「悔い改めの実」 ルカの福音書3章1~14節
ルカ福音書の主題は、『あらゆる人が神の救いを見るようになり』(ルカ3:6)喜びのなかに神に立ち帰ることにあります。そのためにはキリストを迎える心の準備が必要です。その働きのためにバプテスマのヨハネの存在があります。福音書の作者ルカはどこまでもこのヨハネにこだわり続けます。 キリストの誕生物語では、キリスト誕生の前に、バプテスマのヨハネの誕生物語を詳細に描きます。(ルカ1:5~80)それからキリスト誕生物語と続くのです。それはキリストの公生涯の物語においても同じ筆遣いとなります。まずバプテスマのヨハネの使命、その働きを紹介し、その後にキリストのことを書き出します。なぜルカはこれほどまでに、バプテスマのヨハネにこだわるのでしょうか。それは主イエスが語られる言葉に私たちを注目させる前に、まずバプテスマのヨハネの語った言葉に私たちを注目させ、キリストを迎える心の準備をさせたかったのです。その語るべき神の言葉が、荒野でバプテスマのヨハネに下ります。しかも、その神の言葉が世界の歴史の中に組み入れられて、「皇帝テベリオの治世の第15年」(ルカ3:1)という書き出しで始まり、救いの出来事が動き出し、進展していくのです。ルカはバプテスマのヨハネを描くにあたって、彼の「洗礼」の行為よりも、語った言葉に焦点を当てております。その中心のメッセージは「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。」(ルカ3:8)という言葉です。しかしバプテスマのヨハネの説く悔い改めの説教は、神の裁きを強調するだけのものではありません。ルカはイザヤ書40章からの引用でマタイやマルコの福音書において引用されなかった「こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。」(ルカ3:6)をつけ加え、救いの喜びを語っているのです。その喜びに立ち帰るためには、悔い改めの実を結ばなくてはなりません。それには何か特別なことをするというのではなく、今の置かれている生活の場を大切にしながら、そこで他者、隣人と共に生きよとバプテスマのヨハネは語ります。自己中心ではなく、他者中心、さらに神中心の生き方をせよというのです。困っている人がいたら食べ物を分け与える。取税人にしても兵士にしても決して他者を苦しめたり、困らせたり、悲しませてはならず、かえって他者に対する配慮、他者と共に生きる生き方の中に悔い改めの実を見るのだと、バプテスマのヨハネは訴えるのです。(ルカ3:10~14)そして彼は、これらの言葉を遺言のようにして、国主ヘロデに殺され、ルカ3章20節を最後に聖書の舞台から消えていきます。しかし、「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」(ルカ3:2)というバプテスマのヨハネの活動は、私たちが受け継がなければなりません。何故なら現代社会もあのバプテスマのヨハネが生きた時代と同じ荒野だからです。その荒野に生きる人々に向かって私たちは神のことばを語り、『あらゆる人が神の救いを見るようになる』(ルカ3:6)喜びに立ち帰るように心の準備を訴え、語り続けなければならないのです。
「主の愛の継承者」 ヨハネの福音書19章23~27節
今、日本社会は急激に変わりつつあります。家族、親族、地縁という絆が成り立たない時代を、私たちは生きております。単身生活の世帯が増え、その結果「孤独死」「身元不明の自殺」「行き倒れ」「餓死」「凍死」する人の数が年間32,000人にのぼります。ある人はそれを「無縁社会」と呼びました。そのことを象徴するかのように、自殺で20才の兄を失ったある女子高校生は、その兄について次のように語りました。「兄は誰からも愛されていないと感じていたと思います。兄は遺書の中でこう言いました。『ホームレスのように葬って下さい』と。帰る家があり、家族という絆があったのに、自分には居場所がないと思っていたのでしょうか。」 この記事から『誰からも愛されていないと感じていたと思います。』という言葉が、重く強く迫ってきます。そして、イエスの弟子ヨハネについて言われた聖書の言葉が鮮烈に浮かんできました。それはヨハネが記しました『ヨハネの福音書』の中でヨハネは、自分のことを『イエスが愛しておられた者』『愛する弟子』『イエスの愛されたあの弟子が』と呼んでいることです。ヨハネはイエスから『愛された者』であるという思いを誰よりも強く持っていたということです。なぜヨハネはそのように言えたのか。それは彼が誰よりもイエスの愛を深く受け止め、イエスとの愛と信頼に満ちた関係を作り上げていったからです。そのヨハネにイエスは『そこにあなたの母がいます。』(ヨハネ19:26)と言われて、十字架上から、自分の亡き後の母マリヤを思い、愛する弟子ヨハネに託すのです。身内ではなく、イエスの愛の継承者とも言うべき愛弟子ヨハネに委ねられたのです。そして、ここに新しい母と子との関係が生まれるのです。『この弟子は彼女を自分の家に引き取った』(ヨハネ19:27)のです。『自分の家』それは『自分のふるさと』『帰るべきところ』と読むことができます。マリヤは『帰るべきところ』に帰ってきたのです。神の家族という居場所に帰ってきたのです。それはある意味で教会の誕生とも言うべき出来事です。キリストの十字架の愛によって、教会の愛の絆が造られたのです。それゆえ私たちは、血縁、性別、年齢、人種、国籍、階級、地位、職業等に関係なく、主イエスに愛された者として、互いに兄弟姉妹と呼び合い、神の家族となるのです。こうした教会の姿を現代社会は求めています。教会のようになりたいのです。現代社会は、神の家族のような愛の絆で結ばれた『有縁社会』を生み出そうと苦しんでいるのです。 人はひとりでは生きることが出来ません。人とは、何かのつながりを必要とする存在です。そこで教会の交わりに生きる私たちキリスト者の存在が重要な意味を持ってきます。私たちはキリストの体なる教会が、この世にあって果たす役割をしっかりと受け止め、その使命を担う者となり、教会の交わりに生きる者でありたいと思います。そのために、私たちがまず『イエスに愛された』という実感、『主イエスの愛の深さ』を毎日の生活の中で味わい続けることを忘れてはならないのです。
「なぜわたしが―苦難の痛み―」 ルカの福音書2章41~52節
歴史にその名を残した全ての人の生涯には、二つの大きな出発点があります。一つは彼がこの世に生まれた日であり、もう一つは何故自分がこの世に生れてきたのか、その理由を知った日であります。主イエスにとってそれは、12才の時でした。過越の祭りのためにエルサレムに上がり、神殿で「私が自分の父のもとにいるのは、当たり前だということを知らなかったのですか。」(ルカ2:49)と神の子としての自意識にめざめた少年イエスのことばに、そのことが表わされております。さらにルカが描く12才の少年イエスの物語は公生涯の主イエスの縮図でもあります。それは「エルサレムへの旅」と「エルサレムでの出来事」を暗示しているからです。(1)少年イエスのエルサレムへの最初の旅はやがて十字架に向かってガリラヤからエルサレムを目指す、主イエスの旅を思わせます。(2)少年イエスのエルサレムへの旅は『過越の祭り』のためでした。主イエスの公生涯における旅の終着地エルサレムで起こった、苦難、十字架、復活は、『過越の祭り』をはさんでの3日間の出来事でした。(3)少年イエスがエルサレムでとられた行動は、神殿において学者たちとの問答でありました。十字架を前にして主イエスも「毎日宮で教えておられた。」(ルカ19:47,20:1)その主イエスの生涯を共に歩んだマリヤは、「あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。」(ルカ2:48)という言葉の意味と重さを除々に味わっていきます。そしてマリヤの心が最高に突き刺される出来事、それが我が子イエスを十字架の上に仰ぐという出来事でした。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という主イエスの叫びを耳にした時、「神よ、あなたはなぜ私にこんなことをしたのです。」というマリヤの叫びとなります。 キリストの生涯と今の時代に生きる私どもに共通する主題は、「人はなぜ苦しまなければならないのか」ということです。マリヤはまさにこの問題に直面したのです。『なぜ汚れのない我が子が、このような苦しみを受けなければならないのか?』『なぜ自分がこのような苦しみを受けなければならないのか?』これらの人生の難問を自ら問う時、神とはどのような存在なのか。なぜ神を信じなければならないのか。神に何が期待出来るのか。マリヤと共に私どももこの問題に向き合うのです。そして『なぜ』を問う時、『なぜ』に私たちは答えることが出来ません。しかし、『なぜ』を問うその不条理のただ中に立ち続けることが出来るとすれば、それは『なぜ』を共に分かち合うことが出来る存在、そのようなお方を持つ時です。その時、私たちは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれたキリストが、不条理のただ中で苦しむ者と共に苦しむ存在として、私たちの前に立ち現れて下さるのです。それによって、なぜキリストが、「その名をインマヌエル(神は私たちとともにおられる)」と呼ばれたのかが明らかになるのです。そして私たちはこのように言うことが出来るのではないでしょうか。「神の子が苦しみの果てに、あのような死を遂げられたのは、人間が苦しまないためにではなく、人間の苦しみのただ中にいます主に似るようになるためであった。」と。
「エジプトでのヨセフ」 創世記39章1~23節
兄たちによってイシュマエル人に売られ、奴隷としてエジプトへ連れて行かれたヨセフは、パロの廷臣で侍従長のポティファルというエジプト人に買い取られた。(1) 「パロ」・・・エジプトの王のこと。 「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となった」(2) ヨセフがどのような逆境に置かれていても、そこに主自らがともにいてくださるという事実がすばらしい。これはアブラハム、イサク、ヤコブと続く契約の神の恵みであった。主がともにいてくださる人こそ祝福され、幸運な人となることができる。 ヨセフの主人ポティファルは彼がするすべてのことが成功するのを見て、彼を側近の者とし、全財産をヨセフの手にゆだねた。(3~6) ヨセフは体格も良く美男子であったので、主人の妻は彼に惹かれ誘惑しようとした。(6~7) しかしヨセフは断固としてこれを拒否した。(8~10) 彼の信仰は逆境に中で強められ、神により頼み、神を恐れる者として成長していた。 主人の妻はある日ヨセフに対して実力行使に出るが、彼はその上着を彼女の手に残し、外へ逃れ出た。(11~12) それで彼女はその上着を手元に置いて、主人が帰ってきた時、ヨセフが自分に乱暴しようとしたと言って主人を欺いた。(13~18) 主人ポティファルはこれを聞いて怒りに燃え、ヨセフを捕らえ、王の囚人が監禁されている監獄に彼を入れた。(20) ヨセフにとって理不尽な苦しみの日々が続く。しかし、主は変わることなくヨセフとともにいてくださる。主は彼を監獄の長の心にかなうようにされた。(21) 監獄の長はすべての囚人を彼の手にゆだね、さらに牢獄のすべてのことを管理させるようになった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったから。(22~23) ヨセフは今、奴隷の身で、しかも監獄のなかで自由とはほど遠い生活をしなければならないが、このような束縛の中でのさまざまな仕事、経験がやがてエジプトを救うため豊かに用いられるときが来る。そしてそれはイスラエルの救いへとつながっていく。
信仰者に対する主の約束→ガラテヤ3:26-29、ローマ8:32、ヘブル13:5
私たちは困難な逆境の中でも主の約束により頼んでいく時に絶望したり、自暴自棄になることはない。主が共にいてくださり、困難や苦しみを通して私たちを成長させてくださるのです。
「この主のもとに来なさい(2)」 ペテロの手紙第一2章3~6節
この「主のもとに来なさい。」(ペテロの手紙第一2章4節)というペテロの言葉には、ペテロの主イエスの弟子としての歩みの中での、さまざまな出来事が縒り合され、編み上げられた言葉といえます。 Ⅰ それはガリラヤ湖での主イエスとの出会いに始まります。ただの漁師にすぎなかったペテロが主イエスの「わたしについて来なさい。」(マルコ1:17)という招きの言葉に従い、人を漁る漁師としてのペテロがここに誕生します。ペテロにとって「主のもとに来なさい。」ということは、主イエスの方からの一方的な働きかけから生み出されたものでした。 Ⅱ それは、主イエスがいよいよエルサレムに御顔をまっすぐに向けられ、十字架の道を進んでゆかれる決意を明らかにされる中で「自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ9:23)という主イエスの言葉に従い、キリストの弟子として歩み続ける中で、ペテロは主イエスの十字架を前にして、三度主を知らないと否定しました。そのペテロのために主イエスは「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」(ルカ22:32)と、すでに祈っておられたのでした。主が振り向いてペテロを見つめられた時、「あなたは三度、わたしを知らないと言います。」(ルカ22:34)と言われた主の言葉を思い出し、慟哭の涙を流す中で味わった苦い思いと、主イエスの恵み深い支えの中で再び主のもとに来ることができた重い経験から深く悟った言葉でした。 Ⅲ ペテロにとってこの「主のもとに来なさい。」ということばが決定的なものとなったのは、復活のキリストと再び出会った時でした。ペテロはガリラヤ湖に戻り、漁師の仕事に復帰したものの、失意とむなしさの日々を過ごしていた彼の前に復活のキリストは立たれ「あなたはわたしを愛しますか。」と三度声をかけられ「わたし従いなさい。」(ヨハネ21:19)と再び主のもとに招かれたのでした。 ペテロのこうした生涯の転機となった三つの出来事を通して、この「主のもとに来なさい。」という行為は、全生涯を通して繰り返し行うことにほかならないことを私どもに語っているのです。ですからペテロはその手紙を恵みの讃美をもって始め、恵みの証と「この恵みの中にしっかりと立つ」(ペテロの手紙第一5章12節)ようにと勧めて終わらせました。ペテロは今確信に満ちて私どもに語りかけるのです。「わたしはすでに、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。」と
「宮における神の子イエス」 ルカの福音書2章39~52節
12才から30才までのイエスの生涯について、私たちが知り得るのは、ルカの福音書だけがわずかに一箇所、12才のイエスについて書き記した2章41~52節の情報だけです。それも「幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行った。神の恵みがその上にあった。」(40節)という幼子イエスについての言葉と、「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」(52節)という少年イエスについての言葉の間に挟み込まれた10節の短い文章のみです。そこに描かれている少年イエスは「宮で教師たちの真中にすわって、話を聞いたり質問したりしておられる」姿です。その場に居た人々は、イエスの知恵と答えに驚いたとルカは記しております。さらに「わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」という、福音書に記されているイエスの最初の言葉から、神の子としての意識も、成長とともにはっきりしてきたことがわかります。『必ず』と訳されている言葉は、とても大切な言葉です。『ここには、いないわけにはいかない。』という強い言葉です。少年イエスにとって、父なる神と共に在り、父なる神のことに一生懸命になることが当然のことなのです。生きて働いておられる神は、私たちを救うためにイエスをこの世に遣わされた。そのイエスが父の家におり、父なる神のわざをするのを、最も自然なこととしておられるのです。その少年イエスを通して、神が働いておられる。私たちは少年イエスをそのように見つめているであろうか。そうではなくて、帰路の一行の中にイエスを見失い、宮での本当のイエスの姿を見失い、不安や心配に支配されているヨセフやマリヤのように、私たちも教会生活を忠実に続け、毎日祈り、聖書を読み、学んでいる。そういう生活の中で私たちは、いつの間にか主イエスがよくわかっている、主イエスと共に在ると思い込み、実のところ、真実のイエスを見失って、自分に都合の良いイエス、自分の信仰のレベルに引き下げてしまったイエスになってはいないであろうか。ここで私たちは、立ち止まって、引き返して真実のイエスを見い出さなければなりません。主イエスは「わたしが必ず自分の父の家にいる」と言って、自分は天の御父のひとり子であると語られたこの事は同時に、この御子キリストによって『わたしたちも神の子である』ことを含んでいます。ヨハネはヨハネ第一の手紙3章1節から2節で「私たちが神の子と呼ばれるためには、どんな大きな愛を父から賜ったことか。私たちはすでに神の子であります。愛する者たち。私たちは今すでに神の子であります。」と語っているように、イエスは実にそのために一人の幼子となり、少年となって私たちと全く同じ人生を歩まれたのです。ルカはその事実を52節の「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」という一行に凝縮して描いたのです。
「この主のもとに来なさい」 ペテロの手紙第一2章3~5節
今年の教会の年間聖句は「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい」(ペテロの手紙第一2章3~4節)です。ペテロは、あなたがたは主のすばらしさを味わい、主が尊いことを味わったはずです。だからこの主のみもとにいらっしゃい。この主に近づきなさいとすすめるのです。このペテロの手紙はもともと洗礼を受けて間もない人々のために書かれたものです。洗礼を受けてキリスト者として生き始める。その姿が生まれたばかりの乳飲み子にたとえられているのです。こうして信仰の歩みを始めた信仰者にとって、たったひとつのものが大切であり、それが「純粋な、みことばの乳」なのです。これさえあれば信仰者の生命が養われ、すこやかに成長していくのです。 ところで、私どもは何を食べておいしいと感じるでしょうか。味覚というのは千差万別で個人によって違うのです。それだけに何を食べておいしいと感じるかは、その人を表現していることになり、その人らしさを感じさせるものです。そこでペテロは語るのです。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい」。ペテロはキリスト者とは何か?「それはキリストが、恵み深い方であることを味わった人間である」と定義します。味を知っている。キリストの味を知っている。それはキリストの恵みの深さを味わうことだというのです。主を仰いでいると、とても気持ちよくなる。本当に自分を生かしてくださる。まるで主はおいしい食物のようである。そこで当然のように「味わい知った」という言葉を用いたのです。私どもは罪からの救いによって、キリストの味を知ることがゆるされた者です。そのキリストの味に集中するために、この主のもとに近づかなければならないのです。「この主のもとに来なさい」という言葉は、「神様を拝みに来る」という特別の意味を持っているのです。私どもが主のみもとに来たということは、この主を礼拝しに来たということです。今年は、私どもの救いのために、ご自身を犠牲としてささげられたこの方のもとに自分のすべてを献げる思いで礼拝に励み、キリストの豊かさを味わい尽くすような歩みを記したいと思います。
「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ」 詩篇 34篇8節
「主をほめたたえよ」 詩編103編1~5節
「ダビデによる」…BC1000年頃のイスラエルの王。彼は初代の王サウルから、いのちを狙われ、長い間逃亡生活を送り、数々の苦しみや危険、困難に直面した。そのような経験の中で神への祈りとも言うべき多くの詩編を残した。この103篇も多くの人に親しまれている。 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ」(1)作者は自分自身のたましいに語りかけるというかたちで、私たち信仰者が何をなすべきかを教えます。それは主をほめたたえることです。「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(2)これがなぜ主をほめたたえるかの理由。具体的には次節以下。「主はあなたのすべての咎を赦し」(3)神との交わりの回復なしには神からの良きものが受けられません。それゆえにまず第一に罪咎の赦しが述べられているのです。「あなたのすべての病いをいやし」肉体はいやされてもやがて古び衰え死に至る。最も大切なことは死と滅びに至る病いである罪の解決、いやしです。「あなたのいのちを穴から贖い」(4)「穴」とは死と滅びを象徴するものであり、神の前に罪ある人間が本来行くべきところ。しかし神はご自身のひとり子イエス・キリストを私たちのために、この世界に送ってくださり、罪の暗闇の中を歩み、人生の空しさや神のさばき、死への恐れなどをもって生きていた私たち人間に救いの道を開いてくださった。これが神が私たちのためになしてくださったことなのです。「あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ」私たちを待っているのは神の怒りとさばきではなく恵みとあわれみなのです。(ローマ6:23)「あなたの一生を良いもので満たされる」(5)神のよしとされるすべての良きものが、満ち足りるまで神のもとから私たちのところに来る。これが神が私たちに望んでおられること。何と驚くべきことでしょう。(エレミヤ29:11)しかし覚えておかなければならないことは、これは神のみこころにかなったものが与えられるのであり、決して私たちの自己中心的な思いを満たすためのものではありません。「あなたの若さは、わしのように、新しくなる」わし(鷲)は年老いるまで、いつまでも活力に満ち、力強く、長生きする。それと同様に、神を信じより頼む者も神の力によって支えられるのでその力はいつも欠けることがない。(イザヤ46:3~4、Ⅱコリント4:16) この一年もさまざまな出来事がありました。しかし、私たちまことの神を信じる者にとってはどのような出来事が起ころうとも、それらはすべて神がご存知であり、私たちの弱さや苦しみ悲しみを知ってくださり、慰め励まし、また新しい力を与えてくださるのです。私たちは様々な事件、出来事の前に不信仰、悲観的、投げやりになって空しい思いを持って生きていくのではなく、この一年の終わりにあたって主が私たちのためになしてくださった良きことをよく考え、思い返して感謝の思いに満たされ、主をほめたたえる者となりましょう。
「喜び祝え この出来ご事を」 ルカの福音書2章8~20節
羊飼いたちは救い主誕生の最初の証人であり、最初のクリスマスを祝った人達でした。聖書は私たちにイエスの誕生は特別な出来事であり、私たちのあらゆる誕生とは違うことを告げています。聖書の描きますクリスマス物語に登場する人々は、悩み、嘆き悲しみ、不安、苦しみ、疲れを覚えている人々です。それは今の時代も同じです。ですからイエス・キリストは2010年のこの時代に救い主としてお生まれにならなければならなかったのです。今私たちは2000年前のキリストの誕生ではなく、2010年のキリストの誕生をお祝いしているのです。ではこの特別な出来事をどのように祝ったらよいのでしょうか。 (1)まず「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。」(11節)というこの出来事を、驚きをもって見つめることから始めることです。神が人となられた。なぜこのような事が起こり得たのか。誰にも理解することはできません。しかしヨハネによる福音書3章16節には「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」とあります。神の愛が神の子イエス・キリストを私たちに与えられた。私たちはそのことのゆえに驚くのです。 (Ⅱ)次にクリスマスを祝う大切なことは、この出来事について「思いを巡らす」(19節)ことです。私たちは静まり「あなたがたのためのしるし」(12節)の意味について考え、この出来事を支配しておられる神のみわざ「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)という神のみわざ、ご計画について思いを巡らすことです。 (Ⅲ)さらに、神をあがめ、賛美することです。(20節)神を賛美する―それは神を礼拝することを意味します。羊飼いたちは見聞きしたことが、全部御使いの話の通りだったので神を賛美し、神を礼拝しました。2000年前のベツレヘムが羊飼いたちにとって救い主イエス・キリストに出会う場所であったなら、今の私たちにとってのベツレヘムは何処なのでしょうか?『ベツレヘム』それはキリストが居ます所です。そしてその場所こそ『教会』なのです。ペテロは「十字架のキリストの打ち傷のゆえにあなたがたはいやされたのです。」と語った後に「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は自分のたましいの牧者であり、監督者である方のもとに帰ったのです。」(ペテロの手紙第一2章24~25節)と、キリストの体なる教会をさし示しました。キリストが働かれる場所、教会こそが現代の『ベツレヘム』なのです。毎週、主の日の礼拝に於いて、羊飼いたちがベツレヘムに行ってキリストの誕生という出来事を見たように、今の私たちは、主イエスの十字架と復活という出来事を告げ知らされ、マリヤのようにそのメッセージを思い巡らし、圧倒的な神の愛と恵みに驚き、神をあがめ賛美し、日々の生活の場へと帰って行くのです。
「ただ恵みの確かさに立ちて」 ガラテヤ人への手紙3章2~5節
キリスト教信仰の道は、「あれか」「これか」の世界です。人が救われる道は唯一つです。「律法に聞き従って生きる」道なのか「イエス・キリストを信じて従う」道のどちらかの道でしか人は救われないのです。パウロはユダヤ教徒として、「律法を行う」道を選びました。その生き方が如何に徹底したものであったかは、ピリピ人への手紙3章4~6節のパウロの告白を読めば明白です。そのパウロがダマスコ途上で、復活のキリストに捉えられ、一方的な神の恵みによって回心致します。その結果パウロに見えてきたことがありました。それは神のように聖く、完全でありたいと願い、ひたすら律法を守り、その生き方に徹した方向は、神に向かっているのではなく、まったく反対の方向であったことがわかったのです。さらに、人間の業では、どんなに聖く、義しくあろうと、神の要求を完全に満たすことはできないという、人間の力の限界を悟ったということです。ですから「イエス・キリストを信じる信仰」とユダヤ教の伝統、習慣、常識である「律法の行い」という両方の立場「あれもこれも」受け入れてこそ救いが完成すると考える、ガラテヤ教会の人々の信仰の在り方が、パウロにとっては耐え難いことでした。なぜ「信仰のみ」「ただ神の恵み」という福音をもって信仰の出発点としたのに、今になって律法の行いを強調して、御霊の働きで始まった救いが、人間の業によって完成されなければならないのか!ここにガラテヤ人の愚かさを嘆き、福音の本質に戻って欲しいと願うパウロの叫びを聴き取ることができます。ではなぜ私どもはこのような律法主義の罪に落ち入るのか?それは「私の信仰は私が守っていく」という、何か自分で手応えを感じる生き方がより人間らしい信仰の姿勢だと思うからです。しかしパウロはまさに『この点』で私どもの罪深さが現れるのだと言います。そうではなく、神の恵みにすべてを委ねて『全くそこにおいて生きる』こと。その時、人は本来のあるべき人間になるのです。誰よりも徹底して人間の弱さを知り尽くしたパウロの言葉だからこそ、その思いを私どもはしっかりと受け止め、ただ「信仰のみ」という唯一の道を歩みたいのです。