礼拝メッセージ要旨

3月31日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「御霊と知恵に満ちる」              使徒の働き6章1-7節
多くの人々は教会にはどんな問題もなく、大変なところもないと思いがちです。しかし、本当にそうでしょうか。そうではないと思います。この世にある教会はすべて問題が生じる可能性があります。何故なら、教会は人々が集まるからです。どんな人々でしょうか。神様の恵みによって救われて神様の子とされて変えられた人々ですが、依然として弱くて足りなくて罪深い人々であるからです。勿論、神様のみことばがあり、それを一生懸命学び、従い守ろうとしますが、全く問題が生じないとは言えないことだと思います。
そういう私たちが模範として学ぼうとする教会が、使徒の働きに出て来るエルサレム教会だと思います。そこに記されている教会こそ、御霊が力強く働いて下さり、それによって理想的な姿で成長して行ったと考えられるからだと思います。ところが、そのような考え方の中で注意しなければならないことがありますが、それは理想的な教会イコール問題が無い教会であると思ってしまうことです。エルサレム教会においても色々な問題はありました。しかしその問題によってエルサレム教会はより大きく成長して行くことが出来ました。
本日の本文ではエルサレム教会で分裂、又は対立という問題が生じたことを見ることができます。その時に使徒たちは、先ず自分たちがやるべきことに集中しました。弟子たちが増えるにつれて教会の働きも多くなって行きましたが、その中で使徒たちは「神のことばを後回しにして」いました。それに気付き、これからは「もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことに」しました。そして教会の増えた奉仕のために、新しい働き人を選ぶことにしたのです。それを喜んだ教会は7人の新しい働き人選びました。その結果、弟子たちの数は非常に増えて行き、多くの祭司たちも信じるようになりました。大変忙しい生活の中で、御霊と知恵に満たされて教会の働きを分担し、御言葉とお祈りを最優先にして教会の働きを、奉仕をともにやって行くものになりたいと思います。

3月24日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「戻って来たひとり」             ルカの福音書17章11-19節
本日の本文は、イエス様がエルサレムに向かう途中、ガリラヤとサマリヤの境にある町で10人のツァラアトに冒された人々に出会い、彼らを癒して下さった出来事です。このツァラアトという病は、ユダヤ人においては最も恐ろしがる病気の中で一つでした。病の症状の悲惨さ、その苦しい姿もそうですが、この病は治すことが出来なく死に至る病気であったからです。それと共により大きな理由は、祭司によってツァラアトに冒されたと判明されますと、それ以上村の中で住むことは出来なくなり、家族とも離れて別のところで住まなければならなかったからです。一生涯、大変な病を持って、人々にも近付くことが出来ず、家族とも離れて苦しく生きて行かなければならなかったのです。
イエス様がある村に入りますと、ツァラアトに冒された人々が、遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言いました。彼らは自分たちの病によってイエス様に近付くごとは出来ませんでしたが、イエス様に治して頂きたい、という強い願いを持っていたからです。その叫びを聞かれたイエス様は、彼らに「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」と仰いました。そしてそれを聞いた10人の人々は、イエス様のことばにそのまま従いました。そうしましたら、彼らが祭司に行く途中で、彼らはきよめられました。彼らの病気が綺麗に癒されたのです。
ところが、その癒された10人の中でひとりだけが、「自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来てイエスの足もとにひれ伏して感謝した」のです。10人の中で、自分に与えられた恵みを覚えて、神様の御名を賛美し感謝をささげたのは、ただひとりだけでした。私たちはこの戻って来たひとりのように、神様からの恵みを覚えて、それを感謝しているでしょうか。神様が与えてくださった恵みを覚え、それを喜び、感謝をささげる者になりたいと思います。

3月10日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「ザアカイの回心」              ルカの福音書19章1-10節
本日の本文はザアカイという人がイエス様に出会い、救われたという非常に有名な内容です。そのザアカイについて「収税人のかしらで、金持ちであった」と説明されています。当時、ユダヤはローマ帝国に支配されていて、収税人とはローマ帝国のために働く者でした。また、収税人は自分たちの分として定められている税金より多めに取り立てていまして、ユダヤ人からは嫌われ、罪人扱いされました。
そういうザアカイでしたが、彼はイエスがどんな方か見ようとしたのです。しかし、人々は多く集まっていて背が低かったザアカイはいちじく桑の木の上にのぼりました。ところが、イエス様がちょうどその下を通ろうとする時、イエス様はザアカイの名前を呼んで下さり、彼に「急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」と仰って下さいました。初めて出会うイエス様が自分のことを知っておられ、自分の家に来られるということはどう考えて見ても不思議なことです。その話しを聞いたザアカイはいちじく桑の木から急いで降りて来て大喜びでイエス様を迎えました。そしてイエス様に自分の財産の半分を貧しい人々のために施し、自分がだまし取って物は四倍にして返しますと話しました。
収税人として生きて来たザアカイにとって、財産というものは最も大切なものでした。しかしイエス様に出会い、そのイエス様より今までは感じたことのない暖かさや親切さ、そして愛によってザアカイの心は満たされた事だと思います。それ故、自分の財産を他の人々のために使い、自分が正しく生きて行くために使うことにしたのです。そのようなザアカイについてイエス様は「きょう、救いがこの家に来ました」と仰って下さいました。そして「失われた人を捜して救うためにきたのです」と話してくださるのです。ですから、イエス様がザアカイにであったことはイエス様がザアカイを捜して下さり、彼を救うためにということでした。そしてその出来事が「きょう」実現されたのです。私たちをも救うために捜して下さった恵みを覚えて感謝し、喜びの中でイエス様の教えに従って生きて行きたいと思います。

3月3日(日)礼拝メッセージ要旨

 

「レハブアムの選択」              歴代誌第二10章1-11節
本日の本文はイスラエルの歴史において非常に重要な出来事です。それは本文に出て来るレハブアムの選択によって、または彼の行ないによってイスラエルが二つに分かれるからであります。イスラエルの歴史においては大きな分かれ道であり、レハブアムの選択によってイスラエルは北と南に分かれるようになります。そういう選択の前に立っているレハブアムの姿や彼の選択した結果を通して、私たちは神様の御前に立っている私たちの姿を考えて見ることが出来ると思います。
ソロモン王がイスラエルと治めていた姿は息子であるレハブアムに大きな影響を与えたことでしょう。すでに41歳であったレハブアムは、ソロモン王のことを覚えながら、一つの国の王としての自分なりの見解と計画、目標などをもっていたと考えられます。そのような彼に対して、ヤロブアムを先に立たせたイスラエルの民は一つの提案をしました。それは、今まで彼らを苦しめていた「過酷な労働と重いくびきを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えましょう。」ということでした。それを聞いたレハブアムは、先ずは長老たちに相談をして、その後若者たちに相談をします。その結果、レハブアムはソロモン王のより厳しくしなければならないという若者たちの答えを選択し、それによってイスラエルは北と南に分かれるようになるのです。この時、レハブアムは何故長老たちの答えを選択しなかったことでしょうか。それはレハブアムがもっていた王としての偏見と傲慢さのゆえであると言えます。そしてその偏見と傲慢さというのは、若者たちの答えに良く現れていることでありまして、レハブアムもそのような考え方をもっていたことだと考えられます。
考えて見ますと私たちも、神様の教えとこの世の囁きという選択をしなければなりません。そのような選択の前で、私たちはこの世からの偏見と自分の傲慢さを捨てて、神様の教えに従って歩んで行かなければなりません。その道を喜びながら歩んで行く者になりたいと思います。