「整えられる教会」 使徒の働き6章1~7節
産声を上げたばかりの子どもが、産着でただそこに寝かされているように、最初の教会も、イエス・キリストを信じた人々が、ただそこに集っているだけでした。しかし信仰のいのちは躍動しておりました。けれども教会としての整えられた姿はありませんでした。赤ちゃんが産着から、成長と共に体に合わせて、外側の服装を変えていくように、教会も年数を重ね、人数が増えるに従って、教会内にいろいろな問題が生じてまいります。その都度教会は、試みの中で成長し、しかるべき組織や制度がつくられ、教会としての姿が整えられていったのです。その最初の教会の姿が本日の聖書の箇所です。事の始まりは食料の「毎日の配給で」(使徒6:1)苦情を申し立てる人が出てきました。「喜びと真心をもって、食事をともにする」(使徒2:46)ような交わりを続けてきたはずのエルサレム教会が何と実につまらない「食べ物」の分配のことで、教会は分裂の危機に直面したのです。しかしこの問題の背後には、エルサレム教会がかかえていた、ある深刻な問題がありました。それは「ギリシャ語を使うユダヤ人」と「ヘブル語を使うユダヤ人」との間にあった対立でした。両者はユダヤ人であることと、ユダヤ教徒であることは同じでも、日常語の違い、生活習慣や思想、信仰理解でも違いがあったのです。この二派の対立は、信仰論や神学論、礼拝論や教会論のような本質的なことから問題が表面化したのではありません。たかが食料の分配のことでした。しかしこのままでは、命取りになるのです。ではエルサレム教会はこの問題についてどのように対処したのでしょうか。12使徒たちは、本来の職務である、神の言葉に仕えることが、後回しになり、日常の雑用、用務に追われているのは、神の目から見ても好ましいことではないと判断し、この問題の処理にあたる7人を選びました。こうして教会の中に初めて、ある目的のために「職務」が生まれたのです。こうして教会は使徒たちが、御言葉に仕えることを何よりも優先する体制を整えたことにより、「神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。」(使徒6:7)のです。こうして主の教会は試みの中で整えられつつ、成長をしていったのです。
「証人」 マタイの福音書16章24~27節
ある日、イエス様は弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。と十字架の道とご自身に従う者にもその道があることを教え始めました。弟子達はイエス様の力による奇跡と働きを見て、これから新しい時代が来ると思い、自分たちの人生にもすばらしいことが待っていると期待しました。彼らはそんなことなんて夢にも見ていませんでした。 イエス様は私たちの罪のため、十字架で、私たちが、本来受けるべき全ての裁きを受けました。イエス様の十字架によって、私たちは罪から解放され、永遠の命を得るようになったのです。イエス様を主と告白した瞬間、私たちはあの十字架でイエス様と共に死んだのです。昔の自分は死んで、今はイエス様が私たちの内に生きているのです。それを覚えるために自分の十字架を負うのです。 弟子たちは復活のイエス様と出会った後、彼らの生き方は完全に変わりました。弟子達はイエス様を証した理由で多くの苦難と苦しみを受け、命の危険にも沢山会いました。それは人々に「自分の罪から悔い改めなさい」と教えることであり、神様の国の到来を宣言する生き方であったからです。人々はそれを喜んで受けることより、むしろ迫害しました。しかし、彼らはそれを恐れることなく喜んで、その道を最後まで走りました。多くの信仰の先輩達や日本もキリシタン時代、多くの人々が 信仰のために命を捨てました。彼らも私たちと同じく命は一つであったのに、なぜでしょうか。それは「肉は滅びますが、永遠に滅びることない神様の国」に対する希望があったからです。この地上の営みが終わると報いを与えて下さる神様に対する信頼があったからです。それが、十字架の道です。その十字架の道の終わりにはイエス様が待っています。イエス様は優しい声で、私たちにこう言ってくださるでしょう。「ご苦労様、よくやった、忠実な僕よ」と。
「輝かしい主の御業」 ルカの福音書13章10~17節
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。」(詩編46:10)「静まって」とは「やめよ」という意味で、自分の活動を神の前にやめるということです。中世の人々はここに余暇(レジャー)の本質があると考えました。神の前に神と共に憩う、そして自分と世界とを見つめ直し、永遠の神の前に自分自身を取り戻すこと。従って余暇とは礼拝と深く結びついた行為なのです。礼拝とは、神を喜ぶ聖なる時であります。6日の間、世界を造られ、7日目に世界をご覧になり、「はなはだ良かった。」と祝福された神。静まって世界を見つめる神がそこにおられます。しかもこの日、7日目、神は決して遊んではおられません。6日間の業とは全く違った仕事をしておられます。それは「祝福」と「聖別」です。「祝福」とは、神の創造の御業をほめ、喜びを共にし感謝することです。「聖別」とは、神とのかかわりを持ち、神に献げられることです。そして、真の安息日(礼拝)は、この二つが欠けては成り立ちません。本日の聖書の箇所は、まさに、主の日の礼拝の意味が問われている箇所です。 主イエスはある会堂で教えておられた時、18年間も腰が曲がったままであった女を見て、「あなたの病気はいやされました。」と言われました。「あなたはすでに病気から、もう自由になっている。あなたを18年間捕えてきた病気からは、もう自由です。」そう宣言されたということです。ここにすでに神の支配、神の国がこの女の内側に訪れているのです。しかしこの出来事が会堂管理者との論争になりました。問題は女は自分の身の上に現わされた、キリストの輝かしい御業を通して、神の支配が始まっていることを知り、神をあがめたのに対し、会堂管理者がその事実を見ようとしませんでした。女は主イエスの前に居ました。そして主イエスは、この女に手を置かれました。会堂管理者は何を見ていたのでしょうか。私ども自身も失われた者でありました。体は健康であっても、心は曲がり全く伸ばすことが出来ない者です。その私どもに主イエスは声をかけて呼び寄せてくださり、手を置いてくださいました。「神の訪れの時」は、この私の身の上にも実現したのです。この悔い改めと主イエスのなさった全ての輝かしい御業を知った時、私どもは真に神を礼拝するものとされるのです。
「主の愛と恵みの力」 創世記6章1~8節
「あなたは、いったいなんということをしたのか。」堕落後の人間を描く創世記の各章に、通奏低音のように流れる、神の嘆きの言葉です。(創世記3:13 創世記4:10)人間は「神の像」を受け継ぎ、同時に罪を犯す「人間の像」も受け継ぎました。神の祝福の中に命が誕生し、その命は受け継がれ人は増え続けます。けれどもアダム以来の人間の罪の性質もまた受け継がれ広がっていくのです。その状況を6章は「主は地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(創世記6:5)と描き、「それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」(創世記6:6)と記します。6章は「あなたは、いったいなんということをしたのか。」という、この言葉を、神の後悔と心痛として表現します。神さまは人間を見ながら、悲痛な嘆きをあげておられるのです。そしてその都度、人を裁かれます。しかし神の裁きには、必ずその救いが隠されているのです。それがノアを通して具体的に示されていくのです。そしてその救いは、イエス・キリストが十字架にかかり、殺されるという姿において、私たちに与えられたのです。それは、心に思い計ることが非常に悪いことばかりの、人間の罪に対する裁きを、主イエスが身代わりになって受けられたことを意味します。しかも「わが神、わが神なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)と叫ばれた言葉にあるように、主イエスは、神に見捨てられたのです。罪なき神のひとり子が神に捨てられたのです。見捨てられる罪人の罪が赦されるためです。その時、「あなたは、いったいなんということをしたのか。」という言葉は「神よあなたはいったいなんということをされたのですか。」という、神への驚きと感謝の言葉となって変えられていくのです。
「悔い改めの実」 ルカの福音書13章6~9節
来年は 伐ると決めし木 帰り花 「帰り花」とは冬の季語で、時期はずれの花のことです。咲き残りの花が開花する場合と、春に咲くべき花が開花する場合とがあります。伐られるとわかっている運命で、せめて最後の花を咲かせて終わりたい、あるいはまだまだ花を咲かせる命はある。出来ることなら残してほしいと願って、一輪咲かせたのか、読み手の受け取る心によって、正反対の意味になります。しかし主イエスが語られた、たとえ話に登場するいちじくの木は、一年後に伐り倒されると決まっているのに、その木が実を結んだか、そうでなかったのか全く明らかにされないまま終わっております。最後の結末が何一つ書かれていないのです。何故なのでしょうか。一般にたとえ話には「だから」というまとめや、適用を示す言葉があるのですが、このたとえ話にはそれがないのです。従ってそのことは、このたとえ話の中心点が結果に置かれているのではなく、番人の言葉そのものにあることを示しています。もう一年悔い改めの時を延期してほしいと願う、番人の言葉とその存在に驚きの目をもって注目することが求められています。そして実を結ばない、いちじくの木に対して、特別な手立てを尽くす番人の姿に、明らかに主イエスの姿が見えてきます。神は主イエスを通して、すでに定められた裁きを覆し、もういちど悔い改めの機会をお与えくださいました。そのために考えられないほどの憐れみの手立てを尽くそうとしておられる方だということが見えてきます。主イエスがしようとされていることは、そのような悔い改めへの招き、異常といえるほどの愛の招きだったのです。そしてこのたとえ話の結論は、私たちの手に委ねられており、私たちが自らの責任において、実を結んだのか、やはり伐り倒され悲惨な裁きを受けたのか、この結末を書き記さなければならないのです。
「悔い改めへの招き」 ルカの福音書13章1~5節
3月11日という日付は、東日本大震災という、地震、津波、原発事故の三重の惨事に見舞われた出来事と固く結びついて、決して忘れることができない日付です。あの時、私たちは、なぜそのような不幸な事件が、この世の中に起こり、なぜそのような大災害になったのか。後からどう説明しても、この深刻な問題を前にして、茫然と立ち尽くすだけでした。それと同じニュースが、神の審きを語る主イエスのもとに届いたのです。ガリラヤからの巡礼団の何人かが、エルサレムの神殿内でピラトの兵士たちによって殺され、その血が彼らが献げようとしていた、犠牲の動物の血に混ぜられたのです。さらにシロアムの塔の崩壊という、突然の事故によって18人が死んだというのです。前者はある程度予測され予期された人災であり、後者は全く予期せぬ不慮の事故で自然災害でした。しかし主イエスはこれらの出来事について、その意味を分析したり、説明したりはなさいませんでした。ただ結論のことばとして「わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」(ルカ13:5)と言われるだけです。この言葉は主イエスにとっては大切な言葉でした。3節、5節と繰り返し語られた言葉です。ここで主イエスは私たちに180度の転換を求めておられるのです。それは「いのちに至る悔い改め」と言うことができます。「悔い改め」は神の贈り物です。永遠のいのちを保証する霊的な恩恵の一つです。それは神の驚くべきあわれみです。そのため神は、そのひとり子イエス・キリストをその使節としてお送り下さり、人々に悔い改めて信じなさいと呼びかけ、彼らを神のもとに導くために骨折って下さいました。その主イエスの究極の姿がキリストの十字架だったのです。
「自分の前に神を置いて」 詩編54篇
詩篇54篇は、王となる前のダビデが当時のサウル王から追い詰められ、危機一髪の状況で詠まれたとされる詩篇です。前半には、その心境の必死さが滲み出ています。「お救いください、弁護してください、聞いてください、耳を傾けてください」と祈願が四つ続くのです。 しかし、後半は調子が一変します。この飛躍・変化のきっかけは、3節「彼らは自分の前に神を置いていないからです」でしょう。神への恐れがないと非難した後、果たして自分は神を前に置いていると言い切れるのかと自省したのではないでしょうか。それが、4節「まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。」へと通じたのです。神は、大声で祈らなければ助けてくれない方ではない。私のいのちなど構われない方ではない。悪を必ずや正しく裁かれ、報いられるお方。そう思い至ります。6節の「進んでささげるささげ物」も、感謝や誓願といった条件なしに、進んで神への賛美と献身を表すささげ物です。自分の置かれた状況の解決、改善以上に、無条件に主を主とする者の、揺るがない思い、献身をよしとするのです。 キリスト者が「ノンクリスチャンは本当の神を知らない」と批判するのは簡単です。けれども私たちは、真の神を知り、恐れる者としての心を戴いているでしょうか。イエス様は、世にあっては艱難があります、と断言されました。病気や別れ、暴力や孤独、様々な災いの中で、勇気をもって歩ませてくださるのが、主イエスです。 ダビデと同様、自分の中にある様々な感情-傷、妬み、訴え-を明るみに出して祈りましょう。立派な祈りや奉仕や伝道、成功や勝利よりも、心の深いところで主と出会い、傷や罪や弱さを抱えた自分と、主が共にいてくださる幸いを求めましょう。祈っても、ひどい状況は変わらず、また自分自身の罪や歪みも変わらないとしても、主に深く祈り、主との間に本心をさらす交わりに生き始めることが、大切なのです。
「慰めの子―ノア」 創世記5章28~32節
人間の一生は、最終的には二つの言葉で言い尽くすことができます。その言葉とは「生」と「死」です。「私は、主によってひとりの男子を得た。」(創世記4:1)という、人類最初の母の喜びの声を耳にし、それに続く10人の父祖たちの名が記されたこの系図は、「息子、娘たちを生んだ。」という「生」の言葉と「彼は死んだ。」という「死」の言葉が、織り合わされ、単調な響きをもって何度も繰り返し記されております。すなわちこの系図は、人間の生誕の記録だけではなく、死の記録でもあるのです。今や私たちは、この系図を通して、人間の本質的な姿、「われわれは生まれ、そして生きる者。」であることと、「われわれは必ず死ぬ者。」であるという、この二つの事実の前に立ち尽くすのです。その系図の最後に登場する「ノア」は、名前の意味するところの「安息」「休息」「慰め」の子として誕生します。しかも「ひとりの男子」(創世記5:28)として、特別な期待、特別な喜び、特別な意味の男子として生まれたのです。そしてこの「ひとりの男の子を生んだ。」(創世記5:28)という言葉と、「この子は慰めを与えてくれるであろう。」(創世記5:29)という言葉は、重要な意味を持って私たちに語りかけます。何故ならこれらの言葉は、将来、神のひとり子として来られる、イエス・キリストを予表するものだからです。あのイザヤが「ひとりの男の子が私たちに与えられる。」(イザヤ9:6)と預言し、ヨハネが「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに…」(ヨハネ3:16)と語った言葉につながり、「慰め」はイザヤ40章1節の「慰めよ。慰めよ。わたしの民を。」のメシア預言に結び付くからです。ノアは堕落した人類を洪水によって滅ぼされる神の裁きの中で、神に従順に従い箱舟を備えることによって、その家族たちに救いと安息を与えるという、自らの生き方を通して人類に真の休息と慰めをもたらす、イエス・キリストを私たちに指し示したのです。
「今のこの時代を見分ける」 ルカの福音書12章54~59節
恒例となりました日本漢字能力検定協会が、その年の世相を一字で表わす漢字が、2013年は「輪」に決まりました。17万票の応募の中から最高票を集めての選出でした。日本全体が輪となったチームワークで、東京五輪、富士山の世界文化遺産登録の決定、台風や豪雨などの災害で、支援の輪が広がったことなどが選ばれた理由でしょう。では私たちは、この時代をどのように見分けたのでしょうか。今主イエスは、私たちに「どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。」と問いかけられます。私たちは天気予報がなかった頃も、今予報が毎日的確に報道されている時も、天候の移り変わりにいつも注意を向けながら生きてきました。主イエスが言われるように、地や空の現象を見分ける判断力が身についています。それなのに「どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。」また「なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。」と主イエスは問いかけられるのです。「今のこの時代」とは、主イエスが今ここでこの話をしておられる「この時」です。私が今、ここにあなたの救い主として来ている。それが『今のこの時代』なのだと言われるのです。「この時代」に火を投じるために来ている。そして、このように神の御業、その支配について語っている。これがいかなる「今のこの時代」を意味するのか、あなたがたは、そのことを見分けることができますか。正しい判断をして、正しい自分の生き方をすることがきでますか。主イエスはそう言われるのです。それはまた私たちが、神の最後の審判への「途中」「途上」であるということです。そのような今、この時、私たちの救い主としてこの世に来てくださった主イエス・キリストによって、罪赦され、神と和解しないなら、あなたはどうなるのでしょうか。私たちは天候については予報士に委ねるとしても、このキリストの救いの恵みについての判断だけは、自分から進んで正しい決断をすることができるように、福音の真理にしっかりと立ち続けましょう。
「いのちの設計図」 ルカの福音書2章22~38節
今年の1月、NHKテレビが「終の住処はどこに―老人漂流社会」という、特別番組を放送しました.もはや自分の老後を自らの手で選べなくなってしまった高齢者たちが、病院や施設を転々とする「老人漂流社会」。「死に場所」さえ持てずに、老後の居場所を転々とせざるを得ない「孤立する高齢者社会」。誰もが例外なく「漂流」する可能性がある現代社会の暗部を描いた、衝撃的な番組でした。この番組の中で「普通に生きてきて、最後何でこんな人生になったんだろうね。」と力なくつぶやいた、ある男性の寂しげな表情が心に残ります。放送後、「他人事ではない。」という感想が、多く寄せられたとのことでした。この番組が訴えていることは、元気なうちに自分の老後の「いのちの設計図」を描いて欲しいということです。 さて本日、ルカのクリスマス物語に登場する二人の老人、シメオンとアンナの存在に注目しましょう。死に直面した人の心を最も苦しめることの一つは、「果たして自分の人生に意味があったのか。」という問いであります。この問いに「はい」と答えることができた人、それがシメオンでありアンナでした。シメオンは、「主のキリストを見るまでは、決して死なない。」(ルカ2:26)という「いのちの設計図」を持っていました。彼はその希望と神の約束に信頼しながら生きてきました。そして主のキリストを見た時、「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。」(ルカ2:29)と、言い切ることができました。老婦人アンナも、神に仕え幼子イエスを救い主として信じることができ、神に感謝しつつ、主イエスのことを語り、老いの日々を生き切りました。今私たちはどのように生き、どのように最後を迎え、そして死を迎えるのか。その時私たちは、シメオンやアンナの「いのちの設計図」に学ぶものがあることを思い起こしたいのです。