礼拝メッセージ

10月30日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「幸福の使信」              ルカの福音書6章17~26節

村上春樹の代表作「ノルウェイの森」は、映画にもなり、日本だけではなく、外国でも多くの人々に愛読されております。その小説の最後は、主人公が次のように叫ぶ言葉で終わっております。「僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。」高度経済成長期の80年代の終わり「今どこにいるのだ?」と叫ぶ人は少数でした。しかし2011年に入り、今どこにも居場所のないという人がものすごく増えています。「いずこへともなく歩きすぎていく無数の人々」が小説の主人公と同じように「僕は今、どこにいるのだ?」と叫んでいるのです。政治、経済、金融、環境、生命が不安定、不確実な状況にあり、「無縁社会」「ワーキングプア」という造語が生み出される現代社会は、人間として当たり前のように生きることの、ほんとうに難しい時代です。その事を象徴的に描いている光景が本日のルカ6章17節から19節です。「イエスは、彼らとともに山を下り平らな所にお立ちになった。」イエスが今、平地に立たれたのは、悩み、疲れ、病み困り果てている人々の居る場所でした。そこにはそれぞれの問題を抱えた人々が大勢いて、イエスのもとに押し寄せているのです。それらの人々に向かってイエスが「わたしはここにいる。おまえはどこにいるのか」と呼びかけておられるのが、「幸福の使信」の説教なのです。イエスは人々が一番求めている「幸福」について語っておられます。直接的には弟子たちを見つめながら語られましたが、(ルカ6:20)その言葉はその背後にいる群衆にも届いております。イエスは、彼らに向かって決して「まじめに生きよ」「善い人であれ」「正直であれ」とはお語りになりませんでした。彼らが今一番求めているもの「幸い」という祝福をお与えになられたのです。イエスの語られる「幸福の使信」は私たちが普通に考えている幸福とは違います。自分中心の幸福ではありません。それはイエスが与えて下さる上からの祝福、幸いです。ですからイエスの語られる幸福論は、「一体どうして、この私が幸いなのか」「このように貧しく弱い者が幸いなのか」と自分の耳を疑うような、驚きと新しさを与えるものでした。幸せも安らぎもどこか遠くに求めるものではなく、貧しく飢え、泣いている時、憎しみ辱めにあっても、なお今を丁寧に生きることの中に真の幸いがあり、それを私は祝福すると言われるのです。「この今に満足できることこそ本当の幸いなのです」と語られるイエスの「幸福の使信」をじっくり味わってまいりましょう。




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