礼拝メッセージ

12月16日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「主の赦しと信頼の招き」          ルカの福音書9章57~62節

現代は、ある大きな転換の中に置かれている時代のように思われます。これからどうなっていくのか、そのゆくえはまだまだ見極めがつかない状態です。しかし、こういう時代だからこそ、もし信頼できる方がいて、その方から「私に従ってきなさい。」と言われたら、それは本当に喜びだと思います。問題は、私たちは信頼して従っていける方を持っているかということです。聖書はその全体(66巻)を通して「キリストが来られた」と語りかけます。それは「安心して従っていける。信頼できるお方がいる。」と伝えていることなのです。ではこの「キリストに従う」ということは、どのような生き方なのでしょうか。本日の聖書の箇所には、キリストに従う生き方をめぐって、三人の人物が出てきます。最初の人は積極的な人です。「私は、あなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」(ルカ9:57)と自分の「決意」を言い表わしています。二番目の人は消極的な人です。主イエスの方から「わたしについて来なさい。」(ルカ9:59)と言われました。三番目の人は、自分の方から「主よ。あなたに従います。」(ルカ9:61)と言います。しかし、それには条件がありますという従い方です。このように三人三様の主に従う姿勢から見えてくるものは、「キリストに従う」ということは、主イエスから「招かれた」ことに支えられて、その主の召しに従うということなのです。ひたすら「主イエスを見つめて」進むということです。それは「うしろを見ない」(ルカ9:62)ということです。さらに安住の地を持たない主イエスに従うことでもあります。クリスマスの記述の中でルカは、主イエスの誕生を描いたとき、「宿屋には彼らのいる場所がなかった。」(ルカ2:7)と書き、キリストは生まれた時から人の世には、安住の地はなかったと、はっきり書きました。その主イエスが「枕する所もありません。」と言われた時、それは徹底した父なる神への信頼の姿を示しておられる言葉なのです。このことから「私に従ってきなさい。」と言われる主イエスの「招き」は、私たちの罪の身代わりとなられた主イエスの「赦しの招き」であり、同時に神を信頼して生きよという、「信頼の招き」なのであります。ですから、「主イエスに従う」ということは、主に赦されて大らかに自由に生きることであり、主に信頼され、私たちも主に全てをお委ねして生きることなのです。


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