礼拝メッセージ要旨

4月14日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「私たちの父よ」               ルカの福音書11章1~2節

4世紀後半西ヨーロッパで民族大移動という歴史的出来事により、大ローマ帝国の領土に北方からゲルマン民族が入ってきました。このゲルマン民族にゴート族という集団がありました。このゴート族の中に司教に叙階されたウルフィラという人物がおりました。彼は旧新約聖書を全部たった一人で、ゴート語に翻訳した人でした。彼は翻訳にあたって「主の祈り」の一番始めの「父」を「アッタ」と訳しました。ゴート語には今の英語の「ファーザー(父)」のもとになる「ファーダー」という言語がちゃんとありました。しかしウルフィラは正調の「ファーダー」を使わず、幼児が父親に向かって呼びかける語、あのおしんが涙ながらに父を呼んだ「お父(と)う」と、ほとんど同じ響き、同じ使い方の「アッタ」という言葉を使ったのです。「ファーダー」よりずっと日常的、家庭的、俗語的な言葉を用いたのです。それには深い理由がありました。それは主イエスが十字架刑の直前、ゲッセマネの園で祈られた言葉が「アバ、父よ。」(マルコ14:36)だからです。これは主イエスが日常使っておられたアラム語の「アバ父よ。」だったのです。この「アバ」こそウルフィラが使った「アッタ」と同じ意味、同じ感覚だったのです。彼はあらたまった礼儀正しい「ファーダー(お父様)」ではなくて、神をもっと直接的に、全身で幼児のようにぶつかって祈りなさいと、主イエスが教えておられるのだと受け止め「アッタ」という訳語にしたのです。だから私たちは「主の祈り」において、最初に主なる神を「父よ」と、一言で呼ぶその声にすべての思いを込めて発するのです。子どもが父を「お父さん」と呼ぶ時には、この父をどう呼んだらよいかなどどは考えません。父は父です。「パパ」と呼び、「お父さん」「お父(と)う」と呼びます。それで通じるのです。それで足りるのです。そのような幼子の思いをもって、主なる神を「父よ」と呼ぶことができるかと、主イエスがここで改めて問うておられるのです。「アバ、父よ。」と呼び求めるこの声を求めておられるのです。「あなたがたは子であるゆえ、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」(ガラテヤ4:6)

4月7日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「男の苦しみ」                   創世記3章17~19節

2011年3月11日。私たちは、目を覆うばかりの信じられない光景を目の当たりにしました。圧倒的な地震と津波による自然災害と原発事故という人災によって壊滅的な惨状となった、あの東日本の大地を前にして、私たちは人間の無力さを否応なく思い知らされました。これだけは確かなものとして、生きる拠り所としていたもの―家、土地、家族や人との絆、仕事、会社ーなど全てが奪われ、人の存在そのものを揺るがすこの出来事に向き合った時、私たちは創世記3章17節の「土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。」という人に語りかけられた神の言葉が、何を意味するのかを知ったのです。そして「いばらとあざみを生えさせる土地で、顔に汗を流して、一生苦しんで糧を得る。」と続く神の言葉どおりに、労苦の日々を過ごす人の姿は、私たちの日常、特に復興に向けて苦闘している東日本の人々の姿と重なります。あの「エデンの園」において、土から形造られた人は、土を頼りに生きていました。人はその土を耕し守り、土は人にとって生きるための母なる大地でした。人がそうであるように、土もまた掛け替えのないものでした。ですから人は堕落後も、肥えた土を作り、豊かな実りを得るために汗を流してきたのです。それがいかに大変なことであるかは、土を耕したことがある人ならすぐわかります。柔らかくホカホカした土はこうして、何世代もの人が慈しむように、土と向き合い出来あがったもので、その土が生みだす美しい田園風景は、そこで暮らす人々が土地に愛情を注ぎ続けた結果もたらされたものでした。しかしそれが地震や津波などの自然災害や戦争や環境汚染などの人災で破壊され、聖書が語る「いばらやあざみが生えるのろわれた大地」となり、そこで生きるために「顔に汗を流して糧を得る」ことを思い知らされるです。そして「ついに、あなたは土に帰る。」(創世記3:19)というむなしさを迎えるのです。「エデンの園」とは「歓喜の園」という意味です。今日私たちが生きている場が「喜びの園」として取り戻される道は、果たしてあるのでしょうか。改めて創世記3章17~19節が告げるメッセージは、あらゆる時空を越えて、いつの時代にも、生きる人々に問いかける言葉であることを思わされるのです。

3月31日(日) イースター礼拝メッセージ要旨

 

「復活―裸の命に目覚めよ。」        ヨハネの福音書11章1~27節

1941年8月14日午後12時50分、一人の神父がナチスの手によって、アウシュヴィッツ強制収容所で、餓死処刑者として47才の生涯を静かに終えました。その名はコルベ神父と言います。妻子ある男性の身代わりを申し出て、他の9名の囚人と共にコンクリート独牢にぶち込まれ、人間としての尊厳を完全に奪われた形で、餓死させられたのです。処刑を免れた男はポーランド軍の軍曹で、彼は生き残りワルシャワに帰ることが出来ました。しかし愛する16才と14才の二人の息子たちは、ソ連兵に殺され妻だけが残されました。彼は生きる力を失い、生きていることに何の意味も見出すことが出来ませんでした。コルベ神父の身代わりもその時の彼にとって、ひどく重荷となりました。その彼を立ち直らせたのは、黙って側に居てくれた妻のある言葉でした。「与えられた生命は、すばらしいではありませんか。」妻はそう言ったのです。そのことばが彼をようやくにして立ち直らせたのです。「人の生命は自分が手に入れたものではなく、贈られ与えられるものなのだ。」そう気付いた時、彼の人生は輝き始めたのです。                                        主イエスが「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。」(ヨハネ11:25~26)と言われた「いのち」とは、この世でいつまでも長生きするいのちではなく、神から与えられて在る「いのち」として、本来の命の輝きを取り戻す「いのち」のことです。ラザロの甦りは、まさにそのことを証しするために、主イエスがなされた奇跡であったのです。それゆえに主イエスが甦ったラザロを「ほどいてやって帰らせなさい。」(ヨハネ11:44)と、裸のままで帰らせたのは、与えられ、贈られて在る「いのち」に私たちが、仕事、地位、財産、才能、学歴、業績、思想や主義、好みや生き方などで自分を装って生きて来たそれら全てを取り払って、裸のいのちに目覚めること、すなわち神から与えられて在る「永遠のいのち」に気付くこと、それが取りも直さず「命の甦り」なのです。復活とは「与えられた生命は、すばらしいではありませんか。」と与えられて在る今の「いのち」の輝きに目覚め、私たちが立ち上がって希望に生きる時なのです。

3月24日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「生きる意味の不況」            ルカの福音書18章18~25節

今私たちは、「生きる意味の不況」と言われる時代に生きております。それなりの豊かさの中に生まれ育ち、紙も鉛筆も絵具、パソコン、テレビ、車もあります。道具はふんだんにあっても、それを使って夢を描くことができない社会になっております。それは「生きる意味」が見えないということでもあるのです。若者たちは夢が描けず、生きる活力も失われ、いつも疲れているように見えます。                                             本日の聖書に登場する若き役人も、生きる意味を求めて主イエスのところにやってきました。彼の場合、地位や富にも恵まれているという状況にありながら「何がまだ欠けているのでしょうか。」(マタイ19:20)と主イエスに問うのです。彼は自分の人生を支える確かな拠り所を求めていたと思われます。この青年は礼儀正しく、小さい時から神の戒めを守り、今の生活に溺れることなく、役人でありながら権力の座に執着することなく、「今」ではなく、「永遠」を思って生きるために、「どんな良いことをしたらよいでしょうか」と主イエスに教えを乞うのです。この主イエスの前に立つということは、その人の本当の姿があらわになることであり、世間的には申し分のない人物であったとしても、主イエスが問題にされるのは、心の奥底にある思い、願い、動機です。人の目から隠されているその部分です。主イエスは彼の問題点を見抜かれます。彼は律法を守っているという自信から、行いによって救われようとする思いと、自分の富に救いの根拠を置いていたのです。この彼に向かって主イエスは決定的な言葉をかけられます。「もしあなたの主張どおり、あなたがほんとうに隣人を自分と同じように愛しているなら、あなたは自分の持ち物を売り払い、貧しい人たちに与えることができるはずです。だからそれを実践しなさい。」そして「その上で、わたしについて来なさい。」(ルカ18:22)主イエスは、この問いかけをとおして、彼が自分の無力さと罪深さに絶望するように導かれたのです。ところが彼は非常に悲しんで、主イエスの前から去って行きます。その後ろ姿を主イエスは見つめ、いつくしみの愛を注がれるのです。(マルコ10:21)

3月17日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「祈りのかがみ」              ルカの福音書11章1~4節

「主の祈り」は、その内容の豊かさ、深さ、広さのゆえに、いろいろな呼び方がされてきました。ある神学者は「世界を包む祈り」と呼びました。私たちの日常生活とあらゆる喜びと悲しみ、苦悩と戦いに満ちた世界を包む祈りだからです。またある説教者は「勝利の祈り」と呼びました。なぜなら「主の祈り」は十字架において砕かれた人々、自分の無力と失敗の多くの経験を通して、主に全面的により頼むことを学んだ人々、聖霊によりただ主の恵みのうちに生きることを選びとった人々によって祈られるものであり、ただ主の祝福と力によってのみ導かれることによって、真の勝利の生活を得ることができるからです。さらにある人は「家族の祈り」と呼びました。キリストにある信仰を通して、神の家族とされた者だけが、神を「父よ」と呼ぶことができるからです。また「弟子たちの祈り」とも言われてきました。何よりも「主の祈り」は弟子のひとりが主イエスに「私たちにも祈りを教えてください」と願い求め、直接的には弟子たちに与えられた祈りだからです。さらに「共同の祈り」とも呼ばれてきました。世界の公同教会の礼拝の場で祈られているからです。                     このような「主の祈り」は、主イエスのキリスト者に対するあるべき姿について、明確な考えから生まれたものです。主イエスのキリスト者像とは「主の祈り」を祈るキリスト者にありました。ですから弟子たちに祈りを教えてほしいと求められた時、主イエスは即座に「主の祈り」を教えられたのです。          私たちは、この「主の祈り」を通して自分の祈りを吟味し、さらに自分の信仰を吟味することができます。なぜならそこに、真の霊的クリスチャンの姿があるからです。まさに「主の祈り」こそ、私たちが主の願うようなクリスチャンになっているかどうかということを試みる試金石なのです。

3月10日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「主よ祈りを教えてください」         ルカの福音書11章1~4節

「人間の姿で一番美しいのは、祈る姿である。」ある人の言葉です。また詩人長田弘の「祈ること。ひとにしかできないこと」という言葉を想い起こします。主イエスほど祈る姿の美しい人はいないのではないでしょうか。その形、祈る言葉、集中力、父なる神への揺るがない信頼。ですから弟子のひとりが「主よ、私たちにも祈りを教えてください。」と願い出たのは当然のことでした。弟子たちは主イエスの祈りに触れ、あまりにも貧しい自分たちの祈りを実感したのです。弟子たちは当然祈ることを知っていました。そして祈りの生活をしていたはずです。しかし主イエスの祈りと、自分たちの祈りとは何か違うことに気づいているのです。自分たちも主イエスが祈られるように祈りたいと願ったのです。そしてこれは私たちの願いでもあるのです。私たちが主イエスを信じたことによって、決定的に変わったこと、それは祈らなかった者が祈るようになったということです。ですから祈りの人になりたい。できることなら主イエスのように祈れるようになりたい。しかしどのように祈ったらよいのかわからない。それを教えてほしい。その事を誰よりも主イエスから教えていただきたい。それが私たちの共通の願いであります。それを私たちに代わって弟子たちが主イエスに願い出てくれているのです。さてここで私たちが覚えておくべきことは、「祈り願うこの祈りに、その人のすべてが現れる。」ということです。祈りにはその人のすべての思いが現れています。私たちは祈りを無視し、それを必要としないで生きることもできません。長田弘は「祈ることは問うこと。みずから深く問うこと。」と言いましたが、祈りには私たちの全存在、真実の姿が現れているのです。祈り深く生き得ない者は、そこで既に自分の信仰の浅さを示しているのかも知れません。私たちは、この主の祈りによって、自分の信仰を吟味することができます。自分の祈りを吟味するために、主の祈りを学ぶこと以上に適切なことはありません。これから、その主の祈りを丁寧に着実に学んでいきましょう。


3月3日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「女の苦しみ」                   創世記3章16節

大河の始まりは、ひっそりとした山奥の湧水が源泉となり、源流となっているように、神の救いの歴史にも源泉があり、源流があります。その源流を遡れば創世記3章15節の源流に辿り着きます。ここから神の救いの歴史は始まったのです。そのためこの箇所は「原福音」と呼ばれてきました。この福音の湧水が最初に流れ込んだところがアダムとエバの家族でした。(ルカ福音書は救い主イエス・キリストの系図をアダムまで遡って記しています。ルカ3:23~38)しかしそのアダムの家族で兄弟殺しという悲劇が起こるのです。何故このような事が起こるのでしょうか。その人間の苦しみ、痛みの起源について語っているのが3章16節なのです。この箇所は罪を犯した女に対する神の刑罰が語られております。その第一の刑罰は「産みの苦しみを大いに増す。」ということでした。女性には女性特有の苦しみ、悲しみがあるのですが、その苦痛の最たるものが「苦しんで子を産まなければならない。」ことでした。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。」(創世記1:28)と、出産は神の祝福の賜物でありましたが、罪を犯した結果、事の真相がすっかり変わり、今では「苦しんで子を産む。」という、のろいと災いが加わってしまったのです。第二の刑罰は「しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる。」という夫と妻の関係に見られます。あれほど女として、妻として、母としての特有の苦労があり、苦痛があっても「それでもなお、あなたは夫を恋い慕い」結婚にあこがれ、夫にしがみつくのです。しかもその夫は「あなたを支配することになる。」というのです。しかし創世記に登場する族長たちの妻、サラ、リベカ、レア、ラケルたちは夫に治められても反抗することなく、仕えることにおいて、神の召しに応える、毅然とした態度を持ち続けた妻たちであったことを覚えましょう。「妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの神を怖れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。」(ペテロ第一の手紙3章1~2節)


2月24日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「力への渇望の時代」          エペソ人への手紙6章10~12節

現代は「力」を求める時代です。強くなかったら生きていけないかのように言われてしまう時代です。それを裏付けるかのように、「00力」と題する本がブームになっており、昨年のベストセラーは「聞く力」(文春新書)でした。何故次々と「00力」という本が売れ、出版されるのでしょうか。このような状況を生み出す背景には、現代社会の構造があります。「グローバル化」「構造改革」「市場原理主義」「新自由主義経済」等で表わされる「地球経済システム」が目指す人間像は、「強さ」が求められる人間です。とてつもなく「強い」人間でなければやっていけない。そしてこのようなグローバル経済システムの中で勝つためには、「力」が必要なのです。負け組になれば、その結果は自己責任として、自分で負わなければならないのです。ですから「弱さ」は極力忌み嫌われるものとなります。市場における成功を勝ち取り、最大の報酬を得るように努力し、その強さを保ち続けることが、現代社会の中で勝つための条件です。しかし、私たちには本当にそんなことが可能なのでしょうか。パウロが「主にあって、その大能の力によって強められなさい。」(エペソ6:10)と言う時、その「力」と「強さ」は、現代社会が求めているような「力」のことでしょうか。いいえ、神はあえて、主イエスを無力な存在としてこの世に送られたのは、私たちがこの世の間違った「強さ」から自由にされ、「まことの強さ」を持って、主イエスに与えられたのと同じ聖なる力をもって、この世を生きることができるように、道を開いてくださったのです。そのために神は小さな赤ん坊になられ、この世に生まれました。これこそ神が「まことの力」を示すために選ばれた手段でした。パウロが言うところの「強さ」は、キリスト者の中から出る力強さではありません。人間が努力し頑張ればなれる強さではありません。それは、注ぎ込まれる力、強められる強さであります。キリスト者の外から、上から与えられる強さなのです。一人一人が直接、「主にあって、その大能の力」の中にいて、強められていることが大切なのです。そして幸いなことに、主イエスはいつ、いかなる時にも、私たち一人一人と共にいてくださるのです。「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」(コリント人への手紙第二12章9節)

2月17日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「なすべき この一事」           ルカの福音書10章38~42節

昨年出版された本のベストセラーの一位は、阿川佐和子による「聞く力」(文春新書)でした。今も売れ続けているということは、「聞く力」が弱くなっていることが問題になtっていることと無関係ではありません。この「聞く」という言葉は、聖書の中に多く使われており、主イエスは「聞く耳のあるものは聞きなさい。」(ルカ8:8)「聞き方に注意しなさい。」(ルカ8:18)と「聞くこと」の大切さを強調されました。主イエスが「聞く」ということを強調されたのは、神の言葉が私たちを成長させ、大きくさせるからです。それは自分を確かめ、ここに自分がいると感じさせてくれる言葉だからです。情報化社会の中で、情報でない言葉、すなわち主イエスの語られる言葉こそが、私たちを確かなものにするのです。ですから「聞き方に注意し」傾聴しなければならないのです。                                       本日、読んでいただいた聖書の箇所、マルタとマリヤの姉妹の物語は、この「聞く」という主題を扱っております。 主イエスのもとに座って聞いていたマリヤと、もてなしのために忙しく働いていたマルタ。ここで「いろいろな事を心配して」と訳されている言葉は、たった一語で「まわりから引っ張られる」という意味です。周辺的なことに気を取られていまっているマルタ。一方マリヤは、主イエスの語られる言葉に集中し聞いている。これこそが中心であり大切なことなのです。どうしても必要な一つのこと、それは主イエスの言葉を聞き、交わりを持つことです。マルタはこの中心を見失っておりました。主イエスが期待しておられるもてなしとは、何かをすることではなく、聞くことなのです。そして、それはただ、主イエスのそばに留まることなのです。この親身になって聞くという姿こそ、主日礼拝においてこそ、最もよくあらわされるものなのです。この主日礼拝において、神の言葉にじっくり耳を傾けることから、私たちの「聞く力」を身につけていきましょう。         

2月10日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「誰が真の隣人か」             ルカの福音書10章25~37節

「善きサマリヤ人」という表題で、私たちが親しんできましたこのたとえ話には、主イエスがこのサマリヤ人について「善良」であることについて語られた言葉はありません。ですから正確には、「サマリヤ人に親切にされた人の譬」なのです。この物語で重要な意味を持つ言葉が「かわいそうに思い」(ルカ10:33)と訳されている言葉です。もともとの意味は「共にに苦しむ・共に耐える」です。「あわれみ」と訳される言葉です。「あわれみ」は傷ついているところへ赴かせ、痛みを負っている場所へ入って行かせ、失意や怖れ、混乱や苦しみを分かち合うようにさせます。また悲惨のなかにある人と共に叫び声をあげ、孤独な人と共に悲しみ、弱い人と共に弱くなり、傷ついた人と共に傷つき、無力な人と共に無力になることを要求します。                         現代社会が今最も必要とし、求めているもの、それは「共に生きる」隣人です。「あわれみ深い」という、人間らしい在り方、生き方を必要としているのです。そしてそのような「真の隣人」こそイエス・キリストなのです。そもそも、イエス・キリストはなぜこの世に来てくださったのでしょうか。それは、私たち人間の傷ついた姿を見て、「あわれに思い」私たちのところに来てくださったのです。イエス・キリストはこのたとえ話で、あなたを愛を施す側ではなく、傷つき倒れあわれみを受ける必要がある、弱い人の側に置かれたのです。そして誰があなたを愛したか、あわれみ深い人であったかと聞かれたのです。自分自身、傷つき苦しむ側に身を置かないで、苦しむ者の痛みは分かりません。さらに私たちは自分の傷の大きさに気付いておりません。その傷の大きさをただひとり知っていてくださったのはイエス・キリストです。ですから傍らに来てくださいました。私たちの隣人になってくださいました。このお話のサマリヤ人は実は、私たちのイエス・キリストであるということがよく分かった時に、その主イエスの憐れみによって、生かされている私たちは初めて、このサマリヤ人の心を心として生きることができるのです。そして「誰が強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」と問いかけるイエス・キリストの言葉に「それは私です。」と答えて生きる者とされるのです。そして、ただなすべきことを、なし得る限りするのです。主イエスのご愛に突き動かされて、今、そこでなすべきことをすればよいのです。そうです!主イエスのように「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)