「柔和な者」 マタイの福音書5章5節
本日の聖書は八つの祝福の中で三つ目、「柔和な者」についてです。柔和と言いますと、優しい人、親切で落ち着いた雰囲気の人、または何かゆったりした人のイメージがあります。このように柔和な人とは、人と人の関係において角立たないで丸い性格であって、他人の考え方を尊重し、相手が置かれている状況を良く理解してくれる人のことだと言えるでしょう。このような外側の姿は何処からのものでしょうか。聖書において柔和というのは、神様との関係から説明されています。即ち、自分の思いではなく神様に委ねて、そのみこころに従って歩む者、その神様の導きを待ち望む者を柔和な者だと教えます。ですから神様との正しい関係の中から、全てを神様に委ねた結果、その神様への信頼から外側に現れる姿が柔和なのです。
このような柔和な人については詩篇37篇によく描かれています。柔和な人は悪者に取り囲まれている状況の中でも、ただ神様を信頼し、その状況を耐え忍びます。自らの力で解決しようとするのではなく、神様に委ねて主を待つ者として説明されています。特に詩篇37篇は「ダビデによる」と書かれていますが、自分を殺そうとするサウルに対するダビデの姿を通して柔和な姿を見ることが出来ます。ダビデはサウルのことを自らの力で解決しようとするのではなく、耐え忍んですべてを神様に委ねました。そして柔和な生き方の最高の模範はイエス様が残して下さいました。すべてを正しく裁かれるお方に委ねて、ただ神様が喜ばれることに従って十字架への道を歩まれた、その姿が柔和な生き方なのです。
イエス様の柔和な姿を模範にして、どのような場合でも耐え忍び、神様だけを信頼し、全てを委ねて神のこどもとして歩んで行きたいと思います。クリスチャンとして神様との正しい関係の中で、自分の貧しさを正しく認識して、他人に対しては愛と忍耐と親切をもって行なう者になりたいと思います。
「聖霊に満たされる」 エペソ人への手紙5章18-21節
前回は「賢い人のように歩む」ことについて学びました。神様が聖書を通して私たちに教えて下さることを良く悟り、それを正しく守り行なうことが勧められていました。しかしそのように教えられて生きて行く私たちの生き方はどうでしょうか。聖書を読んでみことばを正しく学び深く理解したとしても、その通りに歩んで行くというのは、本当に難しいと思います。確かに、聖書を通して教えられたことを心に覚えてそれに従って歩んで行こうしますが、中々そのように歩んで行けない自分の姿を見る時があると思います。そのような私たちに本日の聖書は「聖霊に満たされなさい。」と教えています。
先ず「酒によってはいけない。そこには放蕩があるから」と書かれていますが、「酒に酔う」こととは何でしょうか。それは酒にびっしょり濡れている状態であって、酒の影響力によって自分自身を良くコントロールできない状態のことです。それによって自分の意志とは関係なく肉の欲に従って行なうようになります。そしてそのように酒に酔っている状態に「放蕩がある」とパウロは言います。「放蕩」とは、放蕩息子の例え話で良く説明されているように、息子が父親のそばから離れて自分勝手な生活をすることです。特にルカの福音書では「遠い国に旅立って」と書かれていますが、息子が父親の元から意識的に離れて父親を忘れて生きている状態のことです。ですから酒に酔うということは酒に支配されてしまうことなので、神様から離れて放蕩することになるのです。
それに対してパウロは「聖霊に満たされなさい。」と語ります。聖霊はクリスチャンに神様について、イエス様について教えて下さいます。その聖霊に満たされて導いて下さるまま歩むなら、クリスチャンは神様に親しく近付くことが出来るのです。神様から離れて自分勝手に生きて行くことではなく、聖霊に満たされてその導きに従って、神様のみこころのままに歩んで行く者になりたいと思います。
「悲しむ者」 マタイの福音書5章3-4節
本日の聖書はイエス様の山上の説教の初めに出て来る「幸い」についての中で二つ目です。その4節は次のように言い返すことが出来ます。「何て幸いなんだ。悲しむ者よ。その人は慰められるから」ここでイエス様は「悲しむ者」に対して「何と幸いなんだ」と仰います。このようなイエス様のことばは、普通の私たちの常識では理解し難いものでしょう。この世の考え方では、悲しむ者は幸いどころか、むしろ不幸な者です。
それでは「悲しむ者」とは、どういう意味でしょうか。それは神様の御前での自分の霊的状態を知り、その姿を悲しむ人のことです。私たちは神様の計り知れない恵みと愛を頂いている者です。そのような私たちが、神様に対して神様の民として相応しくない自分の姿を知るようになった時、私たちは悲しむと思います。神様の大いなる恵みを愛の中にいる自分が、その御前において生きて行く姿を振り替えて見た時、その罪深い姿を知って悲しむことです。ですから「悲しむ」ということは、「心の貧しい」ことから必然的に来るものです。神様の聖さを知り、そのような姿を私たちにも求めておられますが、それに対して貧しい自分の姿を見る時、その人は悲しむのです。そのような自分の弱さをパウロはローマ7章18節で「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。」と語り、その心境を7章24節では「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と言っています。
そのように自分の罪深さや弱さを知って悲しむ者に対してイエス様は「幸いな者です」と仰って下さいます。それは、その悲しみは決して悪いことではないということでしょう。私たちが自分の弱さを知った時、そのまま悲しんで良いと言うことです。何故なら、そのような人は慰められるからです。神様は自分の弱さによって悲しむご自分の民を責められるお方ではありません。限りない愛をもって私たちを顧みて下さり慰めて下さる神様を覚えたいと思います。
「賢い人のように歩む」 エペソ人への手紙5章15-17節
前回、光の子どもとなった私たちはその姿に相応しく光の子どもらしく歩まなければならないということについて考えて見ました。それに続きまして「賢い人のように」歩まなければならないとパウロは勧めています。それでは賢い人とは、どういう人なのでしょうか。本日の本文は「そういうわけですから」という表現で始まっています。というのは、今まで説明して来たように、賢い人は光の子どもらしく歩む者です。また、パウロは「よくよく注意し」なさいと語ります。「注意する」という言葉は、「全てを集中して、そのことに関心をもって見なさい」という意味です。そうしますと、パウロは「光の子どもとなったあなたがたは、あなたがたがどのように歩んでいるのかを注意深く見なさい」ということになります。
そして「賢い」とは、すべての知識などを活用して置かれている状況に適用して用いる事ができる力です。賢い人のように歩むということは、神様が私たちに与えて下さり、教えて下さったことを自分の人生の中で実践して行く事、それが賢い人のように歩むことなのです。ですから、私たちが聞いた事、知っている事、そして私たちに与えられた事を自分の人生の中でどのように用いることができ、歩んで行くことができるのか、それをよくよく注意しなさい、という事です。そのために「機会を十分に生かして用いなさい。」と、そして「主のみこころは何であるのかを、よく悟りなさい」と勧めているのです。
私たちは、自分たちが光の子どもらしく賢い人のように歩んでいるかどうか、自分の姿を良く注意して見なければなりません。このような勧めを覚えて、私たちのこれからの生涯の行ないに主の教えを適用して歩んで行きたいと思います。そうして、私たちの良い行ないを通して、真実と愛の歩みを通して、そして、光の子どもとしての歩みを通して神様の栄光を現わす者になりたいと思います。
「光に照らされて」 エペソ人への手紙5章11-14節
本日の聖書では光の子どもとしてのクリスチャンの役割について教えています。以前5章8-10節では、暗やみから主にあって光の子どもとなったクリスチャンがどのように行なうべきであるかについて学びました。それは光の子どもらしく歩み、そのために主の喜ばれることが何かを見分けて従いなさいということでした。その後、パウロは光の子どもとなったクリスチャンが周りの人々に対してどのような姿を取るべきであるかについて教えます。それは、クリスチャンとして生きているところは救われる前と同じくこの世の中であるからです。ですから、私たちは光の子どもとして信じない人々に対してどのような態度を見せるべきであるか、そしてその関係はどういうものであるかについて説明しているのです。
先ず、光の子どもらしくその光を隠したりすることではなく輝かしく照らして、光としての役割を十分に果たしなさいと勧めます。たとえどんなに小さい光であっても、たとえすぐに消えてしまいそうな光であっても、この世の暗やみの中にいる人々にあなたがたの光を照らしなさいということです。何故ならそれによって、その暗やみが明るみに出るからです。そのようにクリスチャンが光の子どもらしく行なうことによって、その暗やみが光に照らされて、それがみな明らかにされるのです。暗やみの中では何が正しいのかということさえも分かりません。そんな暗やみに光が照らされれば、その光によって暗やみの実体が明らかになるのです。神様は私たちを光の子どもとしてくださり、暗やみの世の中でその光を放つようにしてくださって、私たちを通して神様の恵みと愛をこの世に広げてくださるのです。
ですから私たちは、もう一度、それぞれの生き方が光の子どもとして歩んでいるか、そして光の実を結んでいるかを振り替えて見なければなりません。神様は暗やみであった私たちを光の子どもとしてくださいました。真の光であられるイエス様に照らされてその光を照らす者となりたいと思います。
「心の貧しい者」 マタイの福音書5章1‐4節
本日の本文は、クリスチャンが神様の子どもとして幸せであるということを最も立派に教えているところです。この部分を含めてマタイの福音書5-7章を山上の説教と言いますが、イエス様が天の御国の民が持つべきこころについて詳しく説明して下さった内容です。この山上の説教は、イエス様がこの時、一気に教えて下さったものではなく、著者マタイがイエス様の教えを集めまとめて記録したものです。それは、イエス様の教えの本質がどういうものであるのかを、マタイの福音書の初めの部分にはっきりと示そうとしたものだと思われます。
その教えの一つ目は「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」ということです。この文書は、原文では「幸いだ」という言葉が冒頭に来ていて「何と幸いなのか」という感嘆文です。即ち「何と幸いなのか、心貧しい者よ。」となります。そして誰が幸いなのかと見ますと「心の貧しい者」だと言われています。心豊かなものではなく心の貧しい者が幸いだと、イエス様は言われました。この「心の貧しい者」とは、神様の御前で、或いは神様に対してその心、つまり魂が貧しい人ということです。神様に対して、その魂が貧しい人というのは、神様の教えと戒めを全く、何一つも守り従う事が出来ない人ということです。
そういう人に対して如何して幸いだと言えるでしょうか。人間の心は罪によって堕落し、神様に対して何も出来ないものです。イエス様はそのような状態にある罪人に来られて「幸いだ」と仰ってくださるのです。何故なら、何も出来ないほど貧しい心をもっている者に、天の御国をその人のものとして与えようとしておられるからです。私たちは本当に心の貧しい者です。神様の御前で、その教えを分かっても守り従う事が出来ない貧しい者です。そのような自分の心の貧しさを覚えて、私たちに幸いですよと仰って下さり御自ら犠牲を払って天の御国を与えて下さったイエス様の大きな愛を覚えたいと思います。
「光の子どもらしく歩む」 エペソ人への手紙5章7-10節
本日の本文でパウロは、エペソ教会の聖徒たちに彼らの変った状態、身分について語っています。それは、以前は暗やみであったが、今は主にあって光となった、ということです。このように暗やみと光を対比して、以前と今との変った状態を説明しているのです。クリスチャンである私たちは、以前は暗やみでありましたが、今は光となって、私たちは光の子どもであるということを覚えなければなりません。私たちが置かれている環境は、私たちが光となったという事実にはどんな影響も与えることが出来ません。私たちが神様の恵みによって、主にあって光となったという事実は変わらないことであります。
その後「光の子どもらしく歩みなさい」とパウロは勧めます。まず、光の子どもらしく歩むというのは、本文の9節に書かれていますように、「光の結ぶ実」が私たちの生き方に見えるのか、を持ってチェックする事が出来ます。「光の結ぶ実」、即ち、「あらゆる善意と正義と真実」が生き方を通して現わされているがどうか、通して聖徒自身の信仰の歩みを振り替えて見なければならないと言う事です。そして積極的な勧めとして「そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」と言います。これは8節からの内容を考えて見ますと「光の子どもらしく歩むためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。」ということになります。神様が喜ばれることは何かを知り、そのために生きて行く事はクリスチャンのみに、与えられた大きな特徴の中で一つです。と言うのは、神様が喜ばれることが何であるかと見分けることは神様の子どもだけに許されることであるからです。
私たちは神様の恵みによって、暗やみから光となった者であることを覚えて、光の実を結び、神様が喜ばれることが何かを見分けて生きて行く者になりたいと思います。それで、光の子どもらしく歩んで行く者になりたいと思います。
「美しの門での出来事」 使徒の働き3章1節~8節
志賀キリスト教会牧師 青木稔
私たちの人生には「キッカケ」というものが必要な時があります。自分は不幸だ、みじめなだと思っている方が、辛いのは自分だけではないと知りますと、その人は、どうやって苦しみや悲しみを乗り越えることができたのだろうかと、ほんの少しだけ出口が見えてくるように考えるからです。たとえ見えてこなくても、出口があるかもしれないと、期待と希望を持つことができるなら、そこから、新しい人生が始まるのかも知れません。
本日の聖書箇所に登場します、生まれつき足のきかない男にとりまして、ペテロとヨハネとの出会いは、まさに人生を新たに歩み出す「キッカケ」となる出来事でした。
ペテロは大胆に「私たちを見なさい」と言いました。生まれつき足のきかない男性に「キッカケ」を与えようとしたのです。その言葉に男性は期待してペテロたちを見つめました。
「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」
ペテロは物乞いをしていた男を、上から見下げて「あなたにはイエス・キリストが必要だ」と命令のように語ったのではありません。ペテロ自身も貧しい者であることを認めて「金銀は私にはない」とへりくだり、同じ立場で物乞いをしている男に語りかけたのです。それは「金銀は私にもない」つまり「わたしもあなたと同じだ」という意味でした。
ペテロは祈り人であり、自らの弱さや貧しさを認め、と同時に、そんな自分を愛して生かして下さる、キリストの恵みを味わい知る人でもありました。ですから、自分と同じように弱さや乏しさに苦しむ人に、イエスの御名、その愛と力を知ってもらいたいと、福音を宣べ伝える者として、多くの人をキリストの救いに導くことが出来たのです。
新年を迎えて、私たちもペテロと同じように、弱さと貧しさを満たして下さる、イエスの御名によって祈り、キリストの愛に生かされて、福音を宣べ伝えてまいりましょう。
「水と御霊によって新しく生まれる」 ヨハネの福音書3章1-15節
本日の聖書は「ニコデモ」という人物がイエス様に訪ねてきた話しです。ニコデモは聖書についても良く知っているし、社会的にも多くの人々から尊敬される人物であったし、経済的にも豊かな生活をしていました。そのような彼が夜、イエス様のところに訪ねて来ましたが、イエス様とニコデモとの会話を通して新しく生まれることについて考えて見たいと思います。
先ず、新しく生まれるということは漸進的に変わる事ではあります。Ⅱコリント5章17節に「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と書かれている通りです。漸進的に変わって行くことは改善ですが、クリスチャンは新しく造られて新しくなるのです。それでは誰が新しく生まれなければならないでしょうか。ニコデモは「パリサイ人」であり、「ユダヤ人の指導者」であると紹介されています。そこからニコデモはユダヤの宗教的政治的指導者であり、非常に高い地位の人であることが分かります。また、ヨハネの福音書19章から、彼はお金持ちであることも知ることができます。このようにニコデモは聖書についても良く知っているし、社会的にも多くの人々から尊敬される人物であったし、経済的にも豊かな生活をしていました。そのようなニコデモも新しく生まれなければならないのです。そして何故新しく生まれなければならないのでしょうか。それはすべての人々は罪人であり、その罪人が新しくされなければ神の国を見ることも入る事もできないからです。それではどのように新しく生まれることが出来るのでしょうか。それは「水と御霊によって新しく生まれる」ことができるのです。
聖書について良く知っていますが、教会に長年来ていますが、教会で色々な奉仕をしていますが、御霊によって新しく生まれてない人もいます。そのような方には、御霊によって新しくされる祝福が与えられますように心から祈ります。そしてすでに、その祝福を頂いた方は、神様の恵みと愛を覚えて感謝する者になりたいと思います。
「御国への希望」 エペソ人への手紙5章3‐6節
本日の本文でパウロが語っている内容は、早く読み終えて次に行きたくなるところです。しかしパウロは、あえてこのような勧めをしているということを覚えなければなりません。すでに3章の方で出て来た内容でもありますが、それでもこのように繰り返しているというのは、それほど大事な事であり実践するのに難しいことであるからです。目をそらしたくなる内容ですが、聖徒として私たちが徹底的に捨てなければならないことを確認し、本文を通して私たちに希望を与えて下さる神様を見上げることができるようにと思います。
先ず、パウロは「口にすることさえいけない」ことについて説明します。この3節、4節に並べられていることは、この世の姿であるとも言えるでしょう。時に、当時のエペソという異教の社会では日常生活の中で見ることができる姿です。しかしエペソ教会の聖徒たちは、そのような過去の姿から神様に選ばれて区別されました。それが聖徒という意味です。彼らは、もはや神の国のものであって、神様に愛される神様の子どもとなったのです。ですから聖徒にふさわしく、過去の罪の姿は捨てなければならないということです。それを行なわないだけではなく、それを口にすることさえいけないとパウロは教えているのです。何故なら、「アリの穴から堤も崩れる」ということわざのように、ほんの小さいものであって、それによって全体が崩れ得るものであるからです。
ではどうしたらいいでしょうか。先ず、私たちは聖徒として「私は聖徒だ。私が神様によって選ばれて区別された者だ。私はこの世から区別されて神の国に属している者だ。」ということを覚えなければなりません。そして、そのような恵みを与えて下さった神様に感謝するのです。感謝するということは、神様がなして下さることが素晴らしいと思う事です。そしてそのことに満足して、それに相応しく行なうことです。神様がなして下さったすべてをありがたいと思って、残り僅かの2015年を感謝したいと思います。そしてその感謝を持って新しい2016年を歩み始めたいと思います。