「主の教育と訓戒」 エペソ人への手紙6章1-4節
本日は前回に続いて親たちへの教えについてです。その4節を見ますと「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」と書かれています。
先ず、親は「子どもをおこらせてはいけません」とありますが、ここで「おこらせる」というのは、相手を人格的に無視し非難して、失望させるという意味です。即ち、親として子どもの心に傷を与えたり人格的に無視したりしてはいけないということです。子どもにとって無理な事を押し付けるのではなく、親は子どもたちの話しに耳を傾けて、その子どもの行動の背後にある思いや考え方を理解出来るように努力しなければなりません。愛情深くて理解心豊かな親の励ましは、子育てにおいて非常に重要な事だと思います。
そして4節の後半を見ますと「かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」とあります。この世の価値観や一般的な常識によることではなく、主の教育と訓戒によって育てなければなりません。ここで「主の教育と訓戒によって」というのは、言い換えれば「聖書によって」という事です。即ち、親は子供たちに聖書を教えなさいということです。子どもたちは親に与えられた神様からの賜物です。親は神様から子どもたちに聖書を教えなければならない責任を頂いたものであるということを忘れてはいけません。
また、「主の教育と訓戒によって」という言葉には、主ご自身がして下さるという意味もあります。子どもたちの教育を主に任せて、主ご自身が子どもたちを教えて下さり、導いて下さることを祈り求めなければなりません。神様に頼り助けを求めて、親として深い理解心と愛をもって子どもたちを育てて行く事、これがクリスチャンの親に与えられた責任であるのです。
私たちは誰かの子どもであり、親、あるいはそのような立場にいます。私たちに与えられて親への教え、子どもへの教えを覚えて神様のみことばを証しして行きたいと思います。
「世の光と塩」 マタイの福音書5章13-16節
今まで5章3-12節の教えを通して、クリスチャンはどのような者なのか、どういう特徴を持っているのかという事について学んで来ました。それに続く本日の本文では、そのような特徴持っているクリスチャンがどのように生きて行くべきなのかということについて教えています。その中で「あなたがたは」ということが強調されています。その「あなたがた」とは、5章3-12節で教えられているイエス・キリストに似た者の事です。即ち、イエス様の教えに従ってクリスチャンとしての特徴を持って生きて行く時、その人の生き方がこの世で塩と光として現れるという事です。
先ずは、塩としての役割についてです。塩は基本的に腐ることを防ぐ働きをします。肉や魚に塩をかけて置けば、その塩が染み込んで肉や魚が腐敗する事を防ぐことが出来ます。罪によって腐敗したこの世の中で、私たちクリスチャンのその塩としての役割を果たさなければなりません。イエス様が教えて下さった事に従って生きて行く姿、この世の中で生きていますが、いつもイエス様に繋がって、その教えに従っている姿がこの世での塩気をきかせる生き方なのです。次に光についてですが、光は暗やみの中で周りを照らして明るくする役割があります。特にイエス様は、あなたがたこそがこの世の光ですと仰います。イエス様の教えに従って生きて行く者、そのような人がこの暗やみの世界の光であるという事です。クリスチャンとして、その教えて徹底的に従って生きて行く時、その光がこの世で明らかに輝くようになるのです。
私たちは誰かの塩としての役割によって、誰かの光に照らされてキリストに導かれ、やがてクリスチャンになりました。そして今度は、そのようにあなたがたが誰かのために光を放つ者となりなさいと教えられています。山上の説教でのイエス様の教えを良く覚えてその教えに従って、世の塩と光として生きて行きたいと思います。そのようにして、この世の塩と光としての役割を十分に果たし神様に栄光をささげる者となりたいと思います。
「従順と尊敬」 エペソ人への手紙6章1-4節
6章に入って、新しく親と子どもとの関係について説明しますが、その中で忘れてはならないものがあります。それは5章18節の後半で語った「御霊に満たされなさい。」という、そして22節の「キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。」ということです。その流れの中で親と子どもの関係についても説明しているのです。ですから、この親と子どもの関係においても、まず、御霊に満たされた者、キリストを恐れ尊ぶことが前提としてあって、親と子どもの関係が説明されるわけです。
先ず、子どもたちに親に従い、敬いなさいと教えます。ここで「従う」という言葉は、相手の話しを良く聞く、または、傾聴する姿を表わします。そして2節の「敬う」とは、戦いでの功績を褒めたたえるという意味の言葉です。そのような意味から「親の価値を認めなさい」という意味で使われたと思います。ですから、1節の「従いなさい」というのは、外側に表われる外面的な態度、即ち、親の話しなどに耳を傾けて傾聴する姿を表わすことです。そして「敬いなさい」というのは、内面的に心や思い等を説明したことです。ですから親の話しに傾聴し、その話しに価値を置いて、心からその話に従わなければならないということです。
何故なら「これは正しいことだからです。」即ち、神様が与えて下さった秩序であり神様が喜ばれることであるから、子どもは親に従わなければならない、という事です。また、それは神様の約束を伴った戒めであるからです。特に「父と母を敬え」というのは、人間関係に関する戒めの中で非常に重要なものであり、神様が約束を与えて下さる程守ることを求めておられる戒めなのです。
かつては不従順な子らであった私たちですが、今は神様の恵みによって神様を敬い従う者へと変えられました。そしてその変化は、一番近い人間関係である親子の関係の中で親を敬い従う姿を通して現れるのです。神様の子どもとしてその教えに従う喜びを持って、親を、そして他の人々をも敬い、従い合うものとなりたいと思います。
「喜び踊りなさい」 マタイの福音書5章10-12節
本日は八つの祝福の中で八つ目、その2回目になりますが、今日もイエス様は、私たちに「何て幸いなんだ、義のために迫害さえている者よ。」と語りかけて下さいます。ところがこの「義のために迫害されている」という言葉には、すでに私たちが義と認められたという事が含まれているのです。本来、私たちは心の貧しい者でした。自分の心に義ということは何一つも持ってない者であって、その貧しさを悟り、それによって悲しむ者でありました。それで義に飢え渇いた者として神様にその義を切に求める者でありました。そんな私たちが、今やその義のために迫害されている者にまでなったのです。何と驚く変化でしょうか。
このように変えられた私たちですが、義のために迫害されるという事はどういうことでしょうか。そこでイエス様は「わたしのために迫害される」ことだと説明して下さいます。それは、イエス・キリストに似たためにと言い換えることが出来ます。即ち、イエス様を信じてイエス様の義を求めて、その義に従って生きるために迫害されることです。それは人間の力ではできないことであって、神様の力によって生まれ変わった神様の子どもである記しであるため、義のために迫害されているあなたがたは幸いですよ、ということです。
そしてその迫害は、私たちが至るようになるところ、将来私たちに与えられるものを教えてくれるので「喜びなさい。喜びおどりなさい。」と言われているのです。私たちが受けている迫害、置かれている苦しみや悲しみ等は全て一時的な事です。全ては過ぎ去って終わりがあります。そして私たちには天の報いが約束されていますし、それも私たちの想像をはるかに超える報いが与えられると約束されているのです。私たちは今何を、何処を見て生きているでしょうか。神様の約束を覚えて、私たちの前に置かれている信仰の道を喜びながら、喜びおどりながら歩んで行く者となりたいと思います。
「夜明けの岸辺に立つ主イエス」 ヨハネの福音書21章1節~14節
志賀キリスト教会牧師 青木稔
私たちの人生において、誰もが避けることのできないもの。それは「死」ということです。私たちは、死に対する不安や恐れ、何か不気味なものとさえ感じてしまうことがあります。なぜでしょうか。その一つは、自分は正しいこと、良いことばかりをしてきたわけではない、あんなこと、こんなこともしてしまった、だから、そのことで神の前に出るとしたら困るという気持ちを、心のどこかに持っているからではないでしょうか。
その不安や恐れ、更には、悲しみを慰め癒すものがあるとすれば「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と約束して下さった、イエス・キリストのことばを信じることです。キリストの救いとは、天の御国に続く、永遠のいのちと、そこでの再会という希望が与えられるからです。
イエス様と弟子たちの関係も、十字架に死によって一度断ち切られてしまいました。弟子たちは途方に暮れ、孤独を感じ、恐れと不安の中にありました。その弟子たちが、復活の主イエスと出会って慰められ、なげきが喜びに変わり、不安と失望の中に、主にある平安と希望の光が与えられたのです。
私たちの人生にも、この復活の主イエスとの出会いが必要です。イエス・キリストと自分の関係が、死を乗り越えたリアルなものとなる時、そこに生きる希望と、死をも恐れず生きることが出来るからです。
岸辺に立たれた主イエスは、今日も私たちに「子どもたちよ」と優しく声をかけ「舟の右側に網をおろしなさい。」わたしの言葉を信じて従ってみなさいと語っておられます。ご一緒に、主のお言葉に聞き従って歩んでいきましょう。主は、あなたを愛していますから。
「愛と敬い」 エペソ人への手紙5章31-33節
今まで夫と婦の関係を説明して来たパウロですが、そこにはいつもキリストと教会の関係がともに出て来ました。それはこの二つの関係が非常に密接であるからです。そのことについて今度は創世記2:24のみことばを引用して、この二つの関係の深さについて説明して行きます。そしてその夫婦の関係について「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。」と語っています。即ち、創世記2:24の神様のみことばは、夫婦関係についてのみことばでありますが、それにはより大きな奥義が隠されているということです。そして、その奥義とは、男と女が出会って結婚する夫婦関係が、キリストと教会との関係と同じであるということです。そしてそれは究極的にはキリストと教会との関係をあらかじめ表して下さったみことばであるという事です。
とすれば、創世記でのアダムの喜びの告白は、キリストの喜びを表わすこととして理解する事ができて、イエス・キリストが教会に対して「私の骨からの骨、私の肉からの肉」と話して下さる事として理解することが出来ます。キリストは、このような喜びをもって聖徒たちを愛して下さり、教会を養い育てて下さるのです。
このようなキリストと教会との関係を通して、私たちの夫婦関係を振りかえて見ることが出来ます。そして夫が妻を思う時、妻が夫を思う時、その愛の基準と従順の基準は何かというところで、パウロはそのすべての基準をキリストと教会の関係に置いて説明しています。愛するということは、キリストが教会のためにご自分のすべてをささげて下さったのと同じように、そして敬うということも教会がキリストを恐れ尊んで従うようにということです。私たちは、良く、相手が変わると私も代わり、より良い夫婦関係になれると思います。しかし、考えて見ると、相手もそのように思っていて、そのような夫婦関係は変わりにくいと思います。いつも、愛と従順のことを覚えて、自分自身にみことばを適用して、愛し、尊敬する者になるようにと願います。
「迫害されている者」 マタイの福音書5章10-12節
本日は、10節を中心として考えて見たちと思いますが、八つの祝福の最後の八つ目です。特に、この八つ目の祝福の約束は一つ目の「心の貧しい者」に約束されている祝福と同じです。このように八つの祝福は、天の御国から始まって天の御国で終わりますが、それはイエス様が八つの祝福を通して教えてくださることは、天の御国の民として生き方であるという事であるからです。
先ず、本文の内容に入る前に確認すべき事がありますが、それはクリスチャンにおいて迫害という事は不可欠な部分であるという事です。それは旧新約聖書の中でも非常に重要な教えであって、実際に信者の迫害、苦しみに関する内容も多いです。そして福音書に記されているイエス様の生涯、そのものも迫害でありました。そして新約聖書の多くの手紙も迫害の中にあるクリスチャンに送られたものです。ですから迫害ということについて、神様の教えに従って生きて行こうとする者であれば、あって当然であるという認識を持つべきだと思います。
それでは「義のために迫害されている者」とは、どういう者でしょうか。ここでイエス様は迫害の理由を「義のために」と明確に教えて下さいます。それは神様の義であって、この世の正しさや道徳や倫理という事ではありません。また、信者そのものから出て来る姿や行ないという事でもありません。ただ、キリストの故に受ける迫害であり、キリストに似た生き方をしていることの故に受ける迫害です。ですから、私たちは、私たちが本当に義のために迫害を受ける程に、クリスチャンとしての生き方をしっかり生きているかどうか、良く考えて見なければなりません。何故なら、義のために迫害を受けることは、何よりもその人が神様の教えに従って生きているものであり、天の御国の民であることの証しになるからです。今日も信仰の弱い私たちに、義のために迫害されている者は幸いですと仰って下さるイエス様の教えを心に覚えて、天の御国の民に相応しく生きて行きたいと思います。
「自分と同様に愛する」 エペソ人への手紙5章29-33節
今日の本文は28節の御言葉をより具体的に説明する内容で、自分のからだを愛することがどういうものなのかという内容です。先ず、29節の前半で「だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。」と言います。これは私たちが良く知っていることです。どんな人でも自分を憎む人はいません。自分を憎むのではなく、逆に自分のからだのために良い物を与えて養い育てます。
その養い育て方とは、親がこどもを養い育てる姿です。子どもに対する親の愛情深い世話、そのような育て方を通して子どもは正しく成長することができます。また、自分のからだについても、子どもに対する親の愛情をもって自分のからだを世話することは自然な姿であり、そうする時、私たちのからだも正常に成長し活動することが出来るのです。そしてパウロは、再び、キリストと教会との関係について語り始めますが、特に、この29節のみことばを通して、イエス・キリストが教会を養い育てて下さることが分かります。それはまるで、父と母が子どもに向かって深い愛情をもって養い育てるように、キリストが教会を養い育てて下さるということです。このみことばから、教会についての大きな励ましを頂く事が出来ると思います。当然、「教会」と言っているので、どんな教会であろうが、その教会をキリストが養い育ててくださいます。何故なら、私たちはキリストのからだの部分であるからです。
誰も自分の体を憎む者はいないと思います。逆にその体を大切に養い育てるのです。ですから、夫は自分の妻を自分の体のように愛情深く養い育てなければなりません。そしてキリストは教会のかしらであり、そのからだである教会を養い育てて下さいます。私たち一人一人がキリストご自身が守山キリスト教会を、そして私たちを養い育てて下さるということを心に覚えて、その限りない愛に励まされて歩んで行きたいと思います。
「平和をつくる者」 マタイの福音書5書9節
本日の本文は、八つの祝福の七つ目「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子と呼ばれるからです。」ということです。この八つの祝福というのは、神の民の特徴であると申し上げました。即ち、神さまを知らない人々からは見ることが出来ない姿であるとい事です。そうすれば、生まれつきの人間の姿は平和をつくることではなく、その反対のことになります。本来は敵意をもって相手に対して戦いを仕掛ける存在でしたが、その人が生まれ変わることによって平和をつくる者となったということになります。
その敵意とは誰に対する敵意でしょうか。先ずは、神さまに対する敵意であって、それは偶像崇拝という積極的な姿で現れるものです。そんな私たちをイエス・キリストがこの地に来られて十字架にかかって死んで下さったことによって、神さまを和解させて下さったのです。ですからキリストを信じる者は、もはや神様との敵対の関係にいるのではなく平和の関係になりました。また、キリストは水と油のような人間関係をも新しい関係に造り変えて下さったのです。一つとなることができなかった関係の隔ての壁を壊して下さり、一人の人にして下さったのです。このように私たちはイエス・キリストによって神様との関係においても、人と人との関係においても平和を得るようになったのです。ですから、もはや敵対ということはなくなり、もっていられなくなったのです。
それでは私たちに与えられた平和を保ち、そして平和をつくる者として生きて聞くためには如何すれば良いでしょうか。先ずは、その平和の関係が壊れないように最善を尽くして守らなければなりません。そして自分から赦しを求め、相手を赦してあげなければなりません。イエス・キリストがご自分の神としての特権をお捨てになって、私たちのために人としてこの地に来られ、死んで下さった事を覚えなければなりません。そのキリストの心に学び、平和をつくる者として歩んで行きたいと思います。
「自分の体のように愛する」 エペソ人への手紙5章26-28節
前回は5章25節のみことばをもって「愛する」ということについて学びました。特にパウロは夫への教えを始める最初に、愛についての考え方を新たにして教会のためのキリストの愛に焦点を集中させました。そのようにキリストが教会を愛して下さったことについて語ってから、その愛がどういうものであるのかを説明して行きます。即ち、本日の本文ではキリストの愛、その理由と目的について説明し、そのキリストの愛のように夫も自分の妻を愛しなさいと勧めているのです。
先ず26節と27節ではキリストが教会のためにご自身をささげられた理由と目的を教えています。25節で「教会のためにご自身をささげられた」とありますが、キリストがそのようになさったのは「教会をきよく聖なるものとするため」です。そしてそのようになった教会を「ご自分の前に立たせる」ために、キリストは喜んでご自分を教会のためにささげられたのです。そこに教会のためのキリストの愛が現わされているのです。即ち、教会のためにキリストの犠牲がありましたが、そのキリストの犠牲によって教会はきよく聖なるものとなったのです。それは、つまり教会がきよく聖なるものとなるためには、キリストの犠牲が必ず必要なものであって、キリストはそのような教会の必要に応じて喜んでご自分をささげられたということです。それも傷だらけの教会をしみやしわ、そのようなもの何一つない、聖くて傷のないものとしてくださるために愛してくださったという事です。
そこでパウロが夫への教えとして強調していることは、そのキリストのように愛しなさいという事です。夫であるあなたがたもキリストが教会を愛して下さったように、妻を自分のからだのように愛しなければならないという事です。夫婦という関係が、いつもキリストと教会との関係のように一つのからだの関係であることを覚えて、互いに服従と愛という教えに従って歩んで行きたいと思います。