礼拝メッセージ要旨

10月16日(日) 礼拝メッゼージ要旨

 

「着物にふさにさわる」           ルカの福音書8章40-48節

 本日の本文には出て来る人々は、弟子たちのような熱情的な信仰や純粋な信仰をもってイエス様のところに来た人とは言えないと思います。勿論、確かにその心にはイエス様に対する信仰がありましたが、それとともに躊躇いや悩み、葛藤や恐れもまたありました。本日は、12年の間も長血をわずらっていた女性の話しを通して私たちの弱い信仰を確かなものにして下さることについて考えて見たいと思います。
 イエス様がカペナウムに戻って来られた時、町の人々はイエス様を待ちわびていて喜んで迎えました。そしてイエス様のところには大勢の人々が集まり、そんな中に一人の女性がいましたが、彼女は12年間をも長血をわずらっていたのです。医者のルカは、彼女の病について「だれにも直してもらえなかった」とも説明しています。即ち、当時では誰も治すことが出来なかったという事です。さらに、彼女を苦しめていたのは病だけではなく、その病によって汚れたものとみなされていたこともありました。長年、患っていた病気と町の人々からの断絶という肉体的、そして精神的な苦しみによって悲惨な現実を送っていたのです。そんなある日、うわさのイエス様が自分の住んでいる町に来られるということを聞きました。イエス様のことによって彼女の心の中には微かに「もしかして私にも奇跡が起こるかも」という希望が見え始めました。もし、このお方ならば、この病気を癒してもらえるかもしれないという、非常に小さいですが決して諦めることが出来ない期待感が生じたのです。そんな彼女の心は、期待と希望、それとともに大きな恐れと躊躇いなどがあったと思われます。
 しかしイエス様はどんなに小さい信仰であっても、そこにどんなものがごっちゃまぜになっていても御存知なのです。そして時になってその人がイエス様に近付いて来た時、その弱い信仰を確かなものにして下さるのです。今日もその小さい信仰のゆえに胸を打ち、主の御前に進み出ることを躊躇っているすべての人々に暖かい御声で語りかけて下さいます。その暖かい御声に励まされたいと思います。

10月9日(日) 礼拝メッゼージ要旨

 

「神の武具を身に着ける」          エペソ人への手紙6章14-17節
 本日は「神のすべての武具」について3回目となりますが、最後の二つ「救いのかぶと」と「御霊の与える剣」について考えて見たいと思います。
先ず「救いのかぶと」についてです。「かぶと」は頭にかぶるものであって、体の中で最も命に直結した一番大事な部分を守ってくれる武具です。そして「救いのかぶと」と言われているのですから、神の民として救いの確信をもって悪魔の攻撃を防御するということです。またⅠテサロニケ5章8節には「救いの望みをかぶととしてかぶって」という表現がありますが、神様が私たちの救いを完成して下さるという望みを表わすことです。この救いの確信、その望みについて攻撃を受けてそれが動揺させられたら、それほど信仰において致命的なことはないでしょう。そのように救いの確信を動揺させる信仰生活においての疲れや絶望感、または落胆などをしないように救いを完成して下さることへの望みをもって、確信の中で悪い者からの攻撃を防ぎ止めなければなりません。
 二つ目に「御霊の与える剣」についてです。この「剣」は、六つの武具の中で唯一攻撃的なものです。また、敵からの攻撃を跳ね返して防御することも出来ます。ヤコブの手紙4章7節に「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」と書かれていますが、「御霊の与える剣」をもって積極的に立ち向かう時、悪魔が逃げるようになるのです。特にここでは剣である神のみことばを聖霊が与えてくださると説明されています。それは聖霊を通してのみ、私たちにみことばが与えられ、聖霊だけが悟るようにして下さるという事です。また、聖霊だけがみことばを正しく理解できるようにしてくださって、みことばを正しく用いることが出来るようにして下さると言う事です。
 私たちは救いの望みをもって、私たちに与えられたこの信仰の道を確信の中で歩んでいるでしょうか。また、私たちに与えられた神様のみことばを正しく理解し用いているでしょうか。救いの望みのかぶとをかぶり、みことばの剣を受け取って私たちに与えられた信仰の道を堅く歩んで行きたいと思います。

10月2日(日) 礼拝メッゼージ要旨

 

「新しい皮袋に入れる」          ルカの福音書5章33-39節
 本日の本文ではイエス様の弟子たちが断食もしないで食べたり飲んだりする、とイエス様に話しをする人々が出て来ます。彼らは、ヨハネの弟子たちもパリサイ人の弟子たちもよく断食をしていて祈りもしているのに、あなたの弟子たちは何故しないのか、とイエス様に質問をしているのです。断食というのは信仰生活をする者であれば自分の罪について悲しみを表わすことであるので、当然あるべき姿だと考えられます。そしてそのような断食を通してより深く祈りに集中する事が出来るのではないか、とも十分、考えられます。
 そういう思いをもってイエス様に質問をして来た人々にイエス様は34節で結婚式の披露宴で喜んでいる花婿と花婿に付き添う友だちのたとえで答えて下さいました。イエス様ご自身を花婿に、そして弟子たちは花婿に付き添う友だちに例えられて、喜んでいる花婿とその喜びを共に喜んでいる友だちとの関係をもって、今は悲しみを表わす断食をする時ではないということを説明して下さいます。というのは、当時の結婚式は一週間も宴会が続くものであって、その結婚式の間には断食は出来なかったからです。ですから、イエス様は断食そのものを否定した事ではなく、今は断食をする時ではなく花婿と共に喜ぶ時であるのだと答えて下さった事です。その後、新しい着物と新しい皮袋、古い着物と古い皮袋の例え話をして下さいます。ここで出て来る新しい着物からの布切れや新しいぶどう酒とは、イエス様の教えでしょう。それを古い着物や古い皮袋に入れると言うのは、新しいイエス様の教えを古い形式に入れると言うことであって、そのような事は出来ないという事です。また、クリスチャンには相応しくないという事です。
 私たちの信仰生活はどうでしょうか。イエス様が私たちの花婿となって下さった事だけで十分に喜んでいるでしょうか。それとも、自分の行ないを通して得られる自己満足を喜んでいるでしょうか。私たちに本当に大切なことは、この主との喜びの交わりです。いつまでもその喜びに満ち溢れて歩む者となりたいと思います。

9月25日(日) 礼拝メッゼージ要旨

 

「神の武具を身に着ける」         エペソ人への手紙6章14-17節
 クリスチャンは霊的戦いの中にあって、その敵である悪魔に立ち向かうために神のすべての武具を身に着けなければなりません。その武具の中で本日は「平和の福音の備え」と「信仰の大盾」について学びたちと思います。
 先ず、私たちは足の重要性を確認する必要があります。戦いに臨む兵士の体がいくら丈夫なものであって腰からの力が強いとしても、もし戦いの中で足が滑ったり怪我したりしますと、その力を十分に発揮することが出来なくなります。すでに「堅く立つことができるように」と、「しっかりと立ちなさい」と強調されましたが、その姿は足をしっかりして立つことです。ですから、ある意味では戦いで良く戦うためには、敵の攻撃は罠から足をちゃんと守ることが大切です。そこでパウロは「平和の福音の備え」で足を守りなさい、その為に履きなさいと勧めているのです。私たちに攻めて来る悪魔の強くて賢い攻撃によって倒れたりするのではなく、平和の福音の備えで私たちが堅く立つことが出来るように足を守らなければなりません。次は四つ目の武具「信仰の大盾」です。本来「盾」という言葉は「ドア」という言葉から出て来たものです。そのように盾とは、兵士の体全体を守ることが出来る位大きな者でした。そして兵士は遠くから攻撃してくる敵の槍や矢から、その盾に身をかがめてその攻撃を防ぐことが出来るのです。パウロはそのような盾によって「悪い者が放つ火矢を、みな消すことができる」と言います。そしてその火矢とは、神様への疑いや不敬虔、又は悪魔からの誘惑であると考えられます。私たちの心に、そのような攻撃がとどかないように、信仰の大盾を受け取って守らなければなりません。
 私たちは平和の福音の備えで自分の足を守り、激しい悪者の攻撃の中でもしっかりと立ち、信仰の大盾でその攻撃を防がなければなりません。神様が与えて下さる武具を身に着けて大変な霊的戦いの中でも信仰者としてしっかりと歩んで行く者となりたいと思います。

9月18日(日) 礼拝メッゼージ要旨

 

「しるしを求める人々」            マタイの福音書12章38-45節

 福音書には奇跡を通してイエス様のメシヤであるしるしが沢山示されています。そのしるしが沢山あるにもかかわらず、他のしるしを求める人々がいました。本文の38節を見ますと、「律法学者、パリサイ人たちのうちのある者が」イエス様にしるしを見せてもらいたいと求めています。そしてその言い方を見ますと非常に丁重な表現のように見えます。しかし、今までの彼らの姿を見ますと、そこには決して良い意図はなかったと考えられます。口では「しるしを見せていただきたい」と言いながらも、心の中では全く違う思いを持ってしるしを求めたのです。
 それに対してイエス様は「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています」と仰います。「姦淫」という表現は、旧約聖書では偶像崇拝のことを現わします。ですから「姦淫の時代」とは、神様を神様として信じない人々、またはそのような人々が生きている時代という意味です。そしてそういう人たちは「しるしを求める」とあります。「しるしを求める」というのは、信じない時や認めない場合にそうする事だと思います。即ち、神様を神様として信じないので神様に対して神であるしるしを求めるようになるのだと思います。そしてイエス様が示して下さったのは「ヨナのしるし」でした。ヨナのしるしとは、神様はキリストを十字架と復活を通して罪人を救うために送って下さったということです。そしてその神様のみこころに従ってこの地に来られたお方がイエス様であるというしるしなのです。即ち、人々は神様に対して姦淫の罪を犯し、神様を信じていないが、神様はそんな罪人のために御子キリストを送って下さってその愛を示して下さったのです。
 私たちは神様に何を求めているでしょうか。そして私たちの信仰がどんな事で示されるように願うのでしょうか。イエス様はご自分のことを神様のみこころに従う十字架のことをもって示して下さいました。同じように、私たちの信仰も神様のみこころに従う生き方によって示されたいと思います。

9月11日(日) 礼拝メッゼージ要旨

 

「堅く立つ」            エペソ人への手紙6章13-17節
 前回、パウロは6章10節以降でクリスチャンの本当の戦いは目に見えるものや人間との戦いではなく、目に見えない悪魔との戦いであることを強調しました。そのような霊的存在との戦いであるため、クリスチャンは神様の大能の力によって強められなければならないし、神様のすべての武具を身に着けて立ち向かわなければならないのです。本日の本文の13節においてもいっさいを成し遂げて堅く立つことができるようにと勧めているのです。悪魔は私たちをキリストから引き離そうとして様々な策略を着けって攻めて来ます。それに対して私たちは神様のすべての武具を身に着けて堅く立たなければなりません。
 その武具について説明して行きますが、本日は14節に出て来る「真理の帯」と「正義の胸当て」について学びたいと思います。武具を身に着けることにおいて、最初にしなければならないことは帯を締めることでした。何故なら、帯をしっかりと締めることによって、より動きやすくならからです。当時の服というのは、帯を締めないと活発に動くには大変不便なものでした。帯をしっかりと締めて動きやすくしないと、その後から出て来る武具を身に着けることも出来ないし、戦いも出来ないのです。ですから帯を締めるというのは、戦うために最初に準備しなければならないことであって、そこには戦いを認識しそれに集中するために準備するという意味があるのです。その準備の上に、胸当てを身に着けなければなりません。そして胸当てというのは、今で言いますとベストのようなものであって、心臓、即ち心を守るためのものです。
 そしてそれを真理の帯と正義の胸当てと説明しています。ここでの真理と正義というのは、キリストの真理とキリストの義でしょう。悪魔はクリスチャンをキリストから引き離そうとしていますが、その悪魔の攻撃に対して人間の知恵や力では立ち向かうことは出来ません。悪魔のどのような攻撃に対してもキリストの真理と義をもって立ち向かい、堅く立つ者となりたいと思います。

9月4日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「実によって知られる」            マタイの福音書12章22-37節
 本日の本文でイエス様は悪霊につかれた人を癒して下さいました。この奇跡を見た人々は二つの反応を見せました。先ず、イエス様の癒しの御業を見て群衆は「この人は、ダビデの子なのだろうか。」と言いながら驚きました。「ダビデの子」という表現は、旧約時代から神様が約束して下さったメシヤのことで、このイエスは私たちが待っていた救い主ではないだろうか、と期待に満ちた言葉を話した事なのです。一方、イエス様の御業を見て群衆の話しを聞いていたパリサイ人は「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」と言いました。 
 その話しを聞いたイエス様は、パリサイ人の言葉に対して反論して行きます。3回にわたってパリサイ人が話したことが間違ったという事を説明して下さいます。そしてその最後には、神の御霊によって悪霊が追い出されることは神の国、つまり神のご支配があなたがたのところに臨んでいることを現わす素晴らしい御業だということを説明して下さいます。その後、パリサイ人の言葉はどのような心から出て来たのかということについて説明して下さいます。本文の33節の後半で「木のよしあしはその実によって知られるからです。」と仰い、パリサイ人が話した24節のことは彼の心の状態を現わしているということを教えて下さいます。特にその内容は聖霊に逆らうことであって、そのようなことをする者の罪は赦されないと大変厳しく語られました。何故なら、それは聖霊の働きを否定しその働きに反抗することであって、悔い改めない事だからです。
 このイエス様の教えを自分の言葉使いに適用して行きたいと思います。自分の口を通して出て来る言葉で、自分の心やその思いがどのような状態であり、何によって満ちているのかが分かるのです。自分の言葉を通して自分の心のよしあしが分かるということです。ですので、教会の中だけではなく家族に対して、親しい人々に対しての自分の言葉を良く吟味し、良い木として良い実を結んで行きたいと思います。

8月28日(日) 礼拝メッセージ要旨        尾子富夫

 

「神はここにおられる」 詩篇139篇1節〜24節

クリスチャンが神について語る時、「無限、永遠、不変」あるいは「全知全能、偏在」と、いうでしょうか。これらの言葉は、神学的に大切です。でも、日常的な私たちの心は、神様が遠くにいて必要な時しか来てくれない、縁遠い存在として感じられる時はないでしょうか。
 たしかに限界のある人間が、神様がどういうお方かを表現することは、困難であります。しかし、私たちは神様をぼんやりと遠い存在として感じるだけであってはならないはずです。
 私たちの心のどこかに、特別な祝福や、大変な試練や困難がある時だけしか、神様は私たちに顔を向けて下さらない、という思い込みがないでしょうか。
 このような時、詩篇139篇は多くの人に愛されてきた詩篇であるだけに、
私たちが信仰を与えられた時の感動をよみがえらせ、人格的な神との交わりを思い起こさせるみことばにあふれています。
「ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます」にあるように、口から発することばが見つからないうちに、神様はすべて私の言いたい事をご存知です。心の隅々まで把握してくださるばかりでなく、私たちを「母の胎のうちで組み立てられ、」つまり種のような存在から「あなたの書物にすべてが、書きしるされました」とあるようにご計画をもって目的のある存在として扱っておられるのです。
私たちの生涯の日々を、神様は絶えず「心配してくださり、」「喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣く」お方として人格的に関わっておられるのです。
 決して、祝福の時や大試練のときにだけ慌てて近づいて祈りに応えてくださるのではなく、またいつも沈黙しておられるのでもなく、どんな小さな日常の出来事のなかにも、関心を持って、生きて働かれる神様を見上げ、歩んでいきたいと願います。

8月21日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「休ませて下さる主」             マタイの福音書11章20-30節
 私たちは、人生の暗いトンネルを歩んでいる時、そんな自分の側にいてくださるお方に出会ったでしょうか。それは誰だろうと思う方もいらっしゃるかも知れませんが、すでに私たちの側にはそのようなお方がおられます。すでに私たちの側に来られ、私たちと共にいてくださるお方、それはイエス・キリストです。ところが、この世の多くの人々はこのイエス様を知ることが出来ず、自分が背負っている人生の重荷を負ったまま、人生の暗いトンネルの中でさまよっているのです。そのような人々をご覧になったイエス様は深く悲しみ、本文の20-24節を語られました。
 そこに出て来るコラジン、ベツサイダ、そしてカペナウムという地域はイエス様の宣教の働きの中心地であったのです。その地域においてイエス様はご自分のメシヤであることを多くの人々に示し、教えて下さったのです。それがどれ程なのかと言いますと、旧約時代において代表的に神様から裁かれて滅んでしまった町のツロ、シドン、そしてソドムで同じようなイエス様の御業が行なわれたら、その町の人々は悔い改めて裁かれなかっただろうと言われる位のものでした。それほど、驚くべき御業が行なわれたにも関わらず、人々はイエス様を知らなかったという事です。罪深い人間は、そんなイエス様の話しを聞こうともせず、その心を開こうともせず自分勝手に生きていたと言う事です。そしてそのような姿が私たちの姿であった事が教えられています。
 そのように頑なな心の私たちに、イエス様は「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」そして「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。」と仰って下さるのです。イエス様のくびきとは、愛することだと思います。神を愛し、隣人を愛しなさいというイエス様の教えを学び、その愛を持って人生を歩んで行く時、真の安らぎが与えられるのです。その愛に満たされて私たちを休ませて下さる主と共に歩んで行く者となりたいと思います。

8月14日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「強められる」              エペソ人への手紙6章10-13節
 今はオリンピックの真最中で、その競技に臨む選手たちの姿を見ますと、私たちの心もいつの間にか熱くなります。おそらくそれは優勝に対する選手たちの善意の格闘が真剣に行なわれているからだと思います。彼らは長い間、ただこの時のために一所懸命練習し訓練をして来ました。一つの目標を覚えて、それに集中して準備して来たのです。そのような選手たちの姿を見ながら、一つの目標のためにひたすら準備し、訓練を通して自分を強くして行く、鍛えて聞く姿がクリスチャンにも非常に大切で必要だと思います。
 パウロは、この手紙の最後において聖徒たちに霊的戦いについて説明し、それにどう臨むべきなのかについて教えて行きます。今まで説明して来たクリスチャンとしての姿、教理と実践を通してその霊的戦いに備えて来たのであります。その信仰の訓練課程を通って、最後には霊的戦いに臨むようになるのです。そのこの戦いは、悪魔の策略に立ち向かうことであり、天にいるもろもろの悪霊に対するものであるので、私たちが信者としてより徹底的に準備しなければなりません。ところが、悪魔に立ち向かう私たちの姿とは、まるで大人と子どもとの戦いのように見えます。如何見ても霊的存在である悪魔に対して信者の勝ち目は見えない戦いのようです。そんな私たちにパウロは「主にあって、その大能の力によって強められなさい」と言います。私たちがどんなに弱いものであっても、主にあってその大きな力により頼む時、その神様のみ力によって強められるのです。また、強められて神様からの武具を着けなければなりません。それも全ての武具を完全に身に着けて、小さな隙間もないようにしなければなりません。
 私たちはこの世の荒波の中でどんな姿で立ち向かっているでしょうか。ほえたける獅子のように、その獲物を探し求めている悪しき霊的存在に対して私たちはどのように準備しているのでしょうか。主にあって、神様のみ力によって強められ、神様からの全ての武具を身に着けて、どんな攻撃にも立ち向かって打ち勝つ者となりたいと思います。