「主イエスの低みに立つ」 ルカの福音書14章7~11節
この主イエスのたとえ話は、遠慮ということを心得なさいという、単なる食卓における礼儀作法のひとつとして語られているのでは勿論ありません。結婚式の披露宴で、自分をよりよく見せるためのマナーが語られているのでもありません。もしそうだとしますと、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」(ルカ14:11)の意味が、わからなくなります。主イエスがここで求めておられるのは、真実に低くなることです。主イエスは「人の子は仕えられるためではなく、かえって仕えるため」(マタイ20:28)に来られたことを強調されたのです。「自分を低くする」ということの説明が、この主イエスご自身のお言葉によって、よく表わされていると思います。仕える者だけが知っている苦しみ、身を低くしたところに見えてくる苦しみを背負うという、主イエスの姿勢の低さが、このお言葉の中に語られているのです。この仕える者「しもべ」として生きられた主イエスの姿、これが地上での主イエスのご生涯を貫く姿勢でありました。主イエスが「自分を低くする者は高くされる」と言われるとき、「私が立っているこの低みに立ちなさい。」と招いておられる言葉なのです。その主イエスの低みに立った時に、そこに神の憐れみの高さ、恵みの深さ、愛の広さが見えてくるのです。主イエスが「低くされる者が、高くされる。」と言われる時、それはこの神の憐れみ、恵み、愛の高さにおいてであるということなのです。それゆえ、今主イエスが求めておられるのは、ご自分が身をもって示して下さり、ご自身がそこに立って、その場所を示して下さる低みに立つことであります。それは主イエスの救いの恵み、罪の赦しという神の憐れみの席に招かれるということであり、そのことだけが自分を低くするということなのです。それ以外のいかなることも、主イエスは私たちに求めておられないのです。
「イエスの真正面に」 ルカの福音書14章1~6節
この日は安息日でした。神を礼拝し、神の祝福と安息とを受ける日です。魂の平安と共に体の安息も与えられる日です。したがって安息日ほど、いやしにふさわしい日はないはずです。それにもかかわらず、律法学者やパリサイ人たちは、主イエスが安息日の戒めを破るかどうかという一点で「みんながじっとイエスを見つめていた。」(ルカ14:1)という異様な光景からルカは14章を書き出すのです。さらにルカはもう一つ異様な光景を書き加えます。「そこには、イエスの真正面に、水腫をわずらっている人がいた。」(ルカ14:2)この箇所を原文で読みますと「主イエスのみ顔の前」「主イエスの真ん前にいた。」と書かれております。考えてみますと、主イエスと真正面から向き合うという、こんな恐ろしいことはありません。罪なき聖なるお方の前では、自分のみにくさ、汚らわしさ、罪深さがいやというほど、顕わにされるからです。人間同士の対面であるならば、自分を偽り、自分の欠点をかしく、相手を自分と比べながら、自分を少しでも良く見せたり、感じたりすることができます。しかし主イエスに真正面から向き合うということは、主イエスと自分とを比較して、どちらがすぐれているかという比較は、とうていできません。ただ主イエスの聖なる光に圧倒されるだけなのです。とするなら主イエスの真正面に座っているこの席は、主イエスによって死へと追いやられる裁きの場なのでしょうか。いいえ自分の罪が最も顕わにされるその場が、主イエスの赦し、恵みをいただく席でもあるのです。「イエスはその人を抱いて直してやり、そしてお帰しになった。」(ルカ14:4)とあります。そのように主イエスはあなたを愛し、罪を赦し、近づき抱いて下さり、「さあ安心して行きなさい。」と声をかけて下さるのです。ですから主イエスの真正面、それは特等席なのです。主イエスがあなたを招いて、そこに置いて下さるのです。あなたにとってそこは、「恵みの特等席」なのです。
「ただ一人の正しい人」 創世記7章1~5節
創世記6章9節から始まるノアの歴史は、洪水の出来事と重なり合うようにして始まります。そのノアの洪水物語に主旋律のように繰り返し出てくる言葉があります。「ノアは、正しい人であって、その時代にあっても全き人であった。」(創世記6:9)創世記の7章では、「あなたが、この時代であって、わたしの前に正しいのをわたしが見たからです。」(創世記7:1)そして、それぞれの段落の終りの言葉も同じ旋律で終わるのです。「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」(創世記6:22)「ノアは、すべて神が命じられたとおりにした。」(創世記7:5)ここに注目すべき言葉があります。「正しい」という言葉です。ではノアの「正しさ」とは何でしょうか。それは洪水の後、最初に彼が祭壇を築いて、犠牲の供え物を捧げた、その姿勢にあらわれております。(創世記8:20)ノアはそこで罪の悔い改めを表明し、その赦しを求める祈りを犠牲とともに捧げたのです。そういう人間として、ノアは神の前に「正しい人」として受け入れられたのです。そしてこの「正しい人」の究極の姿こそイエス・キリストなのです。主イエスは自分が何をしているのか知らない罪人の「罪を赦して下さい。」と、神に祈りつつ自分が犠牲の供え物となって、十字架の死を遂げられました。主イエスは、すべて主が命じられたとおりにされたのです。その姿を見てローマの百人隊長は、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」(ルカ23:46~47)と告白し、神をほめたたえたのです。つまり主イエスの死の姿を見つめることで、自分がいかに罪深い人間であるかを知り、同時にこの方が自分の罪の身代わりに死んで下さったことを知り、主イエスへの信仰を告白し、神をほめたたえたのです。私たちもまた、主イエスの死を見つめ、自らの罪深さを知らされ、主イエスへの信仰が、より深められ、神をほめたたえる者として、主に従ってまいりましょう。
「最後の拒絶」 ルカの福音書13章31~35節
主イエスのご生涯を一言で表現しようとしたら、その言葉は「拒絶」こそがふさわしいことばかと思います。「拒絶」それは主イエスの誕生の時から始まった出来事であり、そのご生涯の出来事そのものであり、そして最後に、この世の主イエスに対する「拒絶」が形となったのが、あのゴルゴダの丘の十字架といえます。主イエスの誕生の時から御子イエスを受け入れなかった人の世は、依然として主イエスを拒み続けております。それがエルサレムという神の都において象徴されていると、ルカは34節で主イエスの嘆きの言葉を書き記すのです。「ああ、エルサレム、エルサレム。…めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」(ルカ13:34)ここで主イエスは親鳥として、ひな鳥をご自分のみ翼の陰に憩うことを願ったのに、エルサレムは拒否したと、深く嘆いておられるのです。「エルサレム、エルサレム」と名を二度も重ねながら嘆いておられるのです。主イエスが「拒絶」され続けてきた影の部分は、たとえようもなく濃いものとしてだんだん太い線となって「預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。」(ルカ13:33)と、十字架の死にまで言及されていきます。その死に向かって、主イエスは「わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、このことは決まっているからです。」という固い決意のことばが語られます。どうして主イエスはこうまで、がむしゃらに前へ前へと進まれるのでしょう。それは最後の「拒絶」に出会うためです。それなくしては、十字架の贖いは完成しないからです。その最後の「拒絶」とは、神からの「拒絶」です。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マルコ15:34)神が神を見捨てる。誰がこの事を理解できるでしょうか。この人知を超えた出来事によって、私たちは赦され、愛され、救われたのです。
「復活―この揺るがぬ事実」 コリント人への手紙第一15章1~11節
キリストの復活、それは私たちの信仰の土台です。そしてそれが、どれほど確かなものであるのか、パウロは、キリストの復活の出来事を通して、はっきりさせたいのです。キリスト教信仰の核心は何でしょうか。パウロは、「『キリストの十字架と復活』である。これが私たちが信じているキリストの福音の中心である。」(コリント第一15:3~5)と語るのです。特に『キリストの復活』は、パウロの個人的な体験と深く関係し、彼の生涯に決定的な影響を与えました。ですからここでパウロは、その個人的な体験を重要なこととして、次のように語り出すのです。「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。」(第一コリント15:8)まさに強烈な言葉で語られています。パウロは自分がキリスト者として生まれた時、どのようにして信仰をもつようになったかを語っているのです。それは未熟児のように生まれたと告白し、さらに「私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。」と、暗い過去を告白します。しかし、その自分を回心させるほどの圧倒的な力が復活のキリストとの出会いにあって、今こうして、キリスト者として生かされいる。それどころか、キリストの十字架と復活を伝える証人となっている。ですから「神の恵みによって、私は今の私になりました。」(コリント第一15:10)と、復活の主が、神の敵パウロを生まれ変わらせた、恵みの力強さを語るのです。パウロはここでキリストの復活について語りながら、実は自分はどうして、キリスト者になったかを語っているのです。『復活』を信じるということは、こんな自分がキリストを信じて生かされている。この事実を語らずにいられなくなるからです。ダマスコ途上で、復活された主イエスとの出会いこそが、キリスを信じる者の迫害者であったパウロを回心させた事実こそ、福音の真実を示す証拠であると、パウロは語らずにはいられなかったのです。私たちもまたキリストの復活を信じることによって、自分が神に赦されて、今こうして生かされている。これは『神の恵み』以外では、証明出来ないということに気付かされるのです。この恵みを知る者にとっては、死人を甦らせることなど、神にとって、易しいことなのです。それゆえ「死も生も…現在のものも将来のものも、わたしたちの主キリスト・イエスにある神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない。」(ローマ書8:38~39)のです。
「信仰の箱舟」 創世記6章14~22節
ノアの箱舟は、水の上を漂い、また流されるままに進むことしかできない、文字通り箱のようなものでした。「こういう箱舟を造り、その箱舟に入りなさい。」それが、神がノアに与えられた命令であり、「ノアは、すべて神が命じられたとおりにし、そのように行った。」(創世記6:22)のです。それは全てを神にお委ねし、その御手の中に全身全霊を委ねたということです。ノアはその信仰に於いて、神に従う人であったのです。 さてその箱舟のサイズは、長さ300キュビト(135メートル)、幅50キュビト(22.5メートル)高さ30キュビト(13.5メートル)です。相当に大きな箱舟です。この箱舟のサイズが、実はソロモンの神殿や、エゼキエルが幻の中で示された再建されるべきエルサレム神殿のサイズと一致するのです。ソロモンの神殿の幅と高さ、エゼキエルの神殿では、幅と長さが全く同じになるのです。ノアの箱舟は、神殿の象徴であり、その雛形なのです。ですから、どんなに大雨で嵐が荒れ狂っても、箱舟の中に入っている者は安全に守られ、平安であるように、早くから教会を表すシンボルとして「舟」が用いられておりました。教会(神殿)に集まる信者たちによって形造られている共同体、集団としての教会を「舟」のように考えたのです。そして昔から教会の人々はマタイの福音書8章23~27節に描かれている、主イエスと一緒に舟に乗っている弟子たちの姿を、自分と重ね合わせながら、自分のこととして読んできたのです。 こうして神殿の象徴としてのノアの箱舟に入っている者が救われたように、新約聖書においては、それはキリストの教会となりました。さらに神が、ノアと結ばれた契約(創世記6:18)に変わって、私たちにイエス・キリストによる新しい契約をお与え下さいました。新しい神殿であるキリストの教会とは、この新しい契約に生きるキリスト者の集まりなのです。その教会が、滅び行くこの世という海原に漂っているのです。そして私たちは「この教会に入りなさい。そこに救いがあります。」と呼びかけ、招き、生きるために、今生かされているのです。
「泥を作って 私の目に塗り」 ヨハネの福音書9章1~12節
本日の本文には盲目の人の話しが書かれています。彼は生まれながらの盲人でありましたが、イエス様に出会い、癒されました。そして、そのイエス様に対して「主よ、私は信じます」と告白も出来ました。本日はイエス様を通して新しい世界を見ることが出来るようになり、感謝している盲人を通して、イエス様はどんなお方であるのかについて考えて見たいと思います。 一つ目に、イエス様は私たちの事を知っておられるお方であります。イエス様と弟子たちは生まれながらの盲人を見ました。すると、弟子たちはイエス様に質問をします。「先生、彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」この質問に対してイエス様は、そうでないと答えられます。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。」イエス様は、この人の苦難は誰かの罪のせいではなくて、神様ご自身がこの人を通して大きな愛を現して下さるためであるという事を知っておられました。 二つ目に、イエス様は私たちに触れて下さるお方です。イエス様は泥を作って彼の目に塗って治して下さいました。これは、創造の御業をともになされた御子キリストであるイエス様が、人を土で造られたその同じ方法で、この盲人に触れられる瞬間であると思います。この盲人に触れて下さるイエス様のみ手は創造主のタッチなのです。イエス様は今も同じ創造のみ力で、限りない愛をもって、私たちをも触れて下さいます。人生を生きて行きながら、自分の苦難を理解してくれる人に出会うことは大きな励ましになります。しかし、人には限界がありますが、イエス様は私たちの力と限界を超えるところまで、私たちを理解して下さり、私たちの心に触れて下さる方であります。このようなイエス様に出会い、そのイエス様の御手に触れられて、苦難の中でも喜びをもって感謝しながら生きて行こうではありませんか。
「恵みへの決断」 ルカの福音書13章22~30節
主イエスのエルサレムへの旅。決して戻ることのないエルサレムへの旅。この主イエスの旅の姿をルカはとても大切な事柄として書きました。「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられた。」(ルカ9:51,53)その旅とは、エルサレムで死ぬための旅でした。(ルカ13:33)ですから、今この時、通り過ぎておられる町や村が、まだエルサレムから遠い所であったとしても、主イエスの旅の目的がエルサレムに向かうものであったと記しております。(ルカ13:22)そのことを忘れたら、主イエスのお姿を私たちは正しく理解することは出来ません。ですからルカは福音書を記すにあたり、急所、急所で主イエスのエルサレムへの旅を書き記したのです。ルカの心にいつもあった思いは、エルサレムとは、主イエスが死に往く場所、死なれた場所であったということです。その旅の途上で「努力して狭い門からはいりなさい(ルカ13:24)というお言葉を契機として、救われることの意味を述べておられます。主イエスがここで私たちに問うておられることは、救われる人数が多いか少ないか、誰が救われるかということではなく、問題は「あなたの救いにあります。あなたが救われるために、今何をするかが問われている。」と主イエスは言われるのです。そして主イエスが最後の日に問われることは、「あなたがたはどこの者か」(ルカ13:25,27)ということです。何を行ったか、何を知っているかではなく、「どこの者」かという、信仰の根拠です。そしてここで語られている狭い門とは、ほかでもなくイエス・キリストその人であることがわかります。狭い門とは、キリストとその十字架です。この十字架の恵みへの決断のことです。そのため主イエスは、私たちの心の扉をたたき続けておられるのです。そうだとすると、心を閉ざし、その招きの声を聴こうとしないこと、それこそが罪であり、「不正を行う者たち」(ルカ13:27)の意味なのです。
「キリストと共に」 エペソ人への手紙2章1~7節
本日のみことばには、霊的に死んでいる事と生きている事が良く説明されています。霊的にと言いましたので、息をしているのかどうかという肉体的な事ではありません。しかし、その霊的状態がやがて私たちに現実として現れるのです。 1-3節では霊的に死んでいる状態について説明します。人は自分の罪過と罪との中に死んでいます。このように霊的に死んでいる人はこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者に従います。そして自分の肉と心の望むままを行ないます。そのような人は、神様を見上げる事も、神様を見つける事も出来ません。そして神様に従う事も出来ないし、死んでいるという表現から分かるように神様に反応する事も出来ないのです。人は罪に対して、そして神様に対して自由ではありません。人は罪から自らの力で逃れる事が出来ないし、自らの力で神様に向うことも出来ない存在なのです。人は罪を犯かさない自由もなくて、自分の意思で善いものを選ぶ事も出来ない状態にいます。それが霊的に死んでいる人の姿なのです。 しかし、4節からはそのような人に希望が見え始めます。このような死の状態にあった私たちを神様が憐れんで下さったと言います。そして神様ご自分の愛によって救いを与えて下さったと言います。このように、4-7節では神様の憐れみと恵みによって、死んでいた人にいのちが与えられた事について説明します。神様は私たちをキリストとともに生かし、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせて下さいました。その目的は「あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるため」であります。 神様の豊かな恵みに感謝し、私たちが救われたという事には神様の大きな目的があるという事を覚えなければなりません。私たちを通して栄光を受けられ、そしてご自分の豊かな恵みをお示しになる神様を覚えたいと思います。
「広がりゆく神の国」 ルカの福音書13章18~21節
枯れ枝に烏とまりたりや秋の暮 松尾芭蕉 ある人がこの句を英語に訳そうとして、はたと困ったそうです。枯れ枝に止まっているカラスは、一羽であるのか、何羽もいるのか、わからなかったからです。日本人ならこの句は寂しい句ですから、群がって止まっているとは誰も考えないと思います。さて本日の福音書の譬話では、空の鳥が一羽だけ止まっているのではないのです。沢山の鳥が止まっているのです。原文では空の鳥は複数形です。つまりやがて主の下に憩うことができる、もろもろの世界の民を、ここですでに言い表しているのです。蒔かれた福音の種が、いつの間にか成長して、気がついた時には驚くような広がりを見せていることを示しています。またパン種の譬は、イースト菌が次第に力を表し始めるように、神の支配が世界中に及び、その影響を受けない処がないことを教えています。「全体がふくれました」(ルカ13:21)ということは、パン種がその形を失い死滅したことを意味します。そしてこのことは、まさに主イエスのご生涯を語ってはいないでしょうか。「パン種」「からし種」は何よりも主イエスご自身の働きのことを意味しているということです。主イエスの救い主としてのお働きは、ユダヤの地で、その活動期間は3年です。主イエスの影響を受けた人々の数は多くありませんでした。古代の歴史書には、その名が記されず、全く無名の存在でした。多くの業績を称讃されたローマの皇帝たちに比べれば、全く無きに等しいものでした。しかしキリスト教は、今や地の果にまで広がったのです。そしてそれは、イエス・キリストが福音という「からし種」を、あなたの心の庭に蒔かれ、「パン種」を、あなたの心の粉に入れられた時、もはや誰も制止できない、キリストの御業が始まったことを示しているのです。そのことは、今、私どもが集まり、一つの群れとして、ここに礼拝を守り、神を讃美する姿において、最もよく現わされているのです。