礼拝メッセージ要旨

7月8日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「主イエスの死を学ぶ」            ルカの福音書9章18~27節

ペテロたちにとって、それは全く予想もしなかった言葉でした。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、捨てられ、殺される」(ルカ9:22)という主イエスの言葉に衝撃を受けたのです。これまで弟子たちは、主イエスの力ある業、権威に満ちた言葉と教え、多くの民衆から尊敬と感謝で受け入れられている「強いイエス」だけを見てきました。それは主イエスが、自分たちの期待通りのお方であったということの確かな証拠でした。ですからペテロは「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と問われた時、迷うことなく「神のキリストです。」(ルカ9:20)と告白したのです。しかし、その直後に主イエスの予告された苦難と十字架の死の意味が理解できなかったのです。ではなぜ、ここで主イエスはご自身の十字架の苦しみと死を予告なさったのでしょうか?それは、弟子たちに対して「強いイエス」だけを見ていては、死の意味が理解できない。主イエスの弱さの部分を見て始めて、本当の主イエスの死の意味が理解できる。そのために十字架の死という弱さを、弟子たちに教えなければならなかったのです。しかし十字架に現れる主イエスの弱さは、主イエスが弱いのではなく、実は弟子たちの弱さ、私たちの弱さなのです。この事が理解できるのは主イエスの十字架と復活の出来事を通してでした。あの十字架の死の場面で、「あなたは神のキリスト」と告白したペテロは、主イエスを裏切り、他の弟子たちも見捨てて逃げたのです。彼らはこの事を通して、弱い自分を知ることになります。そんな弟子たちや私たちに、主イエスは強さだけを示そうとはされませんでした。私たちの弱さ故に、その弱さ、苦しみを共にされる主イエスの本当の姿をお見せになられたのです。ペテロは主イエスを裏切るという、自らの弱さを通して主イエスの死の意味を知ることができたのです。罪人として死。罪の結果としての死。その自分の死というものを、主イエスは十字架の死を通して解決して下さった。主イエスの罪の贖いの死という、死の重みを悟ったのです。ペテロは主イエスの死を学ぶことにより、必ず訪れる自分の死を、主イエスの死にきちんと組み込んで生きたのです。死よりも強い主イエスの愛によって生かされていることを十分に自覚しながら生きたのです。


7月1日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

神の創造といのち(2)―死ぬ命 死なす命―      創世記2章4~8節

現代社会に生きる私たちは、主イエスの時代にはなかった新たな「いのち」の問題に直面しております。「生命倫理」と呼ばれる、『脳死、臓器移植、安楽死、自殺、尊厳死』等です。現代ほど生命の尊厳が危機に瀕している時代はありません。このような時代だからこそ、聖書の視点から「いのち」の問題を考える必要があります。聖書は私たちのいのちについて、神によって創造され、神に「いのちの息を吹き込まれ、そこで人は生きものとなった。」(創世記2:7)と語ります。私たちのいのちは、神の眼差しのもとで、神と人とは愛し合う交わりの中で、豊かないのちを育むことが出来るのです。この神との関係に生きるいのちであるという視点から、脳死と臓器移植を考える時、脳死の問題点は、脳死をその人の死と見なし、心臓や肺は動いていても、個人として死んでいる状態であり、生きているとは言えないと判断することです。特に長期脳死の場合、家族や医師にとって負担がかかり、本人にとっても利益になるものでなく、そのため延命の停止が行われ、臓器提供という手順になります。このように延命しても機能回復の見込みがない脳死は、身体全体の善のために臓器移植は正当化されてきました。最近6才未満の男児が初の脳死と判定され、臓器提供が行われたことが話題になりました。しかしここで重要なことは、そのいのちは死んでいるのではなく、紛れもなく生きている、かけがえのないいのちであると言うことです。そしてその生を否定することは出来ないのです。いのちをこのように見ることこそ、創造者である神の眼差しではないでしょうか。6才の男児の場合、確かに家族にとって辛く悲しいだけでなく、難しい決断であったと思います。そういう中で家族はこの男児と「あなた」と「わたし」という関係を持ち続けないと決断したのです。一方同じ脳死になった2才の女児の家族は、その子と人格的な触れ合いを持ち続け、看病し、女児が亡くなるまでの1年9ヵ月を一緒に生きました。母親は言いました。「脳死であっても、家族と共にそこから始まる、幸せな時間があるということを忘れないでください。脳死宣告は死亡宣告ではないのです。その子が自分のいのちの灯を消す日まで、しっかり寄り添って共に生きてください。脳死は死ではありません。」この家族にとって女児の死は1年9ヵ月後に亡くなったのです。詩編の作者は自分のいのちは、母の胎のうちで神が組み立て造られたものであると告白し、次のように神を賛美しました。「私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために造られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」(詩編139:14~16節)

6月24日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「恐れないで、ただ信じなさい」      ルカの福音書8章49~56節

「あなたのお嬢さんはなくなりました。」という知らせは、ヤイロに「間に合わなかったか!」という無念さと、死で全てが終わりであるという絶望が、彼を深く悲しませたのです。ここまで精一杯やった。しかし力尽きた。イエスは自分の望む方向に事態を好転させて下さらなかった。ポッカリ穴のあいたヤイロの心に、イエスの言葉が投げこまれます。「恐れないで、ただ信じなさい。」そのイエスの言葉だけが、彼の胸中にひびくのです。イエスは「死」が終点ではなくて、「途中」でもあるかのように前へ進んで行こうとされます。だれであっても「死」の前では引き下がらなければならないというのに、イエスはそれを踏みつけて前へ進もうとされるのです。ヤイロが恐れと絶望へと引きずり込まれようとしているその時に、待ったをかけるかのように「恐れないで、ただ信じなさい。」というイエスの声が彼に届くのです。少女の死を前にして人々は泣き叫び、騒ぎ立てているところにヤイロはイエスと共に戻ります。イエスは嘆き悲しむ人々に向かって「泣かなくてもよい。死んだのではない。眠っているのです。」と言われます。しかし人々は「あざ笑った」のです。力尽きて絶望した人にはイエスの言葉は届かないのです。イエスは私どもの死を神の視点から見ていて下さる。ヤイロの娘は主イエスの神によって起こされたのです。「子どもよ。起きなさい。」それはやがてイエスを死から甦らせた神のあの復活を予告させる出来事でありました。少女はすぐに起き上がり、少女に食物が与えられます。これは復活後ガリラヤ湖畔で共に魚を焼くイエスとペテロたちの光景の予告編でもありました。やがて私どもも死の床につく時、復活の主イエス・キリストが「さあ起きなさい」と声をかけて下さる。私どものいのちは再び立ち上がる。そしてキリストの復活のいのちにあずかるのです。今ヤイロはこの事実を自分の目で見、触れることによってその信仰はより確かなものにされていったのです。

6月17日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「力の限り、ふさをつかむ信仰」        ルカの福音書8章40~48節

人は同じ時間を生きても、「生」という字に読み方が幾通りもあるように、一人として全く同じ人生はありません。本日の聖書に登場する二人の女性も、12年間という歳月は同じであっても、その人生は正反対のものでした。一人の女性は、会堂管理者ヤイロのひとり娘です。ひとり娘ということで、どんなに大切な子であるか、私たちはよくわかります。12才になるまで大切に、娘のしあわせを願う親の愛情に見守られつつ、しあわせなな人生を過ごしてきたことでしょう。もう一人の女性は、「12年の間長血をわずらい」(ルカ8:43)その病に苦しめられた人生でした。彼女は「多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまった」(マルコ5:26)が、病状は悪くなるばかりでした。こうした違いはありましたが、この二人の女性は共通の問題に直面しておりました。それは「死」の問題です。ヤイロの娘は死にかけており、長血をわずらった女は死に向かいつつあり、二人とも絶望の中にありました。しかしこの絶望のさなか、主イエスと出会うのです。会堂司ヤイロは、一人娘の助けを求めて、主イエスの足もとにひれ伏します。けれども彼の信仰は、「主イエスよ、あなたは真の神、神の子ですから、娘も私も必ず救って頂ける方です。それを信じます。」と、主イエスへの信仰を言い表わしているわけではありません。ただ自分の悲しみ、自分の絶望を主イエスの足もとに置いただけです。彼は自分にとって望ましい状態を与えて下さるイエス・キリストを期待していたのです。それゆえその信仰は、まだ弱さを持っており不十分な信仰でありました。一方長血をわずらった女は「あなたの信仰があなたを直したのです。」(ルカ8:48)と主イエスに言われるほど、見事な信仰を見せたのです。この女の行動は命懸けとも言える「汚れた者として」当時の常識から考えると異例な行動でした。人を信じたいという想いは、人間が持っている根源的な欲求ですが、求めてもその願いが必ずしも受け入れられるわけではありません。そう考えると信じるということは、命懸けのことなのです。それを思いますと、長血をわずらった女は、恐れと不安を抱えつつも、その壁を突き破り、この「信ずる」という思いを命懸けで貫き通したのです。この女の姿は、主イエスに対する信仰に生きて救われたという点で、私たちの信仰の模範とも言ってよいのです。信仰とは、ヤイロのようにイエス・キリストが自分の望む方向に事態を好転させて下さると確信することではなく、長血をわずらった女のように、力の限り主イエスの衣のふさを掴むことなのです。

6月10日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「あなたの名前は何というのか」        ルカの福音書8章26~39節

「夜と霧」の作者としてその名を知られているオーストリアの精神医学者ビクトール・フランクルの「各時代には、それぞれの心の病がある。」という言葉があります。いつの時代でも人間は心の病、精神的な病に苦しめられてきました。聖書ではこの病を「悪霊につかれた」と表現しています。その病気の姿をきわめて具体的に、一人の男を通してルカは描いております。この男は主イエスに会うまでは、墓場に住み荒野に追いやられ、孤独な人として不安と恐れの中に生きていました。彼は「二つの自分」をもっています。悪霊に支配されている自分、つまり自分ではない自分と本来の自分です。主イエスはこの二つの自分を分離して、「真の自分」を取り戻させてあげました。主イエスはその根本原因である悪霊を取り除くことによって、彼の人間性を回復させたのです。彼がこのように回復できたのは、主イエスに「何という名か」と問われたことにありました。主イエスは「あなたは今どこにいるのか。」「本当のあなたは誰なのか。」と問われたのです。名前はその人の全存在を表し、名前が尋ねられるということは、自分自身が明らかにされることです。主イエスは悪霊によって混乱状態にある彼を本来の自分に戻されました。そして自主性と秩序を回復させ、健全な社会生活ができるようにして家に帰らせたのです。この出来事は主イエスが圧倒的な神の力を秘めた、真の救い主であることを証明しました。その力にゲラサ地方の人々は「恐れ」、イエスに退去を願います。自分たちの破滅を予感して「恐れ」たのです。こうして主イエスはゲラサ地方では、たった一人の信仰者を得たのみでした。しかしここでの伝道は決して失敗ではありませんでした。たった一人ではありますが、彼は自分が「救われた次第をその人々に知らせ」(ルカ8:36)「神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを」(ルカ8:39)語り始めたのです。異邦人社会の中で、唯一キリストの証人として語り続けたのです。福音はこうして一人の人によってでも語り継がれていくのです。それは地の果てまでも福音を叫んでまわる、壮大な任務ではありません。ささやかな務めです。ここに私たちのキリストの証人としてのあるべき姿を見ます。「彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中で言い広めた。」(ルカ8:39)

6月3日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「神の創造といのち」               創世記1章26~31節

耕治人の小説の中に、痴呆がすすみ症状が目立つようになった妻を、介護する作者の姿を描いた作品があります。妻が眼に涙をためて「あたし何も出来ないのよ。」と言って泣き出し、自分の額を手でパンパンと叩き、「死にたい。」ともらす姿に胸が衝かれます。人は自分で何も出来なくなる時、自分のいのち、人生とどう向き合わなければならないのか。そこに重い課題があります。聖書は創世記の冒頭で、「人間とは神に完全に依存した存在であり、体も心も身も魂も何もかも神に造っていただき、そして生かしていただいている。いのちを与えてくださったのは神であり、そのいのちを生かしてくださるのも神である。」と語ります。ではそのように造られた人間は、何によって生きるのか。それは働くことにおいて、自分を成長させ生きていくのです。別の見方をすれば、人間というのは「ただ生きている」ということが出来ない存在として創造されたのです。生きていることに、そして自分がここにいることに、理由や意味を必要とするのが人間なのです。人間が働くように造られているということは、人間は「何かが出来る」という感覚を持つ者として、造られているということです。「出来る」という感覚は、私が生きていくためには必要なものです。しかし老いていくと、だんだん出来ないことが増えてきたり、痴呆や認知症、重い障害になったりして、ついには自分一人での生活が出来なくなる時が訪れるかも知れません。耕治人の妻のように痴呆が進行し、介護する夫に対して「どんなご縁で、あなたにこんなことを」と呟き、「あなたのご主人ですよ。」と言われて「そうかもしれない。」と答えるような状況に、私たちも置かれるかも知れません。しかしそうなっても、誰かが「あなたと共に生きたい。」と思って、支えてくれるなら『わたし』は『何も出来ない』自分の現実を受け入れることが出来ます。何よりも私たちにいのちを与え、生かしてくださる神の眼差しがあるはずです。「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。身よ。それは非常によかった。」(創世記1:31)とあり、神はすべてのものを『見て』、それぞれが『良い』と認められました。つまり私たちのいのちは、神の眼差しのもとで、神との関係の中で成り立っていることを覚えたいのです。子どもは何も出来なくても、親の想いに支えられて生きています。それと同じように、私たちは神の想いによって存在しています。この神の創造といのちという理解に立つ時、何も出来ない自分であっても、誰かの想いに支えられて生きることが出来ることを覚え、自分の生というものを大切にしたいのです。

5月27日(日) 礼拝メッセージ要旨 光本高敏牧師

 

「信仰によって、アベル、エノク、ノア」      ヘブル書11章4~7節

聖書がいう「信仰」というのは、神様のお言葉に従って神様を受け入れることです。あるいは、神さまが間違いないと立証されることを大切にするものが信仰です。また、神の力を認めるのが信仰です。と、その信仰のすべてのことについて語ってはいないのですが、へブル書の著者が取り上げる旧約聖書の3人の人物を見たいと思います。 第一番目は、アベルです。創世記4章に記されているアダムとエバの第二番目の子です。聖書の記述によりますと彼は羊を飼うものでした。そして、彼には兄カインがいました。二人は、収穫の時期を迎え、それぞれが真の神様へ献げものをしたと言います。兄カインは農作物を、そして、弟のアベルは初子の羊を。それぞれの献げものは違いますが、本質的なものに違いがあったといいます。弟アベルは、羊の初子の中から最良のものを自分自身で持って来ました。兄カインが適当なものを献げたというのではありませんが、神様はアベルの献げものに目を留められました。そして、こう言われたのです。「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。」と。兄アインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺します。本当に悲劇というしかないアベルの人生。しかし、この短い人生のアベルのことを聖書は、信仰に生きた人だと語っているのです。命の価値を長さだと言う人もいますが、アベルの場合は、短く、また、兄に殺されると言う悲劇で終わります。しかし、神様は、彼の信仰は正しかったというのです。 第二番目は、エノクです。彼は、死を味わわなかった人としてよく紹介される人物ですが、もう一つの大切なことを教えてくれる信仰者です。創世記5章を読みますと、エノクは65歳のとき、父親になったと記されています。聖書には詳しく記されていないのですが、65歳にして、子育てをすることの意味を考えさせられたのかもしれません。彼は、その時から、真の神様と共に歩むことを決心したようです。そして、もちろん子育てにおいてもです。息子、娘を育てることを通じて、彼は主と共に生きました。そして、彼が365歳の時、神は彼を取り、天に移したと言うのです。この当時の生涯年齢からすれば、少々短いのですが、彼にとっては、神と共に生きた300年間はどれほどすばらしいものであったでしょうか。 そして、三番目は、ノアです。信仰によって、ノアについてはアベルやエノクより知られていますが、その人生を一言にまとめると、次のように言うことができます。「ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました。」と。まだ、大きな嵐や災害はさほどなかった時代だと思います。そんな時に、大雨が降り、すべてのものが飲み込まれると聞いて、それを真に受ける者など一人もいなかったでしょう。ましてや、主の怒りが神様から心が離れていっていた人間には、全くその危機が分からなかったんだと思います。しかし、その警告は、信仰者ノアにはよく理解できることであったようです。彼はしっかりとみ言葉を聞いて、それを実行する者になりました。このノアが造った箱舟に入った者だけが、洪水の裁きから救われたのです。

5月20日(日) 礼拝メッセージ要旨  黒川雄三牧師

 

「罪を赦す権威をもつ方」          マルコの福音書2章1~12節

2千年前のイスラエルのガリラヤ湖の北岸のカペナウムの町で起こった出来事です。多分、ペテロの家においてでした。大勢の人がイエス様の話を聞こうと集まり、遅れてきた5人の人は中に入れてもらえませんでした。5人の人は半ば失望しかけましたが、屋根の上に上がり、屋根の一部をはがし始めました。そして開いた穴からその病人を上からつり降ろしたのです。イエス様はそれを咎めるどころか、「彼らの信仰を見て、中風の人に『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われました。」                                                                          Ⅰ.主イエスの罪を赦す権威                                                                           この5人がそこまで苦労してイエス様に近づこうとした理由は、病気を治して欲しかったからです。でも、イエス様は『子よ。あなたの罪は赦されました。』と言われました。私たちは、病気をすると健康を願い、経済的に苦しいと裕福になることを願う、というのが普通です。しかし主イエスは、病気の癒しを求めていた人に罪の赦しを宣言しました。また、食べ物のこと、着物のこと等で心配しやすい私たちに「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)と言われます。イエス様は病気の人に同情され、健康回復のために助けを与えて下さいますが、それ以上に大切なものとして今日の聖書箇所のように「罪の赦し」を宣言し、「神の子」とされることを勧められます。二つの理由を申し上げます。      第一に、実はそれが人間にとって最も必要なものだからです。健康は大事ですが、罪の赦しをいただき、神の愛を確信することは、もっと大切です。    第二に、肉体的な必要は一時的ですが、罪の赦しは、今の人生を生きるために力となるだけでなく、永遠の救いを保証するものだからです。イエス様は、罪を赦す権威を持つことを証明するために、中風の男を奇跡的に癒されました。主は生ける神の御子であり、やがて十字架で罪を贖う方だからです。    Ⅱ.4人の人たちの信仰の働き                                                                          4人は、病気の友人たちを助けたいという熱い友情を持っていました。協力しました。そのために、非常識と思われることを行いました。よく言えば「創造的」ということです。そして、イエス様を信じていました。このお方を信じ、罪の赦しと平安をいただきましょう。

5月13日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「嵐の中の信仰」              ルカの福音書8章22~25節

畑村洋太郎の著書に「失敗学のすすめ」という作品があります。異色の本として注目を集め、今も売れ続けている本です。「失敗を否定的にとらえるのではなく、直視することで失敗を新たな創造という、プラス方向に転じさせて活用しよう。」というのが本書の基本的な立場です。本日の聖書の箇所も、弟子たちの失敗が記されております。私たちはその失敗から大切なものを学びとって、信仰の成長へとつなげたいのです。弟子たちは主イエスの「さあ湖の向こう岸へ渡ろう。」というお言葉に従って舟を出しました。しかし予期しなかった事態に直面するのです。突風に見舞われ、漁師としての今までの経験や知識では乗り切ることが出来ない、困難が襲いかかってきたのです。「先生、私たちはおぼれて死にそうです。」と叫び声をあげました。私たちは何の問題もなく順調な時は、主イエスの存在を忘れてしまうのですが、問題が起こり、困難な情況に直面した時は、「神さま、神さま!」と弟子たちのようにあわてふためくのです。私たちは恐れ、不安と絶望に陥るのです。私たちの信仰は嵐の中では少しも役に立たないのです。嵐と波を静めた後、主イエスは弟子たちに「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と主イエスに対する弟子たちの信仰を問われました。「信仰がない」のでも「信仰が薄い」ことでもありません。信仰はあるが、的はずれ、あるべき場所にきちんと置かれていないことが問題でした。弟子たちは「イエスはぐっすり眠ってしまわれた。」と思ったのですが、ほんとうは、主イエスへの信仰がどこかに忘れ去られ、眠っていたのは弟子たちだったのではないでしょうか。キリストの主権は、まどろむことなく、弟子たちを守っていたのです。(詩編121:3~4)ほんとうの信仰は、どんな時にも目覚めているのです。あなたの信仰が激しい嵐に会う時、私が主イエスを信じた信仰ではなく、主イエスがこの罪深い、弱い私を信じて下さる信仰によってのみ、私たちは支えられているのです。嵐の湖を通り抜けて初めて明らかになるものがあります。見えてくるものがあるのです。それは、私たちの人生の海の嵐に立ちたもうお方、その名をイエス・キリストというお方の本当の姿です。この方が同舟して下さったのです。だからもう舟は沈まないのです。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」(ルカ8:25)

5月6日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「人は何によって生きるのか」            創世記2章4~15節

創世記1章から11章までの箇所は、現代の私たちにとって自分と自分の生きている時代を理解するうえで、聖書の中では最も大切な箇所と言えます。なぜなら、これらの章において、人間の存在について、人間の生きる目的について、そして人間が死ぬということ、結婚と家庭について、働くことと余暇について、技術社会と情報化社会の問題などが、すでに取り扱われているからです。創世記が人間について述べている言葉は「神は人をご自身のかたちに創造された。」(創世記1:27)そして「地を従えよ。…すべての生き物を支配せよ。」(創世記1:28)と命じられました。「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は、生きものとなった。」(創世記2:7))さらに「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、そこを守らせた。」(創世記2:15)とあります。これらの聖書の言葉は、神が人間を他の被造物とは違って、特別な仕方で造られたことを意味しています。「いのちの息」を吹き込まれ、人間は生きたものとして存在し、世界のあらゆるものを支配し、それを注意深く管理する責任を神から託されたのです。さらに神が造られた大地は、それを耕し守る者がいなければ、豊かな実りをもたらすことは出来ません。人はそのために大地を耕し守るという、大事な責任を担う存在として造られたのです。こうしてエデンの園は、神とすべての被造物と人間が共に交流する舞台となります。その中心に人間が喜びをもって働くということが位置付けられているのです。人間は喜んで労働にいそしみ、自由に園を耕し、人間として生きる実感をもって、自己実現を目指していくのです。一方で神が7日目に休むよう人間に命じられたのは、労働から解放されて自由な時間を持つことの中で、安息日つまり礼拝に於いて神の御前で自分を取り戻し、自分と世界とを見つめ直し、本当の自分自身に帰ることにあるのです。人間は神のために働くことと、神と共に憩うことを求められているのです。世界の創造のみ業のなかで、人間は耕す仕事と共に、憩う時を、神は人間にお与えになったのです。「静まって、私こそ神であることを知れ。」(詩編46:10)