礼拝メッセージ

4月23日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「彼らの目が開かれて~エマオ途上~」   ルカの福音書24章13〜35節
111111111吉村直紀先生(三重中南勢地区教会設立チーム担当牧師)
Ⅰ.さえぎられていた彼らの目(13–16節)
私たちに生きて働かれる復活の主の印象的な物語; エマオ途上。エルサレム近郊エマオへの道中、2人の弟子たちは〈論じ合っ〉ていた(直訳「一緒に追求した」)。おそらく空の墓の“なぞ”(どうしてそうなったか) について。
そこへ、復活された主ご自身が自ら〈近づいて〉来られた。「ともに歩く」とは、主は人生の同伴者であるという表現。
しかし、彼らにはそれがわからない。復活の主を見る〈目〉とは、通常物を見る〈目〉とは異なり、心の目・霊の目の事。彼らは、失望・絶望のあまり心が閉ざされ信仰の目も閉ざされていた。どのような場面でも、失望に終わらずに現実の奥にイエス様を見出していきたい。
時に失望や不毛な議論でイエス様を見失ってしまいやすい私たちを、自ら近寄り共に歩み励まされるイエス様。イエス様は議論の対象ではなく、私たちの人生の同伴者。
Ⅱ.イエス様と弟子たちのやりとり(17–27節)
イエス様は二人に話しかけられる。それとは知らず弟子たちは一所懸命エルサレムでの出来事を説明する。彼らはイエス様を深く愛してはいたが、十字架と復活の意味を悟ってはおらず、イエス様をモーセの様な力ある預言者と理解していた。
空の墓や女弟子たちの報告を丁寧にイエス様本人に説明する。心の目が開かれるとは、イエス様を心にお迎えし、生き方そのものが変えられていくこと。主の「福音」に生きて行くこと。私たちも同伴者であるイエス様を見失う事の無いようにしていきたい。
Ⅲ.彼らの目が開かれて(28–35節)
イエス様は愛をもって叱責し、彼らの心の目を開かれる。エマオに近づいた彼らは熱心にイエス様を引き止める。イエス様のみことばによる語りかけは彼らの心に感銘を与えていた。イエス様による食前の祝福の時、彼らの目は開かれた。私たちの信仰を呼び覚ますのは主の主権的働きかけによる。そして、イエス様はその場を去る。
復活の主のご臨在とお言葉により、彼らの暗い顔つきは消え彼らの〈心はうちに燃えてい〉た。〈説き明かしてくださる(32節)〉は直訳「開いて下さった」で31節の『目が開かれ』と同じ言葉(英語ではどちらも”open”)。聖書の隠された意味を「開く」のは主ご自身。
今日も、信仰の弱い私たちの心の目を開かれるのは、復活の主のご臨在とイエス様によって明らかにされる御言葉。その時初めて私たちの信仰は「うちに燃」やされる。

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