礼拝メッセージ要旨

4月29日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「聞き方に注意しなさい」        ルカの福音書8章9~18節

聖書の中に多く使われている言葉に、「聞く」という言葉があります。「聞く」ということが信仰の基本だからです。聖書が、「聞く」ということを、いかに大切にしてきたかがわかります。特に旧約聖書の「イスラエルよ、聞け」という神の呼びかけ(申命記6章3節)、新約聖書の「聞く耳のあるものは聞きなさい」「聞き方に注意しなさい」という主イエスの語りかけ(ルカの福音書8章8節、18節)は、どちらも傾聴を促す言葉として重要です。主イエスが「聞く」ということを強調されたのは、神のことばが私たちを成長させ、大きくさせるからです。それは自分を確かめ、ここに自分がいると感じさせてくれる言葉だからです。情報化社会の中で、情報でない言葉、すなわち主イエスの語られる言葉こそが、私たちを確かな者にする。だから「聞き方に注意し」傾聴しなければならないのです。その「聞く力」が弱くなっていることが問題になっております。落ち着いて人の話を聞くことができない大人や子どもが増えております。いろいろな理由は考えられますが、特に家庭での親が子の、そして子が親の話に耳を傾けるということが軽んじられている状況があります。人は母の胎内にいる時から「聞く力」をもって生まれてきます。そして出産の直後から、すべて親が語りかけることばで生き方のほとんどを学びます。従って集中して聞く能力は養い育てるものです。まずは、親が子どもの語りかけに、じっくり耳を傾けることから始まるのです。今日の情報化社会にあって、忘れられているもの、それが耳を澄ますという生き方です。だからこそ、キリスト者は誰よりも、神のことば、主イエスのことばに耳を澄まし、親身になって聞くという姿を大切にしなければならないのです。その真摯な姿は主の日の礼拝においてこそ、真の姿があらわにされるのです。子どもと共に、神の言葉にじっくり耳を傾けることから聞く力を身につけたいものです。

4月22日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「主よ献げます。私の愛を」         ルカの福音書8章1~3節

ルカの福音書は、「女性の福音書」と呼ばれております。ルカだけが主イエスと十二弟子の伝道旅行にお供し、仕えていた女性たちのことを書いているからです。確かにルカの福音書には最も多く女性が登場します。ここに主イエスや弟子たちの旅を支え、女性でなくてはできないような心くばりをもって主イエスに仕えていた女性たちがいたのです。日々の生活の煩わしさを全部身に引き受けて、いつも主イエスの傍にあった女性たちのことを、ルカは書き記すのです。この女性たちの存在なくして、主イエスの伝道は支えられなかったのです。主イエスは、その女性たちの奉仕に深い信頼を寄せられながら、ご自身の使命に生きられたのです。そしてこの姿は、今の教会にも受け継がれているのです。陰で隠れたところで、いつも配慮し、奉仕する人々がいる。その人々の働きが、教会の礼拝と交わりを支え、その中核となっているのです。これらの女性たちに共通していたことは (一)自分の持ち物を差し出し主イエスに仕え、奉仕したのです。 (二)この女性たちは、主イエスに救われた共通の思い出をもっていました。二節に「また悪霊や病気を直していただいた女性たち」とあります。従って奉仕とは、主イエスに救われたことに対する感謝からなされるものです。 (三)彼女たちの奉仕は、主の弟子として従うものでした。三節に「彼らに仕えている大ぜいの女たちもいっしょであった」とあります。彼女たちは、単に主イエスの一行に、物質的な面から奉仕したというだけではないということです。主イエスに従った者、広い意味で主イエスの弟子達だったということです。その確かな証拠として、あの十字架の場面でも、最後までいたのは女性たちだけでした。主イエスの復活の最初の目撃者も彼女たちでした。本当に弟子らしい振る舞いをみせたのは女性たちでした。彼女たちは、主イエスの十字架から甦えりの歩みまですべて、共にすることのできた人達でした。主イエスに救われたということに対する感謝と、それゆえにひたすら主イエスを愛するという、この共通の思いを持って、脇役にまわり、日々の雑事に徹したのです。しかし、このような女性たちによって教会は支えられ、前進していったのです。今日、女性たちの生活環境は大きく変わり、多くの自分の時間をもつことができる時代になりました。しかし、時代は変わっても、主イエスに仕え、従う姿は基本的に彼女たちとの違いはありません。あらためて教会における奉仕を見つめ直し、主イエスに従っていきたいものです。    「ナルドの壺ならねど、ささげまつる、わが愛、みわざのため、主よ、潔めてうけませ」(讃美歌 391)



4月15日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「広がりゆく主の教会」             使徒の働き2章1~13節

ここに、最初に生み出された教会の姿があります。この教会の原型に従って、私どもは教会を形成していくのです。                       (1)教会とは、信じて待ち続ける群れであります。(使徒2:1~2)弟子たちは、主イエスから聞いた父の約束を待って一つ所に集まり「みな心を合わせ、祈りに専念していた。」のです。(使徒1:14:)彼らは父の約束が実現するまで祈り続けたのです。私たちの祈りは、どこまでも待ち望んでいく祈りでなければなりません。神は最善の時に、その約束を実現されるのです。時は満ち五旬節の日になって、神の霊が彼らに下ったのです。                (2)教会は、聖霊の力が溢れている群れであります。(使徒2:3~4)十字架の場面では、弟子たちは逃げ、裏切り、復活の出来事さえ疑い、無理解と不信仰を示した弟子たちにとって、今こそ新しい生命の源が必要でした。それが聖霊です。聖霊よって、弟子たちは十字架にかけられたイエスの死と復活を理解し信じたように、聖霊によって私たちもキリストの証人とされるのです。従って教会とは、このような生命を持った者たちの集まりです。そして、この新しい生命を持つことが、教会の会員の資格であります。                                                              (3)教会はまた、全ての信者が必要とされている群れであります。(使徒2:2~3)聖霊は「家全体に響き渡った。」のです。そして「ひとりひとりの上にとどまった。」のです。賜物が異なっても一人一人が重んぜられ、聖霊の注ぎを受けたのです。教会には不必要な人は誰もいないということです。ここから一つの原則が導き出されます。「宣教する教会は一つであると共に多様である」ということです。                                    (4)さらに教会は、神の大きなみわざを証しする群れであります。(使徒2:4~13)ガリラヤ人と呼ばれたペテロを始めとする集団に、どれほどの力があり、影響力があったのでしょうか。聖霊は人間の持っている能力に依存して、福音宣教の働きを託そうとはされませんでした。ひたすら恵みと憐れみにしか、生き得ない者たちに、福音宣教をゆだねられたのです。ペテロたちは、このいやしき者を愛し、お救い下さった「神の大きなみわざ」を自分の言葉で語っただけでした。今や「教会の時」「聖霊の時」「宣教の時」です。そのために聖霊は、あなたを通して、この働きをすすめられるのです。


4月8日(日) イースター礼拝メッセージ要旨

 

「主イエスは今も生きておられる」      ヨハネの福音書21章1~14節

私たちの信仰と礼拝は、キリストが甦られたという、その事実を土台とするものです。その復活のキリストと弟子たちとの再会を描く、本日の箇所は、「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された」という書き出しで始まっております。「この後」とは、ヨハネ20章19節と26節に記されております復活のキリストと弟子たちの再会のことです。そして、今もう一度テベリヤ湖畔での再会というわけです。弟子たちはエルサレムで復活の主に、二度お会いして、それからガリラヤに戻ってきたのです。ここに一つ疑問が生じます。なぜ弟子たちはガリラヤ湖に戻ってしまったのでしょうか。なぜ復活のキリストにお会いした喜びに触発されて、新しく生きる力を与えられ、主イエスが命じられた通り(ヨハネ20:21)伝道のわざにすぐに突き進むことがなかったのでしょうか。彼らは失意のままガリラヤに帰ってきていたのです。使命を投げ捨て、信仰もどこかに置き忘れて、その日暮らしの漁師の生活に戻ってしまったのです。ヨハネ21章をそのように読み進みますと、弟子たちに一度失ってしまった伝道への意欲を取り戻すため、その信仰を立ち直らせ、復活の主が再び伝道の場へと押し出して下さる物語なのです。弟子たちの信仰再生の物語であり、それはまた、私たちの信仰の復活物語なのです。復活の主は、三つの言葉を通して、ペテロたちを信仰の復活へと導かれます。まず「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」(ヨハネ21:5)主イエスは私たちの一番困っている所、日々の暮らしの悩み、問題にまず心砕かれるお方なのです。そして「舟の右側に網をおろしなさい。」(ヨハネ21:6)と言われます。主イエスの命令は、何か特別な事をお命じになりません。私たちがいつもしている日々の生活の中で、どこかあきらめたり、おろそかになっていることを、きちんと立て直し、整えるべきものをお示しになり、導かれます。「いつもの通り祈り続けなさい。」「信仰に従いなさい。」「奉仕を続けなさい。」ただそれだけなのです。そして弟子たちを招かれます。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」(ヨハネ21:12)すでに復活の主イエスのもとには、パンと魚が用意されております。(ヨハネ21:9)主イエスのもとでのパンと魚の食事、それは聖餐式を含む礼拝の場です。虚しいテベリヤの湖畔が聖なる礼拝の場と変えられているのです。魚は「それほど多かったけれども、網は破れなかった。」(ヨハネ21:11)とあります。神の恵みの網は決して破れることがありません。どんなにあなたの罪が重く、悲しみが深く、失望が大きくても、神の恵みは破れることはありません。主イエスは今、生きておられる。テベリヤ湖に陽光が輝き始めたあの朝、復活の主はその岸辺に立たれました。そしてあなたの朝毎に迎える新たな一日の岸辺にも、復活の主は立ち続けて下さるのです。「あれは主だ!」という喜びの確かさの中に生きましょう。



4月1日(日) 受難週礼拝メッセージ要旨

 

「記念の喜びの食卓」            ルカの福音書22章14~23節

ルカの福音書が書き記す「最後の晩餐」には、主イエスの熱い思いが色濃く描かれております。それは、まず主イエスが食卓につかれたということに見られます。(ルカ22:14)この食卓は、主イエスが心を込めて準備して下さいました。その食卓にまず主イエスが座られ、そこに一つの中心、一つの座標軸が生まれました。続いてその傍らに使徒たちそれぞれが座るのです。主を中心にして座る。そこで自分の位置も定まります。自分がこの主イエスと、どういう関わりにあるかということが、はっきり知らされるのです。さらに15節の主イエスの言葉に、この最後の晩餐に対する思いの強さを感じます。「あなたがたと一緒に、この過越しの食事をすることをどんなに望んでいたことか。」この「どんなに望んでいたことか」という言葉は、過越しの食事をしたいという、抑えることが出来ない主イエスの切なる願いを現す言葉です。そこで聖餐に預かる私たちに、改めて問われますことは、どれだけ聖餐式に預かる恵みを大切に、待ち望んでいるであろうかということです。主イエスが切に望まれたほどの願いに衝き動かされてここに集まっているであろうか。聖餐式はそのような主の熱い思いに根ざしていることを、忘れてはならないのです。それはまた、聖餐を通して、私たち自身の目で見、耳で聴き、手で触れることが出来るように、イエス・キリストという姿を通して、私たちに近づこうとされる神の姿でもあります。さらに聖餐式は、自由解放の記念の喜びの食卓であります。私たちは「最後の晩餐」と言いますが、しかし、主イエスは、「この過越しの食事」と呼んでおられます。(ルカ22:15)かってイスラエルの民がエジプトで奴隷の生活に苦しんでいた時、指導者モーセを与えて、神はご自身の民をエジプトから連れ出されたことを、記念とし守り行う行事でした。主イエスは間もなく十字架で死なれます。しかしその事によって、この過越しの食事が、今まで知ることがなかった真の自由をもたらす、記念の喜びの食事となります。これが主イエスの聖餐におけるご意思でありました。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。」「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」(ルカ22:19~20)この聖餐において、イエスの死を体にまとっている私たちは、キリストの体として、お互いに結ばれています。従って、私たちがどのように生き、死ぬかという違いはあっても、イエス・キリストにあって死ぬことの幸いを分かち合うことができます。私たちは自分一人で死んで逝くのではないのです。キリストと共に死に逝くのみならず、私と一緒に祈りに合わせている兄弟姉妹と共に死に逝くのです。そのことを主イエスは、十字架の死を前にして、この聖餐を通して教えて下さったのです。

3月25日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「一番小さい者でいいのです」        ルカの福音書7章24~35節

教会はいつの時代もこの世に在って、この世に向かって宣教しなくてはなりません。その語り告げるべきこの世とは、どのような世の中なのでしょうか?イエスは、それを市場にすわった子供たちになぞらえております。子供たちは市場で初めは結婚式のような祝い事の遊びを、次に葬式ごっこをします。しかしどちらの遊びも、誰にも相手にされず不平を並べています。(ルカ7:32)イエスが、市場で遊んでいる子供たちに似ていると言われた「この時代の人々」「今の時代の人々」とは、「神の自分たちに対するみこころを拒んだ、パリサイ人、律法学者のような人々のことです」(ルカ7:30)と言われます。何故彼らが、市場の子供たちに似ているのでしょうか。それは彼らが自分勝手であり、自分の思い通りにならないと怒り、また彼らはよく気が変わり、確固たる意見や考えを持っておらず、子供たちの遊びのように、真剣に求めようとしない点にあると言われます。ですからイエスが待ちに待った、来るべき救い主であり、新しい恵みの時が訪れていることが分からないのです。このような時代に向かって、教会は伝道し、福音を伝えなければならないのです。その使命を果たすために、「この時代」に出て行こうとしている私たちをイエスは「ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」(ルカ7:28)と呼んで下さり、送り出して下さるのです。何故私たちは、パプテスマのヨハネより勝れているのでしょうか。それはヨハネの生きた時代と私たちが生きる時代の違いにあります。ヨハネの時までは、預言と約束の期間でありました。しかし、ヨハネ以後は神の国の訪れの時代であります。そのためにメシア到来の予告をしていたにすぎない預言者や、メシヤの訪れの道備えをしたヨハネよりも、現に訪れている神の国の福音を宣べ伝える私たちの方が、より大いなる者なのです。ヨハネはキリストを指差した人です。ナザレの大工イエスの中に神の子の姿を見たのです。旧約の預言者がこぞって待望したキリストの姿をイエスの中に見た人でありました。しかし、このキリストを信じて神の子とされ、神の国に生きる者とされた私たちと比べる時、ヨハネはキリストを指差した人、私たちはキリストを我がうちに受けている者、キリストと共に在る者、そこに全くの質の違いがあるのです。キリストが私の中にいて下さるという経験に立つ者、これが小さいといえども神の国にある者の姿です。そこに旧約最後の預言者たるヨハネの持ち得なかった、すばらしい神の扱いがあるのです。そこが「神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい」と言われるところです。そんな大きな神の扱いの中に私たちは置かれているのです。だから神の国で最も小さい者、それが私であってもいいのです。一番小さい者でいいのです。それでさえ、こんなすばらしい神の扱いの中に置かれている。そのことをもう一度はっきりと受け取りましょう。


3月18日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「悔いた心―愛と赦しの光景」        ルカの福音書7章36~50節

本日の聖書の箇所は、教会の階段の踊り場にあります、金井りつ姉妹の心を捉え一枚の絵になりました。それほどにこの光景は、そこに居た人々の心を動かした出来事でした。「罪深い女」(ルカ7:39)として、世間の冷たく、きびしい風にさらされながら生きてきた女が、今流れ落ちる涙で、イエスの足を濡らし、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして、香油を塗ったのです。(ルカ7:38)これは想像出来ない光景でもありました。パリサイ人にとっては、イエスがもし神から遣わされた預言者であるなら、この罪に汚れた女と一緒にいることは許し難いことでした。一方この罪深い女にとっては、これらの行為は、イエスに対する感謝と愛の現れでした。私たちは、この場面を思い描くだけで、愛と赦しのメッセージが、直に伝わってきます。ここに人間の真に美しい心を見ることが出来ます。人間の最も美しい姿、それは祈る姿であり、自分の弱さや、影の部分である罪深さに涙する姿です。ダビデの「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩編51:17)の詩編を想い起こさせます。今罪の女は、イエスの恵みに満ちた、確かな御手のうちに支えられ、人生の歩みを始めるのです。彼女は安心して、これからの人生を生きることが出来るのは、彼女が救われたことにありました。イエスが、「あなたの信仰があなたを救ったのです。」と保証されたからです。しかし、この罪赦された女は、イエスから離れてどこへ出て行くのでしょうか。それは、かって自分が罪深い生活をしていた所、世間の白い目が遠慮なく注がれる所で、これから生き続けなければならないのです。その彼女の背中を押し出すように、イエスの思いやりのある言葉がかけられるのです。「安心して行きなさい。」(ルカ7:50)主が愛をもって赦された罪の女に、お与えになられた言葉です。それは、これからはあなた一人ではない。私が共に歩み、支え、守るという、イエスが共に生きて下さるという、確かな約束の言葉なのです。この罪赦された女が、その後、「あなたの罪は赦された。」という言葉と「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」というイエスの言葉を支えにして、その信仰生活を生き抜いたことを私は信じたい。


3月11日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「もう、泣かなくてもよい」         ルカの福音書7章11~17節

「泣かなくてもよい。」(ルカ7:13) 主イエスは、ひとり息子を失い嘆き悲しむ母親にこの言葉を語りかけられます。「泣かなくてもよい。」これは慰めの言葉です。込みあげてくる悲しみの心に、語りかけられた主イエスの言葉です。私どもはこのような死の悲しみに出会う時、何を言っていいのか、言葉を失い、口もろくに聞けない思いで帰ってくるのです。このナインの町の人達も、この母親の悲しみのかたわらに立って、ただ一緒に歩き、涙を流すよりほかなかったのです。そして、この事だけが私たちが出来る精一杯のことなのです。しかし、葬列の人々に向かって、主イエスの真実に力ある言葉がひびき出します。「泣かなくてもよい。」主イエスは母親をじっとご覧になられ、はらわたをゆするような、主の憐れみの思いが、堰を切って溢れ出たのです。「もう泣く必要はないではないか。私がここにいるのだから!」と。地上の旅路には、涙が止まらない時があります。連日報道されております東日本大震災は、今日で一年になりましたが、未だに行方のわかない方々を含め20000人近くの愛する命が失われ、その悲しみの姿に胸が痛みます。それらの人達に誰が「泣かなくてもよい。」などと言えるでしょうか。しかし主イエスは違います。主は死の力が大手を振って、好き勝手なことをして、一人の母親を悲しませていることを許されないのです。「青年よ、あなたに言う、起きなさい。」と声をかけられ、死から命の世界へと、引き戻してしまわれたのです。主イエスが人となり、この地上を歩まれたのは、愛する者を奪い去る死の悲しみを引き受け、死の悲しみを打ち砕くためでした。そのために死に勝利し、三日目に蘇られました。「泣かなくてもよい。」という言葉は、そのお方の言葉なのです。そして「もう泣かなくてもよい。私はここにいる。」と泣かなくてもいいようにされた主イエスは、私どもに泣くなと言われるのです。ですから私どもも、悲しみのただ中で、悲しみを分かち合う者とともに「もう泣かなくてもよい。」という言葉を確信をもって語ることが出来るのです。なぜならこの言葉を私の言葉としてではなく「主イエス・キリストの言葉」として語るからです。「キリストの言葉」そのものを語るのです。だから「泣かなくてもよい。」という主イエスの言葉は、私どもが愛する者を失った時ですら、はっきり語ってよいのです。それは私どもが死に勝利された主イエス・キリストの言葉の本当の力を知らされているからです。いつも覚えましょう。キリストが私たちのために死なれ、蘇られたのは、私たちが望みなき人々のように、泣き悲しむことのないためであることを。死別した者と天において再会する慰めがこの主イエスにおいて約束されていることを。

3月4日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「見よ このりっぱな信仰を」         ルカの福音書7章1~10節

「このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」(ルカ7:9)という本日の言葉は「今ここに、私が探し求めていた信仰があった。異邦人にそれを発見した。」という主イエスの驚きの言葉でした。主イエスをこれほど感嘆させた信仰の持ち主が、ユダヤ社会に生きていた異邦人百人隊長でありました。ユダヤ人達から見れば、彼は選びの民、信仰の民ではありませんでした。しかし、その壁を越えて、この百人隊長の信仰が、主イエスによって見出されたのです。では主イエスによって光があてられた百人隊長の信仰とは、どのような信仰だったのでしょうか。第一にそれは、一人の人間として、人の痛みを感ずる心を持っていたということです。彼は百人隊長としての地位、権威を捨てて、ただ一人の人間として自分の部下の痛み、苦しみを受け止め、その思いが彼を主イエスのもとに向かわせたのです。第二に彼は、主イエスの全き権威に対して、従う心を持っていたということです。百人隊長は主イエスに来て頂きたいと願いました。それ以外に救いはないからです。しかし同時に彼が認めざるを得ないのは、主イエスという方が、自分が領主ヘロデ・アンティパスの権威のもとに立っているよりも、遥かに確かな、大きな神の権威のもとに生きておられるということでした。だから自分には主イエスに家に入って頂くこともできないほどに、自分にはその資格がないのだと、へりくだって主イエスを迎えようとしたのです。第三に彼は主イエスのお言葉に絶対的な信仰を寄せました。「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」(ルカ7:7)この物語の中心に位置する言葉です。それは一言でいえば主イエスの言葉への信頼です。言葉は力であります。しかし、言葉に信頼がなければ、それは力とはなりません。百人隊長は自分の軍隊の経験から、言葉(命令)が兵を動かすことを知っておりました。一方で彼は自分の言葉の限界も知っておりました。自分には「行け」「来い」「これをせよ」という言葉は言えたとしても「生きよ」という言葉は言えなかったのです。主イエスが語られる言葉には、自分の言葉にはない、いのちを左右する力があり、私ができることは、その主イエスの言葉を信じて、死にかけている自分の僕を、この主イエスの言葉のもとに置く以外にないのだと、百人隊長は主イエスの言葉に、絶対的な信頼を寄せたのです。主イエスは、ここに自分が求めてきた真実の信仰と出会い、驚かれたのです。そして主イエスはこの見事な信仰へと、私どもを招かれるのです。誰も主イエスを呼び寄せる資格などありません。しかし「イエスは、彼らといっしょに行かれた。」(ルカ7:6)のです。私どものところに行く決意をされた主イエス。この低き主イエスのお姿に打たれて私どもは「わたしのような者にまで」という思いの中で「主よお言葉をください。」と言うことができるのです。


2月26日(日) 礼拝メッセージ要旨

 

「人生の土台」               ルカの福音書6章47~49節

東日本大震災から、間もなく一年になります。あの大震災は、単に多くのものを、家屋諸共押し流しただけでなく、20000人近くの命を奪いました。それは人生の基盤、明日からの生活そのものを揺るがし、破壊するものでした。それまでの「安全神話」が崩れ、私どもが拠り所としていたものが、いかに脆いものであったかを知らされたのです。それゆえあの大震災は、人の価値観や人生観を大きく変え、考えさせた出来事でもありました。主イエスが本日の聖書の箇所で語られた大洪水の話が、現実に私たちの目の前で起こったということです。聖書は、私たちがこの世で信頼するもの、備えるもの、私たちの人生観の一切が、神のテストに会うと語っております。主イエスはそのテストを「雨が降り洪水が押し寄せる」(ルカ6:48)という言葉で表現致しました。それならば、主は、この光景の一つ一つの表現で、何を言おうとしておられるのでしょうか。やがてもたらされる「さばきの日」のことを、語ろうとしておられることは確かですが、この世での生き方に対しても当てはまるのです。「洪水」、それはいろいろな試練、困難、病気、失望、失敗、損害、不成功など、人生には避けられない、数々の出来事を意味しております。また老いること、そして最後に「死」という洪水が確実にやってきます。死という強力な事実こそ、私たちの人生の土台について、深くテストするものはありません。たとえ、どんなすばらしい能力、才能、賜物がなんであれ、またその人柄が優れ、性格が良く、善良であっても、死は確実にやってきます。その時、この死に対して備えができ、耐えることができなければ、その人は完全な敗北者なのです。               このように私たちの人生においては、目に見えない人生の土台が明るみになる時がきます。主イエスはそれを「洪水」という言葉で話されました。さらにここでは、もう一つ大切なことが言われております。それはその土台が、何の上にあるかということです。岩の上すなわちイエス・キリストという岩、それが大切なのです。私たちの人生が、その信仰が永遠の岩なるイエス・キリストの上にのっていなければ信仰とは、名ばかりの信仰になっていまうのです。このことは、私たちの人生の中で、洪水という試練が押し寄せて来た時に、明らかにされるのです。岩なるイエスの上に立つ家(人生)は、試練をもかえって恵みと変えるのです。そして次のように歌うことができるのです。『風いとはげしく、なみ立つ闇夜も、みもとに鎖を、おろして安らわん。われらのイエスこそ、救いの岩なれ、救いの岩なれ』