礼拝メッセージ

7月1日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

神の創造といのち(2)―死ぬ命 死なす命―      創世記2章4~8節

現代社会に生きる私たちは、主イエスの時代にはなかった新たな「いのち」の問題に直面しております。「生命倫理」と呼ばれる、『脳死、臓器移植、安楽死、自殺、尊厳死』等です。現代ほど生命の尊厳が危機に瀕している時代はありません。このような時代だからこそ、聖書の視点から「いのち」の問題を考える必要があります。聖書は私たちのいのちについて、神によって創造され、神に「いのちの息を吹き込まれ、そこで人は生きものとなった。」(創世記2:7)と語ります。私たちのいのちは、神の眼差しのもとで、神と人とは愛し合う交わりの中で、豊かないのちを育むことが出来るのです。この神との関係に生きるいのちであるという視点から、脳死と臓器移植を考える時、脳死の問題点は、脳死をその人の死と見なし、心臓や肺は動いていても、個人として死んでいる状態であり、生きているとは言えないと判断することです。特に長期脳死の場合、家族や医師にとって負担がかかり、本人にとっても利益になるものでなく、そのため延命の停止が行われ、臓器提供という手順になります。このように延命しても機能回復の見込みがない脳死は、身体全体の善のために臓器移植は正当化されてきました。最近6才未満の男児が初の脳死と判定され、臓器提供が行われたことが話題になりました。しかしここで重要なことは、そのいのちは死んでいるのではなく、紛れもなく生きている、かけがえのないいのちであると言うことです。そしてその生を否定することは出来ないのです。いのちをこのように見ることこそ、創造者である神の眼差しではないでしょうか。6才の男児の場合、確かに家族にとって辛く悲しいだけでなく、難しい決断であったと思います。そういう中で家族はこの男児と「あなた」と「わたし」という関係を持ち続けないと決断したのです。一方同じ脳死になった2才の女児の家族は、その子と人格的な触れ合いを持ち続け、看病し、女児が亡くなるまでの1年9ヵ月を一緒に生きました。母親は言いました。「脳死であっても、家族と共にそこから始まる、幸せな時間があるということを忘れないでください。脳死宣告は死亡宣告ではないのです。その子が自分のいのちの灯を消す日まで、しっかり寄り添って共に生きてください。脳死は死ではありません。」この家族にとって女児の死は1年9ヵ月後に亡くなったのです。詩編の作者は自分のいのちは、母の胎のうちで神が組み立て造られたものであると告白し、次のように神を賛美しました。「私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために造られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」(詩編139:14~16節)

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