「いのちと敬虔をもたらす力」 ペテロの手紙第二1章1〜3節
今日はペテロの手紙第二となります。このペテロの手紙第二は、使徒ペテロが人生の終わりに、まるで遺言のように残した手紙と考えられています。ペテロは自分の死が近いことを知り、残される愛する聖徒たちへ、大切な教えを伝えようとしました。
まず、私たちが心に留めるべきことは、私たちが持っているこの「尊い信仰」は、決して自分の努力や立派な功績で手に入れたものではない、ということです。ペテロは、この信仰が「私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって」与えられたものだと語っています。つまり、信仰は神様からの一方的な恵みの贈り物なのです。私たちが今、神様の子どもとしてここにいるのは、完全に神様の愛によるものなのです。
そしてペテロは続けて信仰者となった後の「歩み」について優しく語りかけます。その歩みは「いのちと敬虔」の歩みです。神様は、私たちがただ「救われた」という結果に満足するだけでなく、神様に似ていく聖い生活、いのちと敬虔の道を一歩ずつ歩んでいくことを願っておられます。
ところが、この道は決して楽なものではありません。時には失敗したり、罪に負けてしまったり、苦難を前にして「もうダメだ」と無力さを感じることもあります。「果たして自分は、この道を最後まで歩き通せるだろうか」という不安に襲われることもあるでしょう。しかし、ペテロは私たちに素晴らしい慰めの言葉を与えています。それは「主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらす すべてのものを、私たちに与えました。」というのです。
私たちが信仰者としていのちの敬虔の歩みを歩むために必要な力は、自分の中から出るものではありません。主イエス様が、ご自身の神としての力によって、すでに私たちにすべてのものを備えてくださいました。ですから、私たちは自分の力でその道を歩むために努力することとともに、主がすべての力を与えてくださるということを覚えてより頼んで歩んで行かなければなりません。
私たちに必要なすべてのものを、すでに惜しみなく与えてくださる神様を心から信頼したいと思います。私たちをご自分の民として召してくださった恵みを覚えて、いのちと敬虔の道を喜びとともに歩んで行く者になりたいと思います。
「福音、確かな教え」 ルカの福音書1章1〜3節
今日からルカの福音書をともに学んで行きたいと思います。新約聖書には四つの福音書がありますが、ルカの福音書には他のものとは違う特徴があります。著者のルカは、福音書を書いた人の中で唯一の異邦人でした。そして、この手紙を最初に受け取ったのも、神様のことをまだよく知らなかった異邦人たちだったのです。ですからルカの福音書は、異邦人が異邦人たために書いた福音書です。
ルカはこの福音書を書くとき、ただ聞いた話を並べただけではありませんでした。今日の箇所で彼は、すべてのことを初めから詳しく調べて」書いたと伝えています。当時、すでに多くの人がイエス様についての記録を残そうとしていましたが、ルカは直接話を聞き、歴史的な事実を一つひとつ丁寧に調査し、「順序を立てて」まとめ上げました。
ルカがこれほどまでに情熱を注いで記録したのは、なぜでしょうか。それは、宛先であるテオフィロ、そして今を生きる私たちが、すでに学んだことが確かな事実であることを知るためなのです。テオフィロは、もともと偶像崇拝の文化の中で育った人でした。そんな彼に、イエス・キリストの出来事が単なる作り話や神話ではなく、この世を造られた神様が人となって来られたという、歴史的事実であることを伝えたかったと思います。
私たちの救いの確信は、どこにあるでしょうか。時には、熱い感情や不思議な体験が確信を与えてくれるように感じることもあります。でも、感情は状況によって変わってしまいますし、体験は時間が経つと薄れてしまうものです。私たちの信仰が揺るがないためには、自分の感覚よりももっと確かな土台、つまり「神様の言葉」という事実の上に立つことが大切です。
ルカが伝えてくれるこの確かな福音の記録を通して、イエス様がなさったことがいかに真実であるかを、確実に覚えて救いの喜びに満ち溢れて歩んで行きたいと思います。
「主とともに歩む」 マルコの福音書3章13〜19節
今日はマルコの福音書3章から、イエス様が12人の弟子を選ばれた出来事について、共に考えてみたいと思います。当時、イエス様の周りには大勢の人々が集まっていましたが、主はその中から特別に12人を選び、山へと呼び寄せられました。
まず心に留めたいのは、この招きが完全にイエス様の主権によるものだった、ということです。聖書には、主が「ご自分の望む者たちを呼び寄せられた」と記されています。弟子たちの能力や資格などが基準ではありませんでした。ルカの福音書6章12節によりますと、イエス様はこの12人を選ぶ前に、夜明けまで神様に祈り、ただ神様のみこころに従って彼らを選ばれたのです。私たちも同じです。自分の力ではなく、神様の豊かな恵みによって、今日この場所に招かれているということを、心に覚えたいと思います。
そしてイエス様が弟子たちを呼ばれた目的は、大きく分けて二つあります。一つ目は「彼らを身近に置くため」、そして二つ目は「宣教に遣わし、悪霊を追い出す権威を与えるため」です。イエス様は、弟子たちに何か仕事をさせる前に、まず「ご自分のそばにいて、ともに過ごすこと」を望まれました。主のそばで学び、主の心に触れることこそが、弟子の歩みの本質なのです。その親密な交わりがあってこそ、私たちは福音を伝え、暗闇の力に打ち勝つ力をいただいてこの世へと出て行くことができるのです。
しかし、12人のリストの最後には、イスカリオテのユダの名前があります。すべてをご存じのイエス様が、なぜ後に自分を裏切る者を選ばれたのでしょうか。それは、イエス様が私たちの罪をあがなうために、自ら進んで十字架の道を選ばれたことを示しているのです。
神様は今日も私たちを呼んでおられます。私たちが完璧だから呼ばれたのではありません。ただ主のそばに留まり、主の愛を学び、その愛の力で多くの人々に福音を伝える証人として歩むことを願っておられます。その恵みの招きに感謝し、日々主とともに歩んで行きたいと思います。
「信仰によって神に喜ばれる」 ヘブル人への手紙11章6節
今年も最後の日曜日になりました。この一年を振り返ってみて、皆さんの心に一番残っている出来事は何でしょうか。今年は大阪万博やお米の高騰など、社会的なニュースも色々ありましたが、私たち信仰者にとって最も大切な問いかけは、信仰者としてどのような一年を過ごしたか、ということだと思います。
今日の聖書箇所、ヘブル人への手紙11章には、旧約時代の素晴らしい信仰者たちが登場します。聖書は、彼らの素晴らしい行いや実績よりも、彼らが「信仰によって」生きたということを強調しています。では、その「信仰」とは一体どのようなものでしょうか。6節には「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」と書いてあります。私たちがどれほど熱心に礼拝をささげ、奉仕をしたとしても、それが本当の信仰から出たものでなければ、神様に喜ばれることはできないということです。
では、本当の信仰とは何でしょうか。今日の本文は、二つのことを教えています。 一つ目に「神がおられることを信じる」ことです。これは、単に神様の存在を認めるだけでなく、聖書が証ししている天地の創造の神であり、歴史の支配者であり、私たちを愛してキリストを与えてくださった救いの神様を信じるということです。二つ目に「神はご自分を求める者には報いてくださる方であることを信じる」ことです。ここで「報いてくださる」というのは、神様を心から求める人に救いを与え、神様ご自身に出会わせてくださるという意味です。アベルやエノクといった昔の信仰者たちも、まさにこの信仰をもって神様に近づき、神様に喜ばれる者とされたのです。
私たちはこの一年、この信仰をもって神様に近づいてきたでしょうか。もしかすると、目の前の困難や自分自身の弱さのために、神様から遠ざかってしまったことはなかったでしょうか。私たちはたとえ不完全で弱くても、私たちを愛して救いへと導き、心から求める者に必ず応えてくださる神様を信じる信仰によって、大胆に神様の御前に進み出ることができます。2026年の新しい年も、この信仰をもって、さらに神様に近づいていく道を歩んで行きたいと思います。
「救い主の誕生」 マタイの福音書1章18〜25節
本日はイエス・キリストの誕生という、聖なるクリスマスの出来事についてともに考えてみたいと思います。マタイの福音書は、処女マリヤが聖霊によって身ごもったという、人間の理性では到底信じられないような驚くべき内容から始まっています 。しかし、これこそが神の御子が人として来られたという、大切な信仰の真実なのです 。
今日の箇所では、特にマリヤの夫となるヨセフの姿に注目してみましょう。婚約期間中にマリヤの妊娠を知ったヨセフは、どれほど悩み、苦しんだことでしょうか 。聖書はヨセフのことを「正しい人」と記しています 。この「正しい」という言葉には、律法を忠実に守るという意味だけでなく、その根底に深い慈愛を持っているという意味も含まれています 。彼はマリヤを愛していたので、身ごもったということを分かったのですが彼女をさらし者にせず、ひそかに縁を切ろうと決めたのです 。正義を貫くことと、愛を守ることの間で揺れ動く葛藤、それがヨセフの苦悩でした 。
そんなヨセフの夢の中に、主の使いが現れました。「恐れずにマリヤを妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです」と告げたのです 。そして、その子の名を「イエス」と名付けるように命じられました。イエスとは、「ご自分の民をその罪からお救いになる方」という意味です 。また、この出来事は700年も前のイザヤの預言、「インマヌエル」の成就であることも示されました 。
「インマヌエル」とは、「神は私たちとともにおられる」という意味です 。罪によって神様から離れてしまった私たち人間に、神様御自らが近寄ってくださり、常に寄り添ってくださるという、想像もできないほどの恵みの約束なのです 。ヨセフは、自分の理屈や判断を一旦横に置いて、神様の命令に従い、御使いに命じられた通りにマリヤを迎え入れたのです 。
私たちもヨセフのような、神様への信頼と従順な心を持ちたいと思います 。人生の深い悩みや困難の中にいる時も、インマヌエルの神様は必ず私たちとともにいてくださいます 。私たちを罪から救うために来られたイエス様の誕生を心から喜び、いつも共におられるその愛を、周りの人々にも伝えていく道を歩んで行きたいと思います。
「神のまことの恵みの中に」 Ⅰ ペテロの手紙5章12〜14節
本日はペテロの手紙第一の結びの箇所から、ペテロがこの手紙を通して伝えたかった「神のまことの恵み」 について共に考えてみたいと思います。ペテロは、この恵みの中に「しっかりと立ちなさい」と私たちに優しく勧めています。
では、「神のまことの恵み」とは具体的にどのようなことでしょうか。それは、私たちがキリストのゆえに永遠の栄光の中へと招き入れられた者である、という驚くべき真実です。しかし同時に、私たちはこの地上で生きる限り、罪を犯し、失敗を繰り返す不完全な存在であることも事実です。
「クリスチャンなのに、なぜこんなことをしてしまうのだろう」と、ご自身の弱さに失望してしまうことはありませんか 。しかし、これこそが恵みなのです。神様は、不完全な罪人である私たちにこそ恵みを与え、栄光へと招いてくださるからです 。
ですから、今の自分の弱さゆえに失望したり、つまずいたりする必要はありません 。なぜなら、神様は、私たちをしばらくの苦しみの後に、必ず私たちを回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者として完成させてくださるからです。この望みこそが、私たちが固く立つべき恵みです 。
また、ペテロは、この手紙をシルワノや、「わたしの子」と呼ぶマルコ 、そしてローマの教会(バビロンの教会) の助けと支えによって書き終えました。これは、神様の働きは決して一人ではできない、ということを示しています。
最後に、ペテロは「愛の口づけをもって互いに挨拶を交わしなさい」と勧めます。これは「愛をもって、お互いを心から受け入れ合いなさい」 という意味です。愛は多くの罪を覆うのですから、私たち自身が不完全な罪人でありながら迎え入れられたという恵みを信じ 、その同じ愛で、互いの弱さをも熱心に受け入れ合うことが教会の姿です 。
私たちは地上では寄留者であり旅人であり 、試練は尽きません 。しかし、この驚くべき神様の真の恵みの中にしっかりと立ち 、互いに愛し合い、キリストからいただく平安の中で、信仰の道を最後まで歩んで行きたいと思います。
「いつもあなたがたとともに」 マタイの福音書28章16〜20節
本日はマタイの福音書の最後の箇所から、復活されたイエス様が弟子たちに与えられた、この地上での最も大切な最後のメッセージについてご一緒に見てみたいと思います。この大切な命令が伝えられた場所は、ガリラヤです 。
本日はマタイの福音書の最後の箇所から、復活されたイエス様が弟子たちに与えられた、この地上での最も大切な最後のメッセージについてご一緒に見てみたいと思います。この大切な命令が伝えられた場所は、ガリラヤです 。
ガリラヤは、イエス様が公の働き、つまり宣教を始められ、初めて弟子たちと出会った場所ですね。これは、預言者イザヤの預言の成就でもありました 。そして今、主はこのガリラヤから、弟子たちを通して、再び福音の働きを始めようとされるのです 。
ここに集められた11人の弟子たちは、どのような人たちだったでしょうか。実は、彼らはイエス様が捕らえられたとき、イエス様を見捨てて逃げ去った、決して頼もしいとは言えない人々でした 。驚くことに、彼らはここに集めりイエス様を礼拝したときでさえ、本文には「ただし、疑う者たちもいた」と記されています 。
復活という出来事は、人間の理性ではなかなか受け入れがたいものです。11人の弟子たちもそうですたが、イエス様を見ていても疑いを持っていたということでしょう。しかし、イエス様は、そのような信仰の弱い弟子たちにさえも、このメッセージと約束を与えてくださったということを、心に留めたいと思います
では、この時イエス様が与えられた、大宣教命令は何でしょうか? それは、「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」です 。「弟子」とは、イエス様から学び、その教えを受け入れて従い続ける人のことです 。この命令を果たすために、主は三つの具体的なステップを教えてくださいました。
その一つ目は「行って」ということです。イエス様の働きは、それまでイスラエルに限られていましたが、これからは全世界へ向かって弟子たちをことになります。そしてそれは神様を知らないすべての人へ、具体的には私たちの家族や隣人、知り合いの人たちへと、福音を伝えるために私たちが出て行かなければならないということです 。二つ目は、「バプテスマを授けなさい」です。これは、父、子、聖霊の御名によって行うように、と語れました。それは三位一体の神様と生きた交わりを持ち、イエス様の弟子としての新しい人生を始めることを意味します 。そして最後は「教えなさい」です。イエス様が命じられたすべてのことを学び、それを守り、実践して生きること 、これが弟子となることです。たとえ途中でつまずき、失敗することがあっても 、悔い改めて再び主の教えに従って歩もうと努力する、その信仰の歩みを主は導いてくださいます 。
この大きな働きを私たちに丸投げされたのではありません。イエス様は、この命令を私たちが成し遂げられるように、約束をも与えてくださいました。それが最後の「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」ということです 。
私たちは時に疑いを持ち、決して完全な信仰を持っているわけではありません 。しかし、主はそのような私たちに近づいて来られ、「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」と約束してくださいました 。この力強い約束を覚えて、常に共におられる救い主イエス・キリストの弟子として、信仰の道を力強く歩んでいきたいと思います。
「回復させて下さる神」 ペテロの手紙第一5章8〜11節
本文を通して、この世において信仰者として生きるということが、どのような意味を持つのか、共に考えて見たいと思います。
まず、ペテロは、私たちに「身を慎み、目を覚ましていなさい」と勧めます。 なぜなら、私たちの敵である悪魔が、あたかも「吼えたける獅子のように」信仰者を食い尽くそうと昼夜を問わず探し回っているからであります。悪魔は、私たちが神様から引き離されるよう、あらゆる手段を用いて、巧妙な欺きをもって私たちの弱さに付け込んできます。教会の中の争いや誤解、人間関係における憎しみや蔑みの背後には、常に悪魔が私たちの信仰を崩そうと虎視眈々と狙っているという事実を、決して忘れてはなりません。使徒パウロが言いましたように私たちが格闘すべき相手は血肉ではなく、この暗闇の勢力を支配する悪霊どもなのです。
では、この恐るべき敵を前にして、私たちが携えるべき唯一の武器は何でしょうか。ペテロは、ただ信仰に堅く立ちなさい、と言います。この信仰とは、私たちがたとえ悲惨な苦難のただ中にあっても、「恵みに満ちた神が、私たちをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった」という確信に、足をしっかりと踏みしめ、決して一歩も外れないことであります。
そして、私たちの苦難は永遠には続きません。ペテロははっきりと「しばらくの苦しみの後」と語っています。この苦難が終わった後には、「恵みに満ちた神ご自身が、あなたがたを回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださる」のです。苦難は私たちをみじめにさせますが、実は私たちの信仰を火で精錬された金よりも尊いものとし、まるで破れた網を繕うように、私たちの弱い信仰を完全に回復させてくださる神様の道具なのです。苦難の中でこそ、私たちは自分自身や人に対する期待を捨て、ただ神様の御胸に飛び込むようになり、信仰の土台がさらに堅固になっていくのであります。
ですから悪魔が私たちを崩そうとすればするほど、私たちは信仰に堅く立ち、しばらくの苦難を乗り越えて行きたいと思います。神様は必ず私たちを回復させ、完全にしてくださいます。その恵みが世々限りなく、皆様と共にありますように、心よりお祈り致します。
「ガリラヤに行くように」 マタイによる福音書 28章 1-10節
「週の初めの日の明け方」マグダラのマリアともう一人のマリアがイエス様の墓へ行きました。この時、彼女たちはイエス様のお体に塗るための香料を持っていました。ということは、彼女たちはイエス様の復活など想像も出来ず、墓に向かったということです。イエス様は、ご自分の受難と死、そして復活について、三度も弟子たちに予告なさいましたが、マリアたちも弟子たちも、その真意を深く理解していなかったのです。
ところが、そこで驚くべき出来事が起こりました。大きな地震と共に主の使いが天から降りてきて、大きな石をわきに転がし、その上に座ったのです。そして主の使いは、マリアたちにイエス様の復活の事実を告げます。そして、使いはマリアたちに「急いで行って、弟子たちに伝えなさい」と告げました。絶望と恐れの中にいた弟子たちへ、この希望の知らせを「一刻も早く」伝えるように、ということでした。そして復活の事実だけではなく「イエスは死人の中からよみがえられました。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。そこで、お会いできます」という約束のメッセージもありました。
それを聞いたマリヤたちは、大いに喜び、急いで弟子たちのところへ走って行きましたが、今度は復活されたイエス様ご自身が姿を現されました。そして使いと同じように「ガリラヤに行きなさい。そこでわたしに会えます」と、弟子たちに伝えるように語られます。イエス様は、ご自分を裏切り、捨てて逃げてしまった弟子たちのことを、「わたしの兄弟たち」と呼び、彼らを赦してくださいました。そして再び「わたしに会えます」という喜びと希望のメッセージを伝えられたのです。
この「ガリラヤ」は弟子たちにとってどのようなところでしょうか。ガリラヤは、他でもない、弟子たちが初めてイエス様と出会い、弟子として召された場所です。その時弟子たちは、すべてを捨ててイエス様の呼びかけに応じ、信頼と愛をもって従った、弟子たちの信仰の原点とも言える場所です。
恐れと失敗の中にいる弟子たちを、あえてその「ガリラヤ」に行くようにされたのは、彼らのつまずきや失敗を責めることなく、彼らのイエス様への熱い心、すなわち「信仰」をもう一度回復させてくださるためでした。ですから、ガリラヤは、つまずきと絶望から立ち上がるための回復の場所だったのです。
私たちにもつまずき、失敗した時に帰るべき場所、立ち返るべきガリラヤがあります。それは、今この場所、共に集まって主を礼拝している守山キリスト教会です。毎週の礼拝を通して、神様は私たちを励まし、力を与え、愛を注いでくださいます。この礼拝を通して、私たち一人ひとりが、愛に満たされて主の弟子として愛を現して歩む者となりますように、心から願います。
「子どものように」 マタイの福音書18章1-9節
本日の本文で、弟子たちは「自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論」をしていました。少し前にイエス様は弟子たちに「人の子は、いまに人々の手に渡されます。」と、ご自分の受難について仰いました。ところが、本日の箇所を見ますと、弟子たちはそのようなこと、即ちイエス様が人々の手に渡されて苦しみを受けるという事には全く関心がなく「自分たちの中で、だれが一番偉いか」という議論に余念がありませんでした。この時、弟子たちはこれから何か期待できるようなことを起こり、その時に自分たちの中で誰が一番偉い者になれるのかということしか考えていなかったのです。特に、変貌の山にイエス様と共に登ったのは3人でした。他の9人は山の下で待っていましたが、そんなこともあって弟子たちの間では、だれが一番偉いかということが大きな議論になっていたのです。その時、イエス様は弟子たちの心の中の考えを知っておられて本文の4節のように「だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです。」と仰って下さいました。
それではイエス様が教えて下さった一番偉い者はどんな人でしょうか。それは5節に書いてありますように、子どもをイエス様の名のゆえに受け入れる者、すなわち自分を子どもと等しく思う者です。ここで子どもとは、力などとは期待できず、弱くて世話をしなければならない存在です。そういう存在をもイエス様のように受け入れて仕える者、そのような者が一番偉い者だということになります。自分のことだけを思い、誰が一番偉いのかということばかりを思っている者には、子どものような存在は目に入りません。しかしそのような心がキリストの愛によって満ち、キリストだけを喜ぶことになりますと、自分への思いは無くなります。そのキリストへの喜びが心いっぱいになった時、キリストのゆえに子どもにも仕えることが出来るようになると思います。その愛によって私たちの心が満ち溢れ、キリストだけを喜ぶ者になりたいと思います。そして周りの人々に仕える者となりたいと思います。