礼拝メッセージ要旨

9月30日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「イエス様を考える人生」           ヘブル人への手紙3章1-6節
 本日の本文は私たちに「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」と勧めています。ここでこの手紙の著者は、イエス様を信じて従う人々について「聖なる兄弟たち」と呼んでいますが、それはこの世の中で生きていますがこの世とは区別された人々と言う意味です。世の人々と共に生きていますが、神様の民として区別された人々と言う意味です。そのような聖徒たちは、この世の中で神様を知らない人々と共に生きていますが、その心の中にはイエス様の教えを覚えて生きて行かなければならないということです。
 何故なら、イエス様は私たちの告白する信仰の使徒であるからです。父なる神様が遣わしてくださったお方、神様のみこころを教えてくださるために御父より遣わされたお方という意味です。即ち、御子キリストが父なる神様のみこころを人々に教えてくださり、御救いを完成してくださるために人としてこの世に遣わされた、ということです。ですから、聖徒である私たちはこの使徒であるイエス様のことを深く考えて、そのお方が教えてくださったことに従って生きて行かなければならない、ということです。また、イエス様は大祭司であると語ります。旧約時代の大祭司はイスラエルの民全体を代表して神様の御前に出て、いけにえを捧げて罪の赦しを頂くものでした。イスラエルの民にとって神様との関係において最も大切な存在です。神様の人の間に立つ者であって、神の民を代表し、神様から罪の赦しを頂き、その恵みを民に知らせる者でありました。私たちは、私たちの雄一な、そして真の大祭司であるイエス様を覚えて神様の民として生きて行かなければありません。時に考えなさい、という言葉は深く考える、悟る、そして焦点を合わせる、などの意味があります。聖徒である私たちは使徒であり大祭司であるイエス様を深く考え、その教えて従って生きて行く者になりたいと思います。

9月23日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「生き返った恵み」             ルカの福音書15章11〜24節
 本日の本分は教会は勿論、多くの人々に「放蕩息子」というタイトルでよく知られているたとえ話です。ルカの福音書には三つのたとえ話が書いてありますが、そのどれも同じ教えであって「失われたものを見つかった時の持ち主の喜びが強調されています。本文のたとえ話も同じように家を出た弟息子が帰ってきたことを大変喜ぶお父さんの姿をよく見ることができます。
 そのようなたとえ話の中で弟息子は何をどうしたでしょうか。彼はお父さんに、財産の分け前をください、と大変なことを求めました。人倫にはずれたことであるし、息子からそのような話を聞く親の心は氷のように凍ってしまう話しだと思います。ところが、その話しを聞いたお父さんは財産を分けて兄と弟に分けてやりました。そしてそれをもらった弟は、何日もたたないうちに、自分のものを何もかもまとめて家を出て行ったのです。そして遠い国、即ちお父さんに干渉されないところに行って、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまったのです。しかし、そのような生活は長続きできず、彼は何もかも使い果たしてしまいました。さらにその国に大きなききんが起こり、彼は食べるものさえない、大変な状況になりました。そんな彼を助けてくれる人は一人もなく、お腹が空いて豚の餌であるいなご豆でも食べたいと思いましたが、それさえ与えてくれる人がなかったのです。
 そういう悲惨な状況にあった時、彼は我に返ってお父さんのところの豊かさを思い出しました。そしてお父さんのところに帰って、神様に対してお父さんに対して罪を告白しようと思ったのです。その後、彼はお父さんのところに帰ってその通りにやりましたが、その帰ってきた息子を見つけたお父さんは彼を大変ん喜び、彼を迎え入れてくださったのです。私たちの父なる神様のそばにいることの喜びを覚えたいと思います。私たちがいるべきところは、自分勝手な道ではなく父なる神様のそばである、そこに真の豊かさと喜びがあると言うことを覚えたいと思います。

9月16日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「サウロの回心」                 使徒の働き9章1〜9節
 本日の本文は、使徒パウロの回心の出来事です。このパウロの回心はキリスト教においてとても大きな影響になった出来事です。パウロは新約聖書の27の書の中で13の書を書きまして、その中には神学的に、そして教理的に非常に重要な教えが多くあります。聖書だけではなく、世界宣教においてもパウロの役割と活動は非常に大きなものであります。そういうパウロですが、彼の回心前はどうたったでしょうか。本文の1節、2節によりますと、サウロは「なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて」いて、「この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった」とエルサレムから遠く腫れているダマスコまで行くほど情熱的でした。
 ところがそのようなサウロでしたが、神様はそのサウロをそのままに置かなかったのです。クリスチャン捕まえるために向かったダマスコの途上に、サウロは驚く経験をするようになります。それは、突然、天からの光に照らされ「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞くことでした。驚いたサウロはその場で倒れ、「主よ。あなたはどなたですか。」と聞きますと、その声は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と答えたことでした。このような経験をしたサウロは大きな衝撃を受けたと思います。目が見えなくなったサウロは人々の手に引かれてダマスコに入り、三日間、何も見えず、食べることも飲むこともしなかったのです。
 この三日間、サウロは何をしたでしょうか。何も見えなかったサウロは、飲み食いもしないで、自分に起こった出来事についてゆっくり考えてみたと思います。そしてその中で、自分の今まで考えていたことが間違ったことがわかり、イエスがキリストであることを信じるようになったのです。神様はこのようにして、大迫害者サウロを回心させてくださり、そしてあの偉大な伝道者にしてくださいました。この神様の不思議な力を覚えて、私たちに与えられた救いを感謝し、宣べ伝えるものになりたいと思います。

9月9日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「見つけられる恵み」             ルカの福音書15章1〜10節
 本日の本文にはなくしたものを見つけた時の持ち主の喜びについてのたとえ話が書いてあります。このルカの福音書15章には三つのたとえ話がありますが、4〜7節は「いなくなった一匹の羊」、8〜10節は「なくした銀貨一枚」そして11節以降には有名な「放蕩息子」のたとえ話があります。このような三つのたとえ話の共通点は、何かをなくしたということです。羊飼いは一匹の羊を、女性は銀貨一枚を、お父さんは愛する息子をなくします。しかし、そのなくしたことで終わってしまうことではなく、そのなくしたものを再び見つけてもとのところに帰ってきます。そのようなたとえ話の中で強調されていることは、なくしたものを必死に捜す持ち主の姿、そしてそれを見つけるためにどれほど努力するのか、また見つけた時の喜びがどれほど大きなものなのか、ということです。
 その一つ目は4〜7節では、ここにはいなくなった一匹の羊のたとえ話が書いてあります。非常に有名な内容ですが、ここで描かれていることは、いなくなった一匹の羊を捜すために歩き回る羊飼いと、その一匹の羊を見つけた時に大喜びで帰ってくる羊飼いです。少し離れたところやそこら辺を捜してみていなければ言えて帰ってしますことではなく、必死に見つけるまで捜し、見つけた時には大きく喜ぶ羊飼いです。そして8〜9節ではなくした銀貨一枚を捜す女性の話しです。ここにおいてもその女性は「あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜す」のでした。また、銀貨一枚なのですが、それが見つかった時、羊飼いを同じように大きく喜ぶ姿が書いてあります。
 このようなたとえ話を通して私たちはまず、私たちを見つけてくださる神さまを覚えることができます。羊のようであって、いつもさまよい、自分勝手に行ってします私たちを神様は見つけてくださるのです。そしてそんな私たちさえも喜んでくださる神さまです。私たちはこのような神様のことを覚えて力と励ましを頂きたいと思います。

9月2日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「罪を見過ごしてくださる神」         Ⅱサムエル記12章7−13節
 本日の本文はあの偉大なダビデが、あの信仰深いダビデが罪を犯してしまった、ということがナタンによって暴露される内容です。その罪というのは、本文のすぐ前の11章に書いてあるダビデの姦淫と殺人の罪です。ある日、王宮の屋上を歩いていたダビデは、一人の女性が体を洗っているのを見ました。彼女について調べたら、自分の部下ウリヤの妻であることが分かりましたが、ダビデは彼女を自分のとろこに呼び、姦淫の罪を犯します。その後、彼女がみごもったことを知り、それを隠すためにウリヤを家に帰らせますがダビデの思う通りに行かず失敗してしまいます。結局、ダビデはウリヤを最も激しい戦場に送り、ウリヤが死ぬようにしました。その後、ウリヤの妻、バテシェバを迎え入れ、ダビデの姦淫と殺人の罪はそのまま隠されるようです。
 しかし、そのすべてを神様はご覧になっておられ、ダビデのところにナタンを遣わし、その罪を指摘します。ナタンは一つのたとえ話を通してダビデの罪が死刑になる程、深刻なことだということをダビデに告げます。そしてダビデの罪がどんことなのか、詳しく説明しますが、それは「あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。」ということでした。そこまでダビデは自己弁明をしていたかもしれません。自分の罪の責任を他の人のせいにして、自分は悪くないのだ、と思っていたかもしれません。しかし、そのダビデに神様がダビデの罪を指摘し、罪を教えてくださったのです。
 その話を聞いたダビデはすぐに「私は主に対して罪を犯した。」と自分の罪を認め告白しました。そしてそのようなダビデに対して神様は「あなたの罪を見過ごしてくださった。」と赦しを与えてくださったのです。神様がダビデの罪を指摘し、罪を悟るようにしてくださった理由は他ではなく、その罪を赦してくださるためでした。私たちが何か罪を犯してしまった時、それを知りましたら、このような赦しの神様のことを覚えて悔い改めましょう。私たちの罪を赦してくださる神様、その神様が喜ばれる道を歩んでいく者になりたいと思います。