礼拝メッセージ要旨

9月25日(日) 礼拝メッゼージ要旨

 

「神の武具を身に着ける」         エペソ人への手紙6章14-17節
 クリスチャンは霊的戦いの中にあって、その敵である悪魔に立ち向かうために神のすべての武具を身に着けなければなりません。その武具の中で本日は「平和の福音の備え」と「信仰の大盾」について学びたちと思います。
 先ず、私たちは足の重要性を確認する必要があります。戦いに臨む兵士の体がいくら丈夫なものであって腰からの力が強いとしても、もし戦いの中で足が滑ったり怪我したりしますと、その力を十分に発揮することが出来なくなります。すでに「堅く立つことができるように」と、「しっかりと立ちなさい」と強調されましたが、その姿は足をしっかりして立つことです。ですから、ある意味では戦いで良く戦うためには、敵の攻撃は罠から足をちゃんと守ることが大切です。そこでパウロは「平和の福音の備え」で足を守りなさい、その為に履きなさいと勧めているのです。私たちに攻めて来る悪魔の強くて賢い攻撃によって倒れたりするのではなく、平和の福音の備えで私たちが堅く立つことが出来るように足を守らなければなりません。次は四つ目の武具「信仰の大盾」です。本来「盾」という言葉は「ドア」という言葉から出て来たものです。そのように盾とは、兵士の体全体を守ることが出来る位大きな者でした。そして兵士は遠くから攻撃してくる敵の槍や矢から、その盾に身をかがめてその攻撃を防ぐことが出来るのです。パウロはそのような盾によって「悪い者が放つ火矢を、みな消すことができる」と言います。そしてその火矢とは、神様への疑いや不敬虔、又は悪魔からの誘惑であると考えられます。私たちの心に、そのような攻撃がとどかないように、信仰の大盾を受け取って守らなければなりません。
 私たちは平和の福音の備えで自分の足を守り、激しい悪者の攻撃の中でもしっかりと立ち、信仰の大盾でその攻撃を防がなければなりません。神様が与えて下さる武具を身に着けて大変な霊的戦いの中でも信仰者としてしっかりと歩んで行く者となりたいと思います。

9月18日(日) 礼拝メッゼージ要旨

 

「しるしを求める人々」            マタイの福音書12章38-45節

 福音書には奇跡を通してイエス様のメシヤであるしるしが沢山示されています。そのしるしが沢山あるにもかかわらず、他のしるしを求める人々がいました。本文の38節を見ますと、「律法学者、パリサイ人たちのうちのある者が」イエス様にしるしを見せてもらいたいと求めています。そしてその言い方を見ますと非常に丁重な表現のように見えます。しかし、今までの彼らの姿を見ますと、そこには決して良い意図はなかったと考えられます。口では「しるしを見せていただきたい」と言いながらも、心の中では全く違う思いを持ってしるしを求めたのです。
 それに対してイエス様は「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています」と仰います。「姦淫」という表現は、旧約聖書では偶像崇拝のことを現わします。ですから「姦淫の時代」とは、神様を神様として信じない人々、またはそのような人々が生きている時代という意味です。そしてそういう人たちは「しるしを求める」とあります。「しるしを求める」というのは、信じない時や認めない場合にそうする事だと思います。即ち、神様を神様として信じないので神様に対して神であるしるしを求めるようになるのだと思います。そしてイエス様が示して下さったのは「ヨナのしるし」でした。ヨナのしるしとは、神様はキリストを十字架と復活を通して罪人を救うために送って下さったということです。そしてその神様のみこころに従ってこの地に来られたお方がイエス様であるというしるしなのです。即ち、人々は神様に対して姦淫の罪を犯し、神様を信じていないが、神様はそんな罪人のために御子キリストを送って下さってその愛を示して下さったのです。
 私たちは神様に何を求めているでしょうか。そして私たちの信仰がどんな事で示されるように願うのでしょうか。イエス様はご自分のことを神様のみこころに従う十字架のことをもって示して下さいました。同じように、私たちの信仰も神様のみこころに従う生き方によって示されたいと思います。

9月11日(日) 礼拝メッゼージ要旨

 

「堅く立つ」            エペソ人への手紙6章13-17節
 前回、パウロは6章10節以降でクリスチャンの本当の戦いは目に見えるものや人間との戦いではなく、目に見えない悪魔との戦いであることを強調しました。そのような霊的存在との戦いであるため、クリスチャンは神様の大能の力によって強められなければならないし、神様のすべての武具を身に着けて立ち向かわなければならないのです。本日の本文の13節においてもいっさいを成し遂げて堅く立つことができるようにと勧めているのです。悪魔は私たちをキリストから引き離そうとして様々な策略を着けって攻めて来ます。それに対して私たちは神様のすべての武具を身に着けて堅く立たなければなりません。
 その武具について説明して行きますが、本日は14節に出て来る「真理の帯」と「正義の胸当て」について学びたいと思います。武具を身に着けることにおいて、最初にしなければならないことは帯を締めることでした。何故なら、帯をしっかりと締めることによって、より動きやすくならからです。当時の服というのは、帯を締めないと活発に動くには大変不便なものでした。帯をしっかりと締めて動きやすくしないと、その後から出て来る武具を身に着けることも出来ないし、戦いも出来ないのです。ですから帯を締めるというのは、戦うために最初に準備しなければならないことであって、そこには戦いを認識しそれに集中するために準備するという意味があるのです。その準備の上に、胸当てを身に着けなければなりません。そして胸当てというのは、今で言いますとベストのようなものであって、心臓、即ち心を守るためのものです。
 そしてそれを真理の帯と正義の胸当てと説明しています。ここでの真理と正義というのは、キリストの真理とキリストの義でしょう。悪魔はクリスチャンをキリストから引き離そうとしていますが、その悪魔の攻撃に対して人間の知恵や力では立ち向かうことは出来ません。悪魔のどのような攻撃に対してもキリストの真理と義をもって立ち向かい、堅く立つ者となりたいと思います。

9月4日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「実によって知られる」            マタイの福音書12章22-37節
 本日の本文でイエス様は悪霊につかれた人を癒して下さいました。この奇跡を見た人々は二つの反応を見せました。先ず、イエス様の癒しの御業を見て群衆は「この人は、ダビデの子なのだろうか。」と言いながら驚きました。「ダビデの子」という表現は、旧約時代から神様が約束して下さったメシヤのことで、このイエスは私たちが待っていた救い主ではないだろうか、と期待に満ちた言葉を話した事なのです。一方、イエス様の御業を見て群衆の話しを聞いていたパリサイ人は「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」と言いました。 
 その話しを聞いたイエス様は、パリサイ人の言葉に対して反論して行きます。3回にわたってパリサイ人が話したことが間違ったという事を説明して下さいます。そしてその最後には、神の御霊によって悪霊が追い出されることは神の国、つまり神のご支配があなたがたのところに臨んでいることを現わす素晴らしい御業だということを説明して下さいます。その後、パリサイ人の言葉はどのような心から出て来たのかということについて説明して下さいます。本文の33節の後半で「木のよしあしはその実によって知られるからです。」と仰い、パリサイ人が話した24節のことは彼の心の状態を現わしているということを教えて下さいます。特にその内容は聖霊に逆らうことであって、そのようなことをする者の罪は赦されないと大変厳しく語られました。何故なら、それは聖霊の働きを否定しその働きに反抗することであって、悔い改めない事だからです。
 このイエス様の教えを自分の言葉使いに適用して行きたいと思います。自分の口を通して出て来る言葉で、自分の心やその思いがどのような状態であり、何によって満ちているのかが分かるのです。自分の言葉を通して自分の心のよしあしが分かるということです。ですので、教会の中だけではなく家族に対して、親しい人々に対しての自分の言葉を良く吟味し、良い木として良い実を結んで行きたいと思います。

8月28日(日) 礼拝メッセージ要旨        尾子富夫

 

「神はここにおられる」 詩篇139篇1節〜24節

クリスチャンが神について語る時、「無限、永遠、不変」あるいは「全知全能、偏在」と、いうでしょうか。これらの言葉は、神学的に大切です。でも、日常的な私たちの心は、神様が遠くにいて必要な時しか来てくれない、縁遠い存在として感じられる時はないでしょうか。
 たしかに限界のある人間が、神様がどういうお方かを表現することは、困難であります。しかし、私たちは神様をぼんやりと遠い存在として感じるだけであってはならないはずです。
 私たちの心のどこかに、特別な祝福や、大変な試練や困難がある時だけしか、神様は私たちに顔を向けて下さらない、という思い込みがないでしょうか。
 このような時、詩篇139篇は多くの人に愛されてきた詩篇であるだけに、
私たちが信仰を与えられた時の感動をよみがえらせ、人格的な神との交わりを思い起こさせるみことばにあふれています。
「ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます」にあるように、口から発することばが見つからないうちに、神様はすべて私の言いたい事をご存知です。心の隅々まで把握してくださるばかりでなく、私たちを「母の胎のうちで組み立てられ、」つまり種のような存在から「あなたの書物にすべてが、書きしるされました」とあるようにご計画をもって目的のある存在として扱っておられるのです。
私たちの生涯の日々を、神様は絶えず「心配してくださり、」「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く」お方として人格的に関わっておられるのです。
 決して、祝福の時や大試練のときにだけ慌てて近づいて祈りに応えてくださるのではなく、またいつも沈黙しておられるのでもなく、どんな小さな日常の出来事のなかにも、関心を持って、生きて働かれる神様を見上げ、歩んでいきたいと願います。

8月21日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「休ませて下さる主」             マタイの福音書11章20-30節
 私たちは、人生の暗いトンネルを歩んでいる時、そんな自分の側にいてくださるお方に出会ったでしょうか。それは誰だろうと思う方もいらっしゃるかも知れませんが、すでに私たちの側にはそのようなお方がおられます。すでに私たちの側に来られ、私たちと共にいてくださるお方、それはイエス・キリストです。ところが、この世の多くの人々はこのイエス様を知ることが出来ず、自分が背負っている人生の重荷を負ったまま、人生の暗いトンネルの中でさまよっているのです。そのような人々をご覧になったイエス様は深く悲しみ、本文の20-24節を語られました。
 そこに出て来るコラジン、ベツサイダ、そしてカペナウムという地域はイエス様の宣教の働きの中心地であったのです。その地域においてイエス様はご自分のメシヤであることを多くの人々に示し、教えて下さったのです。それがどれ程なのかと言いますと、旧約時代において代表的に神様から裁かれて滅んでしまった町のツロ、シドン、そしてソドムで同じようなイエス様の御業が行なわれたら、その町の人々は悔い改めて裁かれなかっただろうと言われる位のものでした。それほど、驚くべき御業が行なわれたにも関わらず、人々はイエス様を知らなかったという事です。罪深い人間は、そんなイエス様の話しを聞こうともせず、その心を開こうともせず自分勝手に生きていたと言う事です。そしてそのような姿が私たちの姿であった事が教えられています。
 そのように頑なな心の私たちに、イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」そして「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と仰って下さるのです。イエス様のくびきとは、愛することだと思います。神を愛し、隣人を愛しなさいというイエス様の教えを学び、その愛を持って人生を歩んで行く時、真の安らぎが与えられるのです。その愛に満たされて私たちを休ませて下さる主と共に歩んで行く者となりたいと思います。

8月14日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「強められる」              エペソ人への手紙6章10-13節
 今はオリンピックの真最中で、その競技に臨む選手たちの姿を見ますと、私たちの心もいつの間にか熱くなります。おそらくそれは優勝に対する選手たちの善意の格闘が真剣に行なわれているからだと思います。彼らは長い間、ただこの時のために一所懸命練習し訓練をして来ました。一つの目標を覚えて、それに集中して準備して来たのです。そのような選手たちの姿を見ながら、一つの目標のためにひたすら準備し、訓練を通して自分を強くして行く、鍛えて聞く姿がクリスチャンにも非常に大切で必要だと思います。
 パウロは、この手紙の最後において聖徒たちに霊的戦いについて説明し、それにどう臨むべきなのかについて教えて行きます。今まで説明して来たクリスチャンとしての姿、教理と実践を通してその霊的戦いに備えて来たのであります。その信仰の訓練課程を通って、最後には霊的戦いに臨むようになるのです。そのこの戦いは、悪魔の策略に立ち向かうことであり、天にいるもろもろの悪霊に対するものであるので、私たちが信者としてより徹底的に準備しなければなりません。ところが、悪魔に立ち向かう私たちの姿とは、まるで大人と子どもとの戦いのように見えます。如何見ても霊的存在である悪魔に対して信者の勝ち目は見えない戦いのようです。そんな私たちにパウロは「主にあって、その大能の力によって強められなさい」と言います。私たちがどんなに弱いものであっても、主にあってその大きな力により頼む時、その神様のみ力によって強められるのです。また、強められて神様からの武具を着けなければなりません。それも全ての武具を完全に身に着けて、小さな隙間もないようにしなければなりません。
 私たちはこの世の荒波の中でどんな姿で立ち向かっているでしょうか。ほえたける獅子のように、その獲物を探し求めている悪しき霊的存在に対して私たちはどのように準備しているのでしょうか。主にあって、神様のみ力によって強められ、神様からの全ての武具を身に着けて、どんな攻撃にも立ち向かって打ち勝つ者となりたいと思います。

8月7日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「よけいに愛する者」             ルカの福音書7章36-50節
 今日の本文では、パリサイ人と罪深い女の姿が対照的に出て来ます。当時、律法を厳しく守り、多くの人々から尊敬されていたパリサイ人。そしてその町で罪深いものとして呼ばれていた一人の女性の対比です。その中で女性の姿を通して、私たちが持たなければならない信仰の姿がどういうものであるのかを考えてみたいと思います。
 一つ目に、罪深い女性はイエス様に会うために積極的な姿を持っていました。シモンの家には多くの人たちが集まっていて、その中にはパリサイ人たちの少なくなかったと思われます。それに対して、彼女はその町において「罪深い女」と呼ばれていました。そして39節でシモンはこの女性を見てすぐ、彼女のことが分かったほど、この女性はその町で罪深い者として知られていたのです。そのような女性が、人々が多く集まっている公の場所に現れると言うことは非常に大きな勇気が必要でした。何故なら、人々によってそこから追い出される可能性もあるからです。しかし罪深い女性はそのような状況をすでに分かっていましたが、それでもその家に行ったのです。そしてイエス様に近づいて行きました。私たちはここで、イエス様に出会おうとする勇気を持っている、積極的な女のすがたを見ることが出来ます。二つ目に、彼女はイエス様の前でへりくだり、自分の心の愛を積極的に現わしました。彼女はイエス様の足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、その足に口づけして、香油を塗ったのです。その涙は自分の罪が赦されたことに対する感激の涙であり、イエス様に対する尊敬と愛を全身で現わしたことです。
 このような女性の姿をご覧になったイエス様は、彼女に対して「この女の多くの罪は赦されて」いて、「それは彼女がよけい愛したから」だ、と説明して下さいました。私たちも、この女性のように多くの罪を赦していただきました。この事実を覚える時、私たちは神様に対してもっと大きな愛を持つことが出来ます。神様の哀れみ深い罪の赦しを覚え、神様をもっと愛するようになることを願います。

7月31日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「おいでになられる方」             ルカの福音書7章18-23節
 本日の本文で出て来るヨハネは、バプテスマのヨハネの事です。彼は、母エリサベツの胎内にいる時からも、イエス様をみごもったマリヤの挨拶を聞いただけで踊った人でした。また彼は民衆にイエス様について「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」と紹介し、後には「この方が神の子である」と証言をし、キリストの道を備えた人物でありました。
 そのようなバプテスマのヨハネがイエス様に二人の弟子を送って「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも私たちはなおほかの方を待つべきでしょうか」と聞くとは、私たちの耳を疑わせるような事です。ところが、このような質問をした時、ヨハネは牢屋に捕えられていました。そして、牢屋の中で自分の弟子たちから伝えて聞くイエス様の働きは、最初ヨハネ自身が思った事とギャップがあるように感じたようです。預言されたメシヤが来られると神様の裁きがなされると思い、そのようなメッセージを説いたヨハネでしたが、弟子たちから伝えて聞く話しでは、そのような事ではなかったです。そのようなところから、不安が生じたのでしょうか、ヨハネは自分の弟子たちをイエス様に送って確認をした、それが先ほどのイエス様への質問の意図だったのです。イエス様はそのような質問に対してイザヤ35章5,6節と61章1節などを引用してご自分がメシヤであることを証ししました。
 そしてその最後に「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」と仰って下さいます。ヨハネは自分なりにイエス様に対して持っていた期待がありました。しかしその期待とは違うイエス様のお姿から、不安を感じたのでしょう。そんなヨハネにイエス様は優しくご自分のことをもう一度説明して下さり、つまずかないようにと優しく話して下さったのです。私たちも時には、自分の思いと神様の導きとの違いによって不安を感じる事があるでしょう。そのような時、約束通りにおいでになられたイエス様をしっかりと見上げてそのお方の後をついて行きたいと思います。

7月24日(日) 礼拝メッセージ要旨 

 

「主は天におられる」             エペソ人への手紙6章5-9節
 前回は6章5-8節を中心として奴隷への勧めについて考えて見ました。そのように奴隷への勧めをした後、パウロは9節で主人への勧めをしています。このような内容から、主人への勧めはたった1節しかないと思われるかもしれません。しかし、パウロは主人に対して「あなたがたも、同じようにふるまいなさい。」と言って、実際の主人への勧めの内容を見ますと5-8節の内容をも含んでいることが分かります。
 当時の奴隷とは主人の財産の一部であったし物のように取り扱いされました。まるで生きている農機具のような存在であった、主人の思うままにすることが出来ました。それほど奴隷に対して主人とは絶対的な立場にいて、まさに主であったのです。そのような主人に、「恐れおののいて真心から」、「キリストのしもべとして、心から神のみこころを行なうように」、そして「善意をもって仕えるように」あなたも奴隷に対して同じように接しなさい、と勧めているのです。
 何故、主人はそのようにいなければならないのでしょうか。それは「主が天におられる」からです。それは奴隷にも主人にも、真の主であられるお方が天におられるので、そのお方を覚えなさいという事です。この天におられる主であられる神様の存在を見失ってしまうと、人間は自分が相手の主であるように振る舞いやすいからです。そうならないために、主人も天におられる主を覚えてその主なる神様の御前に立つ者として、主に従うように奴隷にも接して行きなさいという事です。そして天におられる主は「人を差別されることがないことを知っているから」です。天におられる主が、奴隷も主人も差別されることなく同じく憐れんでくださるのに、如何して人間であるあなたが奴隷を差別するのか、という事です。
 この主人に対する勧めにおいても「主に従うように」という事が前提にあって、その主が天におられることを覚えてクリスチャンとして神様のみこころを行ないなさいという事です。私たちは置かれている状況の中で、それがどんな立場であったも、ただ天におられる主を見上げ、その主に従うように歩んで行く者になりたいと思います。