「私たちの喜び」 ルカの福音書10書17-20節
本日の本文には、伝道から帰って来た70人の弟子たちが大いに喜び、イエス様に自分たちが経験した素晴らしい出来事について話しをしています。70人の弟子たちは、イエス様に遣わされてしばらくの間、伝道をして帰って来ました。そして彼らは顔に満面の笑みが溢れて喜びをもって帰って来ました。それは、自分たちがイエス様の御名を使ったら悪霊どもが自分たちに服従することを経験したからでした。悪霊が弟子たちの前で震えながら引き下がる、という生まれて初めての経験だったでしょう。その奇跡を経験した弟子たちは大きく興奮して、イエス様に武勇伝を語り始めたのです。
そのような弟子たちの嬉しい報告を聞いたイエス様も、彼らの成果を知っておられました。弟子たちがイエス様の御名によって語ると悪霊どもが服従する、それはまるでサタンがいなずまのように、即ち一瞬に落ちてしまうことであって、イエス様も見ておられたのです。そしてそのようなイエス様のことばは、弟子たちの伝道は、サタンが一瞬に落ちてしまうような力ある伝道であったということだと思います。そういう弟子たちへの褒め言葉と共に、自分たちが行なったことによって高慢にならないように戒めをも与えてくださっておられます。この後続くイエス様のことばを見ますと、伝道の成果による喜びと共に、本当の喜びへの教えが出て来ていたので、そう考えられます。
大いに興奮して喜び、それを話している弟子たちに、イエス様は「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と仰いました。悪霊が自分たちに服従するという驚くほどの奇跡より、罪人であってあなたが、罪赦され神様の子どもとなり永遠の命が与えられたことの方がもっと驚くことであるから、それを喜ぶべきだということです。私たちは、その喜びを心に覚えているでしょうか。救われたことを感謝しないで、自分がしたことやしていることによって喜び、そこから良い結果があれば感謝するということはないでしょうか。私たちに与えられた救いの喜びを覚えていつまでも喜びをもって歩んで行きたいと思います。
「夢を見る者」 創世記37章5-11節
聖書の中に夢に関する話しが色々とありますが、その中で私たちが良く知っているのはヨセフの夢であると思います。特に、創世記37章以降、ヨセフの話しが始まりますがヨセフの生涯において夢ということは非常に重要なポイントであって特別に用いられました。その最初に出て来るのが、本文の「ヨセフの夢」です。本文でヨセフは二つの夢を家族に話すことによって、ヨセフは兄たちにますます憎まれるようになり、兄たちは創世記37章19節では「あの夢見る者がやって来る」と言い、その後、商人に売ってしまいます。そして展開されるヨセフの人生は、その夢とは離れた方向に進んで行くように見ます。
そこで、この本文を読む時、聖書での夢をどのように理解すべきかを考えて見る必要があります。本文の二つの夢の内容を、13年も経ってからヨセフがエジプトのパロ王の次の地位になったことにすぐもって行こうとするところがあります。その間、大変な出来事があったにもかかわらずです。しかし聖書を良く読んで見ますと、ヨセフはこの時の夢を一瞬も忘れず、神様がその夢を成し遂げてくださることだけを思い、その確信に満ち溢れて生きて行ったとは言い切れないと思います。
それでは、ヨセフの夢は何だったでしょうか。それは神様からの啓示です。神様は聖書が書かれる前の時代には、御声をもって語って下さり、御使いを遣わして御旨を教えて下さり、夢や幻を通してご計画を教えて下さいました。そして、その啓示の目的は神様がご自身を現わす事です。ですからヨセフの夢を通して、神様はご自身がどんなお方であり、ご自分のご計画をどのように成し遂げてくださるのかを教えてくださったのです。そしてそれはヨセフの人生にどんなことがあっても必ず成し遂げられたのです。時には、信仰者である私たちの人生の道が大変であると思われることもあります。しかし、神様は同じく、どんなことがあっても私たちの人生をもご自分のご計画通りに導いてくださるお方なのだ、ということを覚えて歩んで行きたいと思います。
「破れ口に立つ人」 詩篇106篇23節
鈴鹿キリスト教会 片岡由明牧師
序:地球の南極の上空にポッカリと見えない穴が開いている。オゾンホールである。地球の破れ口と言えよう。今回は旧約時代の「破れ口」というたとえを学ぶ。
1、破れ口に立つモーセ 「それゆえ神は『彼らを滅ぼす』と言われた。もし神に選ばれた人モーセが、滅ぼそうとする激しい憤りを避けるために、御前の破れ口に立たなかったなら、どうなっていたことか」(詩篇106:23)。旧約時代の「荒野の教会」にも破れ口は存在。イスラエルの民は出エジプト後、シナイ半島で金の子牛像を造り、偶像礼拝の罪を犯した。霊的「破れ口」。神は民を滅亡させようとされたが、神の人モーセが「とりなし役」となり、自分の生命を懸けてその「破れ口」を塞ごうと祈った。
2、破れ口に立つ人の不在 「私がこの国の為に、私の前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に探し求めたが、見つからなかった」(エゼキエル22:30)。時代は進み、エゼキエルの時には、破れ口は存在しても、破れ口を修理する人物が不在だった。
破れ口を防ぐには、レンガや石材・木材ではなく「人材」が必要。破れ口を造るのも人なら、破れ口を防ぐのも人である。神の人の熱き祈りや、修繕しようとするキリスト者のマンパワーが必要。
3、破れ口をふさぐ主 キリストと12弟子達がつくる「初代教会」には破れ口が存在しただろうか? 破れ口をつくる者が二人もいた。ユダとペテロである。彼等はキリストを否み、かつ裏切った。ユダはキリストを売り渡し、ペテロはキリストを知らないと否定した。
この破れ口に対して、主は未然に防ぐ行動に出た。ペテロに対して「私は、あなたの信仰がなくならないように、あなたの為に祈りました。だからあなたは立ち直ったら、兄弟を力づけてやりなさい」(ルカ22:32)と祈った。また、ユダに対しては「友よ」(マタイ26:50)と呼びかけ、最後まで悔い改めに導こうとされた。主は必死になり、破れ口を修繕する努力をみせた。
「希望を生み出す信仰」 ローマ人への手紙5章1‐5節
本日の本文でパウロは、神の栄光を望んで喜んでいるだけではなく「患難さえも喜んでいます。」と語ります。一般的には患難が、そして自分を苦しめる問題が解決されて、喜ぶことが出来ると思います。ところが、パウロは「患難さえも喜んでいます。」と言いますが、どうすれば患難さえも喜ぶことが出来るのでしょうか。それは、その患難を受け入れる私たちの考え方が変えられれば、患難さえも喜ぶことが出来ると思います。本日の本文は、信仰者に与えられた平和と恵み、そして希望を覚えている時、患難を受け入れる考え方が変わり、患難さえも喜ぶことが出来ると教えています。
先ず、平和についてです。この平和とは、信仰によって、神様との関係において与えられる平和です。そして、この平和は私たちのどんな条件にもよることではないために、変わらないものであり動揺されない平和なのです。二つ目は恵みです。私たちはイエス・キリストによって神様の恵みに導き入れられた者となりました。と言うのは、神様の御前に導かれた時、そこには裁きがあるのではなく恵みがあるという事です。かつて、神様の敵であって、神様に近付くことさえも出来なかった私たちが、今はそのお方の御前に出て行くことが出来るという特権が与えられているのです。三つ目は希望です。この希望とは、神の栄光を望んで大いに喜ぶ希望です。そしてその希望は、患難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、練られた品性によって生み出されるものでした。そうであるので、信仰者は神の栄光を望んで大いに喜ぶだけではなく、現在の人生の中で出会う患難さえも喜ぶことが出来るということでしょう。
パウロは、ローマ人への手紙8章37節の後半で「これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となる」と語っています。どんな患難の中でも私たちの圧倒的な勝利者となるように導いてくださる神様を覚えて、希望を失うことなく、信仰の上に立って患難さえも喜ぶことが出来る者になりたいと思います。
「さあ、行きなさい」 ルカの福音書10章1-16節
イエス様と弟子たちは、今までのガリラヤ地方での働きを終えてサマリヤ地域を通って最後の十字架の出来事があるエルサレムに向かいます。そんな中で、エルサレムに入られる前にユダヤ地域とヨルダン川の東側にあるペレアという地域で福音と伝えます。その内容が19章まで続きますが、その最初の時に、イエス様は70人の弟子たちを伝道者としてお選びになり、これから行こうとされるところに遣わします。そして福音を伝えさせ、イエス様の働きを備える伝道者としての働きを任せてくださいます。このような本文のみことばを通して、イエス様に遣わされた者として与えられる力と励ましについて考えて見たいと思います。
先ず、イエス様は70人の弟子たちを送り出しながら命じられた一つ目は「祈りなさい」ということでした。それは他ではなく、より多くの働き手を、福音を伝える者が与えられるように祈りなさい、と言うことでした。今年、守山教会は色々な集会を通して伝道をしています。そしてその伝道を通して収穫する実りは、働き手の数に比べて非常に多いでしょう。ですから私たちに与えられた状況の中で福音を伝えながら、同時に働き手を送ってくださいと収穫の主であられる神様に祈り続けなければなりません。神様が働き手を送ってくださり、私たちの伝道のすべてを導いてくださることを信じて、私たちに任された地域と人々に神様の愛と、キリストの十字架を伝えて行きたいと思います。
そして、そのような心をもって伝道に出て行く者に3節でのような励ましを与えてくださいます。そこでイエス様は伝道する者を「小羊」に例えていますが、それほど私たちは力も知恵もなければ弱くて小さい存在でもあります。しかし、そんな私たちを送ってくださるお方は、主イエス・キリストご自身です。ですから、私たちが幾ら小さくて弱い者であるとしても、「さあ、行きなさい」と仰ってくださるイエス様にすべての信頼をおいて福音を伝えて行きたいと思います。
「飢饉がある時」 創世記12章10-20節
本日の本文では約束の地であるカナンについたアブラハムたちに激しい飢饉という大きな試練が訪れました。神様からは「あなたの子孫に、この地を与える」という約束をも与えられましたが、現実は全くそうでなく、よりによって激しい飢饉までもあったのです。それでアブラハムはしばらくの間、カナンの地から離れてエジプトに行くことにしました。その決定の過程の中で、アブラハムは先ず神様に祈り、その助けをと導きを求めることが当然あるべきでした。しかし、本文を見ますと、そのような姿は何処にもありません。カナンの地から離れてエジプトに行くという信仰的妥協の中で人間的な方法を選んだのです。
そして飢饉を避けてエジプトに行くことにしたことによって、より大きな問題が起こりました。それは、サラの美しさによってエジプトの高官たちがサラをパロの妻に推薦し、パロはサラを自分の妻にしようとした事でした。この時、自分の命を心配したアブラハムは、妻であるサラを妹と言うことにしていましたが、事実ではない事実をもってその問題を解決しようとしたのです。しかし、それによって問題は解決されず、どうにもこうにもならない状況に陥ってしまったのです。
そのような時、神様が現れて助けて下さいました。神様はアブラハムが過ちを犯してしまったにも関わらず、アブラハムを助けてくださり、大きな問題を解決して下さいました。そして再びカナンの地に導いて下さいました。時には、私たちの信仰の歩みの中で飢饉のような苦難や試練があるかも知れません。そんな時に私たちは、先ず神様のことを覚えて助けを求めなければなりません。そして、たとえ、私たちが過ちを犯しても私たちを助けて下さり、守り導いて下さる神様を覚えて、その神様の御前に祈り求める者になりたいと思います。
「ガリラヤに行きなさい」 マルコの福音書 16章1-8節
週の初めの日、朝早く女性たちは香料をもってイエス様が葬られたお墓に向かいました。そしてお墓について見ましたら、墓の入り口を塞いでいるはずの大きな石は転がしてあり、墓の入り口は開いていました。それでお墓の中に入ってみますと、そこには真白の長い衣をまとった青年がいまして、その青年は女性たちに次のように話しました。「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。これが復活されたイエス様が弟子たちに初めて伝えたメッセージであって、そこには「ガリラヤでお会いできる」ということが強調されています。それでは「ガリラヤ」が私たちに与える教えは何でしょうか。
先ず「ガリラヤ」は、イエス様と弟子たちが初めて出会ったところです。マタイの福音書4章を見ますと、イエス様が弟子たちを召してくださる場面が書かれています。その時、弟子たちは何もかも捨ててイエス様について行きました。中には「舟も父も残して」イエス様に従った弟子たちもいました。このように「ガリラヤ」というところは、弟子たちにおいては「イエス様と初めて出会った場所」であり、自分のすべてを置いといてイエス様に従ったところなのです。そしてそういう意味から、イエス様に対する信頼、初めの愛を確認することが出来る場所です。
ところが、最初のそのような熱い心とは違って、弟子たちのイエス様に対する認識はがっかりする位のものでした。そんな弟子たちは心を堅く閉じて、やがてイエス様の受難の時、イエス様を裏切り見捨てて逃げてしまいました。そんな弟子たちをガリラヤで再び出会ってくくださったイエス様は、弟子たちに最初の出会いの時の熱い心と愛を思い出させてくださり、回復してくださったのです。イエス様は、私たちにも「ガリラヤに行きなさい」と仰ってくださいます。私たちの信仰が落ち込んで、イエス様への愛から離れてしまった時、私たちは再びガリラヤに行って、イエス様に出会い、新しい力と励ましを頂きたいと思います。そしてそのガリラヤは現在わしたちが属している教会であり、そこに集まって捧げている礼拝であることを覚えて、毎週礼拝を通して神様から愛を注がれて生きて行きたいと思います。
「苦い水も甘くなる」 出エジプト記 15章22-27節
私たちの生涯の中で、ある時は自分の願いとは全く違うところ、想像もしなかったところに立っている時があります。そこは本日の本文に出て来る「マラ」のようなところかも知れません。飲める水がなくて乾ききっていますが、目の前にある水は苦くて飲むことが出来ない、どうにもこうにも出来ない状況に置かれる時があります。そのような時、私たちは如何すればその問題を克服して神様が約束してくださった祝福の地に向かうことが出来るでしょうか。本日の本文を通して共に考えて見たいと思います。
先ず、私たちは救われた後にも、私たちの人生には荒野の道を歩んで行くという事を覚えなければなりません。イスラエルの民は葦の海を渡るという大きな奇跡を経験しました。どころが、大事な事は葦の海を渡ったということで約束の地までの旅が終わった事ではないということです。それは、実は新しい旅の始まりであったのです。そしてそれは荒野への旅の始まりでありました。ですから、救われて神の民となった私たちは信仰の荒野の道を歩んでいることを覚えて、その中で火の柱と雲の柱で私たちを守り導いてくださる神様に寄り頼まなければなりません。この信仰の歩みにおいて必ず必要なものがありますが、その一つ目は祈りです。それも神様に叫ぶ祈りです。イスラエルの民からつぶやきを聞いたモーセは神様に叫び祈りました。その時、神様はモーセの叫びを聞いてくださり答えてくださったのです。エレミヤ33章3節で神様は、私たちに答えてくださることを約束してくださいました。ですから、私たちの叫びを聞いてくださる神様に祈らなければなりません。もう一つは神様の御声を聞き、その御言葉に従うことです。本文でも、ただの「一本の木」に過ぎないものでしたが、神様の御言葉に従い行なった時、苦い水が甘い水に変わる奇跡を経験することが出来たのです。
現在、マラの苦い水を飲むような苦しみの中にいますか。先が見えない暗やみの中で、希望を失いつぶやいているでしょうか。そのような人生の苦い水をも甘く変えてくださる神様を覚えて、その神様に導かれる者になりたいと思います。
「私について来なさい」 ルカの福音書9章57-62節
本日の本文は、イエス様と弟子たちがガリラヤ地方からエルサレムに向かう途中で起こった内容です。時期的に言いますと、十字架の出来事をわずか数カ月位残している時であって、エルサレムに向かうというのはその十字架のためでした。そのような途中にイエス様について行こうとする3人の人々が現れます。彼らの姿を通してイエス様について行きたいと思う者が持つべき態度等を考えて見ることが出来ます。
最初に出て来る人は「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」と言いました。この人は、マタイの福音書8章19節を見ますと「律法学者」です。当時の律法学者たちはイエス様に対して敵対心をもっていましてイエス様を如何したらいいのかと妬み、やがては十字架につけてしまいます。そんな他の律法学者たちとは大きく違って、イエス様のところに来てついて行くと言ったのは大変素晴らしいことかも知れません。しかし、イエス様の彼に対する答えを見ますと、そのことばの本当の意味を分かっていなかったようです。イエス様について行くというのは、自分のための生き方を捨てて他の人々のために自分を犠牲にする人生を生きるという事です。イエス様はそのような覚悟が合うのかどうか、もう一度考えて見るようにして下さったのです。今度はイエス様からある別の人に「わたしについて来なさい。」と言われました。そのように話しかけてくださって、この世の中で自分がやるべきこととイエス様について行くこととの大切さや緊急性を教えて下さいます。最後の三番目の人はイエス様に「主よ。あなたに従います。」とまで言いました。しかし、彼の心の中には「家の者」についての人情があり、イエス様について行きたいと思いながらも後ろに向いてしまうところがありました。
私たちの心、思いはどうでしょうか。私たちは、ただイエス様だけを仰ぎ見て「私について来なさい」という言葉に、徹底的に無条件に従っているでしょうか。今日も「私について来なさい」と仰ってくださるイエス様を覚えて、その教えに従う者になりたいと思います。
「私を召して下さる神」 出エジプト3章1-6節
モーセと言いますと、旧約聖書に出て来る人物の中でアブラハムと共に最も尊敬される人物です。そのようなモーセにとって本日の本文は、イスラエルの民をエジプトから連れ出す指導者として、神様に召される非常に重要な箇所であると言えます。そういう内容だけに、本日の本文に出て来る表現や出来事などは、それを読む人にとって何かを期待させる要素があります。
ところが、本文の内容を徹底的にモーセの観点から考えて見ますと、特別な時に、特別な場所で起こった事ではない事が分かります。1節によりますと、モーセは荒野で羊を飼っていました。この時のモーセは、もう80歳になり、40年間も荒野で羊飼いの生活をしていたのです。それは、即ち毎日繰り返される、普通の日常の姿であったのです。この日も、モーセは何時もと同じようにしゅうとであるイテロの羊を飼っていました。そしてその羊を連れて荒野の西側に行き、ある山に着いたのです。
その山について本文には「神の山ホレブ」と書かれていますが、この時のモーセにとってはただの山でした。それも「ホレブ」という言葉の意味から荒れ果てたところであってこれから起こることは全く分からない状況でした。只、モーセはいつものように羊に草を食べさせるために連れて行ったところがこの山だったのです。ところが、2節のような全く予想外の不思議な出来事が起こり、それを見ようと近づいたモーセに語りかけてくださったのです。このように、神様は普通の日常の生活の中である出来事を通して私たちを召して下さいます。そしてそれによって神様に近付いた者に語りかけて下さり、ご自分を教えて下さって福音を聞かせて下さるのです。また、その時と場所というのは誰にも分からないものです。神様ご自分の時に、どんな所ででも私たちを召して下さるのです。そのような神様の召しに気付いた時、そこに留まりその御声を聞けるようになりたいと思います。そして神様が私たちに語ってくださるみことばを聞き従う者になりたいと思います。