「火を投げ込むために」 ルカの福音書12章49-53節
本日の本文の内容は、今まで学んで来たイエスさまのお姿から考えて見ますとすぐに理解出来ないかも知れません。それほど、戸惑いを感じさせる内容です。救い主であるイエスさまは旧約の時代から「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ9:6)と賛美されました。このルカの福音書においても、イエスさまのお生まれの時、天の軍勢が現れ「いと高きところには栄光、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」と神さまを賛美致しました。ところが、本日の本文においてイエスさまのご自分について「地に火を投げ込むために」来たと、そして51節では「地に平和を与えるために」ではなく「むしろ、分裂」を与えるために来られると語られます。そして愛の固まりであるはずの家庭においても「父は息子に、息子は父に対抗し、母は娘に、娘は母に対抗し、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対抗して分かれるようになります。」と仰います。こういうイエスさまの教えの真意は何かといことを考えて見なければならないと思います。
最初に、イエスさまは「地に火を投げ込むために」地に来られたと語られますが、この「火」とは人間の罪をきよめる働きをするものとして「聖霊」と理解出来ます。特にバプテスマのヨハネはイエスさまについて「あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」と言いました。そしてその聖霊の働きによって与えられるものとは「平和」ではなく「分裂」であり「対抗」です。それは、実は「平和」であるように見るところに「分裂」が与えられ、その分裂があるところに本当の平和を与えてくださるためなのです。火を投げ込んでくださり人間の本当の姿を教えてくださって、その上に本当の平和を与えてくださるイエスさまの事を覚えたいと思います。
「待っておられる神」 イザヤ書30章18-21節
私たちは聖書を通してご自分の民を待っておられる神さまのお姿を見ることが出来ます。本日の本文は、その待っておられる神さまのみこころと帰って来る者に与えられる祝福と恵みがどういうものであるのかが教えられています。本文で神さまはご自分について待っておられると語られます。そして帰って来る者に対して恵みと憐れみをお与えになると語られます。当時、イスラエルは滅んで行く国の中で神さまではなくエジプト等のようなこの世の力に頼り、それに助けを求めました。そのようなイスラエルに対して神さまは帰って来ることを待っておられると語っておられるのです。
そして今日の本文では、そのように待っておられる神さまに帰って来る者に二つのことが約束されています。一つ目は、その人の叫びを聞いてくださり、必ず恵みを与えてくださりすぐ答えてくださるということです。私たちが苦難や苦しみの時に他のものに頼り、他のところから助けを求めることではなく、神さまに叫び祈り求めるなら神さまはそれに必ず答えてくださるということです。そして二つ目は、正しい道に歩むように教えてくださり導いてくださるということです。そのような神さまのことを覚えて、間違った道に入った時、私たちに正しい道を教えてくださる神さまのみことばに従って立ちかえられなければなりません。それを待っておられる神さま、その神さまのみ教えに従って神さま喜ばれる道に歩んで行く者に変えられたいと思います。
私たちに恵みを与えようと待っておられる神さま、その神さまは私たちの叫びを聞いてくださり、必ず答えてくださるお方です。そしていつも私たちが正しい道に歩んで行くこと出来るように教えてくださるお方なのです。このように待っておられる神さまの御前に出て行って、神さまに喜ばれる者として歩んで行きたいと思います。
「労苦の中で喜びを見出す人生」 伝道者の書2章22節~26節
人生には多くの労苦があり、思い煩いがあります。仕事や人間関係、病気や老いること、更には、愛する方との死別、そして自分自身の死。どんなに労苦して得たものも、やがては、すべてを残して死んでいくことになります。このままでは、人生の意味や目的を見出すことができず、しかも、本当の希望、確かな人生の拠り所を見つけ出すことも、難しいかも知れません。
イスラエルの王にまで昇りつめたソロモンは、すべてをむなしいと語りました。しかし、それが彼の人生における結論ではありませんでした。ソロモンは、光なき人生の虚しさから、まことの光を見出したのです。旧約聖書の伝道者の書2章24節には次のように記されています。
「人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことが
ない。これもまた、神の御手によることがわかった。」
ソロモン王は真の神から離れ、いつの間にか自分中心の生き方を歩んでいました。しかし、もう一度、神に目を、心を向けたのです。そこに、自分の人生の目的や意味があることを見出したのです。
私たちの人生や仕事が、常に、自己中心であるならば、或いはまた、私たちが心配することが、自分に何ができたかという事だけなら、ソロモンのように、人生に失望し、虚しさを覚えるでしょう。けれども、もし、私たちの人生や仕事の中心が、天地万物を造り、私たちに命を与えておられる真の神であったのなら、そこには希望があります。なぜなら、神は、私たちの命と働きを、神のご計画のために用いられるからです。
新しい年を迎え、私たちの人生について聖書の御言葉からご一緒に考えたいと思います。神と共に生きる人は、必ずや、労苦の中で喜びを見出す人生を歩むことになることを…。
「喜びの日」 イザヤ書58章13-14節
クリスチャンである私たちは、神さまの民として覚えて記念し、守らなければならない日が多くありますが、その中で主日より大切なことはないと思います。この主日は、旧約時代では安息日であって、神さまはご自分の民に「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。」と命じられました。そしてこの安息日と守らない人々に対しては、出エジプト記31章14節の後半で「これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。」と、大変厳しく語られました。それほど、神さまの民として大切に命じられているのが安息日でした。そして、この安息日は新約時代においては主日に変わりますが、私たちも同じく主日を守る、或いは主日に教会に集まり神さまに礼拝をささげるということは非常に大切なことなのです。
そのような主日について、本日の本文では、出歩くことをやめ、自分の好むことをせず、旅をせず、自分の好むことを求めず、むだ口を慎みなさい、と仰せられます。また、この日を神さまの聖日として覚え、「喜びの日」と呼び、主の聖日を「はえある日」と呼びなさいと命じられます。そうする者には、主にあっての喜びが与えられ、地の高い所を踏み行かせ、あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養ってくださることが約束されているのです。神さまはご自分の民に主日を聖く守り尊ぶように命じられ、それに従い守る者には祝福を与えると約束してくださいました。
皆さんにとって、毎週の主日はどのような日でしょうか。本当に、自分の人生の中で喜び、尊ぶ日でしょうか。神さまは、本文でイスラエルの民に素晴らしい約束をしてくださいます。そしてどんな状況の中でも、その日を聖く守り尊びなさい、と命じられます。私たちは、この主の日に神さまに喜ばれる者になりたいと思います。この日こそ、自分の魂に真の安らぎと喜びが与えられる日であることを覚えて、この一年間、毎週神さまの御前に集まり、礼拝をささげる者になりたいと思います。
「神に喜ばれる者」 ヘブル人への手紙11章6節
本日の本文に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」とあります。神さまはご自分の民が信仰によって生きて行くことを願っておられます。ハバクク2章4節に「正しい人はその信仰によって生きる。」とありますが、神さまの民はこの世の中で生きても信仰によって生きて行く者です。それでは神さまの民が持つべき信仰とは、どういうものでしょうか。それについて本日の本文では大きく二つで説明しています。
一つ目の神さまがおられることを信じる信仰、これは神さまの民には当然の話しです。ところが、何故ヘブル人への手紙の著者はこのように語っているのでしょうか。それは当時のクリスチャンがそれを信じることが出来なくなっていたからです。神さまはいつも私たちとともにおられます。しかし私たちは、生き方の中で神さまがおられることを疑う時があります。苦しみがある時、大きな問題に陥った時、または失敗と挫折の場にいる時など、そういう時には自分ひとりでそこにいるように思われます。又は、あまりにも忙し過ぎて日常の生活の中で神さまのことを忘れて生きて行く時もあります。そういう私たちに聖書は神さまが私たちとともにおられ、私たちの心の中に住まわれるということを教えます。どんなことがあっても、神さまがおられることを覚えて、そのみこころに従って生きて行く者が信仰の人なのです。二つ目は、神さまは報いてくださるお方であることを信じる信仰です。パウロは朽ちる冠のために自勢をし、一所懸命に練習する人々に例えて、信仰者は朽ちない冠を受けるために自分を鍛錬することを教えています。
今年の最後の日に、其々歩んで来た一年間を振り替えて見ながら、自分の信仰はどうだったのか考えて見たいと思います。勿論、信仰によって歩んで来られたと思いますが、時にはそうではなかった時もあったと思います。そんな私たちをも愛してくださる神さまのことを覚えて、神さまに喜ばれる者になりたいと思います。
「この上もない喜び」 マタイの福音書2章1-12節
本日は二千年前に救い主がこの地にお生まれになったことを記念し祝う日です。この日にクリスマス記念礼拝をささげている私たちは、救い主であられるイエスさまをどのように覚えるべきでしょうか。本文に出て来る東方の博士たちは宝箱をあけて、黄金、乳香、没薬を準備してイエスさまにささげ、救い主を拝みました。そのように私たちも、救い主がこの地にお生まれになったという知らせを喜び、自分の最上のものをもって迎えれ入れなければなりません。
先ず、この博士たちは東方の国から星を見てエルサレムまで来ました。東方という国を一つに特定することは難しいですが、バビロンのことである可能性が高いです。何故なら、バビロンは旧約時代のバビロン捕囚の時に多くのユダヤ人がそこに定着していましたからです。そして博士というのは天文学と占星術に詳しい人であって、当時としてはエリートであったと考えられます。そういう彼らは異邦人でありましたが、星に導かれてユダヤのベツレヘムまでたどりつき、幼子のイエスさまにひれ伏し拝みました。救い主がお生まれになったこの時に、イスラエルの人々はそれを知りませんでした。祭司長もいれば律法学者もいましたが、誰もイエスさまを拝んだりしませんでした。そこには遠い国からベツレヘムまで来た異邦人の天文学者たちがいたのです。
そのような彼らを神様は星を通して導いて下さいました。旅の途中、大変なことは色々とあったと思われます。長いだけに大変な旅路でしたが、そんな旅路を守り導いてくださったのは神様でした。自分たちを先導した星がついにイエス様がおられるところにとどまり、それを見た博士たちはこの上もなく喜びました。その大きな喜びはここまで導いてくださった神様のみ力を恵みを覚えてのことでしょう。私たちの信仰歩みも神様はそうやって導いてくださいます。この一年間もここまで導いてくださった神様を覚えまして、私たちに与えられる大きな喜びに感謝するものになりたいと思います。
「私たちのために生まれた神」 イザヤ書9章1-7節
12月のこの時期、全世界はクリスマスによって騒いでいます。私たちが生活しているこの名古屋もあちこちにクリスマスツリーがあり、メリー・クリスマスという言葉が普通に言われています。しかし、そのような所にクリスマスの本当の意味であるキリストはおられません。というのは、そこには真の光であられるイエスさまを知らないままクリスマスを楽しみ喜んでいるからです。それでは、クリスチャンである私たちは、この世の中で生きて行きながら真の光であられるイエスさまを心に覚えて生きているでしょうか。この12月、町中がクリスマスにはまっている中で、クリスマスの本当の意味を覚えて、この地に来られたイエス・キリストによって喜んでいるでしょうか。私たちのためにお生まれになった神、その真の光に照らされた者であれば、それによる喜びが私たちの生き方を通して現れるべきであると思います。
そしてそれは、もはや以前の暗やみや死の陰を歩いている姿ではなく、光に照らされて将来への望みと喜びを見上げて歩んで行く姿です。本日の本文を見ますと光に照らされる前とその後の姿が明確に分かります。以前は暗やみの中で辱しめられましたが、しかし今は光を見て光に照らされ、楽しみ喜んでいます。それは他の理由によってではなく、ひとりのみどりごが私たちのために生まれ、私たちに与えられたからです。そのお方は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれますが、私たちを愛して下さる神さまは、私たちのためにこのお方を遣わしてくださったのです。
ところが、私たちは毎日、このお方によって照らされた者として喜びを持って生きているのでしょうか。また将来の希望、望みを与えられた者としてその望みによって喜びと感謝の中で生きているでしょうか。たとえ、私たちの毎日が暗やみそのものであっても、光であられるイエスさまを覚えて将来の希望を見上げて歩んで行く者となりたいと思います。
「忠実な管理人のように」 ルカの福音書12章41-48節
本日の本文はペテロの質問から始まります。イエスさまは35節以降で婚礼から帰ってくる主人を待っているしもべたちについて例え話をしてくださいました。その例え話を聞いていたペテロは、弟子である自分たちに話して下さるのか、それともそこに集まっていた多くの人たちに話してくださったのか、疑問になって質問したと思います。
そんなペテロの質問にイエスさまは直接に答えてくださらないで、忠実な管理人と不忠実な管理人の話しをしてくださいます。先ずは忠実な管理人について話してくださいますが、彼は主人の存在をきちんと覚えているしもべでした。そこから自分に何を任されているのかといことを覚えてその任された仕事に最善を尽くす者でした。そしてそのような姿が忠実な思慮深いということでした。そのようにいつも主人の存在を覚えてその主人から何を任されているのかということを覚えてそれにいつも忠実に、そして思慮深く行なう管理人、そのような管理人は主人が帰って来て主人に褒めてもらうのでした。ところが、そうしなければならないしもべが、自分の立場を忘れてしまいとどうなるのでしょうか。そのようなしもべは、主人の帰りはまだだと思って自分が主人のように振る舞ってしまうのでした。
ところが、重要なことは主人は必ず帰って来るという事実です。その時は知りませんが、主人は必ず帰って来て忠実なしもべには主人の全財産が任されます。そして不忠実なしもべにはひどく罰せられ、鞭打たれるようになるのでした。この例え話は教会の中でリーダーのような立場、即ち牧師等に言われているものだと言います。しかし、その話しを少し広げて考えて見ますと、クリスチャンである私たちは皆、私たちの周りにいる人々を任された者です。ですので、私たちの主人であるイエス・キリストを覚えて、忠実な管理人のように、私たちに任されたことに最善を尽くして歩んで行きたいと思います。
「罪を取り去る神」 サムエル記第二 12書1-13節
本日の本文は、神様が預言者ナタンをダビデに遣わしてその罪を指摘してくださる内容です。初めにナタンは例え話をしますが、その例え話には富んだ者と貧しい者が出て来ます。貧しい者には自分の娘のように大切にしていた一匹の子羊がいました。ある日、富んだ者のところに旅人が来ました。それで富んだ者はその旅人にもてなしをしなければならなかったですが、自分の羊や牛は惜しんで貧しい者の一匹の子羊を取り上げて、それで調理をして出したのです。
そのようなナタンの話しを聞いていたダビデは、それが自分のこととは思わず、その富んだ者に対して死刑だ、あわれみの心もないのだと話します。このダビデの話しを聞いていたナタンは、ダビデに「あなたがその人です。」と告げます。そして本文の7節と8節でその理由を説明しました。そこには、神様がダビデに有り余るほどすべてのことを与えてくださったのに、ダビデはそのような神様の戒めをさげすみ、他人の妻を取り、その妻の夫は殺してしまったと言うことでした。このようにして神様はナタンを通してダビデの罪を指摘してくださいました。この時まで誰もダビデに対してその罪を指摘しませんでした。そしてダビデも自分の罪を悟ることが出来ず、色々な理由をつけて自分を弁護しようとしたかもしれません。却ってバテ・シェバが悪いとか、ウリアが悪いとか、その時に状況が良くなかったなど、自分の罪ではなく他人のせいにしていたのです。
そんな時、神様はダビデの罪を指摘し教えてくださったのです。そしてダビデはそう指摘された時、すぐに「私は主に対して罪を犯した。」と告白しました。この告白こそ神様が求めておられたことでした。そのように悔い改めるダビデに対して、神様はその罪を見過ごしてくださる、と仰ってくださいます。本日よりアドベントが始まりました。私のために、私を罪と永遠の滅びから救ってくださるために来られたイエス・キリスト、そのキリストのゆえに私たちの罪を赦してくださる神様の恵みを覚えて歩んで行きたいと思います。
「目を覚ましていなさい」 ルカの福音書12章35-40節
ルカの福音書12章においてイエス様は弟子たちに弟子としての歩み方について教えておられます。そして本日の本文では、主人の帰りを待っているしもべの例え話を通して待ち続けることの大切さを教えてくださいます。本文の例え話で出て来る主人はイエス・キリストであり、しもべは弟子たち、またはクリスチャンのことです。そして主人か帰って来ると言うことは、イエス様が再びこのように来られる終わりの時、再臨のことです。しもぼたちが主人の帰りを待っているように、クリスチャンもイエス様が再び来られることを覚えて待ち続ける生き方をしなさい、と言うことが例え話の内容です。
そのような例え話の中で、先ず私たちはしもべがどんな姿をして主人を待っているのかを見ることが出来ます。婚礼から帰って来られる主人ですが、その帰りを待っているしもべは主人がいつ帰って来られるのか全く分かりません。それが真夜中なのか、夜明けなのか分かりません。しかし主人が帰って来られた時、しもべは主人を迎えなければならないので、その準備をしていなければならないのです。特に腰に帯を締めて、あかりをともしていると言うことは、主人がいつ帰って来られても迎え得ることができるように準備しているしもべの姿です。イエス様は私たちにそのようなしもべであるように、と仰ってくださいます。
そしてそのようにいつも準備をしていて、主人が帰って来られた時に主人を迎えたしもべに対して主人は驚くことをやってあげるのでした。それは、主人のほうが帯を締めてそのしもべのそばについて給仕をしてくれるということです。この世では考えられない風景ですが、それが私たちクリスチャンに与えられる恵みなのです。ですから私たちはいつその日が来るのかは分かりませんが、イエス様は必ず帰って来られるということとその時に私たちに与えられる恵みを覚えて、目を覚まして待ち続ける者となりたいと思います。