「恐れることはありません。」(ルカ12:7)という言葉を、3回繰り返されます。その意味は、神を恐れるということを知っている人間は、神以外のものは何も恐れることはなくなるということであります。一方神を恐れない人間は何も怖がっていないかというと、実にさまざまなものを恐れながら生きているのです。神を恐れることを怠る罪と、恐れなくてもよいものを恐れる、臆病の罪とが重なり合うのです。その最もあらわな姿で見えてくるのがパリサイ人であったのです。神を恐れず、人目を気にしながら生きているパリサイ人は、「偽善者」として主イエスから批判されました。そしてパン種のように、それはたやすく増え広がり、私たちの信仰を毒してしまうから気をつけなさいと言われました。信仰はたやすく偽善に陥ります。それはいつの間にか神が問題ではなく、人間が、人目だけが、問題になります。しかし主イエスは、「人間そのものを恐れるな。人間が奪えるのはせいぜい、あなたがたの体だけではないか。なぜそれを恐れるのか。彼らはあなたがたの魂を殺すことができないのだということを、よく知りなさい。」と言われるのです。これは励ましの言葉であります。私たちに勇気を与え、慰めてくださるお言葉なのです。その主の慰めを聴き取る人は何と幸いな者でしょうか。
「主の御名を呼び求めて」 創世記4章23~26節
「その時、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」(創世記4:26)人間は悪の行き着くところまできて、やっと主を礼拝し、主の御名を呼び始めたのです。何と長い時間が必要であったことでしょうか。創世記4章は、カインの弟殺しから始まった人間の罪の姿を描いております。そのもっとも如実に示されているのが「レメクの歌」と呼ばれる23~24節に記されている歌です。彼は上機嫌で歌うのです。「俺は傷を負わせた奴には、殺しで報いてやった。どうだ凄いだろう。ちょっとでも俺に刃向かう奴は、情け容赦なく切り捨てる。そうすれば皆が俺様を恐れて、逆らう奴はいなくなる。」と。このように創世記4章は、人間が作り出す長い歴史の実相をずばり描き出しているともいえます。「神のように」自由に、「神のように」強くなりたくて、禁断の木の実を食べた、人間の行き着く先は、自己防衛から過剰防衛、ついには先制攻撃となるのです。人の悪意と殺意に怯えるだけのものになっていくのです。このような一連の出来事を、アダムとエバを全て見ていたのです。彼らは自分の子どもが自分の子どもを殺す様を目の当たりにした親です。彼らは加害者の親であり、また被害者の親でもあります。アダムとエバの悲しみは深いのです。しかし、全てが救いようのない絶望に終わるのではありません。彼らに「セツ」が与えられました。この命は神様が授けて下さったものだという思いが、その名前に込められております。さらに「セツ」に男子が誕生します。神様の支えなくして生きていけない命という意味を込めて「エノシュ」と名付けられました。こうして人間はここまできてやっと、主を礼拝し始めたのです。ここに来るまでにどれだけの命が犠牲になったことでしょうか。この人間の罪の歴史は、ついに神の子の命の犠牲に行き着くのです。その全ての様子を父なる神は見ておられ、愛する御子が殺される様を黙って見ておられたのです。この十字架の犠牲に神の圧倒的な赦しの愛を見て、自分の罪を悔い改め、主イエスを信じ、主の御名を呼び求める時、人は新たに生き始めることが出来、主を礼拝しつつ生きる命が与えられるのです。
「真の信仰の回復」 ルカの福音書11章45~54節
「あなたがたは、人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本もさわろうとはしない。」(ルカ11:46)この主イエスのことばが、律法学者たちを直撃します。律法学者は、自分の正しさについて確信がないとやっていけない仕事です。正しさの確信がなければ、教えることはできません。けれども主イエスが言われるのは、その自分の正しさで、人を苦しめていないか。人を押しつぶしたり、有無を言わせず抑えつけてはいないのか。これは人を指導するところで起こってくる、私どもの大きな過ちであります。そのように、人に重荷を負わせるような言葉を語って、人を正しい道に歩ませることはできないと、主イエスは言われます。だから、神の言葉を拠り所にして立つ律法学者が、人々に重荷を負わせ、自分の正しさ、正義感を満足させることぐらい、主イエスに我慢のならないことはなかったのです。主イエスはまさにその重荷を取ることこそ、ご自分の使命となさった方でした。そして私どもがすぐに思い出すのは、マダイの福音書11章28節の「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」という言葉です。主イエスは、私どもの重荷をおろさせるために、人となってこの地上に来られました。そして、すべての人の罪の重荷を十字架の上で負われました。ところが律法学者たちは、実に細かいさまざまな訓戒を重荷として負わせ、あなたも罪人、あなたも困った罪人だ、そう言ってその人の背中にある罪の重荷を、できるだけ増やそうとしたのです。そのため主イエスは真の信仰を彼らの手から取り戻そうとされたのです。律法学者、パリサイ人たちの形式化して、いのちを失った上辺だけの信仰、その宗教に攻撃の矢を放たれたのです。それはまた、「キリストのみ、聖書のみ、信仰のみ」を叫び戦った、あの宗教改革者たちの姿でもあったのです。
「この旅を続け行かん」 申命記8章1~10節
歴史は「回顧」と「展望」という、二つの視点を持っています。今イスラエルの民は、ヨルダン川を渡って約束の地に入るに際して、「この40年の間」(申命記8章2節、4節)のイスラエルの民の歴史を想起することが求められたように、守山教会も本日教会設立記念礼拝を迎え、49年間の教会の歴史を想い起こさなければならないのです。「あなたの神、主がこの40年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。」(申命記8:2)のです。その全行程とは、「あなたを苦しめて、あなたを試み」たという、苦しかった時のことを想起せよと主は言われるのです。守山教会はこの49年間の歩みの中で、さまざまな苦しみに直面しました。牧者を失い、羊たちは散らされ、教会存続の危機にも見舞われました。しかしそれはまた「この40年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。」(申命記8:4)とありますように、守山教会に示された神の恵み、守り、支え、導きの意味を知る機会でもありました。一方私たちは来年50周年を迎えます。新たに開かれ行く教会の歴史の展望に注視しなければなりません。それは神が与えて下さる祝福についての展望です。「あなたの神、主が、あなたを良い地に導き入れようとしておられる。」(申命記8:7)のです。その祝福の具体的な内容が、7節から10節に記されております。そのため、私たちに求められていることは、「あなたの神、主をほめたたえなければならない。」(申命記8:10)「あなたの神、主を忘れることがないように。」(申命記8:11)という神に賛美をささげ、礼拝に生きる神の民であることです。この姿勢をくずさず「主が賜った良い地」に向かっての旅を続けて、守山教会の歴史を書き加えて行きたいと思います。
「主とともに老いる」 サムエル記第一8章1~10節
「日本は超高齢化社会に突入しました。」と、2013年版「高齢社会白書」は告げております。65才以上の人口が総人口に占める割合は、2012年24.1%です。2013年中に4人に1人、2028年には3人に1人が高齢者になる事態が予測されています。老いていくことを、老年医学では弱々しくなるという意味で「虚弱化」と呼んでいます。この「虚弱化」は肉体の衰えと疾病、そしてストレスが組み合わされ、日々目に見えないところで進行していくのです。 本日の聖書箇所は、老年期を迎えたサムエルが、息子たちの問題による(サムエル第一8:3)慢性ストレスと、60年以上もイスラエルを導いてきた職務から引退するよう言われ(サムエル第一8:5)急性のストレスに直面しておりました。サムエルは士師のギデオン、祭司のエリのように、子供の教育には失敗しました。サムエルは息子たちに日々悩まされ、そのことでストレスがたまり、弱々しくなっていき、さらに王を求める民の声が強まって、第一線から退きます。こうした一連の事態に直面して、サムエルはどのような態度で臨んだのでしょうか。サムエルはそれらすべての問題を神のもとに持って行ったのです。「そこでサムエルは主に祈った。」(サムエル第一8:6)のです。サムエルにとって、老年を迎えての、もう一つの困難な問題は、いかに新しい時代の要求に順応するかという点にありました。彼は引退をせざるを得ませんでしたが、後輩を教えるという働きに於いて主に仕えました。「私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。」(サムエル第一12:23)このようにサムエルは、公務から引退することにより、これまで得られなかった祈りと教育の良い機会に恵まれて、以前にもまして、よき業を、その民のために成し遂げたのです。
「偽りなき真実に生きる」 ルカの福音書11章37~44節
食卓。それは人と人の関わりが最も深い場所、その発見の場であります。共に食卓を囲み、そこで人は心を開き、その心が明らかになる場であります。今、その食卓の場で主イエスは、あえて「きよめの洗い」を行わないことによって、一つの重大な事実を明るみに出そうとしておられます。パリサイ人や他のユダヤ人は、昔からの伝統を固く守って「きよめの洗い」をしてから食事をします。その伝統を破った主イエスにパリサイ人は驚いたのです。そのパリサイ人たちを主イエスは「愚かな人たち」(ルカ11:40)と呼んでおられます。彼らの「愚かさ」とは、知識はたくさん持っていても、自分の意見を持っていない。従って判断力がない。みんなが守っているから、私もそのようにするとしか考えられない程度の人たちなのだと言われるのです。ではなぜ主イエスは食前の「きよめの洗い」を守らなかったのでしょうか。なぜキリスト教徒は、「きよめの洗い」を気にしないのでしょうか。それは内も外もきよいものにされたからです。「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。」(テトス1:15)これが主イエスが教えて下さったキリスト教の原則なのです。私たちは内側も外側も一体のものとして、神から造り直された神の作品であり、外側からでも愛の人であるということが分かるような、内も外もキリストの香りを放つ証人として生かされているのです。今主イエスはパリサイ人と食卓を共にしながら「どうぞ早くあなたの内側にある汚れに気づいてほしい。自分の愚かさに気づいてほしい。」と招いておられるのです。「そうすればいっさいが、あなたがたにとってきよいものとなり、もう何がきよいか、きよくないか、びくびくして生きる必要はなくなるのです。あなたの存在のすべてが神に造られ、神の愛の中に支えられいるのだから。その神を礼拝し、その神に栄光を帰すること、そこにあなたの生きる姿がある。」とパリサイ人にそして私たちに語っておられるのです。