礼拝メッセージ要旨

5月29日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「私たちの不信仰と、真実な主の力」  マルコ9章14–29節  吉村直紀牧師
Ⅰ.解決はただイエスに(14‐19節)
変貌山での出来事をイエス様、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが経験している間、他9人の弟子たちは汚れた霊の追い出しを試みて失敗し、律法学者と議論します。そこへイエス様が現れ、彼らに「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのか?」と問います。イエス様は彼らが何を話しているかご存知でしたが、群集の注意をイエス様ご自身に向けさせます。これは大切な原則を示し、助けを必要としている者は、まず第一に、自分の問題を告白し必要を満たす主イエス様の力を良く知る必要があります。人間(弟子たち)の人格や行いに注目するのではなく、最終的な救い・解決を与える主イエス様の力により注目する事が大切です。
イエス様は弟子たちと世の不信仰を嘆かれ、さらに群衆の中に「口を聞けなくする霊につかれた息子」の父親がおり、父親とイエス様のやりとりが続きます。
Ⅱ.父親の不信仰と悔い改め(20-29節)
イエス様の前に連れて来られた少年は、ひきつけを起こします。父親はイエス様にすがり、「おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください」と嘆願します。『おできになるなら』という父親の言葉を、イエス様は愛をもって、しかしはっきり叱られました。そこには遠慮もあったかも知れません。しかし、相手は神様です。この言葉の英訳は、“If You can do”。しかし、神様に不可能はありません。父親の言葉には大変重要な、神である主イエス様の絶対的なお力への信頼が欠けていました。「信じるか」「信じないか」という場面が信仰にはあります。
しかし、父親は「信じます。不信仰な私をお助けください」と大胆に悔い改めをします。父親は自身の主への信頼の弱さを認めつつも、救いを与えて下さるイエス様の絶対的なお力を信じました。私たちが自分の罪深さを悲しみ、それを捨て神様に帰るなら、神様の真実と善意によって神様はキリストにあり全ての罪を赦してくださいます。私たちの信仰とは決して完全なものではありえません。しかし、神様の真実なお力は確実に私たちを救う事が出来ます。そして、イエス様は彼の切なる願いを聞き、悪霊を子どもから追い出されたのでした。私たちもこのイエス様・神様の救いを与えてくださる大きなお力に信頼し、今週も主と共に歩んでまいりましょう。

5月22日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「イエスさまのみ力」            マタイの福音書8章23〜27節
今日の本文は「風や湖まで」という自然もイエスさまの言うことを行く、イエスさまの言葉に従うという、イエスさまのみ力が現れる内容です。そこで弟子たちは湖が急に大荒れになり、乗っていた船は大波をかぶるようになり大変戸惑います。そのような弟子たちにイエスさまは「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち」と仰います。
この時、弟子たちが船に乗ったのはイエスさまに従ってのことでした。18節には「弟子たちに向こう岸に渡るように命じられた。」とありまして、23節には「それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。」と書いてあります。ですから、イエスさまが命じられて船に乗られると、そのイエスさまに従って弟子たちも船に乗ったのです。そのようにイエスさまに従って乗った船なのに、湖は大荒れなり、大波をかぶるという大変の状況におかれるようになったのです。それも「私たちは死んでしまいます」というほどの大変な状況でした。
そのような状況で25節を見ますと弟子たちは直ぐにイエスさまに助けを求めました。弟子たちの中には漁師が多くいました。彼らにとってガリラヤ湖の姿や船のことはよく知っていることでありました。おそらく今までの人生の中で、このような湖の大荒れや嵐などは何回も経験したことだと思います。そのように湖については経験豊かな弟子たちでしたが、彼らは自分たちの経験に頼らずイエスさまに助けを求めたのです。
そういう弟子たちにイエスさまは「どうして怖がるのか」と仰ることでした。そして弟子たちが怖がるのは、彼らの信仰が薄いからということでした。薄い、ということですので信仰があるものの、今の状況を怖がらないほどではない、ということでしょう。それでは弟子たちが持つべき信仰はどのようなものだったでしょうか。それは、イエスさまは風や湖までが言うことを聞くお方である、ということです。今までは弟子たちはそれを知らなかったですが、本文の出来事を通して知るようになりました。そしてイエスさまは、信仰の薄い弟子たちの信仰を成長させて下さるために、この湖に、大変な状況に導いて下さったのです。
イエスさまに従って、イエスさまに導かれて行った湖で弟子たちは大変な状況おかれるようになりました。そのように、私たちも信仰者としてイエスさまの教え従って歩んでいく中で試練に出会うことがあります。その時、私たちと共にいて下さる神さま、私たちを守り導いて下さる神さまを覚えたいと思います。人生の嵐の中でも私たちを守り導いて下さる神さまに信頼し歩んで行く者になりたいと思います。

5月15日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「勝利をもたらして下さる主」        サムエル記第一 11章5〜15節
サムエルから油注がれ「主が、ご自分のゆずりの地と民を治める君主とする」と言われたサウル。そしてそれが神さまのみこころであることを表すために三つのしるしが言われます。イスラエルの王になるということについて考えて来なかったサウルですが、神さまはご自分のみこころをサウルに教えて下さいました。しかし、その後のサウルの姿は消極的でありました。サウルはくじで取り分けられますが、荷物の間に隠れていたため、その姿はみつからなかったのです。結局見つかり、民の前に立ちますが、サウルの姿を見た民は「王様万歳」と大声で叫びました。しかしある者たちはサウルを軽蔑しまして、全イスラエルがサウルを王として認めたことではありませんでした。そのようなサウルですが、本文の中で全イスラエルから支持を得て王になることが出来ます。
アンモン人ナハシュがヨルダン川の東にあるヤベシュ・ギルアデを攻撃して来ました。それでヤベシュ・ギルアデの人々は直ぐ降伏しましたが、アンモン人ナハシュは「おまえたち皆の者の右の目をえぐり取ることだ。」という大変な条件を付けました。それでヤベシュの長老たちはギブアに使者を送り今の状況を伝えましたが、それを聞いたギブアの人々も声をあげて泣いてばかりでした。ちょうどその時、サウルが畑から帰って来てその話しを聞きました。すると、神の霊がサウルの上に激しく下って、サウルの怒りは激しく燃え上がりました。そしてサウルは一くびきの牛を取り、それを切り分け、使者に託して イスラエルの国中に送り、「サウルとサムエルに従って出て来ない者の牛は、このようにされる」と言ったのです。すると、主の恐れが民に下って、彼らは一斉に出て来て、何と33万人も集まりました。そしてサウルは集まった人々を指揮し、アンモン人と戦い、生き残った者は 散り散りになり、二人の者がともにいることがないほど、圧倒的な勝利を得ます。その時、サウルはすべての栄光を神さまに帰しました。そのサウルの姿を見たイスラエルの民は、ギブアに集まってサウルを王として立て、大いに喜びました。神さまに信頼し、神さまのみに従う王、その王を通して神さまはイスラエルに勝利を与えて下さいました。そしてイスラエルの民は、そのように守り導いて下さる神さまを、そして神さまによって立てられた王を大いに喜ぶことでした。
アンモン人のナハシュからの攻撃、それは私たちの人生の中でも苦難や苦しみなどであるかも知れません。直ぐに降伏したくなるほど、大変な苦難があります。それを前いして泣き叫ぶことしか出来ない時もあります。そのような時に、神さまを恐れ、神さまに助けを求めるなら、神さまは私たちに勝利を与えて下さいます。どのような状況の中でも私たちを助けて下さる神さま、勝利を与えて下さる神さま、その神さまを見上げ信頼して歩んで行く者になりたいと思います。

5月8日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「イエスさまについて行く」         マタイの福音書 8章18〜22節
本日の本文には二人の弟子が出て来ましてイエスさまについて行きますと話します。イエスさまはその二人に「イエスさまについて行く」ということがどのようなことであるのかを教えます。その教えを通して私たちの信仰を振り替えて見たいと思います。
まず一人目の人ですが、彼は「律法学者」と書いてあります。福音書を見ますと多くの律法学者はイエスさまに対して敵対する姿を見せています。少し前にある「山上の説教」でイエスさまは律法学者たちの教えの誤りについてことごとく指摘なさったことがありました。その他、彼らの偽善について厳しく話されたこともありますが、そのようなイエスさまを律法学者たちは敵対するようになったことだと思います。そのような律法学者たちの中からイエスさまに「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」と話したことは非常に嬉しいことだと思います。
しかし、イエスさまの答えは「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません。」と予想外のことでした。これはどういう意味でしょうか。それはこれからイエスさまが歩まれる道は非常に大変で不安定だということであり、そのような道でもわたしについてくる覚悟を持っているのか、と確認されることです。
二人目のイエスさまに「主よ。まず行って 父を葬ることを お許しください。」と話しました。彼にイエスさまは「わたしに従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを 葬らせなさい。」と答えられます。このイエスさまの答えは非常に冷たく聞こえるかも知れませんが、しかしここでイエスさまが語られることは弟子としての優先順位のことです。二つのやるべきことの中で何を優先するのか。弟子であるものは、まず「わたしに従って来なさい。」という教えです。
イエスさまについて行く私たちはどのような覚悟とどのような優先順位を持っているでしょうか。私たちのためにすべてをささげてくださったイエスさまの恵みに感謝し、いつも私たちに励ましと力を与えてくださるイエスさまを見上げ頼って、どんな時でもイエスさまについて行く者になりたいと思います。