ペテロの手紙 第二 1章12〜18節 「真理に堅く立つ」
ペテロはこの手紙を書いた目的について、12節から15節にかけて繰り返し「思い起こす」という言葉を用いながら語っています。ペテロは、読者がすでに真理を知り、その上に堅く立っていることを認めています。それでも彼は「いつも思い起こさせるつもりです」と言います。それは、私たちが忘れやすい存在だから、そしてキリスト教の真理は一度聞けばすべて自分のものになる、というものではないからです。何度も思い起こすことで、福音の真理はより深く、より確かなものとして心に覚えることが出来ます。
そしてペテロはこの箇所で自分の死についても触れています。「幕屋を間もなく脱ぎ捨てることを知っています」と。しかしペテロは死を恐れていません。終わりが近いと知りながらも、ペテロは最後まで与えられた使命を果たそうとしました。この手紙はそのような彼の遺言ともいえる、真剣な思いが詰まった書です。
そして16〜18節では、自分たちが伝えてきたメッセージの核心に触れます。それは「主イエス・キリストの力と来臨」です。当時、偽教師たちは「再臨の約束などどこにあるのか。創造の初めからすべては変わらないではないか」と主張し、裁きはないとしていました。そしてペテロの伝える再臨のメッセージを「巧みな作り話だ」と非難していました。
これに対してペテロは、自分たちは「キリストの威光の目撃者」として伝えているのだと言います。その証拠として挙げるのが、変貌の山での出来事です。この変貌の山での出来事は、やがての再臨の確かな前触れです。ペテロにとってそれは生涯忘れることのできない光景であり、主の再臨への揺るぎない確信の根拠でした。
私たちも力をもって再び来られる主イエス・キリストを思い起こしたいと思います。毎週の礼拝、日々の御言葉と祈りを通して、この福音の真理を繰り返し心に刻みながら、主の再臨を待ち望んで歩む者になりたいと思います。
「その時が来れば」 ルカの福音書1章18〜25節
ザカリヤとエリサベツは、どちらも祭司の家柄に生まれであり「神の前に正しい人」として誰からも尊敬される存在でした。そのようなザカリヤは生涯に一度あるかないかという、香をたく奉仕のために聖所へと入りました。そこで御使いガブリエルが現れ、「あなたに子どもが与えられる」という知らせを告げます。
しかしザカリヤは、「そんなことが本当にあるのでしょうか。私も妻も、もう年をとっています」と疑いの答えをしました。これは思わず出てしまった感嘆の言葉ではなく、神のことばを信じられなかった不信仰の表れでした。
ザカリヤは、長年子どもを与えてほしいと祈り続けてきたにもかかわらず、いざその祈りが聞かれたと告げられると、「そんなはずがない」と心を閉ざしてしまったのです。
外見上はどれほど立派に見える人の心の中にも、神への不信仰が潜んでいると、ザカリヤの姿はそのことを静かに語りかけてきます。私たちも同様で、聖書の奇跡は信じられても、いざ自分の現実の問題に神のことばが関わってくるとき、疑い始めてしまうことがあるのではないでしょうか。
ガブリエルはザカリヤに「あなたは口がきけなくなる」という厳しい裁きを告げました。これは、神がいかに私たちに信仰を求めておられるかを示しています。しかしこの裁きの中にも、深い憐れみが込められていました。「時が来れば実現する」という神の約束は変わらなかったからです。
人間の不信仰にもかかわらず、神はご自身の御心をこの世界の中で必ず成し遂げられます。それが神の真実さです。そしてその真実さによって、私たちは信仰が与えられ、罪が赦され、神の民とされています。
現実の重さに目を奪われ、神を見失いそうになる時でも「時が来れば実現する」と約束してくださる神を仰ぎ見て、喜びと感謝のうちに歩み続けたいと思います。
「召しと選びを確かなものとする」 Ⅱペテロの手紙1章8〜11節
今日はペテロの手紙第二1章8節〜11節の御言葉を通して、救われた私たちがなぜ絶えず霊的に成長すべきなのか、そしてその成長が私たちの人生にどのような実をもたらすのかについて、ご一緒に考えてみましょう。
ペテロは、以前にお話しした八つの信仰の徳目(信仰、徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛)が私たちの内にあって豊かになるなら、主イエス・キリストを知る上で「役に立たない者」や「実を結ばない者」になることはないと教えています。信仰の成長が止まってしまうと、近視眼的になり先が見えなくなり、ついには自分が罪からきよめられたという恵みの事実さえも忘れてしまう「霊的な盲目」になってしまうのです。
本文の10節には、「自分たちの召しと選びを確かなものにするように、いっそう励みなさい」という勧めがあります。救いはすべて神様の恵みによるものですが、その救いの「確認」と「喜び」は、私たちの信仰の歩みを通して、より確かなものになるという意味です。私たちがこれらの徳目を励んで身につけていくとき、信仰の道でつまずくことなく歩んでいくことができるのです。
クリスチャンの人生は、この地上だけで終わるものではありません。私たちが主の教えに従うことに励むとき、神様は私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに与えてくださいます。主の喜びに満たされて御国へと迎え入れられることを約束してくださっているのです。
私たちの救いは、決して揺らぐことのない神様の約束の上にあります。しかし、その救いの豊かさを味わえるかどうかは、今日私たちがどれほど主に従おうと励むかにかかっています。召しにふさわしい歩みを通して、日ごとに救いの確信を新しくし、永遠の御国を待ち望みながら力強く進んでいく者になりたいと思います。
「主に立ち返らせる」 ルカの福音書1章8〜17節
今日はルカの福音書1章8節から17節の御言葉を通して、バプテスマのヨハネの誕生予告と、そこに込められた神様の深い摂理について分かち合いたいと思います。
当時のイスラエルは、預言者マラキ以来、約400年もの間、神様の言葉が聞こえてこない時代を過ごしていました。まさにその時、祭司ザカリヤがくじ引きによって選ばれ、主の聖所に入って香をたくという栄光ある奉仕をすることになりました。香をたくことは、祭司の一生に一度あるかないかという特別な恵みであり、立ち上る香の煙は聖徒たちの祈りが神様に届くことを象徴しています。ザカリヤが香をたいている時、主の使いが現れ、「あなたの願いが聞き入れられた」と宣言しました。
ここでいう「願い」には二つの意味が含まれています。一つ目は、ザカリヤ個人の長年の祈りである「子供を与えてください」という願いです。そして二つ目は、祭司として捧げた「イスラエルの救いと平和」のための祈りです。ザカリヤ夫婦はすでに高齢で、人間的な希望は絶たれた状態でしたが、神様は人間が絶望的だと思うその状況こそが、神様の御業が始まる最善の時であることを示されました。祈りの答えは、私たちのスケジュールではなく、神様の主権的な時に、最も良い形で実現するのです。
生まれてくる子ヨハネは、特別な使命を帯びています。彼はぶどう酒や強い酒を飲まない「ナジル人」のように区別された人生を送り、母の胎にいる時から聖霊に満たされます。その働きは、エリヤの霊と力をもって、イスラエルの民を主なる神様に立ち返らせることです。人のかたくなな心を神様へと向けさせることは、人間の力ではなく、ただ聖霊の働きによってのみ可能であることを教えています。
私たちもヨハネのように聖霊に満たされ、福音を証しする者となりたいと願います。時には祈りの答えが遅いと感じられることがあっても、神様は必ず聞いておられ、最善の時に成し遂げてくださるということを覚えたいと思います。自分の力ではなく聖霊の助けを求めつつ、大切な人々の救いのために祈りつつ、自分に与えられた信仰を証しする者になりたいと思います。
「神のご性質に預かる者」 Ⅱペテロの手紙1章4〜7節
本日の本文は、私たちクリスチャンが目指すべきゴールである「神のご性質にあずかる者となる」ことについて、その具体的な歩みについて一緒に考えてみたいと思います。
神様は私たちに、尊く素晴らしい約束を与えてくださいました。この約束の目的は、私たちが世の欲望による腐敗を免れ、「神のご性質」にあずかる者となることです。これは罪によって失われてしまった神様の似姿(知恵、聖さ、義、善、真実など)を回復し、神様に似た者へと変えられていくことを意味しています。
ペテロは、その成長のために私たちが励むべき八つの信仰の姿を示しています。 すべての土台となる「信仰」の上に 道徳的な「徳」を、徳に神様を知る「知識」を、知識に 欲望をコントロールする「自制」を、自制に苦難に耐える「忍耐」を、忍耐に神様の前に立つ「敬虔)を、敬虔に兄弟姉妹を愛する「兄弟愛」を、そしてこれらすべての完成である「愛」を加えなさい、と勧めています。
ここで大切なのは、この歩みには「神様の恵み」と「私たちの努力」の両方が必要だということです。神様はすでに、私たちがいのちと敬虔に生きるために必要なすべての力を、恵みとして与えてくださいました。そして私たちが救われたのは、単に天の御国に行くだけのためではありません。この地上において神様の恵みと愛を表し、証しして歩んで行くことも求められているのです。
その歩みにおいて私たちは神様の恵みをより頼み、まるで素晴らしい演劇のために惜しみなく費用を払って準備する人のように、最善を尽くしてその姿を自分の人生に加えていかなければなりません。
信仰の歩みにおいて神様の恵みに支えられ、イエス・キリストのご性質に似た者へと成長し、神様に喜ばれる信仰の道を歩んで行く者になりたいと思います。
「神の前に正しい人」 ルカの福音書1章5〜7節
今日はルカの福音書の始まりに登場する、ザカリヤとエリサベツについてご一緒にみてみたいと思います。当時のイスラエルは、非常に暗い時期を過ごしていました。ヘロデ王の残酷な統治下にあり、マラキ書以来、約400年もの間、神様の言葉が与えられていなかったの時代だったのです。人々は「神様の約束は忘れられてしまったのではないか」と落胆していました。まさにその時、神様はヨハネの誕生を通して長い沈黙を破り、救いの歴史を再び動かし始められたのです。
本文に登場する二人の名前には、素晴らしい意味が込められています。ザカリヤは「主は覚えておられる」、エリサベツは「主は誓われる」という意味です。神様は彼らの名前を通して、「わたしはあなたがたを忘れていない。わたしの約束は必ず守る」というメッセージをすでに宣言しておられたのです。
本文の6節を見ますと、この二人は「神の前に正しい人」であり、主のすべての命令を「落ち度なく行っていた人」だと記されています。ここで注目したいのは、彼らがこのように正しい人生を送れたのは、決して人生が豊かに与えられていたからではない、ということです。彼らには子供がおらず、すでに高齢でした。当時のユダヤ社会において、子供がいないことは大きな悲しみであり、時には恥ずべきことだと見なされていました。
彼らは長い間祈り続けましたが、答えは得られず、周囲からの冷たい視線に耐えなければなりませんでした。しかし、ザカリヤとエリサベツはその深い悲しみや苦しみを、むしろ、その痛みを抱えたまま、毎日神様の前に進み出たのです。悲しみがあったからこそ、より神様に近づき、そのたびに注がれる神様の愛で心を満たされて頂きました。暗い時代、そして個人的な苦難の中でも、真の支配者である神様だけを見上げて、黙々とその道を歩み続けたのです。
私たちの人生にも、時には苦しみの時があり、痛みや困難が訪れることがあります。しかし、ザカリヤとエリサベツのように、その苦しみの時に神様の前に進み出て行きたいと思います。神様は私たちを覚えてくださり、その約束を必ず果たしてくださる方であることを信じる者になりたいと思います。暗い世の中で神様の光を照らしながら、一歩一歩、信仰の道を歩んで行く者になりたいと思います。
「いのちと敬虔をもたらす力」 ペテロの手紙第二1章1〜3節
今日はペテロの手紙第二となります。このペテロの手紙第二は、使徒ペテロが人生の終わりに、まるで遺言のように残した手紙と考えられています。ペテロは自分の死が近いことを知り、残される愛する聖徒たちへ、大切な教えを伝えようとしました。
まず、私たちが心に留めるべきことは、私たちが持っているこの「尊い信仰」は、決して自分の努力や立派な功績で手に入れたものではない、ということです。ペテロは、この信仰が「私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって」与えられたものだと語っています。つまり、信仰は神様からの一方的な恵みの贈り物なのです。私たちが今、神様の子どもとしてここにいるのは、完全に神様の愛によるものなのです。
そしてペテロは続けて信仰者となった後の「歩み」について優しく語りかけます。その歩みは「いのちと敬虔」の歩みです。神様は、私たちがただ「救われた」という結果に満足するだけでなく、神様に似ていく聖い生活、いのちと敬虔の道を一歩ずつ歩んでいくことを願っておられます。
ところが、この道は決して楽なものではありません。時には失敗したり、罪に負けてしまったり、苦難を前にして「もうダメだ」と無力さを感じることもあります。「果たして自分は、この道を最後まで歩き通せるだろうか」という不安に襲われることもあるでしょう。しかし、ペテロは私たちに素晴らしい慰めの言葉を与えています。それは「主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔をもたらす すべてのものを、私たちに与えました。」というのです。
私たちが信仰者としていのちの敬虔の歩みを歩むために必要な力は、自分の中から出るものではありません。主イエス様が、ご自身の神としての力によって、すでに私たちにすべてのものを備えてくださいました。ですから、私たちは自分の力でその道を歩むために努力することとともに、主がすべての力を与えてくださるということを覚えてより頼んで歩んで行かなければなりません。
私たちに必要なすべてのものを、すでに惜しみなく与えてくださる神様を心から信頼したいと思います。私たちをご自分の民として召してくださった恵みを覚えて、いのちと敬虔の道を喜びとともに歩んで行く者になりたいと思います。
「福音、確かな教え」 ルカの福音書1章1〜3節
今日からルカの福音書をともに学んで行きたいと思います。新約聖書には四つの福音書がありますが、ルカの福音書には他のものとは違う特徴があります。著者のルカは、福音書を書いた人の中で唯一の異邦人でした。そして、この手紙を最初に受け取ったのも、神様のことをまだよく知らなかった異邦人たちだったのです。ですからルカの福音書は、異邦人が異邦人たために書いた福音書です。
ルカはこの福音書を書くとき、ただ聞いた話を並べただけではありませんでした。今日の箇所で彼は、すべてのことを初めから詳しく調べて」書いたと伝えています。当時、すでに多くの人がイエス様についての記録を残そうとしていましたが、ルカは直接話を聞き、歴史的な事実を一つひとつ丁寧に調査し、「順序を立てて」まとめ上げました。
ルカがこれほどまでに情熱を注いで記録したのは、なぜでしょうか。それは、宛先であるテオフィロ、そして今を生きる私たちが、すでに学んだことが確かな事実であることを知るためなのです。テオフィロは、もともと偶像崇拝の文化の中で育った人でした。そんな彼に、イエス・キリストの出来事が単なる作り話や神話ではなく、この世を造られた神様が人となって来られたという、歴史的事実であることを伝えたかったと思います。
私たちの救いの確信は、どこにあるでしょうか。時には、熱い感情や不思議な体験が確信を与えてくれるように感じることもあります。でも、感情は状況によって変わってしまいますし、体験は時間が経つと薄れてしまうものです。私たちの信仰が揺るがないためには、自分の感覚よりももっと確かな土台、つまり「神様の言葉」という事実の上に立つことが大切です。
ルカが伝えてくれるこの確かな福音の記録を通して、イエス様がなさったことがいかに真実であるかを、確実に覚えて救いの喜びに満ち溢れて歩んで行きたいと思います。
「主とともに歩む」 マルコの福音書3章13〜19節
今日はマルコの福音書3章から、イエス様が12人の弟子を選ばれた出来事について、共に考えてみたいと思います。当時、イエス様の周りには大勢の人々が集まっていましたが、主はその中から特別に12人を選び、山へと呼び寄せられました。
まず心に留めたいのは、この招きが完全にイエス様の主権によるものだった、ということです。聖書には、主が「ご自分の望む者たちを呼び寄せられた」と記されています。弟子たちの能力や資格などが基準ではありませんでした。ルカの福音書6章12節によりますと、イエス様はこの12人を選ぶ前に、夜明けまで神様に祈り、ただ神様のみこころに従って彼らを選ばれたのです。私たちも同じです。自分の力ではなく、神様の豊かな恵みによって、今日この場所に招かれているということを、心に覚えたいと思います。
そしてイエス様が弟子たちを呼ばれた目的は、大きく分けて二つあります。一つ目は「彼らを身近に置くため」、そして二つ目は「宣教に遣わし、悪霊を追い出す権威を与えるため」です。イエス様は、弟子たちに何か仕事をさせる前に、まず「ご自分のそばにいて、ともに過ごすこと」を望まれました。主のそばで学び、主の心に触れることこそが、弟子の歩みの本質なのです。その親密な交わりがあってこそ、私たちは福音を伝え、暗闇の力に打ち勝つ力をいただいてこの世へと出て行くことができるのです。
しかし、12人のリストの最後には、イスカリオテのユダの名前があります。すべてをご存じのイエス様が、なぜ後に自分を裏切る者を選ばれたのでしょうか。それは、イエス様が私たちの罪をあがなうために、自ら進んで十字架の道を選ばれたことを示しているのです。
神様は今日も私たちを呼んでおられます。私たちが完璧だから呼ばれたのではありません。ただ主のそばに留まり、主の愛を学び、その愛の力で多くの人々に福音を伝える証人として歩むことを願っておられます。その恵みの招きに感謝し、日々主とともに歩んで行きたいと思います。
「信仰によって神に喜ばれる」 ヘブル人への手紙11章6節
今年も最後の日曜日になりました。この一年を振り返ってみて、皆さんの心に一番残っている出来事は何でしょうか。今年は大阪万博やお米の高騰など、社会的なニュースも色々ありましたが、私たち信仰者にとって最も大切な問いかけは、信仰者としてどのような一年を過ごしたか、ということだと思います。
今日の聖書箇所、ヘブル人への手紙11章には、旧約時代の素晴らしい信仰者たちが登場します。聖書は、彼らの素晴らしい行いや実績よりも、彼らが「信仰によって」生きたということを強調しています。では、その「信仰」とは一体どのようなものでしょうか。6節には「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」と書いてあります。私たちがどれほど熱心に礼拝をささげ、奉仕をしたとしても、それが本当の信仰から出たものでなければ、神様に喜ばれることはできないということです。
では、本当の信仰とは何でしょうか。今日の本文は、二つのことを教えています。 一つ目に「神がおられることを信じる」ことです。これは、単に神様の存在を認めるだけでなく、聖書が証ししている天地の創造の神であり、歴史の支配者であり、私たちを愛してキリストを与えてくださった救いの神様を信じるということです。二つ目に「神はご自分を求める者には報いてくださる方であることを信じる」ことです。ここで「報いてくださる」というのは、神様を心から求める人に救いを与え、神様ご自身に出会わせてくださるという意味です。アベルやエノクといった昔の信仰者たちも、まさにこの信仰をもって神様に近づき、神様に喜ばれる者とされたのです。
私たちはこの一年、この信仰をもって神様に近づいてきたでしょうか。もしかすると、目の前の困難や自分自身の弱さのために、神様から遠ざかってしまったことはなかったでしょうか。私たちはたとえ不完全で弱くても、私たちを愛して救いへと導き、心から求める者に必ず応えてくださる神様を信じる信仰によって、大胆に神様の御前に進み出ることができます。2026年の新しい年も、この信仰をもって、さらに神様に近づいていく道を歩んで行きたいと思います。