3月29日(日) 礼拝メッセージ要旨
「十字架にすがるわれは」 マルコの福音書15章16-22節
本日の本文を見ますと、ローマの兵士たちがイエス様を嘲弄した後、十字架につけるために連れて行く場面があります。何の罪も犯さなかったイエス様でありますが、ユダヤ人たちの偽りの訴えによって罪人とされ、総督ピラトによって残酷な十字架刑を宣告されました。その後、イエス様はローマの兵士たちの鞭に打たれてその体は傷だらけになり、頭にはいばらの冠をかぶらせられました。まだ乾いてもない、血が流れていたはずなのに、ローマの兵士たちはその傷の上に衣を着せた後、その衣を脱がせたのです。その時、私たちには想像も出来ない痛みが加えられたと思います。ローマの兵士たちは、このような状態のイエス様を連れて、十字架につけるためにゴルゴダへと向かいました。イエス様はもうぼろぼろになった体で十字架を背負って、ゴルゴダまで行かなければならなかったのです。
ところが、途中でイエス様は限界に至り、もう進む事が出来なくなりました。イエス様が受けて来た事を考えて見ますと、誰もそのようになったと思います。それで兵士が一人の人を捕まえて、イエス様の代わりに十字架を背負うようにしましたが、その人がクレネ人シモンという人物です。彼は、自分の計画には十字架ということは全く入ってないことでしたが、兵士によって無理矢理にイエス様の代わりに十字架を背負うようになったのです。
この出来事によって、やがて彼と彼の家族が救われるようになります。突然、そして無理矢理にさせられた事でありますが、その時、シモンはイエス様とともにゴルゴダまで歩き、イエス様の十字架の姿をみて、救われる恵みを頂きました。十字架とは彼にとっては、突然の苦しみや苦難であるかも知れませんが、しかし、良く考えて見ると恵みでした。突然の苦しみや苦難の奏でも、私のために十字架の苦しみを受けられたイエス様を見上げて、その限りない愛に感謝し、イエス様だけにすがり歩む者になりたいと思います。