礼拝メッセージ要旨

4月30日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「神のみこころを行う者」         マタイの福音書12章46〜50節
本日の本文にはイエス様の家族が出てきます。マタイの福音書13章55節、56節を見ますと、イエス様には4人の兄弟(ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ)と妹たちがいました。本文の46節を見ますと母マリヤと兄弟たちがイエス様のところに来たのです。この時、イエス様が「まだ群衆に話して」おられまして、イエス様がおられたところは大勢の人をいっぱいになっていたと思います。そして中に入ることができなくて外に立っていましが、ある人がイエス様に母と兄弟たちが外に来ていることを伝えました。
するとイエス様は「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と話しました。まるで、母と兄弟たちを否定しているように聞こえますが、このようなイエス様の答えをどのように理解すれば良いのでしょうか。今日の本文には母と兄弟たちが来た理由について書いてありませんが、マルコの福音書3章21節、22節には「イエスを連れ戻しに出かけた」と書いてあります。そしてそれは「人々が「イエスは おかしくなった」と言っていたから」でありました。イエス様についての噂を聞いた母を兄弟たちは、イエス様のことを心配して、イエス様を家に連れ戻すために来たのです。しかし、その結果はイエス様の宣教活動を中断させてしまうことになりますでの、48節のように話されたことだと思いもあす。
その後、イエス様は弟子たちの方に手を伸ばして「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。」と仰いました。そして50節では「だれでも天におられるわたしの父のみこころを行うなら、その人こそわたしの兄弟、姉妹、母なのです。」と仰います。天におられるわたしの父のみこころを行う者であるならば、誰でもイエス様の家族である、ということです。そこにはどんな区別もどんな差別もありません。ただ「天におられる神様のみこころを行う者であれば、誰でもイエス様の家族、神の家族になれるということです。ですから教会には、互いに違う多様な人々は集まります。その多様性の中で「神様のみこころを行う」という一致を持っています。ここに集まっている私たち一人ひとりを神様のみこころを行う者として、神の家族として呼び集めて下さったのです。その恵みに感謝し、神様のみこころを行う者となれるように祈り求めながら、神様に頼って歩んで行く者になりたいと思います。

4月23日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「彼らの目が開かれて~エマオ途上~」   ルカの福音書24章13〜35節
111111111吉村直紀先生(三重中南勢地区教会設立チーム担当牧師)
Ⅰ.さえぎられていた彼らの目(13–16節)
私たちに生きて働かれる復活の主の印象的な物語; エマオ途上。エルサレム近郊エマオへの道中、2人の弟子たちは〈論じ合っ〉ていた(直訳「一緒に追求した」)。おそらく空の墓の“なぞ”(どうしてそうなったか) について。
そこへ、復活された主ご自身が自ら〈近づいて〉来られた。「ともに歩く」とは、主は人生の同伴者であるという表現。
しかし、彼らにはそれがわからない。復活の主を見る〈目〉とは、通常物を見る〈目〉とは異なり、心の目・霊の目の事。彼らは、失望・絶望のあまり心が閉ざされ信仰の目も閉ざされていた。どのような場面でも、失望に終わらずに現実の奥にイエス様を見出していきたい。
時に失望や不毛な議論でイエス様を見失ってしまいやすい私たちを、自ら近寄り共に歩み励まされるイエス様。イエス様は議論の対象ではなく、私たちの人生の同伴者。
Ⅱ.イエス様と弟子たちのやりとり(17–27節)
イエス様は二人に話しかけられる。それとは知らず弟子たちは一所懸命エルサレムでの出来事を説明する。彼らはイエス様を深く愛してはいたが、十字架と復活の意味を悟ってはおらず、イエス様をモーセの様な力ある預言者と理解していた。
空の墓や女弟子たちの報告を丁寧にイエス様本人に説明する。心の目が開かれるとは、イエス様を心にお迎えし、生き方そのものが変えられていくこと。主の「福音」に生きて行くこと。私たちも同伴者であるイエス様を見失う事の無いようにしていきたい。
Ⅲ.彼らの目が開かれて(28–35節)
イエス様は愛をもって叱責し、彼らの心の目を開かれる。エマオに近づいた彼らは熱心にイエス様を引き止める。イエス様のみことばによる語りかけは彼らの心に感銘を与えていた。イエス様による食前の祝福の時、彼らの目は開かれた。私たちの信仰を呼び覚ますのは主の主権的働きかけによる。そして、イエス様はその場を去る。
復活の主のご臨在とお言葉により、彼らの暗い顔つきは消え彼らの〈心はうちに燃えてい〉た。〈説き明かしてくださる(32節)〉は直訳「開いて下さった」で31節の『目が開かれ』と同じ言葉(英語ではどちらも”open”)。聖書の隠された意味を「開く」のは主ご自身。
今日も、信仰の弱い私たちの心の目を開かれるのは、復活の主のご臨在とイエス様によって明らかにされる御言葉。その時初めて私たちの信仰は「うちに燃」やされる。

4月16日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「ヘブロンに帰って来る」            Ⅱサムエル記2章1〜11節
長い間、ダビデの命を狙っていたサウルは、ペリシテ人との戦いの中で死にました。サウルだけではなくヨナタンも死にましたが、その知らせを聞いたダビデは非常に悲しみました。しかしサウルとその息子であるヨナタンの死によってダビデはイスラエルの王になることができるようになりました。既にダビデはサムエルによって油注ぎを受けました。そしてサウルもヨナタンもダビデが次の王になること話していました。ですから、サウルをヨナタンが死んだこの時、ダビデはイスラエルの民に自ら王であることを宣言すれば、それでイスラエルの王になることができたのです。
ところが本文の1節を見ますと、ダビデは神様にこれからのことを伺います。今までのダビデは自分の思いや判断に頼って来ました。イスラエル人でありながらも、ペリシテ人の町ツィクラグに住んでいた事も自分の思いの中でそうように判断したことです。それによってその後、ダビデは色々な大変なことを経験するようになります。その経験を通して、自分の思いに頼ることではなく、神様に伺い神様に頼って行こうと、そのような思いに変えられたことだと思います。そしてイスラエルの王になる第一歩において、先ず神様に伺い、そのみこころに従って行こうとしたのです。そして神様のみこころに従ってヘブロンに帰ってきたら、ユダ部族の人々が来まして自分だちの王としたのです。神様のみこころを伺い、そのみこころ通りに従ったダビデ、そのダビデがイエスエルの王になるのは、とてもスムーズにできるように見えます。
しかし、アブネルがサウルの生き残った息子イシュ・ボシェテを連れてマハナイムに行き、そこでイシュ・ボシェテをイスラエルの王とします。これによってイスラエルの北側はイシュ・ボシェテを自分たちの王とし、ユダ部族だけがダビデを王としたのです。これによってダビデがイスラエルの全体の王になるまでは7年6ヶ月を待たなければならなくなりました。神様のみこころを伺い、それに従ったダビデ。最初は自分が願う通りになるように見えましたが、しかしイスラエルは二つに分かれ、同じ民族同志に戦いをもするようになります。このような困難と戸惑いがありますが、それでも神様はダビデを導いて下さっておられます。私たちの信仰の歩みも同じではないでしょうか。思う通りにならない、苦難や苦しみは繰り返しいる。そのような歩みの中でも神様は私たちを守り導いて下さっておられることを覚え、その神様を仰ぎ見て歩んで行く者になりたいと思います。

4月9日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「気も動転するお知らせ」           マルコの福音書16章1-8節
本日の本文には、イエス様が葬られてから初めてそのお墓を訪ねた3名の女性たちが出て来ます。マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤ、そしてサロメは週の初めの日の早朝にイエス様のお墓に向かいました。それは十字架で死なれ葬られたイエス様に香料を塗るためであったのです。ですから、彼女たちはイエス様の復活を覚えてお墓に向かったことではありません。香料というのは、死体が腐敗することを防ぐために、または腐敗の臭さを消すために塗るものでありました。彼女たちがそれを用意し持って行ったということは、イエス様が復活されることは全く覚えていなかった、期待もしなかったということです。
イエス様が葬られたお墓に向かう彼女たちが心配していたのは、入口をふさいでいた大きな石でした。ただ、そのような心配をしていた女性たちでしたが、ところがお墓について見ましたらその大きな石は転がしてありました。それを見て驚いた彼女たちは墓の中に入って見ますと、そこには真っ白な衣をまとった青年が座っていまして、この「青年」とは御使いでした。御使いは彼女たちを安心させて、イエス様はよみがえりましたと、お墓が空っぽになったことを説明しました。
そして御使いは「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます」ということを弟子たちとペテロに言いなさい、と彼女たちに語りました。これがよみがえられたイエス様の最初のメッセージでした。「弟子たちとペテロ」彼らはイエス様の十字架の出来事で失敗し、深い絶望に陥っていました。そんな彼らに、復活されたイエス様が最初に伝えたのは「お会いできる、そこであなたたちを待っている」とのことでした。そうやってご自分の弟子たちに愛を示してくださるイエス様です。また、それは私たちをもそのように召してくださる御声でもあります。信仰者であるにも関わらず、その弱さによって苦しみ悩み、絶望し、神様の御前に出て行こうとすることもためらう私たちを、復活されたイエス様は愛の御声で毎週ま礼拝に招いてくださるのです。そのようなイエス様の御声に励まされ、神のこどもとしての人生を歩んで行きたいと思います。

4月2日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「十字架の道」              マルコの福音書15章:16-21
本日の本文の20節を見ますと、ローマの兵士たちがイエス様を嘲弄した後、十字架につけるために連れて行く場面があります。何の罪も犯さなかったイエス様でありますが、ユダヤ人たちの偽りの訴えによって罪人とされ、残酷な十字架刑を宣告されました。20節の前半を見ますと「彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着させた。」と書いてあります。紫の衣を脱がせた時、その痛みは言葉では説明できないほどだったと思います。何故なら、イエス様はすでに全身を鞭に打たれて傷だらけになっていたからです。全身が傷だらけで、まだ血が流れていたはずなのに、ローマの兵士たちはイエス様を嘲弄するために、その傷の上に紫の衣を着せたのであります。そして、その衣が脱がせられた時、私たちには想像も出来ない痛みが加えられたと思います。ローマの兵士たちは、このような状態のイエス様を連れて、十字架につけるためにゴルゴダの丘に出発しました。
ところが、途中でイエス様は限界に至り、もう進む事が出来なくなりました。イエス様が受けて来た事を考えて見ると、誰もそのようになったと思います。この時、ローマ兵士が一人の人にイエス様の代わりに十字架を背負うようにします。その人が本文の21節に出て来るクレネ人シモンという人物です。そしてシモンは、何故私なのかという疑問とともに、シモンは十字架を背負ってゴルゴダの丘まで行くようになりました。そしてシモンはイエス様が十字架に付けられる事も、イエス様の死も見たでしょう。無理やりに十字架を背負うようになり、自分とは何の関係もないと思っていたイエス様の受難、十字架、死はシモンと彼の家族も救われる切っ掛けになりました。
無理やりに背負うようになった十字架がシモンと彼の家族を変える大きなきっかけになったことのように、私たちに与えられる奉仕一つ、一つが私たちの信仰を振り替えて見ることが出来る大きなきっかけや大きな喜びとなるようにと願います。
私たちの人生の中に突然訪れる試練、苦しみや苦難等によって、私たちは絶望に陥り易いです。しかし、そのような突然な苦しみや苦難の中でも、絶望したりするのではなく、イエス様の十字架を覚える者になりたいと思います。