「カインは町を建て―都市と文明」 創世記4章17~22節
都市を最初に建てた者はカインでした。アベルを殺したカインに対する「地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」(創世記4:12)という神からの罪の宣告は、カインの上に重くのしかかります。「さすらい人」とは第一に、良心の安らぎのない人を意味します。カインは神の追及の前に終生おびえ続け、神の御顔を避けて、あてどなく逃げ回らなければなりませんでした。「さすらい人」とは第二に、生活の場を失う人を意味します。カインにとって土地は、のろわれたものであり、耕しても収穫を得ることができず、実らせる力そのものが失われてしまったのです。(創世記4:11~12)こうして「さすらい人」となったカインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住み、そこに町を建てたのです。(創世記4:16~17)「町」とは、人の群がる雑踏の場という意味です。都市の姿を意味する言葉です。カインにとって都市とは、まず彼自身にとって確かな居場所、自分の定住の地であったということです。次にそれは、人間がここでなら休らいでいられると、信じこむ場所でした。都市は人間にとって港であり、目的地でした。ここでついにカインは、さすらい人である自分の状況を忘れることができ、さすらいの旅に終わりを告げることができたのです。そして、最初に与えられた我が子に「エノク」という名をつけ、その町にも同じ名をつけたのです。(創世記4:17)「エノク」とは、「はじまり」という意味です。カインはここに始めて、自分の暗い過去を知らない、白紙の人間を得たのです。この子と共に新しい人生は始まるのです。エノクは父カインの前科にとらわれることなく、カイン家を築いてくれる創始者でなければなりません。カインはここに希望を持ちました。彼は生涯をかけ、また子々孫々にわたって町の繁栄を願うべく人口増加に励み続けたのです。(創世記4:18~19)それは、カインが今、自らの手で「のがれの町」を造り、人ごみの中に紛れ込もうとしていることを物語っております。こうしてカインは都市の雑踏の中に生きることによって、自分の過去を忘れようとしたのです。しかし、その町は、神を畏れなくなった社会、自分の意志と決断で生きる人間中心の社会となりました。すべてを自分で守らなければ、富もいのちも他人に奪われてしまうのです。その恐れを打ち消すために人はますます富と権力を、求め続けるのです。しかしそのような都市に生きる人間の精神性は貧しくなり、人は病んでいくのです。それは現代の世界状況、日本の現代社会を見ればおのずとわかることです。このような都市と、そこから生み出される文明、文化は、私たちを決して救うことはできないのです。むしろ、私たちは天にあるもっとよい都を待ち望むがゆえに地上では旅人または宿れる者なのです。「私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。」(ヘブル13:14)
「すこやかな目を持つ」 ルカの福音書11章29~36節
主イエスは「この時代は悪い時代です。」(ルカ11:29)とずばり言われました。あなたがたが生きている時代、それは悪い時代であると言われたのです。悪い時代の特色は、健全な目、澄んでいる目を持っていないということです。「あかり」は見えるために燭台の上に置かれるように、神も救い主イエス・キリストを誰の目にもはっきりとわかるようにして下さいました。しかし「あなたのうちの光」(ルカ11:35)が暗く盲目なら、主イエスの正体を見抜くことが出来ないのです。主イエスは悪い時代の人々が求めているような「しるし」は、ここにはないと言われます。しかし、それにまさる真の「しるし」である「イエス・キリスト」が神から与えられているのです。「ヨナがニネベの人々のしるしとなったように(ルカ11:30)、ヨナに、はるかにまさる者、私イエスがここにいるではないか。どうして、それが見えないのか、どうして聞こえないのか。」主イエスはどんなに深い嘆きの中で、この言葉を語り、しかも招き続けておられることでしょうか。改めて、南の女王のソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来た(ルカ11:31)、彼女の聞く態度と、ヨナの宣教に応えて、ニネベの人々が悔い改めた態度から、主イエスを真の救い主と認める、すこやかな目とは、真の救い主であるイエスの言葉にどれだけ耳を傾け、深く聞くかによって決まることが教えられます。主イエスは言われました。「幸いなのは、神のことばを聞いて、それを守る人たちです。」(ルカ11:28)「だから、あなたのうちの光が暗やみにならないように、気をつけなさい。」(ルカ11:35)
「神のことばを聞き、守る幸い」 ルカの福音書11章14~28節
本日の聖書の箇所は「口を利けなくする悪霊を追い出された。主イエスの力ある業に群衆は驚いた」という書き出しで始まり、群衆の中の一人の女が「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」という主イエスに対する讃嘆のことばで終わっております。その間にはさまって、主イエスがいろいろと話されたことが記されておりますが、主イエスがここで言わんとされていることは二つのことであります。第一に「わたしがもし神の指によって悪霊を追い出しているのならば、神の国、神のご支配は、既にわたしを通してここに来ているということです。ですから、わたしに見方しない者は、わたしに敵対することになり、もう今となっては中立的に傍観することは許されません。」(ルカ11:17~23)ということであり、第二に、追い出してまた戻ってくる霊の話しから(ルカ11:24~26)いくら人の心の中を掃除してきれいにしてあっても、その心の中に、主イエスをきちんと、あなたの心の主として迎い入れ、住まっていただかなければ、空っぽのままの状態であれば駄目なのです。「神のことばを聞いてそれを守る、心に受け入れる」ということが求められるのです。主イエスの素晴らしい奇跡を見て、一人の女は、主イエスの産みの母は幸せだと言いました。その女のことばに対して主イエスは、「いや、幸いなのは、神のことばを聞いて、それを守る人たちです。」と答えられました。主イエスは、主イエスを子として産み、乳房を含ませた、あのマリヤに与えられた幸いに勝る幸いに生きる道があると言われます。それは、神のことばを聞き続けて、それが自分の中でいつも力を持ち続けるように見守ること。そのことは、「キリストを心に宿す」「救い主キリストが私の内にいます」ということでもあります。主イエスはその事を私たちに求めておられるのです。 「だから、あなたがたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。」 (ヨハネ黙示録3:3)
「夢みる勇気―68年目の敗戦の夏に」
8月は想い起こす月です。1941年12月8日と1945年8月15日、先のアジア太平洋戦争の、始まりとその終わりを想い起こす月です。そして荒廃した国土の中から生まれた、「積極的非暴力平和主義」をその中心に置いた「日本国憲法」を想い起こす月でもあります。先の戦争で被害者、加害者を問わず、すべての犠牲者の落とされた尊いいのちによって成り立っている「日本国憲法」。その憲法のもとで、戦争をしてこなかった現実を想い起こす月であります。さらにあの長崎に投下された原子爆弾によって夫人を失い、自分も原爆症で幼い子供二人を残して召された永井隆博士の残された「いとし子」たちにあてて書かれた遺言のような言葉を想い起こす月でもあります。
私たち日本国民は憲法において戦争をしないことに決めた。憲法の第二章は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と決めている。どんな事があっても戦争をしないというのである。わが子よ。憲法で決めるだけなら、どんなことでも決められる。憲法はその条文どおり実行しなければならぬから、日本人としてなかなか難しいところがあるのだ。どんなに難しくても、これは善い憲法だから、実行せねばならぬ。自分が実行するだけでなく、これを破ろうとする力を防がねばならぬ。これこそ戦争の惨禍に目覚めたほんとうの日本人の声なのだよ。しかし理屈は何とでもつき、世論はどちらへでもなびくものである。日本をめぐる国際情勢次第では、日本人の中から、憲法を改めて、戦争放棄の条項を削れ、と叫ぶ者が出ないとも限らない。そしてその叫びがいかにも、もっともらしい理屈をつけて、世論を日本再武装に引きつけるかもしれない。そのときこそ、誠一よ、カヤノよ、たとい最後の二人となっても、どんな罵りや暴力を受けても、きっぱりと「戦争絶対反対」を叫び続け、叫び通しておくれ!たとい卑怯者とさげすまれ、裏切り者とたたかれても「戦争絶対反対」の叫びを守っておくれ!」 (永井隆著 「いとし子よ」より) 68年目の敗戦の夏を迎え、永井隆博士の心配が現実のものとなりつつある時、この永井隆博士の言葉を私たちへの遺言として受け止め、その意味を深く考える8月でありたい。
「カインのしるし」 創世記4章8~16節
人間は堕落以後、神の二つの問いかけの言葉と向き合って、生きなければなりませんでした。 (1)「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:9)アダムに問いかけられた言葉が、今カインに対して向けられます。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」と。罪を犯した人間は、主の御顔を避けて、己の身を隠そうとします。カインはアベルの死体を、主の御顔を避けるかのように、地中に埋め、自分の罪を隠そうとしました。そのカインに「あなたどこにいるのか。」と神は問いかけられます。それは、自分が何をしたのか、わからせようとする神の言葉でもあります(2)「あなたは、いったいなんということをしたのか。」(創世記3:13)エバに問いかけられた言葉が、そのままカインに向けられます。(創世記4:10)「何をあなたはしたのか。」神はこの問いかけによって、カインが自ら殺人の行為を告白し、悔い改め、謝罪する機会を与えられます。しかし、カインは居直り、神の憐れみの心を踏みにじるのです。その結果神はアダムとエバの場合よりも、手厳しい刑罰をカインに与えられました。それは「あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ。」というものでした。それは彼がこれから常に不安と恐れの中に生きなければならないことと、この地上には安らぎの場、生活の場所を持てないことを意味します。そのカインは神に「しるし」をつけていただくことによって、自分は殺されることはないとわかると、彼は大胆不敵に生き始めるのです。聖書が見つめる人間、それはどこまでも罪深く、惨めです。人に死が教訓にならないのです。人を殺しても悔い改めないのです。人間は今でも人を殺し続けているのです。大地が殺された人間の血を飲まない日はないのです。これから私たちは、聖晩餐にあずかります。何故私たちはこの聖なる食卓に招かれているのでしょうか。それは私たちに一つのしるしが与えられているからです。パウロはそのしるしを「イエスの焼印」と呼びました。(ガラテヤ6:17)罪なき神の独り子が私たちのすべての罪を背負って、十字架にかかって死んでくださったことにより、罪はもはや私たちを支配することはありません。カインをだれも撃つことが出来ないように、神がイエス・キリストの焼印を私たちに付けてくださった限り、私たちは永遠にイエス・キリストのものなのです。
「しきりに願ったらよいのです」 ルカの福音書11章5~13節
さて あかんぼは なぜに あんあんあんあんなくんだろうか ほんとうに うるせいよ あんあんあんあん あんあんあんあん うるさかないよ うるさかないよ よんでるんだよ かみさまをよんでるんだよ みんなもよびな あんなに しつっこくよびな (八木重吉) 主イエスの「主の祈り」の教えについて、ある説教者がこう書きました。「主はここで、われわれに幼子の心を回復するように求めておられる。」と。「主の祈り」は「父よ」という短い言葉から始まります。神を「父よ」とひとことで呼んでおります。しかも、そのひとことにすべての思いを込めるのです。赤ん坊は「あんあん」泣くその声に、すべての思い願いを込めて訴えます。八木重吉はその幼子の心を単純素朴に表現しました。主イエスの5節以下の譬話の中味は、祈りにおける「願い」は、まさに、神さまに「おねだり」しているかのように「願う」祈りについて教えられます。真夜中に訪れた友人のために、その人は別の友だちのところに「パンを三つ貸してくれ。」とお願いに行きます。彼は友だちだからではなく「あくまで頼み続けるなら」必要な物を与えてくれるというのです。この譬話で、「パンを与えてくれる友だち」は神さまです。その神さまが、私たちが困って訴えるその訴えに耳を傾けなかったならば、それは「父」としての神ではなくなってしまうのです。主イエスがそのように語られたということに深い意味があります。私たちの願いを聴いてくださらないと神が神でなくなるのです。私たちを友人として重んじて、深い交わりを持ってくださる神さま。その神さまに「しきりに願う」「あくまで頼み続ける」祈りに徹することが、私たちに求められているのです。神さまに遠慮はいりません。あの赤ん坊のようにしつっこく呼び求めるのです。なりふり構わず飛び込んで行くのです。祈りとはそういうものであります。そこで生ける神に出会うのです。
「こころみの世にありて」 ルカの福音書11章1~4節
信仰を持って生き始めるということは、戦いが終わることではありません。戦いが始まることなのです。主の祈りにおいて、私たちがこの祈りをするのは、無防備でその戦いの中に赴こうとする私どもが、「私たちを試みに会わせないでください。」という祈りによって武装することを意味します。従ってこの祈りは自分自身の弱さを悟らせます。この祈りについてハイデルベルク教理問答の問127で「われらは生まれつき真に弱く、ひとときも立っていることさえできないのに、さらに悪魔、この世、私たち自身の肉という、われらの恐ろしい敵は休むことなく、襲いかかってくるゆえに、聖霊の力によってわれらを支え強くしてくださいということです。」と答えております。またこの祈りは、神の恵みは罪がどんな強力なものであり、私たちの生活から罪を犯す傾向を取り去っていないことを悟らせます。それゆえ「私たちを試みに会わせないでください。」というこの祈りが、日々私たちの心の中に位置を占めているのは当然なのです。私たちは何と無力なものでしょうか。主がその全能の力をもって悪魔の攻撃に対抗して下さるのでなければ、私たちは、たちどころに崩れてしまうのです。ですから 「こころみに屈するなかれ、屈せばそれは罪となれば、勝利の一つ一つはあなたを助け、さらに勝利へと携え行くなり。」 と歌われる讃美歌の歌詞のようにはいかないのです。試みに対するどのような勝利も、私たちを試みにあう前よりも強くすることはありません。キリスト者は、一度勝利を得たから、この次にも罪を征服することが出来るだろうと考えてはならないのです。私たちは、主イエスが公生涯の最初に試みを受けられたことを思い起こしましょう。(マタイ4:1~11)またその主イエスが公生涯の最後に、「誘惑に陥らないように、目をまして祈っていなさい。」(マタイ26:41) と語られたことを心に留めましょう。
「聖霊に遣わされて―世界宣教」 使徒の働き13章1~5節
ちょっと思い描いてみてください。もしあなたが日本語を話す最後の人だったらということを。もう誰にも日本語で話すことはない。これから先、自分が死んでしまったら、もう使われることもなく、忘れられてしまう日本語という言葉を。それはどんなに寂しいことでしょうか。日本語ならではの発音の仕方。容易に翻訳できない日本語特有の言い回し。懐かしい童謡の調べ。民族の歴史、文化、伝統、伝承も失われてしまう。日本語(母国語)を失うことは、その国の人間でなくなってしまうことなのです。世界では現在約7000の言語が話されております。そして少なくともその半数は絶滅寸前なのです。過去500年の間に言語の4,5%が消滅したと言われております。鳥類の消滅率1,3%、哺乳類の1,9%と比べて、はるかに高い率です。これまでも無数の言語が存在の痕跡すら残さず消えてゆく運命をたどりました。2000年以上の歴史を持つ言語は、バスク語、ギリシャ語、ヘブライ語、ラテン語など一握りの言語だけです。しかも言語絶滅の速度は、ますます速くなっているようです。ユネスコ(国連教育科学文化機関)によれば、いまや世界中で一年に10の言語が消滅していると言われております。さらに、今417の言語が絶滅寸前であるということです。 日本長老教会は海外宣教に於いて、この言語消滅を防ぐ宣教団体「ウィクリフ聖書翻訳協会」に多くに宣教師を派遣致しました。本日の礼拝はその世界宣教週間に基づいて行われる礼拝です。パウロから始まった世界宣教は、時代とともに多様化し、拡大していきました。私たちは世界宣教のそれぞれの宣教団体を支援する事で、私たちも世界宣教の働きに参加している一人であることを、この礼拝を通して確認したいと思います。
「荒れた庭―最初の家庭」 創世記4章1~8節
家庭は、人間の最高の幸せの場所であると同時に、最大の不幸の場ともなりうる。そうした事実の両面を直視させるのが、人類最初の家庭を描いた、創世記4章1~8節のカインとアベルの物語です。罪を犯したアダムとエバは、神との交わりを失い、エデンの園も追われてしまいました。しかし園の外にあってもなお、エデンの園を思い起こさせる「庭」を家の中に持つこと、すなわち「家庭」を築く喜びを、神はお与えになりました。しかしその喜びの庭が消滅しかかっているのです。家の中の庭が荒れ果てようとしているのです。創世記4章冒頭に描かれているアダムとエバの家庭に、兄弟殺しという思いもかけない事件が起きたのです。カインとアベルの物語は、人類最初の悲劇が「家庭」の崩壊であったことを物語っております。事件の発端は、最初の礼拝とささげ物が記されている聖なる場所で起こりました。自分のささげ物が、神に受け入れられなかったことを逆恨みしたカインが、弟アベルを殺したのです。兄弟が殺し合うという人間の罪の闇の部分を聖書は醒めた目で見つめております。その事実は、今私どもが住んでいる世界で、いろいろな形の事件として、現実に起こっております。こうして聖書は、カインの姿を通して、親子二代にわたり、罪と神への反抗によって転落し、さらに転落する人間の姿を描きます。アベルの死は人間の最初の死でした。それは自然死ではなく、病死でもなく、殺害による死とは、なんという人間の不幸でしょうか。 罪とは落ちること。光のすじのように、硝子の傷のように、するどい痛みにひかりながら、際限もなく落ちること。(高橋睦郎)
「荒野の全行程を覚えて」 申命記8章1~10節
イスラエルの民は、歴史に生きる民族です。そのため、いつも彼らの歴史を想起し、その記憶を大切にしてきました。そのことは神の民として生きるための、最も大切なものを育ててきました。イスラエルの民にとって、歴史を想起するということは、イエスラエルの民に対して、神が果たして下さった神のみ業、出来ごとを具体的に回顧することでした。本日の聖書箇所において、イエスラエルの民は、ヨルダン河を渡って、約束の地カナンに入るに際して、この40年の間の民の歩んだ歴史を想起することを求められております。「あなたの神、主が、この40年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。」(申命記8:2)その行程とは「あなたを苦しめて、あなたを試み」(申命記8:2)飢えさせた、荒野のつらい旅のことです。その苦しかった時のことを想い出しなさいとモーセは語るのです。「エジプト脱出」という解放の出来事、喜ばしい救いの出来事を想い起こすのではないのです。そこには過去の神の恵み、守り、支え、導きを正しい意味において理解し、忘れないでほしいと願う、モーセの思いが込められております。想起し回顧という時、それはただ単に古き良き時代をなつかしんで想い出すのではありません。祝福され恵まれたことだけを言っているのではありません。過去の苦しみ、悲しみ、疑いと不安な出来事も想い起こさなければならないのです。それが出来る時、本当の神の恵みが何であるかが分かるのです。「この40年の間、あなたの着物はすれ切れず、あなたの足は、はれなかった。」(申命記8:4)という神の真実とみ守りがわかるのです。 中部中回設立40年を迎えた本日の記念礼拝に於いて、イスラエルの民がそうであったように、私たちも今までの中部中会の歩みの全行程を覚え、そこに顕された神の出来事を想起することこそ、本日の記念礼拝に最もふさわしい守り方であることを覚えましょう。