「金持ちとラザロ」 ルカの福音書16章19-28節
本日の本文は非常に有名な例え話です。教会学校のお話しでも良く聞くことが出来る内容であって、皆様もご存じの内容だと思います。それでも改めて例え話の内容を確認し、私たちに与えられる教えを考えて見たいと思います。
先ず、イエス様は金持ちについてお話しして下さいます。金持ちは「いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」と書いてあります。紫の衣や細布は非常に高価の服でありまして、いつもそのような服を着ていて、毎日ぜいたくな宴会を開いていたということです。それは、彼は物凄い金持ちであるということが強調されている説明でありまして、この話しを聞いていたユダヤ人たちは、彼は神様から大きな祝福を頂いていると思ったことでしょう。そのような金持ちの家の門の前にラザロという人がいました。ラザロは全身におできがあってとても貧しい人でした。病気のため何も出来ず、門の前に横になっていて「金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っている」大変な状態でした。
金持ちとラザロは一つの空間にいましたが、まるで別世界で生きていたのです。ところが二人に同じことが起こりましたが、それは「死」ということでした。そしてその死後の状態は、生きている時とは全く違う物でありました。この世で病気や貧しい生活で大変であったラザロは御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれましたが、金持ちは永遠の苦しみのハデスに落ちたのです。このような結果になったのは何故でしょうか。ラザロはこの世での姿は誰よりも貧しくて悲惨なものでしたが、しかし救いという神様の恵みを頂いていたことでしょう。そして金持ちは毎日何一つ足りないもののないぜいたくな生活をしていましたが、しかし神様の恵みは頂くことは出来なかったのです。結局、金持ちは神様のみことばに聞かず自分勝手な生活していたのです。その反面ラザロは大変な生き方の中でも神様のみことばに耳を傾け、神様だけを見上げ、神様だけに頼ったのです。私たちも大変なことがあっても神様竹の頼り歩む者となりたいと思います。
「走る続ける信仰」 ヘブル人への手紙12章1-6節
ヘブル人への手紙は激しい迫害の中にあるクリスチャンに送られた手紙です。大迫害が始まり、その時のクリスチャンは大変な状況に置かれました。それでも迫害が始まった最初の時には、信仰の中で良く耐え忍んだと思います。しかし、迫害の時間が長くなればなるほど、信仰を捨てて教会から離れる人々を多くなったのです。いつ迫害が終わるのか、全く先が見えない状況の中で多くのクリスチャンは信仰を捨てました。そういう時期に、この手紙の著者は、信仰の歩みを競走に比べながら迫害の中にあったクリスチャンを励ましたのです。特に11章では多くの信仰の証人たちを紹介し、彼らが歩んでいたのように「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」と勧めています。
その中で、先ずは重荷とまつわりつく罪を捨てなさい、と勧めています。これは信仰の競走において妨げになるものや倒れるようにするものなどのことです。人其々が持っている弱さや、足りないところがあります。不平不満やつぶやき、又は自己中心的行ない、高慢や偏見など。それらは私たちの疲れるようにするものであり、神様との関係において邪魔になるものです。そういうものを全て捨てなければなりません。二つ目は、忍耐しなければならない、ということです。私たちの信仰の競走は短距離走ではなく、マラソンのように長く競走するものです。ですから、諦めたくなったり、止まりたくなったりする時も、忍耐を持って最善を尽くして前に進んで行かなければなりません。最後に三つ目は、イエス様から目を離さないで走り続けることです。私たちの信仰を始めて下さり、完成させてくださるイエス様に焦点を合わせて走り続けなければなりません。
濃い霧がかかっている海の中でも、灯台の光に向かって進めば無事に港に着く事が出来ます。私たちの信仰の歩みにどんなに大変なことがあるとしてもイエス様を見上げ、忍耐を持って走り続ける者になりたいと思います。
「主の願う道を歩む新年」 ローマ人への手紙12章14節~16節
今日の聖書箇所には、迫害する者たちを呪うのではなく祝福しなさいとあります。それに続いて「喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい」と記されています。自分を迫害する者の祝福を願うことを考えますと、それは難しいことだと思うのです。それに続いて、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣くという勧めがある訳ですが、それは迫害する者のために祝福を願うことと同じくらいに難しいことだからではないでしょうか。言い換えるならば、喜ぶ者とともに喜ぶこと、泣く者とともに悲しむという、聖書の言葉に従うためには、迫害する者のために祝福を祈るという決心と愛がなければ到底できることではないことを聖書は教えているではないでしょうか。
悲しんでいる人は、その悲しみがあまりにも深い時には、慰められることを拒否するということもあります。そういう人と共に悲しむことは難しい、牧師になりまして、何度も経験したことです。一方で喜んでいる人は、一緒に喜んで下さいと喜びの中に相手を招こうとしますが、私たちの中に、うらやましさがあったりして、これまた素直に応じられないこともあります。それでありながら、自分にとって喜ぶ時に一番必要とするのは、一緒に喜んでくれる人であり、悲しいは、一緒に泣いてくれる人を必要とするのです。そう考えますと、自分はなんと身勝手で、弱く、罪深い者であるかを思い知らされます。どうしたら、そのような罪と弱さから解放されて、神の願う、共に喜び、共に泣くという、生き方ができるのでしょうか。続くローマ人への手紙12章16節にはこうあります。
「互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。」
秘訣がここにあります。一つ心になって思いあがることをやめ、自分を知恵ある者とすることを、やめてみることです。言うならば、静まり、神の前にへりくだることです。現代は○○ファーストという言葉に溢れています。国はもとより、個人においてもそうかも知れません。言い換えるならば、相手をひざまずかせることに夢中です。
私たちは神の前に静まり、ひざまずくことなしに、神の祝福を受けることは出来ません。新しい年を迎えましたが、天地万物を造り、私たちに命をあたえておられる神に礼拝を捧げること、それこそが主の願う道です。そこに「喜ぶ者と喜び、泣く者と共に泣く」という生き方が、神の恵みとして、私たちに与えられるのです。
「主の御業によって」 第二列王記5章1-7節
本日の本文は、アラムの将軍であるナアマンという人物についてのことです。私たちは、この本文を通して、異邦の国で神様を知らないナアマンにも神様は非常に細密に導いて下さるお方であることを見る事が出来ます。本文の1節によりますと、ナアマンは、主君、即ちアラムの王様にも重んじられ尊敬される人物でした。アラムの将軍であるナアマンは、地位も名誉もあって多くの人々からも尊敬される人物であったと考えられます。そういうナアマンは、社会的身分や、地位、名誉、そして権力や富まで何一つ足りないものはない人であったでしょう。
ところが、1節の終わりには「この人は勇士であったが、チャラアトに冒されていた。」と書いてあります(新改訳2017)。これは何を表わしている事でしょうか。それは完璧に見える者、足りないものはないように見えるナアマンにも、深い悩みがあったということでしょう。王様までも彼を重んじ尊敬している、戦いにおいても勇敢な勇士であったが、彼はチャラアトという大変深刻な病で深く悩んでいた、といことです。幾らナアマンであるとしても、このチャラアトだけは自分の力で解決できないことであって、それは彼の人生において大きな苦しみであり大きな悩みであったのです。
神様は、そのようなナアマンを預言者エリシャに出会うように導いてくださり、やがては神様を信じるように導いてくださいます。2節から6節までの内容を通して、私たちはナアマンを細密に導いてくださる神様を見ることが出来ます。捕虜になった若い娘から女主人、ナアマンとアラムの王様まで、そこには神様の見えない御業が働かれ、ナアマンを神様へまで導いてくださったことです。そしてそのような細密な神様の守りと導きは私たちにも与えられているものです。そのような私たちの人生は神様の恵みでないものはないし、神様の導きの中にないものは一つもありません。そういう神様の守りと導きを覚えて、今年も神様に頼りその教えに従って歩む者になりたいと思います。
「謙遜と平和の君」 ミカ書5章2〜6節
本日の本文は、キリストがベツレヘムでお生まれになる、という予言の代表的な箇所です。神様は預言者ミカと通して予言のみことばを与えてくださいますが「ベツレヘムでイスラエルの支配者になるものが出て、彼の力が地の果てまで及び、平和が与えられ、アッシリヤから救ってくださる」ということでした。ミカはイスラエルの暗闇の時期に活動した預言者です。時期的に北イスラエルはアッシリヤによって滅び、多くの民は捕虜になりアッシリヤに連れて行かれました。そして南ユダもアッシリヤやバビロンなどから侵略を受け、大変な時期でした。そのような時に、神様はイスラエルの回復とともにメシヤについての予言のみことばを与えってくださったのです。
そのメシヤは謙遜なお方としてこの地に来られます。本文の2節によりますと、イスラエルの支配者になる者がベツレヘムから出てきます。ベツレヘムはダビデの町ですが、イエス様が生まれる頃には田舎の中での田舎でした。神であられるキリストが人となってお生まれになる、それも誰からも注目されないベツレヘムでお生まれになるということは、謙遜なお方としてこの地に来てくださるということを現していることです。
そしてキリストは平和をもたらすお方としてこの地に来てくださいました。私たちの敵である悪魔は、吠え猛る獅子のように、食い尽くすものを捜し求めながら歩きまわっています(Ⅰペテロ5:8)。このキリストこそ、悪魔のすべての力を打ち砕かれ、ご自分の民を救ってくださり、完全な自由と平和を与えてくださるお方です。また、堕落し罪を犯し続けて神様から遠く離れていた私たちに、神様の敵となった私たちに神様との和解を与えてくださるお方です。
クリスマスの時に、私たちは何を喜ぶでしょうか。謙遜と平和の君としてこの地に来てくださいましたキリストを喜び、そのお方に学んで謙遜な姿でへりくだり、平和をもたらす者になりたいと思います。
「心を知っておられる神」 ルカの福音書16:14〜18
本日の本文は「金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。」と始まります。パリサイ人たちが聞いていたことは、すぐ前にある「不正な管理人のたとえ話」です。そのたとえ話の中でイエス様は将来のことを覚えて今与えられているものを用いなさい、と教えてくださいました。そして最後には「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」と仰ってくださいました。それを聞いていたパリサイ人たちはイエス様をあざ笑っていた、ということですが、それは何故でしょうか。それはパリサイ人たちは富とは神様からの祝福のしるしだと思っていたからです。ですから富んでいる者は神様から祝福された者であって、神様と富というものは両立できると考えていました。ところが、イエス様が自分たちが持っていた富やお金の考え方とは違うことを話しましてあざ笑っていた、ということです。
しかし、パリサイ人たちの本当のところは「人の前で自分を正しいとする者」であって人間の間であがめられたいと思っているということでした。そのために律法を厳しく守っていたことでした。ですからパリサイ人たちは神様を愛していたわけではありません。目に見えない神様のみことばや教えはどうでも良いと思い、目の前にいる人間にあがめられたく、自分がいかに正しい者であるのかを見せたくてのことでした。
そのためにパリサイ人たちは律法の真意は分からないまま、自分の都合の良いものとして自分勝手に変えてしましました。イエス様はその一つの例えとして、離婚のことを取り上げて神様のみこころとは違う規則を作って、自分を正しい者とするために用いているのかを仰ってくださいます。しかし、神様は心を知っておられるお方であって私たちのうわべではなく心をご覧になります。大切なことは、神を愛し隣人を愛する心から出て来る行いです。私たちの心を知っておられる神様の御前で、私たちの心が愛によって変えられたいと思います。
「聞き従う人生」 列王記第一 14章1〜5節
本日の本文 は北イスラエルの最初の王であるヤロブアムの息子アビヤが病気になったことから始まります。息子が病気になると、ヤロブアムは妻を変装させて預言者アヒヤに送り、息子のことについて聞いた、ということが本文の内容です。この本文を理解するためにはヤロブアムがどういう人物なのかということを考えてみなければならないと思います。
ある日、預言者アヒヤは「見よ。わたしはソロモンの手から王国を引き裂き、十部族をあなたに与える。」という神様からのみことばを伝えます。その後、ソロモン王が死んで息子であるレハブアムがイスラエルの王になります。ところが、レアブアムの愚かな選択によってイスラエルは南のユダと北のイスラルの二つに分かれます。そして預言者アヒヤの予言通りに、ヤロブアムは北イスラエルの王になりました。王になったヤロブアムには一つの悩みがありましたが、主の宮がエルサレムにあるため、北イスラエルの民の心がレアブアムに戻ってしまうのではないか、ということでした。それでヤロブアムは金の子牛二つを造って、ベテルとダンに一つずつおいて祭壇を築きました。そして民に、ベテルとダンにある金の子牛はあなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々であるのでエルサレムまで登る必要はないと言いました。
その頃、ヤロブアムの息子が病気になったことでした。そこでヤロブアムは妻を預言者アヒヤに送った、ということです。それは何を言いますでしょうか。それはヤロブアムは、金の子牛やベテルとダンに築いて祭壇、そしてそこになる祭司たちが全て偽物であることが知っていた、ということです。即ち、ヤロブアムは真の神様を知っていましたが、その教えを戒めを自分勝手に変更し、自分の目的のために使ったということです。また、自分の必要な時だけによって神様に助けを求めたということです。私たちはどうでしょうか。主の教えをそのまま聞き従う人になるように祈り求めながら歩んで行きたいと思います。
「御霊によって歩む」 ガラテヤ人への手紙5章16〜24節
神の民である私たちの生き方において本当に大切なことは、その人の人生がどのようなものによって満たされているのか、ということだと思います。罪赦されて救われた私たちの歩みは御霊に従うことによって歩むべきであるし、その歩みを神様は喜ばれると思います。ですから新しい命が与えられた後、私たちがどのよう生き方をしているのか、ということはクリスチャンにとって非常に重要なことです。本文のみことばを通してパウロは肉による歩みと御霊による歩み、そして肉の行いと御霊の実について語ります。それでは肉の願いとはなんでしょうか。そして救われて新たにされた私たちの人生は何によって満たされるべきでしょうか。
パウロは肉の行いについて19節〜21節において、色々な現象をもって説明しています。そこに並べられている行いは肉の欲望や肉の願いに従った者に現れる姿なのです。ですから、その人の生き方に現れる行いを通して、その人が肉の欲望に従っているかどうかがわかります。本文の21節の後半には「こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。」と語られています。それは肉の行いを行い続けている人々が、神の国を相続することはない、ということです。ですから、私たちが私たちの生き方に肉の行いがあるかないか、ということを深く考えて見なければなりません。そこでもし肉の行いがあるならば、それを悔い改めなければなりません。
それでは私たちがクリスチャンとして私たちの生き方に満たさなければならないものは何でしょうか。それは御霊によって歩むことです。そして御霊によって歩むことによって、私たちの信仰の歩みにおいても御霊の実が結ばれるようになります。今までの私たちの人生は何によって満たされているのでしょうか。肉の行いではなく御霊の実によって満たされるものになりたいと思います。そのために御霊によって、御霊に従って歩み、神様からの教えを実践して行く者になりたちと思います。
「永遠の栄光をもたらす」 コリント人への手紙第二4章16〜18節
本日の本文でパウロは「私たちは勇気を失いません。」と語ります。私たちは自分の人生が期待や望み通りにならない時、勇気を失うようになり、失望することになります。そしてそれは結局、落胆することです(口語訳や新改訳2017では「落胆しません」と翻訳されています)。ところがパウロの人生をよく考えて見ますと、勇気を失わない、落胆しない、ということはそんなに簡単に言えることではありません。パウロがコリントから離れてエペソに行った後、コリントからの知らせは決して良いことではありませんでした。偶像崇拝や道徳的堕落、またパウロのことを疑うということなどでした。そのような知らせを聞く度に落胆するようになると思います。しかし、パウロは「落胆しません」と語っていますが、それはどうしてでしょうか。
先ず、パウロは内なる人が日々新たにされていることを覚えていました(16節)。人間の肉体を含めてこの世の物は、すべて有限なものであり衰えていきます。Ⅰペテロ1章24節に書いてありますように、この世のものはいつかは無くなるものです。そのようなこの世の物、あるいは衰えて行く肉体ではなく、神様が日々新たにしてくださる内なる人を覚えたということです。二つ目にパウロは、今の時の歩い患難ではなく重い永遠の栄光を覚えていました。今の苦しみ、今の悩み、今の大変な問題など、それは非常い苦しいものです。しかし永遠の栄光に比べますと、それは軽いものですし、一時的なものなのです。パウロは、今の患難は永遠の栄光をもたらすということを覚えて、患難の中においても永遠の栄光を見上げていたのです。そして最後に、パウロは目に見えるものではなく、目に見えないものを見て生きて行きました。
今の私たちの人生には、私たちを落胆させるものが多くあります。病気や苦しみ、悩み、悲しみなど。その中で私たちは永遠の栄光が与えられるということを覚えて生きて行くものになりたいと思います。
「神の前での喜び」 Ⅱサムエル記6章12〜19節
本日の本文にはダビデの人生の中で最も喜んだ出来事が記されています。その出来事とは、今までユダのバアルというところに置かれていた神の箱をダビデの町に運んでくることでした。Ⅰサムエル4章でイスラエルはペリシテ人との戦いで負けてしまい、神の箱までも奪われてしまいます。その後、ペリシテ人が神の箱を置くところにおいて不思議なことが起こります。ダゴンの像が壊れていたり、町の人々に重い病気が流行ったり、神の箱を見た多くの人々が死んだりすることでした。それでペリシテ人は神の箱を恐れ、イスラエルに戻せるようになります。そしてそのようにしてイスラエルに神の箱が戻られたところがアビナダフの家でしたが、アビナダブの家の置かれてから、約70年位が経ちました。
この時、ダビデは全イスラエルの王になりました。それで今までアビナダフの家の置かれていた神の箱をエルサレムに運んでくることにしたのです。それはダビデにとっても喜んで願っていたことですし、イスラエウrの民も喜んでいたことでした。ところが、神の箱をアビナダブの家から運んで来る時に、大変な事故が起こります。神の箱を運んでいる時に、神の箱がひっくり返しそうになっウザが手を伸ばして押さえました。ところが、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ(7節)ことでした。
それを見たダビデは、神を恐れました。恐らく、ダビデはこの出来事を通して神様のみことばに従うこと、その戒めを守ることの重要性を悟ったと思います。その後、ダビデは神の箱を運ぶ時の規定を調べたと思います。そして今度は、深く恐れながら、慎重に神の箱を運ぶことができたと思います。本来はウザのように、神様の御前において滅びる存在で知ったが、神様はそのような私たちを愛してくださいました。そのような私たちと共にいてくださいます。この神様を喜んで生きて行きたいと思います。