礼拝メッセージ要旨

2月3日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「受難のしもべの勝利」              創世記3章14~15節

キリストの受難を主題とした映画に「パッション」があります。この映画の冒頭の場面はゲッセマネの園で、神の御心が十字架の死であることがわかっていても、その無惨な死に向かうことに、耐え難い苦しみを抱えてひたすら神に祈るキリスト。その祈るキリストに向かって、するすると音も無く近づく蛇。しかし祈り終わった時、イエスはその蛇の頭をかかとで踏みつけて、グシャと砕くという所からこの映画の受難の物語が始まっていきます。本日の創世記3章14~15節がこの映像の背後にあります。ここで、神は誘惑者である蛇に対して、アダムとエバに語りかけられた「あなたは、どこにいるのか。」「あなたはいったいなんということをしたのか。」という嘆きに満ちた問いかけはありません。いきなり断罪が与えられ、それは「呪い」の宣告となって現れています。蛇は、「主が造られたあらゆる野の獣のうちで呪われるもの」となりました。神さまの蛇に対する問答無用の断罪です。誘惑者の蛇は「一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」(創世記3:14)みじめな状態に甘んじ、女の子孫との戦いにおいても「かかとにかみつく。」(創世記3:15)ことしかできないのです。反対に蛇に誘惑された女の子孫は、蛇の「頭」を踏み砕いて勝利を収めるのです。この創世記3章15節につきましては、様々な解釈がありますが、伝統的には「敵意を置く」とは、女の子孫である神に選ばれた信仰の子らと欺こうとするサタンの支配にある人々との間に続く、幾世代に及ぶ戦いを意味し、「頭を踏み砕き」とは、罪と死の力に勝利したキリストの復活であり、「彼のかかとにかみつく」とは、そのキリストの受難と十字架を語っていると、一般的には理解されてきました。ここに贖いの思想を読みとることができます。ですから初代教会の教父たちはこの箇所を「原福音」「福音の原型」と呼びました。神さまは人を滅びるにまかせておくことは出来ないで、救い出そうと決心されているのです。私たちはここから、神の救済のご計画を知らされるのです。まだまだ暗い状態ではありますが、しかし、私たちは、新約聖書が告げる「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます。」(ローマ16:20)というという言葉どおり、受難のしもべの勝利が、時満ちて女の子孫より生まれたイエス・キリストによって実現したのです。この一節には贖い主なる神の恵みが輝いているのです。しかも非常にはっきりと輝いているです。

1月27日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「ありのままの悲しみに向き合う」     サムエル記第二18章24~33節

「だれひとり悲しみが、こんなにも怖れに似たものだとは、語ってくれなかった。」 この言葉は、C.S.ルイスが最愛の妻、ヘレン・ジョイを病で失った時の思いを言い表したものです。死別の悲しみは、怖れに似ている感じがすると告白しております。人との出会いと別れは、人生における中心的な要素です。よき出会いは人生を豊かにし、彩りを与えてくれます。一方で大切な人との別れは、深い悲しみの日々をもたらします。残された者の心身や人生に、計り知れない影響を及ぼします。聖書に登場するダビデは、この死別の悲しみを誰よりも、深く重く味わった人でした。彼は3度にわたり愛する我が子との死別を経験しました。最初にバテシバとの間に生まれた子供を病気で7日目に失い、次に長男アムノン、そして三男アブシャロムと続く死別の悲しみに出会うのです。特にアブシャロムの死に対するダビデの悲嘆にくれる姿を聖書は生々しく描いております。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」(サムエル第二18:33)ダビデの悲しみの叫びは、王位を奪い取ろうとし、父ダビデのいのちをねらい、大軍を率いて攻めてきたアブシャロム軍にダビデ軍が勝ち、息子アブシャロムの戦死が伝えられた時の嘆きの声でした。ダビデはこの時、戦いの勝利を全く喜ばず、ただわが子の死に泣き崩れるだけでした。王のために戦った部下にとって、その態度がどれほど不愉快に感じられたことでしょうか。ダビデはこの時、王であるよりも、ひたすら一人の父親であったのです。彼は戦いの始まる前に兵士たちに「私に免じて、若者アブシャロムをゆるやかに扱ってくれ。」(サムエル第二18:5)と頼むのです。子を思う父の姿がそこにあります。「ああ。私がおまえに代わって死ねばよかったのに。」と嘆くダビデの目には、謀反を起こした反逆児アブシャロムの姿はなく「わが愛する子」のみが映るだけでした。あくまで自分を憎んで殺そうとしたアブシャロムを愛し続けたダビデの痛苦の姿こそが、イエス・キリストの姿そのものではなかったでしょうか。主イエスは私たちの罪の破れ口に立ち、父なる神に「ゆるやかに扱ってくださるように。」と執り成してくださり、ダビデが成し得なかった身代わりの死を、あの十字架で成し遂げてくださったのです。

1月20日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「名が天に記されている喜び」        ルカの福音書10章17~24節

本日の聖書の箇所には、二つの喜びが記されております。一つは弟子たちの喜び(ルカ10:17)、もう一つは主イエスの喜び(ルカ10:21)であります。弟子たちの喜びは、自分たちが悪霊に対する勝利に酔った歓呼の叫びでした。しかし弟子たちが、どんなに力強い業を行っても、それは主イエスが弟子たちにお与えになった権威に基ずくものでした。神がこの弱い弟子たちに信仰と力とを与えて勝利させてくださったのであります。従って神が喜びの源としてほめたたえられていないならば、それは全く虚しいのです。ですから主イエスは言われました。「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)主イエスはここで本当の喜びとは何かについて語っておられるのです。「イエスの名による」働きがどんなに立派であろうと、それは永遠のいのちの喜びとは関係がないのです。そうではなくて、私たちの罪の贖い、そして私たちを救ってくださり、私たちを天の書物に名を書いてくださる、主イエス・キリストの御業だけが、永遠のいのちを保証してくださるのですから、この事を心に刻み大切にし、主イエスの御霊によって永遠のいのちを与えられたことに感謝し、喜びましょう。一方ここには弟子たちの的はずれな喜びと対照的に主イエスの喜びが記されております。(ルカ10:21)この「喜び」は、聖霊による満たされた喜びであり、神の救いの知識と父なる神を、キリストに選ばれている人たちに明らかにする(ルカ10:21~22)喜びでした。神は「天地の主」ですから、人間が観察したり、知性や理性を働かせても知ることができません。「これらのこと」つまり神の救いの知識はただ「現してくださる」ことによってのみ得られるのです。主イエスは世の知者、学者が知り得ない救いの知識を、かえって単純で正直な民衆が悟ってこれを楽しむ様子を見て喜びに溢れました。それから主イエスは弟子たちに、「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。」(ルカ10:23)と言われました。それは、旧約の預言者や王たちが見聞きできなかった、主イエスのうちにある、神の国の訪れと救いの恵みを「見る事」ができ「聞く」ことができたからです。(ルカ10:24)私たちはこの救いの恵みを「受ける」ことができた「幸い」を喜びましょう。

1月13日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「収穫の主に遣わされて」          ルカの福音書10章1~16節

今、日本の教会は危機的状況にあります。特に地方、過疎市町村における無牧教会の増加と教会閉鎖が起こっているのです。その現象は都市の教会にも見られるようになりました。さらに教会に赴任した若い教職者が辞任する事例が多くみられ、無任所牧師の増加があります。このような日本の教会の現状に、主イエスの「実りは多いが、働き手が少ない。だから収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(ルカ10:2)という言葉が、重く響いてきます。主は収穫は多いと言われました。しかし私たちは反対に考えていないでしょうか。「主よ収穫は少ないのです。」と。ここで主が福音の伝道を収穫にたとえておられるのは、自然の実りがそうであるように、人間が実りを生み出すのではなく、収穫の主が作り出してくださるのです。私たちは、その用意された実りを刈り取るだけでよいのです。主イエスは、いずれの町や村にも悩める人、苦しむ人が多くいる。主はそれを収穫だと言われるのです。私たちは教会が活発に活動しているのを収穫と考えているのではないでしょうか。弟子たちはそれほど実っていない畑を見て、収穫はまだまだ先の事だと言いましたが、主イエスの目には、それが収穫でした。(ヨハネ4:35)弱り果てている人、苦しんでいる人、悲しんでいる人、そのような人は、すべて主イエスのあわれみを必要としています。そのような姿、その現実を主イエスは「収穫」と見ておられるのです。けれども私たちは言います。「主よ、これこれを整えてから。」「これが足りません。」「まだ十分体制が整っておりません。」と。しかし収穫の主は言われます。「行きなさい。何も持たずに行きなさい。」(ルカ10:3~4)収穫は主ご自身が備えてくださるのです。もしこれを整えてからと言うなら、いつ私たちは行くことができるでしょうか。「行け」という命令だけでよいのです。主はすべて整えてくださるのです。「主の山に備えあり。」(創世記22:14)です。今は働く人が少ないのです。その働き人さえ収穫の主が送り出してくださるのですから、その主に祈り求めましょう。

1月6日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「主の御顔を避けて」               創世記3章8~19節

アダムとエバは、世界で一番有名なカップルです。その二人の名前を知らない人は、おそらくいないでしょう。最初の人間とされた二人が、神の戒めを破って禁断の木の実を取って食べてしまったために、エデンの園から追放されたという物語は広く知られています。このアダムとエバをめぐる物語は、旧約聖書の冒頭を飾る「創世記」3章に書かれております。その3章が描くアダムとエバの罪深さについて、使徒パウロはローマ人への手紙5章12~19節で何度も「ひとりの人によって、罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった。」(ローマ15:12)と繰り返し語りました。このようにパウロは、アダムが全人類を代表する存在であると同時に、その罪が全人類にも受け継がれていくという事を強調しました。このアダムの罪を一般的に「原罪」と呼ばれております。英語で「original sin」と表記されます。「最初の」「独自な」罪の「原型」という意味です。人は生まれながらに自分の性格や意志と関係なく、平等に罪を負っており、それはアダムから遺伝のようにして受け継がれてきました。この最初の罪を犯したアダムに対して主は、「あなたはどこにいるのか」と呼びかけ、エバに対して「あなたはいったいなんということをしたのか」と問いかけられます。そしてアダムは罪をエバのせいとし、エバは悪いのは蛇なのですと責任を転嫁します。こうして彼らは、「主の御顔を避けて」生きる者となったのです。しかし「あなたはどこにいるのか」という呼びかけは、また招きのことばでもあります。主は「ひとりの人」によって、罪が入り込んできたように「ひとりの人」イエス・キリストによって、私たちに救いをお与え下さいました。その主の招きに応えて、「主よ、私はここにおります。どうぞ私の罪を赦し、ご用のためにお用い下さい。」と告白できるようにと、今朝の聖餐の食卓に招かれているのです。


12月30日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「荒野の全行程を覚えて」              申命記8章1~20節

本日の礼拝をもって旧年を後にして、新年2013年を迎えようとしております。それは申命記8章が描くイスラエルの民が、ヨルダン川を渡って約束の地カナンに入る姿に重なります。この時イスラエルの民は、これまでの自分たちの歩みを想起し回顧するように求められております。そのように私たちも新しい年に踏み出すにあたって、第一にすべきことは、今年の歩みの全行程を想起することです。(2節)その全行程は祝福、恵まれたことについてではなく、苦難やつらかった事を覚えなさいというのです。ここには、過去の主の恵み、守り、支え、導きを知ることの大切さが強調されております。 第二にすべきことは、感謝する生き方です。(5~10節) 主は私たちに有益な生き方を教え、訓練されます。そこには「主を恐れて歩む」(6節)ことが求められており、主がお与え下さる祝福が述べられております。(7~9節)一言でまとめるならば、新年も主は私たちを良き地に導き入れようとしておられるということです。(7節)それゆえに主に感謝し、主をほめたたえなければならないのです。(10節) 「感謝する生き方」こそ、主が私たちに求めておられる事なのです。 第三にすべきことは、新年も「主を心に据える生き方」です。(11~18節) 今ある私たちのしあわせ豊かさは、決して自分の力、自分の働きによってそうなったのだと誇り、主をないがしろにすることがないよう、主のみことばに従い、全ては主の恵みと、「主を心に据える生き方」を中心に置かなければならないのです。「あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れることがないように」(14節) ただひたすら主の命令を守ってその道に歩み、主を恐れて、「主が賜った良い地について、あなたの神、主をほめたたえる」(10節)礼拝に生きる神の民でありたいと思います。

12月23日 クリスマス礼拝メッセージ要旨

 

「降誕―この輝ける日」           ルカの福音書2章8~14節

誕生日。それは人の一生の始まりですから、その人にとって掛け替えのない、ただ一つしかない大切な日であります。しかし私どもの誕生は、いつ、どこで、父誰それ、母誰それの何男何女として生まれたということが確認され、それ以上の意味はありません。しかしイエス・キリストの誕生は違います。私たちの「いのちの救い主」の誕生ですから、聖書は心を込めて知恵と力とを充分に生かして、豊かに描きました。その中に羊飼いたちが登場します。彼らは天使たちの「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が御心にかなう人々にあるように。」という讃美の歌声を聴いたのです。このことばは、ただ讃美の歌というのではなく、イエス・キリストの生涯を代表する言葉であり、このお方がこの世に存在していたことを言い表す、大事な言葉であります。それならば、最初のクリスマスのあったユダヤの国、そしてその時の世界には「地の上に平和」があったでしょうか。当時ユダヤはローマ帝国の占領下にあり、国内は反乱と弾圧のもとで、人々は苦しんでいたのです。それではイエス様の生まれた後、ユダヤには平和が訪れたでしょうか。聖書はヘロデ大王による幼児虐殺の出来事を記しております。この地のどこに平和があるのでしょうか。今に到るまで、真の平和はこの地の上に、訪れてはいないのです。それならクリスマスは喜びの日ではなくて、悲しみの時なのでしょうか。いいえ違います。あの天使たちと共に神を讃美する日だと聖書は語ります。それは神ご自身が「実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16)からです。争い、憎しみの絶えない暗き世界、悲惨な世界、そしてあるがままの私たちを、実にそのひとり子をお与えになったほど愛をもって、愛し抜かれたのです。そのために神はご自身の栄光を捨てられ、この世に人の姿で降り、そして一緒に生きてくださいました。それ故に神を讃美するのです。そういう方がいてくださるから、私たちは争い、憎しみ、残虐があり、惨殺があり、何が起こっても、この世界で生きる意味を失うことはないのです。クリスマスがあるがゆえに、この世界がどんなに暗く、どんなに希望がないように見えても、神は共にあられる。そういう愛がここにはあるのです。地がどんな地であっても、世界がどんな世界であっても、そういう意味で「地の上には平和」はあるのです。それ故、私たちは心の底から声の限り喜びの讃美を歌い、この日を輝きの日として迎えるのです。

12月16日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「主の赦しと信頼の招き」          ルカの福音書9章57~62節

現代は、ある大きな転換の中に置かれている時代のように思われます。これからどうなっていくのか、そのゆくえはまだまだ見極めがつかない状態です。しかし、こういう時代だからこそ、もし信頼できる方がいて、その方から「私に従ってきなさい。」と言われたら、それは本当に喜びだと思います。問題は、私たちは信頼して従っていける方を持っているかということです。聖書はその全体(66巻)を通して「キリストが来られた」と語りかけます。それは「安心して従っていける。信頼できるお方がいる。」と伝えていることなのです。ではこの「キリストに従う」ということは、どのような生き方なのでしょうか。本日の聖書の箇所には、キリストに従う生き方をめぐって、三人の人物が出てきます。最初の人は積極的な人です。「私は、あなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」(ルカ9:57)と自分の「決意」を言い表わしています。二番目の人は消極的な人です。主イエスの方から「わたしについて来なさい。」(ルカ9:59)と言われました。三番目の人は、自分の方から「主よ。あなたに従います。」(ルカ9:61)と言います。しかし、それには条件がありますという従い方です。このように三人三様の主に従う姿勢から見えてくるものは、「キリストに従う」ということは、主イエスから「招かれた」ことに支えられて、その主の召しに従うということなのです。ひたすら「主イエスを見つめて」進むということです。それは「うしろを見ない」(ルカ9:62)ということです。さらに安住の地を持たない主イエスに従うことでもあります。クリスマスの記述の中でルカは、主イエスの誕生を描いたとき、「宿屋には彼らのいる場所がなかった。」(ルカ2:7)と書き、キリストは生まれた時から人の世には、安住の地はなかったと、はっきり書きました。その主イエスが「枕する所もありません。」と言われた時、それは徹底した父なる神への信頼の姿を示しておられる言葉なのです。このことから「私に従ってきなさい。」と言われる主イエスの「招き」は、私たちの罪の身代わりとなられた主イエスの「赦しの招き」であり、同時に神を信頼して生きよという、「信頼の招き」なのであります。ですから、「主イエスに従う」ということは、主に赦されて大らかに自由に生きることであり、主に信頼され、私たちも主に全てをお委ねして生きることなのです。


12月9日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「自分を低くして―キリスト者の自己訓練」   ルカの福音書9章43~48節

「人の子は、いまに人々の手に渡されます。」(ルカ9:44)と主イエスは言われす。ご自身の受難の歩みを語られた二度目の言葉です。最初の時(ルカ9:22)には、主イエスは、ご自身の受難について具体的に話されました。しかし今、弟子たちはそれらの言葉の意味するところが何であるのか理解できていなかったのです。そこで弟子たちは主イエスに尋ねて、そのことを、もっと深く理解しようとしませんでした。それは「苦しみを受け、……捨てられ殺され」(ルカ9:22)ていく主イエスに対して、弟子としての自分たちに何ができるのか、何をすべきなのか、何をしたいのかを考えたくなかったからです。この時から主イエスと弟子たちの間には、気持ちのうえでずれが生じ、弟子たちの心は主イエスから離れ始めているのです。その事が表面化したのが、だれが一番偉いかという、弟子たちの議論でした。この時主イエスは、エルサレムへの最後の旅を覚悟されておりました。その主イエスの思いに背を向けるようにして、誰が一番偉いのかと議論している弟子たちの心を見抜かれて、ひとりの子どもを自分のそばに立たせ、弟子たちに語られます。小さい存在、無価値な存在である小さな子どもを、あたかも主イエス・キリストご本人であるかのように迎え入れ、仲間に加えることは、実はイエスご自身をおもてなししていることであり、それは神さまそのお方をおもてなしすることであると主イエスは言われるのです。それには、あなた自身が誰よりも自分を低きところに置いて、主に仕え、人に仕えなければならないのです。そしてその姿こそ、主イエスご自身の姿そのものでした。神のひとり子としての主イエスは、人となられて低きに下り、救い主として罪深き、小さな価値のない私たちを受け入れて下さり、神の子として下さいました。小さい私たちが大いなる者とされたのです。待降節を迎え、主イエスへ思いを集中しながら、主イエスがどのような歩みをたどられるのかということを、私たちが正しく知ることなしには、主イエスに従うことについても、いかに歩むべきかということについても、弟子たちのような間違いや、混乱を起こしかねないということを覚えたいのです。

12月2日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「その木はいかにも好ましかった」           創世記3章1~7節

本日から待降節に入ります。もし創世記3章の物語がないとすれば、この待降節もありません。ですから、この待降節に創世記3章を学ぶことは、とても意義深いことでもあります。創世記は、2章において神の創造の完成があり、3章からは、その完成を破壊する人間の罪の物語が語られます。神と人、人と人、夫婦の関係、家庭、社会、自然が破られてゆく中で、神と人との間にどのようなことがあったのか。その物語が語られていくのです。まず人間の堕落がこの3章の冒頭に描かれます。神は人間を創造された時、「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」 (創世記2:17)と人に命じられました。この戒めは、人として生きてほしいと願う神の愛と、人はこの戒めを守ってくれるはずだという信頼によるものでした。神は人がこの愛と信頼の交わりの中に生きてほしいと望まれたのです。しかし、それは強制ではありませんでした。人間の自由意思に委ねられたのです。 ここに人は、二つの大切なものを持っていたことが示されております。一つは、いのちに至る神への従順か、あるいは死に至る不従順の道か、そのどちらか一つを選ぶ「自由」があったということです。二つ目は、このどちらか一つを選ぶ「能力」がありました。すなわち彼らは、善悪のどちらでも行う力があったのです。そしてアダムとエバは、へびのたくみな誘惑と説得に従い、聖なる神の命令に背き、正しいことを行う完全な「自由」と「能力」を持っていたのに、罪を犯しました。神への不従順の恐るべき結果について、あらかじめ警告されていましたが、彼らは、神の戒めを破りました。彼らは共に神の前に立つことが出来ない者となったのです。そして神を恐れて、木の陰に身を隠す者となりました。                                              この物語から私たちが学ぶ大切なことは、人が善悪を確実に知る唯一の道は、神のことばに素直に留まることでした。それも足しても引いても駄目であって、神のことばをそのまま丸ごと受け入れなければならないということです。女は自分の都合のよいように神のことばを変更しました。私たちにとってただ神のことばのみが、サタンの誘惑に勝つことが出来るのです。その神のことばに日々親しみ、その導きに従うこと。つまり主を礼拝しつつ生きること。そのことに集中しつつ、この待降節を迎えたいと思います。