礼拝メッセージ

10月23日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

ニコデモー大胆な愛            ヨハネの福音書19章38~42節

それは大胆な行動でした。主イエスが処刑されてから何時間も経っていない、極めて危険な状況の中で「イエスの弟子であることを隠していた」アリマタヤのヨセフと「前に夜イエスのところに来た」ニコデモの二人が、公然と主のお体を引き取り埋葬したのです。彼らは有力な議員で、人格者として尊敬を受け、資産家でもありました。そのことが逆にキリストの弟子として生きることの足枷になっていました。二人とも確かに主イエスを尊敬し、信じていましたが、人を怖れ憚って中途半端な信仰に身を置く「ひそかな弟子たち」でした。その彼らが大胆に、恐れもせず、かくも勇敢な態度に出ることが出来たのはなぜでしょうか?宗教改革者カルヴァンは、この問いを深く考えましたが自分には分からない「だから、これが行われたのは、確実に天の霊感によってである」と言いました。神の霊が彼らに働いて導いておられたのだと理解致しました。夜ひそかに一度だけ主イエスにお会いしたという、ただそれだけの出会いでニコデモは主のお体の埋葬に参加したのです。いざという時に、ニコデモはどのように変えられたかを見ます時に、私たちはその人に真の信仰の始まりが、いかに小さく弱々しいものであっても、決して人間の視点でその人に見切りをつけるようなことがあってはなりません。何故なら主イエスは「わたしが地上から上げられるなら、わたしはずべての人を自分のところに引き寄せます」(ヨハネ12:32)と語られているからです。今その全ての人の先頭にヨセフとニコデモがいるのです。そして私たちがその後ろに続いています。   キリストの教会は「使徒信条」で「主は十字架につけられ死にて葬られ」とキリストの埋葬を大切な信仰告白として守ってきました。その葬りにおいて、主はペテロやヤコブ、ヨハネではなく「ひそかなる弟子」「隠れたる弟子」に過ぎなかった、本来なら弟子の名に価しないようなアリマタヤのヨセフとニコデモを招いてお用いになられたのです。それもペテロを含め、ほとんでの弟子たちが、主イエスを見捨てて「ひそかな弟子」になってしまったその時に、それまで「隠れた弟子」であり続けてきたこの二人が、主に用いられて「隠れなき弟子」として人々の面前に立ったのです。ニコデモは「没薬とアロエを混ぜ合わせたもの」を用いて、主のお体を埋葬しました。それはあのクリスマスの夜、黄金、乳香、没薬をもって幼子イエスにひれ伏した東方の博士たち、ナルドの香油をもって主の葬りの備えをしたマリヤと同じように、今ニコデモはこの礼拝者のつながりの中にに公然と加わり、主イエスを「わが主、わが神」として告白するのです。このようにして埋葬の時、ご自分の体を用いて「ひそかな弟子」を「隠れなき弟子」へと招かれた主は、私たちをあの聖晩餐において「取って食べなさい。これは私の体です。」と、ご自分の体を用いながら私たちを引き寄せて下さっているのです。そしてこの主の愛の体を受け取る時、私たちは「隠れなき弟子」となって、大胆に自分を捧げて主にお従いしていくことが出来るのです。


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