「永遠の栄光をもたらす」 コリント人への手紙第二4章16〜18節
本日の本文でパウロは「私たちは勇気を失いません。」と語ります。私たちは自分の人生が期待や望み通りにならない時、勇気を失うようになり、失望することになります。そしてそれは結局、落胆することです(口語訳や新改訳2017では「落胆しません」と翻訳されています)。ところがパウロの人生をよく考えて見ますと、勇気を失わない、落胆しない、ということはそんなに簡単に言えることではありません。パウロがコリントから離れてエペソに行った後、コリントからの知らせは決して良いことではありませんでした。偶像崇拝や道徳的堕落、またパウロのことを疑うということなどでした。そのような知らせを聞く度に落胆するようになると思います。しかし、パウロは「落胆しません」と語っていますが、それはどうしてでしょうか。
先ず、パウロは内なる人が日々新たにされていることを覚えていました(16節)。人間の肉体を含めてこの世の物は、すべて有限なものであり衰えていきます。Ⅰペテロ1章24節に書いてありますように、この世のものはいつかは無くなるものです。そのようなこの世の物、あるいは衰えて行く肉体ではなく、神様が日々新たにしてくださる内なる人を覚えたということです。二つ目にパウロは、今の時の歩い患難ではなく重い永遠の栄光を覚えていました。今の苦しみ、今の悩み、今の大変な問題など、それは非常い苦しいものです。しかし永遠の栄光に比べますと、それは軽いものですし、一時的なものなのです。パウロは、今の患難は永遠の栄光をもたらすということを覚えて、患難の中においても永遠の栄光を見上げていたのです。そして最後に、パウロは目に見えるものではなく、目に見えないものを見て生きて行きました。
今の私たちの人生には、私たちを落胆させるものが多くあります。病気や苦しみ、悩み、悲しみなど。その中で私たちは永遠の栄光が与えられるということを覚えて生きて行くものになりたいと思います。
「神の前での喜び」 Ⅱサムエル記6章12〜19節
本日の本文にはダビデの人生の中で最も喜んだ出来事が記されています。その出来事とは、今までユダのバアルというところに置かれていた神の箱をダビデの町に運んでくることでした。Ⅰサムエル4章でイスラエルはペリシテ人との戦いで負けてしまい、神の箱までも奪われてしまいます。その後、ペリシテ人が神の箱を置くところにおいて不思議なことが起こります。ダゴンの像が壊れていたり、町の人々に重い病気が流行ったり、神の箱を見た多くの人々が死んだりすることでした。それでペリシテ人は神の箱を恐れ、イスラエルに戻せるようになります。そしてそのようにしてイスラエルに神の箱が戻られたところがアビナダフの家でしたが、アビナダブの家の置かれてから、約70年位が経ちました。
この時、ダビデは全イスラエルの王になりました。それで今までアビナダフの家の置かれていた神の箱をエルサレムに運んでくることにしたのです。それはダビデにとっても喜んで願っていたことですし、イスラエウrの民も喜んでいたことでした。ところが、神の箱をアビナダブの家から運んで来る時に、大変な事故が起こります。神の箱を運んでいる時に、神の箱がひっくり返しそうになっウザが手を伸ばして押さえました。ところが、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、神は、その不敬の罪のために、彼をその場で打たれたので、彼は神の箱のかたわらのその場で死んだ(7節)ことでした。
それを見たダビデは、神を恐れました。恐らく、ダビデはこの出来事を通して神様のみことばに従うこと、その戒めを守ることの重要性を悟ったと思います。その後、ダビデは神の箱を運ぶ時の規定を調べたと思います。そして今度は、深く恐れながら、慎重に神の箱を運ぶことができたと思います。本来はウザのように、神様の御前において滅びる存在で知ったが、神様はそのような私たちを愛してくださいました。そのような私たちと共にいてくださいます。この神様を喜んで生きて行きたいと思います。
「主は私の受ける分」 詩篇119篇57-64
神様は罪の赦しや永遠の命などの驚くべき祝福が私たちに与えてくださりましたが、神様からの最大の贈り物、また私たちの真の受ける分は、神様ご自身です。神様ご自身は私の受ける分は「私たちの真の満足と喜びを神様だけに見つけることができるという意味があります。また、天国で神様と完全で個人的な関係を喜ぶことができるという意味です。私たちは、しばしば神様が与える祝福と私たちの部分(神様ご自身)を混同します。私たちが相続するもの、または神様からの贈り物を世俗的な祝福と混同すると、私たちの幸せは、変化する周りの状況によって簡単に絶望に変わることがあります。ですので、神様のみが私の受ける分という事実によって生きることが重要なのです。しかし、神様のみが私の受ける分という事実によって生きるとはどういうことなのでしょうか? 詩篇119篇57-64節でダビデは神様のみが私の受ける分という事実によって生きるとはどういうことかを説明しています。そこには、喜びと満足感が神様のみにある人が神様の律法を愛し、神様の律法を守り、そして神様の律法を知っている姿があります。
「神様に喜ばれる者」 ヨブ記Ⅰ章6‐22節
本日の本文の最初には天上での会議が描かれています。神様がおられ、その御前に神の子ら、即ち天使たちが立っていました。そしてそこにはサタンも中に入っていましたが、そのサタンに神様がヨブのことを仰せられます。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」それを聞いたサタンは、神様に「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。」と話しました。ヨブ記1章2節、3節によりますと、ヨブには7名の息子と3名の娘が与えられ、「東の人々の中で一番の富豪であった」と説明されるほど、とても裕福で幸せな生活をし、神様を恐れる人でした。そのようなヨブが神様を恐れる理由を、サタンは神様が祝福してくださって、彼が富豪になるようにしてくださったからだと話します。そのようなものを全部取り去られたら、神様が「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者」だと仰せられるヨブも神様をのろうでしょう、ということでした。
このような天上での出来事があって、13節以降からヨブの苦しみが始まります。一瞬のうちに、ヨブは全ての財産を失います。財産だけではなく、自分の命より大切な子どもたちも命を失います。先まで東の人々の中で一番富豪であったヨブは、世界中で最も悲しくて苦しむ人になりました。全ての財産が無くなり、愛する子どもたちも失う、という現実の中でヨブは大変悲しみました。
しかし、その悲しみの中でも神様のことを覚えて地にひれ伏し礼拝しました。そして自分に起こったすべてのことは、神様の支配のもとで起こったことを認めて神様を賛美し、この苦しみによって罪を犯さなかったのです。訳の分からない、突然の苦しみの真中で、ヨブは神様を覚え、神様を礼拝し、神様を賛美したのです。そのようなヨブの姿を神様は喜ばれました。私たちも、その理由を分からない苦しみの中で、神様を覚えて、その御前にひれ伏し、神様を礼拝する者になりたいと思います。
「神様と一緒にいる」 ルカの福音書15章25-32節
ルカの福音書15章に出て来る「放蕩息子」のたとえ話は私たちが良く知っている内容です。お父さんの身代をもらって家を出た息子が、その財産を湯水のように使ってしまい、大変なことになります。豚の餌で腹を満たそうとしてもそれさえ与えようとする人もなく、飢え死にしそうな生活をするようになりました。そこで彼は悔い改めてお父さんのもとに帰って来ます。そのようの息子を赦してくださり、喜んでくださるお父さんは、彼に一番良い物を与え、彼のために盛大な宴会を開き、息子が生きて帰って来たことを祝い、喜びます。ここで私たちが良く知っている「放蕩息子」のたとえ話はハッピーエンディングで終わるようです。
しかしこのたとえ話の結論は、その後に出て来るお兄さんの話しです。と言うのは、この15章でのたとえ話はパリサイ人と律法学者たちに話してくださったこと(2節)であるからです。弟が無事に帰って来た事を知ったお兄さんは喜ばなかったのです。喜ぶところか、怒りました。そして弟のために肥えた子牛を屠って喜びの宴会を開いて下さったお父さんに対しては文句を言いました。そのようなお兄さんの言葉の中には、お父さんをお父さんとして尊敬し愛する心は少しも見つけることが出来ない、大変酷いものでした。そして家で一生懸命に働き、お父さんの戒めを守り続けて来た自分には子山羊一匹もくださらない、なのに罪深い弟のためには子牛をほふらせて宴会まで開くと、恨み妬んでいるばかりでした。
そのようなお兄さんに、父親は「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」と話してくださり、「いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」と宴会に入って共に喜ぶように招いてくださいます。私たちは、このように自分の事を「息子よ」と暖かく呼んで下さる神様を忘れてはいないでしょうか。そしていつも私たちと一緒にいてくださる神様を忘れてはいないでしょうか。父なる神様が私と一緒にいてくださる、と言う事を覚えて喜びの中で生きて行きたいと思います。
「神様を見上げる人生」 出エジプト記17章1-7節
エジプトから出て来たイスラエルの民は次から次へと、色々な出来事の中で神様の素晴らしい力を体験するようになります。分かれた葦の海を渡った事や苦くて飲むことが出来あった水が甘い水に変わったこと、また荒野でマナとうずらを食べたこと等。イスラエルの民はエジプトから出て来て、自分たちが出会う大変なことのたびにモーゼにつぶやき、神様の守りと導きの中での荒野での生活よりエジプトでの奴隷の生活が良かったと話しました。そのようなイスラエルの民に、神様はその問題を解決してくださり、神様ご自身のことを教えてくださってイスラエルが神様の民として歩むことが出来るように導いてくださいました。
本日の本文でもイスラエルの民は、神様の命令に従ってシンの荒野から旅立って、荒野での旅を重ねてレフィディムというところに着きました。荒野での旅でしたのでイスラエルの民はとても喉が渇いていたと思います。その旅の中で、次のところに着けばそこには水がいっぱいあるだろうという期待を持っていたかもしれません。しかし、イスラエルの民が到着したところには水がありませんでした。そういう問題に直面したイスラエルの民は、モーセと争い、モーセにつぶやきました。それを聞いたモーセは民を争う事ではなく、神様に祈りました。そしてモーセの祈りに対して神様は「わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」と仰せられまして、モーセがその通りに行なうと岩から水が出て来てイスラエルの民はその水を飲むことが出来ました。
そこで私たちが覚えたいことは、神様の命令に従って行ってついたところでも、飲む水がなくて渇きで死にそうなことがあるということです。そして、たとえそのような状況に置かれても、神の民である私たちは神様を見上げ、神様の導きを求めなければならないということです。私たちの人生は神様が導いてくださるのです。その人生の中で苦しみ、悩み、試練等がありましたら、それを乗り越えるようにして下さる神様を見上げる者になりたいと思います。
「イエス様を考える人生」 ヘブル人への手紙3章1-6節
本日の本文は私たちに「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」と勧めています。ここでこの手紙の著者は、イエス様を信じて従う人々について「聖なる兄弟たち」と呼んでいますが、それはこの世の中で生きていますがこの世とは区別された人々と言う意味です。世の人々と共に生きていますが、神様の民として区別された人々と言う意味です。そのような聖徒たちは、この世の中で神様を知らない人々と共に生きていますが、その心の中にはイエス様の教えを覚えて生きて行かなければならないということです。
何故なら、イエス様は私たちの告白する信仰の使徒であるからです。父なる神様が遣わしてくださったお方、神様のみこころを教えてくださるために御父より遣わされたお方という意味です。即ち、御子キリストが父なる神様のみこころを人々に教えてくださり、御救いを完成してくださるために人としてこの世に遣わされた、ということです。ですから、聖徒である私たちはこの使徒であるイエス様のことを深く考えて、そのお方が教えてくださったことに従って生きて行かなければならない、ということです。また、イエス様は大祭司であると語ります。旧約時代の大祭司はイスラエルの民全体を代表して神様の御前に出て、いけにえを捧げて罪の赦しを頂くものでした。イスラエルの民にとって神様との関係において最も大切な存在です。神様の人の間に立つ者であって、神の民を代表し、神様から罪の赦しを頂き、その恵みを民に知らせる者でありました。私たちは、私たちの雄一な、そして真の大祭司であるイエス様を覚えて神様の民として生きて行かなければありません。時に考えなさい、という言葉は深く考える、悟る、そして焦点を合わせる、などの意味があります。聖徒である私たちは使徒であり大祭司であるイエス様を深く考え、その教えて従って生きて行く者になりたいと思います。
「生き返った恵み」 ルカの福音書15章11〜24節
本日の本分は教会は勿論、多くの人々に「放蕩息子」というタイトルでよく知られているたとえ話です。ルカの福音書には三つのたとえ話が書いてありますが、そのどれも同じ教えであって「失われたものを見つかった時の持ち主の喜びが強調されています。本文のたとえ話も同じように家を出た弟息子が帰ってきたことを大変喜ぶお父さんの姿をよく見ることができます。
そのようなたとえ話の中で弟息子は何をどうしたでしょうか。彼はお父さんに、財産の分け前をください、と大変なことを求めました。人倫にはずれたことであるし、息子からそのような話を聞く親の心は氷のように凍ってしまう話しだと思います。ところが、その話しを聞いたお父さんは財産を分けて兄と弟に分けてやりました。そしてそれをもらった弟は、何日もたたないうちに、自分のものを何もかもまとめて家を出て行ったのです。そして遠い国、即ちお父さんに干渉されないところに行って、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまったのです。しかし、そのような生活は長続きできず、彼は何もかも使い果たしてしまいました。さらにその国に大きなききんが起こり、彼は食べるものさえない、大変な状況になりました。そんな彼を助けてくれる人は一人もなく、お腹が空いて豚の餌であるいなご豆でも食べたいと思いましたが、それさえ与えてくれる人がなかったのです。
そういう悲惨な状況にあった時、彼は我に返ってお父さんのところの豊かさを思い出しました。そしてお父さんのところに帰って、神様に対してお父さんに対して罪を告白しようと思ったのです。その後、彼はお父さんのところに帰ってその通りにやりましたが、その帰ってきた息子を見つけたお父さんは彼を大変ん喜び、彼を迎え入れてくださったのです。私たちの父なる神様のそばにいることの喜びを覚えたいと思います。私たちがいるべきところは、自分勝手な道ではなく父なる神様のそばである、そこに真の豊かさと喜びがあると言うことを覚えたいと思います。
「サウロの回心」 使徒の働き9章1〜9節
本日の本文は、使徒パウロの回心の出来事です。このパウロの回心はキリスト教においてとても大きな影響になった出来事です。パウロは新約聖書の27の書の中で13の書を書きまして、その中には神学的に、そして教理的に非常に重要な教えが多くあります。聖書だけではなく、世界宣教においてもパウロの役割と活動は非常に大きなものであります。そういうパウロですが、彼の回心前はどうたったでしょうか。本文の1節、2節によりますと、サウロは「なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて」いて、「この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった」とエルサレムから遠く腫れているダマスコまで行くほど情熱的でした。
ところがそのようなサウロでしたが、神様はそのサウロをそのままに置かなかったのです。クリスチャン捕まえるために向かったダマスコの途上に、サウロは驚く経験をするようになります。それは、突然、天からの光に照らされ「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞くことでした。驚いたサウロはその場で倒れ、「主よ。あなたはどなたですか。」と聞きますと、その声は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と答えたことでした。このような経験をしたサウロは大きな衝撃を受けたと思います。目が見えなくなったサウロは人々の手に引かれてダマスコに入り、三日間、何も見えず、食べることも飲むこともしなかったのです。
この三日間、サウロは何をしたでしょうか。何も見えなかったサウロは、飲み食いもしないで、自分に起こった出来事についてゆっくり考えてみたと思います。そしてその中で、自分の今まで考えていたことが間違ったことがわかり、イエスがキリストであることを信じるようになったのです。神様はこのようにして、大迫害者サウロを回心させてくださり、そしてあの偉大な伝道者にしてくださいました。この神様の不思議な力を覚えて、私たちに与えられた救いを感謝し、宣べ伝えるものになりたいと思います。
「見つけられる恵み」 ルカの福音書15章1〜10節
本日の本文にはなくしたものを見つけた時の持ち主の喜びについてのたとえ話が書いてあります。このルカの福音書15章には三つのたとえ話がありますが、4〜7節は「いなくなった一匹の羊」、8〜10節は「なくした銀貨一枚」そして11節以降には有名な「放蕩息子」のたとえ話があります。このような三つのたとえ話の共通点は、何かをなくしたということです。羊飼いは一匹の羊を、女性は銀貨一枚を、お父さんは愛する息子をなくします。しかし、そのなくしたことで終わってしまうことではなく、そのなくしたものを再び見つけてもとのところに帰ってきます。そのようなたとえ話の中で強調されていることは、なくしたものを必死に捜す持ち主の姿、そしてそれを見つけるためにどれほど努力するのか、また見つけた時の喜びがどれほど大きなものなのか、ということです。
その一つ目は4〜7節では、ここにはいなくなった一匹の羊のたとえ話が書いてあります。非常に有名な内容ですが、ここで描かれていることは、いなくなった一匹の羊を捜すために歩き回る羊飼いと、その一匹の羊を見つけた時に大喜びで帰ってくる羊飼いです。少し離れたところやそこら辺を捜してみていなければ言えて帰ってしますことではなく、必死に見つけるまで捜し、見つけた時には大きく喜ぶ羊飼いです。そして8〜9節ではなくした銀貨一枚を捜す女性の話しです。ここにおいてもその女性は「あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜す」のでした。また、銀貨一枚なのですが、それが見つかった時、羊飼いを同じように大きく喜ぶ姿が書いてあります。
このようなたとえ話を通して私たちはまず、私たちを見つけてくださる神さまを覚えることができます。羊のようであって、いつもさまよい、自分勝手に行ってします私たちを神様は見つけてくださるのです。そしてそんな私たちさえも喜んでくださる神さまです。私たちはこのような神様のことを覚えて力と励ましを頂きたいと思います。