礼拝メッセージ

9月9日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「主イエスにお会いしたい」           ルカの福音書9章7~9節

「そうしたことがうわさされているこの人は、いったいだれなのだろう。」(ルカ9:9)この言葉は国主ヘロデの当惑と不安な思いから吐き出された言葉でした。彼は洗礼者ヨハネを処刑したことの悪夢に悩まされ、心が休まる時がありませんでした。今うわさで流れているイエスは、洗礼者ヨハネではない。ヨハネは自分の手で殺したから。ではイエスとは「いったいだれなのだろう。」(ルカ9:9)国主ヘロデはイエスに会って、自分で確かめたくなったのです。少しでも自分の不安を軽くするためでした。その願いは実現します。十字架を目前にしたイエスと会うことが出来たのです。(ルカ23:6~12)その時イエスは、あの洗礼者ヨハネと同じように、囚われ人としてヘロデの前に立たれました。そのヘロデの期待に反して、何も奇跡を行わず沈黙するイエスの姿がそこにありました。しかし、それはまたヘロデを喜ばせたのでした。何だこの男も自分の手の内に入ってしまったのではないか。こんな無力な男のことを、なぜ自分は長いこと不安に思い続けていたのか。彼は改めて自分がどんなに力ある者かということに満足しながら、自分の部下と一緒にイエスを愚弄したのです。しかし、彼は何も分かっていなかったのです。からだを殺しても魂を殺すことの出来ない者を恐れるな、むしろからだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなければならないことを。(マタイ10:28)                                                                           「イエスに会いたい。」これは国主ヘロデとは別の意味で、すべてのキリスト者の願いであります。私たちは「いま見てはいないけれども、信じており、ことばに尽くすことのできない栄えに満ちた喜び。」(第一ペテロ1:8)を与えられております。しかし、主イエスが再び来られる「その日に、主イエスは、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の感嘆の的となられます。」(第二テサロニケ1:10)それほどのまだまだ私たちの知り尽くせない、素晴らしい主イエスを与えられていることを感謝し、日々「主イエスにお会いしたい。」という思いをより強く深めてまいりましょう。

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