礼拝メッセージ要旨

2月8日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「この方にあって」           エペソ人への手紙1章11-14節

前回、私たちは「天にあるすべての霊的祝福」について考えて見ました。それは神様の選びとご計画、贖いと罪の赦し、あらゆる知恵と思慮深さでありました。神様がこの世を造られる前から私たちをお選びになることを定めておられ、そのご計画がイエス・キリストの贖いによって実現され、私たちにあらゆる知恵と思慮深さを与えて下さって分かるようにしてくださったということです。本日の本文も続けて、パウロは神様のご計画とあらかじめ定めておられたことが成し遂げられることについて説明していますが、霊的祝福がどのようにユダヤ人と異邦人に与えられたのかについて語っています。

まず、パウロは「私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました」と言います。罪人である私たちは、そのままであれば御国に入ることができない存在です。ところが、そんな者であるのに「御国を受け継ぐ者とも」なったということなので、どれほど励ましになるみことばなのかと思います。私たちのこの世での人生が苦しみや辛い事、そして失敗だらけのものであるとしても、神様によって御国を受け継ぐ者になったということです。それも神様があらかじめ定められたと言います。そして、その目的は「神の栄光をほめたたえるため」なのです。それを定められた方も、計画して実現される方も、そして目的も神様であります。クリスチャンの人生は、神様がすべてご計画の中で導いて下さるという事をしっかりと覚えたいと思います。

そして、このような神様のお選びとご計画は、ユダヤ人だけにではなく、異邦人にも与えられていると言います。当時のユダヤ人と異邦人というのは、水と油とのような関係であって、間に越えることのできない隔てがありました。そのような関係が、キリストにあって「私たち」という一つとなり、共に神様の栄光がほめたたえるためという一つの目的に集められたという事を覚えたいと思います。キリストに望みを置いて、ご自分の目的に従って私たちを選んで下さった神様をほめたたえる、そのお方に感謝する者になりたいと思います。

2月1日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「水がめを満たしなさい」           ヨハネの福音書2章1-11節

聖書を見ますと、イエス様がおられるところでは小さい問題であろうが大きい問題であろうが、それが解決されました。今日の本文でもイエス様によって問題が解決された事を見る事が出来ます。

イエス様は弟子たちとともにガリラヤのカナという町の婚礼に招かれて行かれました。そこには母のマリヤもいましたが、婚礼の宴会の途中にぶどう酒がなくなり、マリヤはそれをイエス様に話しました。その後、イエス様は、母マリヤに不思議な事を言って、水をぶどう酒に変える奇跡を行います。これはイエス様が行われた最初のしるしと書かれていますが、この出来事の中に含まれている教えは何か、考えて見たいと思います。

一つ目は「足りない事を知った時、神様に求めなければならない」という事です。マリヤは、ぶどう酒がなくなった事を知って、それをイエス様に話しました。そして、「あの方が言われることを、何でもしてあげなさい」と手伝いの人たちに言いましたが、それはイエス様がその問題を解決して下さるという確信をもっていたからです。

二つ目は、どんなに理解できないことであっても、そのまま従わなければならないということです。マリヤに命じられた手伝いの人たちは、イエス様に言われた通りに水がめに水を満たした時、水がぶどう酒に変わる奇跡を見ることが出来ました。イエス様の話しを聞いた手伝いのたちは、水を適当に入れたのではありません。そのかめの縁までいっぱいにしました。それはイエス様の言葉にただ従ったということです。

私たちの人生には、色々問題があります。ある時は、想像もしなかったことが起こり、四面楚歌のような状況に陥る時もあるかもしれません。しかしどんな時でも、それを十分に解決してくださる力が神様にあるという確信を持たなければなりません。そして、それとともに神様のみことばに従わなければならないのです。私たちの目の前の問題だけを考えるのではなく、神様を信じ、神様に従う者になりたいと思います。

1月25日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「知恵と思慮深さ」              エペソ人への手紙1章7-10節

パウロはイエスキリストの中で私たちに与えて下さった、天にあるすべての霊的祝福を覚えて神様を賛美しています。その賛美の中で、強調点が天から地へ、過去から現在へ、父なる神様からみ子キリストに変わります。

先ず、パウロはイエス・キリストの血による贖い、罪の赦しを受けていると説明します。「贖い」とは、代価を払うことによって解放されるという意味です。そしてその為に払われた代価は、キリストが十字架で私たちの為に死なれた時に流された血であります。すなわち、キリストが血を流して下さった事によって、私たちは贖われて、罪の赦しを受けているということです。パウロは、これが現在の出来事であることを強調しています。というのは、イエス・キリストの血による贖いの出来事が過去の思い出でもなく、またはるかに遠い将来の希望の意味でもないということです。今の私たちが持っていて、受けている神様の霊的祝福であるという事です。そして神様の豊かな恵みはイエス・キリストによる贖い、罪の赦しとともに、これを理解することが出来るあらゆる知恵と思慮深さをも信者に与えて下さいます。このような知恵と思慮深さは、人間の努力によって得られるようなものではなく、神様が豊かな恵みによって私たちに溢れるように与えて下さるものです。そしてその知恵と思慮深さを与えて下さるのは、神様のみこころの奥義を教えて下さる為であります。

神様はあらゆる知恵と思慮深さを持って、ご自分のみこころの奥義を教えて下さる為に、私たちに溢れるように恵みを与えて下さるお方です。パウロは、このような神様の豊かな恵みを覚えていたので、状況に絶望する事ことなく、その状況で神様の恵みに感謝しながら賛美する事が出来たのです。私たちもパウロのように、現実の難しさや苦難等で失望したり、落ち込んだりするのではなく、神様が私たちに与えて下さる恵みを覚えて神様を賛美し続ける者になりたいと思います。

1月18日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「霊的な祝福」            エペソ人への手紙1章3-6節

パウロはローマで牢屋に投獄された状況でこの手紙を書きました。しかしそのようなパウロが挨拶の後、最初に話したのは「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。」ということです。そしてその言葉を始めて、一回も休まずに14節まで一気に神様の恵みとそれに対する感謝を表しています。3-14節は、新約聖書の中で一番長い文章であって、とても力強くて生々しい表現で神様を賛美しているのです。

パウロは、たとえ牢屋に閉じ込められていたとしても、そのような自分の状況に縛られているのではなく、彼の内面には神様による喜びと感謝の告白でいっぱいになっていたのです。これが今日の私たちにパウロが見せてくれるクリスチャンの姿であると言えるでしょう。これが2節で言われているクリスチャンに与えられた「恵みと平安」であるのです。

どのようにして使徒パウロは獄中でも、神様からの恵みと平安で喜び、神様をほめたたえる事が出来たのでしょうか。それは、天にあるすべての霊的祝福というものがどういうものであるかを知っていたからです。そして、その霊的な祝福とは、この世界を造られる前から私たちを選んで下さったということです。そして、神様の御前で聖く傷のない者として下さるためであります。

私という存在は神様がお選びになるようなことは、何も持っていません。神様に選ばれるところか、むしろ自分の罪によって滅びる事が当たり前の存在でありました。しかし、神様はこのような私を選んでくださり、ご自分の子どもとしてくださる素晴らしい恵みを与えて下さいました。この霊的祝福は値なしに与えてくださる神様の恵みなのです。このような神様の恵みを覚えている時、私たちも神様を賛美せずにはいられません。パウロのように、私たちの状況、周りの環境、目に見える多くの苦難などがありましても、その中で神様に賛美をささげる者になりたいと思います。

1月11日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「私たちの自己認識」           エペソ人への手紙1章1-2節

エペソ人への手紙は、パウロの書簡の中で福音とその意味について驚くほど簡潔でありながらも包括的に説明しています。特に、父・子・聖霊の神様が私たちの救いにどのように働いて下さるのかを良く説明してくれます。また、救われた私たちが教会をどのように成しているのか、そしてその教会の特徴は何かということを詳細に教えている手紙であります。この短い手紙に、父なる神について、キリストについて、聖霊について、救いについて、教会について、聖徒の実践的生活について等、私たちの信仰生活すべてにおいて非常に重要な内容を扱っています。

今日の本文は、エペソ人への手紙の挨拶のところです。その最初の自己紹介で、パウロは自分を「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ」と紹介しています。パウロはこの手紙をローマの獄中で書きました。たとえ今、ローマで投獄された身分であっても、使徒として行なった事と、それによるすべての事は神様のみこころによるものであるという意味です。

そしてパウロはエペソの信者たちを「キリスト・イエスにある忠実な聖徒」と呼んでいます。「聖徒」ということばの聖書での本来の意味は「区別された群れ」です。それは神様がご自分のもの、ご自分の所有としてくださったということです。神の手に握りしめられて、神が愛する者になるという意味なのです。

神様は資格のない私たちを、ご自分の民として区別して呼んで下さり、私たちの計り知れない恵みを与えて下さいました。その神様の恵みに感謝し、その恵みを頂いた者として、神様に対して忠実である時、私たちの生活には喜びが満ち溢れると思います。それがパウロのように獄中にいる状況であるとしても、どんな苦難の中に置かれている状況であるとしても、私たちの中から喜びが湧き出る事を味わうことが出来ると思います。自分に与えられた状況が神様のみこころによるものであることを信じて、与えられた恵みを覚えて平安の中で忠実な者となるようにと願います。

1月4日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「イエス様に選ばれた者」          マルコの福音書3章13-19節


本日の聖書はイエス様が十二人の弟子たちをお選びになられる場面です。この内容を通して、イエス様が弟子たちをお選びになられる姿の中で幾つかの特徴をみることができます。イエス様が十二人の弟子たちを選ばれる内容と通して、何故私たちを選んでくださったのかが分かります。

その一つ目は、イエス様はご自分の望まれる者を選んでくださったということです。本日の本文と同じ内容が書かれているルカの福音書6章を見ますと、イエス様が弟子たちをお選びになられる前に山に行って、夜が明けるまで祈られたと記されています。それほど、イエス様は十二人の弟子を選ばれるのに慎重であったのです。しかし本文の16-19節にある十二人のリストを見ますと特別な人はいませんでした。けれども、イエス様は人々の外面的な条件やそれぞれの意志によってではなく、イエス様の権威とみこころとご計画に従って彼らを選ばれて呼び寄せてくださったのです。

イエス様が弟子たちをお選びになられた二つ目の特徴は、彼らに使命を与えて下さったということです。まず、イエス様は彼らをご自分の身近に置くために選んで下さいました。それは、イエス様とともに生活することを通して、イエス様が魂の救い主であられることを教えて悟らせるためです。そして彼らをお選びになられた最大の目的は、福音をのべさせるためです。永遠のいのちについて語ること、宣べ伝えること、これこそが選ばれた十二人の一番の使命でした。この福音をのべ伝える使命のために、悪霊を追い出す権威をも彼らに与えられたのです。

神様はみこころのままに私たちを選んでくださり、教会に呼び寄せてくださいました。それは神様の御恵みと愛によることです。そしてそれにはそれぞれに与えてくださる使命があります。私たちを選んでくださった恵みを覚えて、私たちに与えられた使命を忠実に果たす者になりたいと思います。

12月28日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神様の決算」                       マタイの福音書 25章14‐30節

毎年、この頃になるとその年の1年間を決算します。各新聞社や各地域によってそれぞれの10大ニュースを発表しますが、それを決める基準が少しずつ違います。イエス様は本日の聖書を通して、一年の終わりがあるように私たちの人生にも終わりがあるということを教えてくださいます。そして年末に決算があるように、私たちの人生も決算の時があるということを教えてくださいます。クリスチャンにも神様からの決算の時があり、その決算の基準も違います。本日の聖書の例え話を通して、神様の決算を待つ者として正しい生き方とその結果は何かを学べることが出来ると思います。

まず、私たちの人生は神様のものであり、私たちは神様から預かっている管理者であるということを覚えなければなりません。本文には、主人が自分の財産をしもべに預けたと書いてあります。主人が預けたというのは、それがしもべのものではないということです。しもべは主人のものを預かっているので、それを良く管理する管理者であるのです。二つ目に、管理者としてどのように生きて来たのかが問われるということを覚えなければなりません。神様は自分に与えられたものに忠実で真実な姿勢で生きていくものを「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と仰って下さいます。三つ目に、決算の結果通りにそれぞれの報いをもらうということを覚えなければなりません。主人から、あるしもべはほめ言葉と主人の喜びにともに喜ぶ特権が与えられました。しかしあるしもべは主人から預けられたものを取られ、暗やみに追い出されるようになったのです。

一年という時間があっと言う間に過ぎました。私たちの人生もこのように速く過ぎ去ると思います。年末に決算するように、私たちの人生も神様の御前での決算の時があります。この事を良く覚えて私たちに預けられているものに忠実に生きていく者になりたいと思います。

12月21日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「平和の贈り物」            ルカの福音書2章8-14節

毎年、このころになると大切な人々のありがたい気持ちを伝えるために、感謝の心を込めてプレゼントをあげます。そんなプレゼントには二つの意味が含まれていると思います。一つ目は、あげる人の心が込められていなければならないことです。二つ目は、もらう人に喜ばれるものでなければならないことです。今、私たちは降誕の季節を過ごしていますが、降誕とはどういう意味でしょうか。それは、イエス・キリストがこの地のお生まれになったということです。これには、神様が私たちのために、み子キリストを贈り物として与えてくださったという意味があります。神様が人間に最も必要なお方を贈り物といて与えてくださったこと、これが降誕の意味です。

人間にとって一番必要なものは何でしょうか。色んなことが必要ですが、最も必要なことは平和です。それも神様との関係においての平和なのです。何故なら人間は罪によって神様から離れてしまい、その関係も敵となったからです。このように敵となった関係を和解させるために、神さんがキリストを送ってくださり、そのお方がこの世にお生まれになった出来事がクリスマスの本当の意味です。

皆さんは、今まで頂いたプレゼントの中で一番大切なプレゼントは何でしょうか。この地に平和の贈り物としてお生まれになったイエス・キリストこそ、神様からの最高のプレゼントです。今年のクリスマスには、平和の贈り物として来られたイエス・キリストによって、平和が満ち溢れるようにと願います。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」というメッセージを自分に語られたものとして受け入れたいと思います。私たちのために、飼葉おけにお生まれになったイエス・キリストを、心の中に救い主としてお迎えしたいと思います。そして、この神様からの贈り物によって、私たちの人生が神様に喜ばれるものとなるようにと心から願います。

12月14日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「飼葉おけに生まれた方」            ルカの福音書2章1-7節

本日の聖書を見ますと、著者ルカは当時の歴史的背景を詳細に説明しています。それはローマ皇帝の勅令と神様のご計画とを対比して説明するためなのです。今日の聖書の内容は、一般的にはローマ皇帝の勅令によって田舎のガリラヤの些細な人がベツレヘムに旅をしているように見えるかもしれません。しかし、その旅は昔から神様によって予定されていたもので、神様のご計画の中で必ず成し遂げられることであったのです。ローマ皇帝の勅令によって住民登録が行なわれたのですが、それがきっかけとなって預言者ミカによって預言されたことが成就されるようになったのです。つまり表面的にはローマ皇帝が世界を支配しているように見えるが、その背後で世界のすべての歴史を支配しておられるのは神様であるということが描かれているのです。

それとともに、ローマ帝国の皇帝アウグストと飼葉おけに寝かせられた赤ん坊の救い主がとても強烈に対比されているのです。人間のアウグストは、ローマ帝国の皇帝で自ら神と称している、そして人々にそのように祭られているものです。しかし飼葉おけの神は、飼葉おけに寝かせられている赤ん坊で神も見放されているように可哀そうに見える赤ん坊です。ローマ帝国の皇帝と飼葉おけに寝かせられている赤ん坊という、人間的には比べる事さえできない対比の中で、この世の救い主がお生まれになったという事に注目したいと思います。

当時のアウグストは自らを神とした皇帝であって自分の権力の守るために勅令を下しました。しかしそれが、神様が遠い昔から定めておられたことが実現するためのものであったということになったのです。ローマ皇帝は自分の思いのままに世界を治めようとしていたのに、実はそのローマ皇帝は神様のご計画の中にいたということです。人間の勝手な思いが実は神のご計画の中にあるものであり、そんな勝手な思いをする人間に救い主を与えるという神様の愛がクリスマスの出来事に表われているものです。

12月7日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「新しく生まれる」                           ヨハネの福音書 3章1-8節

本日の聖書にはニコデモという人が出て来ます。彼はパリサイ人で、ユダヤ人の指導者であると説明されています。当時のパリサイ派というのは、モーセ五書と旧約時代からの言い伝えの戒めを厳しく守り、伝統と儀式を大事にする人たちでした。ですので、彼も生活のすべてにおいて当時の規則を厳しく守って生きていた人であったと思われます。また指導者というのは、当時のイスラエルの最高議会であるサンヘドリン義会の議員という意味であって、社会的地位も名誉もある人であったということが分かります。ニコデモは当時のユダヤ社会において大きな影響を与え、多くの人々からも尊敬を受けて、学識も非常に優れた人であったのです。

そのようなニコデモがイエス様のところの訪ねて行って、イエス様がなさっていることを「しるし」と言い、そのようなことは神様がともにおられなければ出来ないと言いました。これは、イエス様を神様としてちゃんと認めたということです。ところが、このようなニコデモの話しに対して、イエス様は「新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました。このようなイエス様の答えには、ニコデモの話しに頷きながらもそのしるしが分かるためには新しく生まれなければならないということを教えているのです。そしてニコデモの理解を助けるために、聖霊のみ力によってでなければ、決して神の国には入れないと説明なさって、その聖霊の働きを風に例えて説明してあげました。

この時ではありませんが、ヨハネ19章以降を見ますとニコデモはイエス様を信じるようになったと思われます。かつての彼は立派なパリサイ人で、多くの人々から宗教的道徳的に尊敬される人でした。しかし、そんな彼にもイエス様の話しは難しいものだったのです。しかしみことばを聞いた時、聖霊のみ力によって新しく生まれ変われて、やがてはクリスチャンになったのです。ですので聖書のみことばに聞く時に、御霊が働いてくださるようにと、いつも祈りながらみことばに聞いて行きたいと思います。