「神の大きな愛のゆえに」 エペソ人への手紙2章4-7節
2章1-3節では、罪の中に死んでいた人間の絶望的な姿を説明しました。しかし4節からは、そのような人間に希望が見え始めます。そのような死の状態にあった私たちを神様が憐れんで下さったと言います。罪過と罪によって死んでいただけではなく、自分を救う事が出来る力も全くない罪人を神様が憐れんで下さいました。そして神様ご自分の計り知れない愛のゆえに、私たちを死んでいたままにして置かないで、私たちに救いを与えって下さいました。
1-3節と4-7節を「しかし」という言葉を入れてまとめて見れば次のように言えると思います。「私たちは生まれながら神様のみ怒りの対象でありました。しかし、神様が私たちを愛されるその大きな愛のゆえに、私たちを憐れんで下さったのです。私たちは霊的に死んでいました。しかし、神様が私たちをキリストとともに生かして下さり、キリストとともに天の所に座らせて下さいました。」この短い「しかし」という言葉を通して、驚く逆転が起こっています。以前の堕落した私たちの絶望的な状態が、しかしの以降には神様の愛深い主権的働きと強く対比されています。1-3節では私たちはこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者に従い、自分の肉と心のままを行なっていたと言いました。4-6節ではそのような私たちに主権的に三つの事を成して下さいました。私たちをキリストと共に生かし、キリストと共によみがえらせ、そしてキリストと共に天の所にすわらせて下さいました。
それは神様がご自分の豊かな恵みを明らかに示そうとされる大きな目的のためです。即ち、救われた私たちを通して、神様の豊かな恵みと神様の計り知れない大きな愛が、そしてその憐れみがこの世に見せられるのです。ですから、この世は私たちを通して、神様の豊かな恵みと愛を知ることが出来るのです。その豊かな恵みに感謝し、私たちが救われたという事には神様ご自身の目的があるということを覚えなければなりません。私たちを通して栄光を受けられ、私たちを通してご自分の豊かな恵みと大きな愛をお示しになる神様に感謝しましょう。
「深みに漕ぎ出す」 ルカの福音書5章1-11節
本日の本文は、イエス様がペテロを弟子としてお呼びになる場面です。ゲネサレ湖の岸べに、ペテロたちがいました。彼らは前日から夜が明けるまで漁をしましたが、魚一匹も取ることができず、朝になって網を洗っていたのです。そんな中で、イエス様はペテロの船に乗り、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われました。それを聞いたペテロは自分の考えを捨てて、その通りに従いました。すると、沢山の魚が取れたのです。その時、ペテロはイエス様の足元にひれ伏しました。そのようなペテロに、イエス様は「恐がらないでよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」と仰い、彼らは何もかも捨ててイエス様に従ったのです。このような出来事を通して、次の三つを考えて見ることが出来ます。
先ず、イエス様はペテロの空っぽの船に乗られたことです。二つ目に、船に乗ったイエス様は、ペテロに「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」という新しいチャレンジを与えて下さった事です。三つ目に、奇跡を通してペテロは、本当の自分について、そしてイエス様について知ることが出来たことです。
今日の本文の船は、私たちの人生のことだと思います。そして空っぽというのは、人生の大変な疲れと心配、挫折などを表すものだと思います。そういう私たちの人生の空っぽの船に乗って下さるということは、私たちと共にいて下さるということです。そして、何もかも駄目のように見える人生の中で、イエス様は私たちに全く想像もできない新しいチャレンジを与えて下さいます。それは、どんなに考えてみても、受け入れることが出来ないように見えるみことばです。しかし、私たちにはそのみことばに従うことが絶対に必要なのです。みことばに従うと言うのは、クリスチャンに当然のことでありますが、しかし、それを実践する事によって、神様を共に歩む人生を生きるという事を覚えたいと思います。
「かつての私たちの姿」 エペソ人への手紙2章1-3節
この手紙の1章の後半から始まった「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるか」ということの説明は、2章まで続きます。2章では、神の恵みと力がどれ程偉大なものであるのかを知るために、救われた私たちがどのような状態であったのかを説明することから始まります。何故なら、救われる以前、私たちがどのような状態であったのかを正しく知ることによって、そんな私たちを救って下さった神様の力の偉大さを知ることができるからです。即ち、私たちが救い出された罪の深さを知ることを通して、私たちを救って下さった神様の力を知ることができるし、その恵みに感謝することもできるのです。
それでは、救われる以前の私たちの姿はどういうものだったでしょうか。パウロは1節で、かつてのクリスチャンの姿について「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって」とはっきりと教えます。「死んでいた」とは、霊的な死を現わしますが、それは神様から離れて神様との関係が打ち切られた状態のことです。続く2節と3節では、霊的に死んでいる人間の生き方についての説明です。霊的に死んでいる人間は「罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って歩み、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない」ます。このような生き方からは、神様を見つけることができません。「死んでいた」という表現から分かるように、神様からの教えに反応することができず神様のみこころに従うこともできなかったのです。
このような罪の中にある人間の状態について、パウロは「私たちも」と言って、ユダヤ人も異邦人も、すべての人々が同じ状態にあるということを現わしています。ですから救われる以前の私たちの姿も同じであった事を覚えましょう。そこから救い出して下さった神様の恵みと力がどれ程嬉しいことであり、感謝なことであるのか、心に覚えたいと思います。
「キリストのからだである教会」 エペソ人への手紙1章22-23節
本日の本文でパウロは、イエス・キリストについて万物の統治者であると説明します。22節に「いっさいのもの」という言葉がありますが、それは物質的なすべてのものだけではなく、目に見えない霊的被造物、そして全宇宙を表す言葉です。このいっさいのものが神様によってキリストの足の下に従わせられ、そしてキリストはいっさいのものの上に立つかしらとなりました。こういう表現は、キリストの主権を強調することであり、神様によって最高の座に着かせられたイエス・キリストが万物を統治され、万物の主であられることを説明していることです。私たちは、先ずイエス・キリストの統治が宇宙全体に対するものであり、その方の統治が決して教会に限定されるものではなくて、いっさいのものに及ぼすものであるということをしっかり覚えなければなりません。
続けて、キリストと教会との関係について、「キリストを教会にお与えになり、教会はキリストの体である」と説明します。即ち、「教会のかしらであるキリスト、キリストの体である教会」ということになりますが、それはキリストと教会が結合され一つになるということです。この結合とは、ぶどうの木とそれにつながっている枝のように、命が流れていて、命に満ちている有機的な関係です。ですので、教会はイエス・キリストを離れては存在できないし、教会のすべてはイエス・キリストから流れるものです。そしてかしらであるキリストは教会を守り、導き、治め、命を与えて下さるお方であるのです。
ある神学者は次のように話しました。「人間存在の全領域の中で、万物の主権者であられるキリストが『これは私のものである』と宣言出来ないところは一つもない。」キリストはいっさいのもののかしらであり、全宇宙がそのお方の足の下に従います。そして教会はそのお方のからだです。このような信仰告白が、まず信じる私たちの人生のすべての領域において現れ、イエス・キリストを主とし、その方に従う者になりたいと思います。
「ころがしてあった石」 ルカの福音書24章1−12節
イエス様の十字架での死は、弟子たちを始めイエス様を信じていた多くの人々を深い挫折と絶望に陥るようにしました。その中で「週の初めの日」、つまり日曜日の朝早く女性たちは香料を持ってイエス様の墓に行きました。それはイエス様の死体が腐るのを防ぐために香料を塗る習慣に従ってのことでした。この女性たちを始め多くの弟子たちは、イエス様の死とともにイエス様が教えて下さったみことばを忘れてしまい、その教えを信じようとしませんでした。このように香料を持って墓に来た女性たちも同じでした。
女性たちがイエス様の墓に着いた時、墓の入り口の石はころがしてあって、墓は空っぽでした。そんな墓を見た女性たちは、ただ途方にくれているだけでした。その時、二人のみ使いが現れて、その女性たちに「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」と質問をしました。しかしこれは本文に登場する人たちだけではなく、クリスチャンが目指すべき信仰の方向を教えてくれる質問であります。
墓は空っぽになり、イエス様のからだはもはやそこにはないという事を見た時、この女性たちは戸惑ったり、悲しんだりするのではなく、かえて新しい信仰と復活の希望を持つべきでありました。いつもイエス様についていて、その働きを通して多くの教えを頂きましたが、彼らは十字架での死の後、イエス様が復活するということは信じなかったのです。イエス様の教えはすっかり忘れてしまい、その復活は信じない姿、これは今日、キリストの十字架と復活の栄光を認識できないまま生きているクリスチャンに大きな教えを与えています。イエス様の墓の石はころがしてあるのに、「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。」と言われないようにしたいと思います。そしてイエス様の十字架だけではなく、それを超えた復活の栄光を見る事ができるようになりたいと思います。
「十字架にすがるわれは」 マルコの福音書15章16-22節
本日の本文を見ますと、ローマの兵士たちがイエス様を嘲弄した後、十字架につけるために連れて行く場面があります。何の罪も犯さなかったイエス様でありますが、ユダヤ人たちの偽りの訴えによって罪人とされ、総督ピラトによって残酷な十字架刑を宣告されました。その後、イエス様はローマの兵士たちの鞭に打たれてその体は傷だらけになり、頭にはいばらの冠をかぶらせられました。まだ乾いてもない、血が流れていたはずなのに、ローマの兵士たちはその傷の上に衣を着せた後、その衣を脱がせたのです。その時、私たちには想像も出来ない痛みが加えられたと思います。ローマの兵士たちは、このような状態のイエス様を連れて、十字架につけるためにゴルゴダへと向かいました。イエス様はもうぼろぼろになった体で十字架を背負って、ゴルゴダまで行かなければならなかったのです。
ところが、途中でイエス様は限界に至り、もう進む事が出来なくなりました。イエス様が受けて来た事を考えて見ますと、誰もそのようになったと思います。それで兵士が一人の人を捕まえて、イエス様の代わりに十字架を背負うようにしましたが、その人がクレネ人シモンという人物です。彼は、自分の計画には十字架ということは全く入ってないことでしたが、兵士によって無理矢理にイエス様の代わりに十字架を背負うようになったのです。
この出来事によって、やがて彼と彼の家族が救われるようになります。突然、そして無理矢理にさせられた事でありますが、その時、シモンはイエス様とともにゴルゴダまで歩き、イエス様の十字架の姿をみて、救われる恵みを頂きました。十字架とは彼にとっては、突然の苦しみや苦難であるかも知れませんが、しかし、良く考えて見ると恵みでした。突然の苦しみや苦難の奏でも、私のために十字架の苦しみを受けられたイエス様を見上げて、その限りない愛に感謝し、イエス様だけにすがり歩む者になりたいと思います。
「いのちの源」 エペソ人への手紙 1章20-23節
パウロは前の段落でエペソ教会の聖徒たちがもっと神様を知るようにと祈ります。知恵と啓示の御霊が彼らに与えられて神様を知るようになり、心も目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものであり、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、そして神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神様のすぐれた力がどんなに偉大なものであるか、それを知るようにと祈りました。それに続く20-23節は、それがどんなものであるのかについて、例として説明している内容です。
この20-23節には、二つが取り上げられていますが、一つはイエス・キリストの復活と昇天であり、もう一つは教会です。神様がご自身の力をどのように現わされたのか。将来、聖徒たちに与えてくださる望みとは、何か。その受け継ぐものがどんなに栄光に富んでいるものが。神様の力をどのようにして分かることができるのか。そういうことの説明が、キリストの復活と昇天、そして教会を通して現わされているのです。つまり、あなたがたがどれ程素晴らしい祝福を頂いていて、神様がどれ程すぐれた力を持っておられるお方であるのか、それはキリストの復活と教会を見れば確実に知ることができるということです。
私たちは、神様の愛をどうやって知るごとが出来るのでしょうか。それは、キリストの十字架での死を通して知ることができると思います。キリストの十字架は、神様の愛を見せてくれる最も確実な証しです。同じく、キリストの復活と昇天は、神様の全能の力を見せてくれる最も確実な証しなのです。私たちがキリストの十字架の苦しみを通して神様の大いなる愛を知っていれば、同じようにキリストの復活と昇天を通して神様の全能の力をも知ることができます。私たちがどんなに弱い者であるとしても、まるで死者のようなものであるとしても、神様の全能の力によって、日々生かされて生きて行く者になりたいと思います。
「はっきり見えるように」 エペソ人への手紙1章17-19節
本日の聖書を見ますと「心の目がはっきり見えるように」とありますが、それは霊的真理を悟ることが出来る洞察力を意味します。人の目には見えませんが、聖霊の導きによって神様を見あげる事が出来るように、そして神様のみこころが分かるようにして下さって、神様が導いて下さる道を見ることが出来る力、これが心の目がはっきり見えるようになる事であると言えるでしょう。最初に、パウロはエペソ教会の信者たちに聖霊が与えられて、彼らがもっと成長し、より神様を知る事が出来るようにと求めました。そして今日の本文では、その続きに心の目がはっきり見えるようにと祈り求めています。それは、彼らの目がはっきり見えるようになって、神様のみ業を見る事が出来るようにと願って祈った事であります。
続けてパウロは、心の目がはっきり見えるようになって、次の三つのことが「どのようなものであるか」を知ることが出来るように祈ります。その一つ目は、神の召しによって与えられる望みがどのようなものかという事です。召しという事は過去の事と、望みをいう事は将来のことが私たちの目がはっきり見えるようになった時、私たちは信仰の過去と将来をともに覚える事が出来ます。二つ目は、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものかということです。それは、聖徒たちが受け継ぐものは、決して朽ちるものや錆びるものではなく、栄光に富んでいるものでるという希望と慰めを与えて下さいます。最後の三つ目は、神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかという事です。
知恵と啓示の御霊が与えられて神を知る事ができて、それによって私たちの目がはっきり見えるように、と願います。そして、私たちの心の目がはっきり見えるようになった時、この三つ、神の召しによって与えられる望み、聖徒の受け継ぐものの栄光の富、神のすぐれた力の偉大さが分かるように、祈りつつ歩む事が出来るようにと願います。
「知恵を啓示の御霊」 エペソ人への手紙1章15-19節
エペソ教会の聖徒たちへのパウロの心は、まるで親が自分の子どもを思うような愛情深いものであったと思われます。そしてそのような聖徒たちへ愛は、彼らの為の祈りになりました。パウロはエペソ教会の聖徒たちに対する愛の心を、祈りを通して実践したのです。このようなパウロの祈りの内容が具体的に17-19節に書いてありますが、その最初の祈りが17節の「神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。」という事です。それは信仰と愛の状態から更に霊的に成長することを願っていたからです。
パウロは知恵と啓示の御霊を通して、エペソ教会の聖徒たちが神をもっと知る為にと祈っています。ここで「知る」という言葉は、経験的に分かるという意味です。そして啓示とは、神様がご自身について、そして神様のご計画とみこころのようなもの私たちに教えて下さることです。本質的に堕落した人間は自らの力では神を知る事が出来ません。ところが、人間が神様知ることが出来るのは、神様が私たちにご自身を教えて下さったからです。このように神様が私たちに教えてくださるもの、教えてくださる奥義、これが啓示なのです。そして知恵とは、以前にも説明した事がありますが、神様が教えてくださる啓示を私たちが知ることが出来る、または受け入れることが出来る力であります。即ち、聖霊は知恵と啓示の御霊であって、神様が私たちに与えてくださる啓示のみことばを悟ることが出来る知恵を与えてくださいます。私たちに、このような神様からの知恵があるように、と願います。神様が与えてくださる知恵を持って、自分の周りの環境を見ることが出来ますようにと願います。
私たちも、神様に対するしっかりした信仰とすべての聖徒たちに対する愛を持ちたいと思います。そしていつも知恵と啓示の御霊に助けられて、神様を知る事が出来るように、自分の為に、そして周りの人々の為に祈る人々になりたいと思います。
「しるしと不思議」 ヨハネの福音書4章43‐54節
人間は見ることや聞く事などの感覚を通して何かを知ることに、限界をもっています。幾ら視力が良いと言っても目には見えない小さいものがあります。同じように耳があっても聞く事ができないものもあります。人間の認識の能力には明確な限界があるのです。自分が見ることができないし、聞く事ができない、そして感じることができない世界があるのです。そうであるにもかかわらず、多くの人々は自分の感覚を通して認識できる世界だけを認めようとするところがあります。イエス様は、本日のみことばを通して、そういうものがすべてではない事を教えてくださり、私たちを信仰に導いてくださいます。
イエス様は、ガリラヤに行く途中にサマリヤ地域によって福音を伝えました。そしてイエス様のことばを聞いて信じたサマリヤ人の願いに応じて、サマリヤに二日間泊って本来の目的地であったガリラヤにお向いになりました。そしてイエス様が水をぶどう酒に変えたガリラヤのカナというところに着いた時、カペナウムからきた王室の役員がイエス様のところにやって来ました。彼は、死にかかっている息子を癒してくださることを願って自分と一緒にカペナウムに行くように求めました。しかし、イエス様は彼に対して「しるしと不思議を見ない限り、決して信じない」と語られました。一方、イエス様がそう語られながら彼の息子が直っているとも語ってくださいました。その言葉を聞いた役員は、イエス様のことばを信じて家に帰りました。そして、帰る途中で、家からものに出会って息子が直った事を聞いてその時間を聞いて見たら、イエス様のことばがあった時間を同じだった事を知り、彼と家の者がみな信じるようになったのです。
目に見えるしるしだけを求めることは、真の信仰ではないと聖書は教えています。しるしは人間の目を引いても、完全な信仰を与えることはできません。目に見えるしるしを越えて、イエス様のことばを信じて従うことができるのが信仰をもつ者になりたいと思います。